6-7

 大人しくてしっかりとしている人だと思っていた。

 実年齢よりもはるかに大人びた振る舞いをする彼女なのだ。彼女の様子に十分注意して暮らしを助けるように命じた使用人たちも傍にいるし、自分の限界もよくわかっているだろうと思っていた。

 自分が目を離していても、きっと大丈夫だろうと――彼女は彼女で平穏に暮らしてくれるだろうと考えていた。


 そんなわけはない。


「……くそっ……!」


 後ろ手に静かに扉を閉め、大股で廊下を進む。

 フィアレッタが休んでいる部屋から十分に離れたタイミングで、ジルニトラは廊下の壁に強く握った拳を勢いよく叩きつけた。

 鈍く大きい音が廊下の空気を震わせ、痛みが手から全身に伝わっていく。

 痺れるかのような痛みは思わず顔をしかめてしまうほどだが、ジルニトラに渋い表情をさせているのは痛みではなく、胸の中で渦巻く罪悪感や不甲斐なさ、後悔――数多の苦い感情だ。


 自分が特別注目していなくても大丈夫だろうと思い込んでいた自分を殴りたくて仕方ない。

 使用人たちの目が届く範囲にも限界はある。

 いくらフィアレッタが同じ年代の令嬢たちよりも大人びているとはいえ、まだ子供。自分の限界を見誤ってもおかしくないというのに、心のどこかで大人と同等の考えができると思い込んでしまっていた。


 ……本当に、無意識のうちに大人と同じように考えていた自分自身を殴りたくて仕方ない。


 まだわずかに痺れる痛みを発する手を動かし、片手で顔を覆って深く息を吐き出す。

 自分自身への怒りはまだ収まらないが、ひとまず落ち着かなくては。一時的な感情に思考を支配されたままでは思いつくものも思いつかない。


「……あんな宣言をしたんだ。フィアレッタの手を借りずに、なんとかしなくては……」


 静かな声で自分に言い聞かせ、ため息とともに渦巻く感情を吐き出した。

 妖精や幻獣たちと触れ合ってきた経験量や知識量の差から、フィアレッタの手を借りるべきだと頭では理解しているが、ジルニトラの知らないところで無理をして倒れてしまった彼女にこれ以上無理をさせたくない。


 自分は大人で、彼女は子供。大人が子供を支えなくてどうする。

 特に、彼女はジルニトラにとって大切な人で――大切な妻なのだから。


「……大丈夫だ。フィアレッタほどではないが、俺にも妖精や幻獣に関する知識はある」


 確か、フィアレッタは実家から妖精や幻獣に関する書籍を何冊か送ってもらっていたはずだ。あれを読ませてもらって、少しでもユグドラシルが好みそうなものを見つけなくては。

 それから、フィアレッタが用意してくれた妖精茶の味と香りに合う茶菓子も探し出さないと――これはキッチンメイドやスティルルームメイドたちの手を借りればなんとかなるはずだ。


 まずはフィアレッタの部屋の掃除を担当しているメイドに頼んで、フィアレッタに本を読んでもいいか許可をもらってから借りて――茶菓子選びはそのあとにしよう。

 脳内で今後の予定を立て、行動に移すべく止まっていた足を前へ踏み出した。


『困っているのかしら』

『困っていそうね』

『愛し子が動けずにいるものね。荷が重いかもしれないわ』


 ふと。

 鈴を転がすような少女の声が聞こえ、ジルニトラは反射的に足を止めた。

 フィアレッタのものでもなければ、屋敷で働いている使用人たちのものでもない、全く聞き覚えがない第三者の声。

 まさか侵入者か――鋭い光を目の奥に宿らせ、ばっと素早い動きで振り返る。

 瞬間、ジルニトラの視界に飛び込んできたのは侵入者は侵入者でも非常に可愛らしい姿をした侵入者の姿だ。


「……妖精?」


 廊下に取りつけられた窓の縁に三人の妖精が腰かけている。

 二十センチほどの背丈の妖精たちだ。彼女たちの体格に合うように作られた白いワンピースを身にまとい、思い思いの髪型にした赤毛を花で飾っている。身体の大きさだけでなく、背中に生えた羽や尖った耳といった特徴が彼女たちが妖精なのだと示していた。

 白い花、桃色の花、青い花――それぞれ異なる色の花を髪に飾った彼女たちは、ぽかんとしているジルニトラを見つめたのち、ふわりと柔らかく笑う。

 彼女たちの種族は知っている。フロスピクシーだ。


『お久しぶりね、冬に愛された子』

『少し見ない間に大きくなったのね。元気そうでよかったわ』

『ええ、本当に。今はもう泣いてないのね。あなたをいじめる妖精嫌いの男がいなくなったかしら? もう泣かなくて済むようになったのなら嬉しいわ』


 フロスピクシーたちが口々に話しかけ、ころころと笑う。

 とても親しげな様子だが、ジルニトラには彼女たちと親しくした覚えがない。幼い頃の記憶を探っても思い出せるのは父や祖父から厳しく接された記憶ばかりで、妖精や幻獣とともに遊んだ記憶はこれっぽっちも浮かばない。

 眉間にシワを寄せて困惑するジルニトラへ、白い花のフロスピクシーがふわりと窓縁から離れて近づいてきた。


『覚えてないかしら? 覚えていなくても仕方ないわね、冬に愛された子。あなたがもっと小さかった頃は、あなたにとって苦しい毎日の連続だっただろうから』

「……なぜ、俺の小さい頃のことを……」

『でもね、冬に愛された子。私はあなたのことを忘れた日はないのよ。だってあなたは私の恩人。あなたが妖精嫌いの男に捕らえられた私の家族を助けてくれたおかげで、私は家族を失わずに済んだのよ』


 ぱちり、と。

 ジルニトラの頭の中で忘れていた記憶の泡が弾け、幼い頃の記憶がよみがえった。

 まだジルニトラが子供の頃。レースディア前当主だった祖父とが生きていて、当時のレースディア当主だった父が家をまとめていた時代、ジルニトラは確かに物置で妖精の姿を見た。


 当時、ジルニトラは妖精や幻獣を物として扱えと教えられる授業が嫌で、物置に逃げ込んだ。常に窓が閉め切られた物置は埃っぽかったけれど、適度な暗さと静けさが心を落ち着かせるのに最適だったからだ。


 けれどその日、ジルニトラは物置の中で、普段は目にしないものを見た。


 妖精が嫌う鉄で作られた鳥籠と、鳥籠の中で座り込んだ綺麗な赤毛が特徴的なフロスピクシー。

 両目から涙をはらはら流すその姿を目にした瞬間、彼女が望んでここに来たのではなく、何者かの――父か祖父か、あるいは使用人か、とにかくレースディア家の誰かの手によって連れてこられたのだと即座に理解した。


 逃したら、きっと自分がひどい目に合わされる。

 だが、見てみぬふりをしたらこのフロスピクシーは炉心として使い潰され、命を落とすことになる。

 自分自身かフロスピクシーか――どちらを優先するか考えた結果、ジルニトラは窓を開けて鳥籠からフロスピクシーを連れ出し、外へ逃した。


「……そうか……。あのときのフロスピクシーの身内か……」


 片隅に埋もれていた記憶を思い出し、ジルニトラは小さな声で呟いた。

 フロスピクシーを逃したことが父に知られたあと、罰と称して手ひどく鞭で打たれたため、幼少期のつらい記憶として鍵をかけてしまっていたが――思い出した今、改めて白い花のフロスピクシーを見てみると、あのとき逃したフロスピクシーに似た顔立ちをしていた。


『あら、思い出してくれた? 嬉しいわ、とても』


 白い花のフロスピクシーが嬉しそうに笑う。

 彼女に続いて、桃色の花と青い花のフロスピクシーもジルニトラの傍に飛んできて口を開いた。


『その子はずっと言っていたのよ。冬に愛された子、あなたに恩返しがしたいって』

『あたしたちも思っていたわ。大事な仲間の家族を助けてくれたんだもの、恩返しがしたいって』

『だから、ね』


 白い花のフロスピクシーがジルニトラの耳元で、そっと囁いた。

 幼い子供が親に秘密の話をするかのように。

 乙女が自身の秘密を友人に打ち明けるときのように。


『ユグドラシル様のお好きなものを教えてあげる』

「……!」


 ひゅ、と。

 驚愕のあまり、ジルニトラの呼吸が一瞬だけ止まり、喉が音をたてる。


『私もあのお方が好んでいるものを全部知っているわけじゃないけど、少しなら知っているわ。だから一緒に考えてあげる』

『わたしたちも一緒に考えてあげる』

『あたしたちのシュガーロビンと一緒に暮らせるようになるのは嬉しいけれど、冬に愛された子がまた悲しい顔をするのも嫌なのよ、あたしたちは』


 だから手を貸してあげる。妖精嫌いの中に生まれた、唯一染まらなかった子。

 鈴を転がすかのような声で、口々にフロスピクシーたちは囁き、笑った。

 白い花のフロスピクシーの家族を助けたという恩があるとはいえ、どうしてそこまでしてくれるのか。


 こちらに手を貸したことをユグドラシルに気づかれたら処罰を受けないのか。

 さまざまな疑問がジルニトラの脳内を駆け巡り、喉から出そうになるが――それらの言葉をぐっと飲み込み、かすかに笑う。

 きっと、この小さな隣人たちは自分たちなりに考え、悩み、こうして行動に移しているのだろうと信じて。


「……すまない、感謝する。フロスピクシー」

『お礼を言わなくちゃいけないのは、わたしのほうなのよ。二人目のシュガーロビン』


 白い花のフロスピクシーが小さな手でジルニトラの頬に触れ、柔らかく笑った。

 妖精嫌いの家に生まれ育ち、けれど妖精や幻獣を嫌わずに育った――レースディアという家の中では異質だった少年が取ったささやかな反抗が意味のあるものとして実を結んだ瞬間だった。

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