6-2

 もう何度も通い慣れた執務室の扉を軽くノックすれば、扉の向こうから入室を許可する声が返ってくる。

 ゆっくりと扉を開き、執務室の中へ足を踏み入れる。その際にわざと足音をたてて、こちらの存在を主張すれば部屋の主の視線が自然とこちらへ向いた。


「フィアレッタ嬢」


 執務机で大量の報告書と向き合っていたジルニトラの目がフィアレッタを映す。

 冷たさを感じさせる赤い目が温度を取り戻し、とろりと柔らかく細められる。

 フィアレッタの姿に気づいた瞬間、優しく、甘く溶ける表情――何度か妖精茶を用意して持ってくるうちにジルニトラが見せてくれるようになったこの表情が、フィアレッタはたまらなく好きだった。


「お茶をお持ちしました。そろそろ一度休憩しませんか? 旦那様」

「……そうだな……。……せっかくフィアレッタ嬢が持ってきてくれたんだ、いただこう」


 ジルニトラの目がちらりと一瞬だけ時計へ向けられる。

 はじめて妖精茶を用意して持ってきたときはフィアレッタがあれこれ理由をつけないと休んでくれなかったのに、今は自ら休むという選択を選んでくれる。

 はたから見ればとてもささやかな変化だが、全くといっていいほど休もうとしてくれなかった時期があることを考えると大きな変化だ。


「今日の紅茶はティムバー産の茶葉です。この間、ついに出荷できたそうで……村人の皆さんがわざわざ送ってくださったそうです」

「ティムバーの茶葉? 前に視察へ行ったとき、じきに茶葉を摘めそうだと思っていたが……そうか、無事に紅茶へ加工できたのか」


 ジルニトラが目を丸くしながら、執務椅子から立ち上がる。

 執務室の片隅。いつもティータイムを過ごす際に使っているテーブルにティーポットとティーカップを並べていきながら、フィアレッタは柔らかく目を細めた。


「コルンムーメの女王と、ユグドラシル様。強い豊穣の力を持つお二人にかかれば、短時間で作物を収穫できるようにするなんて簡単なことです」


 そう返事をしながら、ふふんとフィアレッタは自慢げに胸を張った。

 親しくさせてもらっている相手が褒められるのは悪い気分ではない。むしろ自分のことのように嬉しくて仕方ない。

 ほんのりと両頬を紅潮させ、きらきらと両目を強く輝かせながら口角を持ち上げるその姿を、ジルニトラは微笑ましそうに眺めていた。


「……俺は、生まれた家がここだ。だから幻獣の女王や妖精の女王に会うことなど叶わないと思っていたが――ああして、あっという間に茶の木が育ったのを目にすると、おとぎ話で描かれていることは真実なのだと思えてくるな」

「古い時代を生きている妖精や幻獣たちの力は本当に偉大ですから。……でも、わたしもユグドラシル様とお会いしたのは今回がはじめてなんですよ」

「……フィアレッタ嬢もあれが初対面だったのか? それにしてはずいぶんと親しく見えたが……」

「妖精や幻獣たちはそういうものなんです。お気に入りの人間に対して、どこまでも好意を示してくれる――けれど、彼ら彼女らの善意や好意は人間のためになるとは限りませんし、深い愛情を注いでくれる分、裏切り行為に対して非常に厳しい」


 言葉を紡ぎながら、フィアレッタはティーカップへ妖精茶を注いだ。

 まだぬくもりを残す陶器と黒に近い濃い赤茶色をした紅茶が触れ合い、蜂蜜を焦がしたような――そこにほのかな花の香りを絡めた、独特で華やかな甘い香りが周囲に広がる。さらに、一緒に用意してきたミルクピッチャーをカップの上で傾けてミルクを注げば、白と濃い赤茶色が混ざり合い、美しい亜麻色へ変化した。


「だからこそ、彼ら彼女ら――妖精や幻獣たち、幻想の世界の隣人たちとは上手く付き合っていかなければなりません。妖精や幻獣たちの意志は自然の意志であり、自然の意志に対してわたしたち人間はあまりにも無力ですから」


 かちゃり。フィアレッタの手がソーサーごとティーカップを持ち上げ、正面の席に座ったジルニトラの前へと置いた。


「……慈悲を与えてくれた妖精の女王には、本当に感謝せねばならないな」


 苦々しく顔を曇らせたジルニトラの声は重い。

 妖精や幻獣たちを裏切った結果、受ける報復の重さはジルニトラ本人が一番よく知っている。家族が過去に過ちを犯し、妖精や幻獣たちを裏切り踏みにじった結果、こうして苦労をしているのだから。

 フィアレッタからこうして話を聞くことで、自身の家族がどれだけ大きな過ちを犯してしまったのか改めて――否、より深く理解できた。あの妖精の女王から慈悲を与えられたのが奇跡に近いことであろうことも。


 このチャンスを逃してしまったら、この先レースディア家は妖精や幻獣たちと和解し、共存するのがますます難しくなる。そんな確信に近い予感が二人の胸の中で主張していた。

 少しの緊張感を含んだ空気の中、フィアレッタがジルニトラと向かい合うように座る。

 小さな妻が着席したのを確認し、ジルニトラが自分の分のティーカップを手にとって口元へ運び――思わず目を丸くした。


「……これは……」


 紅茶を口にして、まず感じたのは濃厚なコクだ。どっしりとした重厚感も感じさせる味わいが舌に広がり、続いてとろけるような甘みが存在を主張する。ミルクを加えたことで渋みが柔らかくなり、とても飲みやすい味になっていた。

 何よりもジルニトラを驚かせたのが鼻を抜けていく香りだ。蜂蜜を焦がしたかのような独特の香り。一緒に絡められたのはリンデンの香りか。それぞれ異なる雰囲気を持つ二つの香りが重なった瞬間、ティムバーの小麦畑が眼前に広がった。


 もちろん、実際に目の前の景色が小麦畑に変わったわけではない。ジルニトラの前には、自分と同じように紅茶を楽しんでいるフィアレッタがいて、彼女の背後には見慣れた執務室の壁がある。

 けれど、ジルニトラは紅茶を口にした瞬間、確かに小麦畑の幻を見た。


「……すごいでしょう?」


 くすり。フィアレッタの目の奥で悪戯っぽく光がちらつく。

 もう一口、手元の紅茶を口元に運んでから、ジルニトラはほうと息をついた。


「ああ。これは本当にすごいな……目の前に一瞬だが収穫の時を迎えた小麦畑が見えた」

「わたしも最初に飲んだとき、同じような気持ちになりました。すごくティムバーらしい紅茶で……ああ、これは小麦と並ぶほどの名産品になるだろうな、って」


 ティムバー産の紅茶を試しに飲んだとき、フィアレッタもとても驚いたのだ。

 実った小麦畑の中央に立っていると錯覚しそうになる香り、重厚なコクにとろりとした甘み――ストレートで飲むと渋みが少し気になったが、ミルクティーにしてしまえば問題ない。

 ほっとするフィアレッタの視線の先で、ジルニトラがもう一口、紅茶を口に運ぶ。今度はすぐに飲み込まず、舌の上で少しの間転がしてから喉を上下させた。


「なるだろうな……。……一緒に感じられる香りは……リンデンの花か?」

「はい。けど、その香りは茶葉の香りじゃなくて、甘みを加えるために入れた甘味料の香りなんです。でも相性がいいでしょう?」

「ああ、甘味料の香りなのか。だが……そうだな、リンデンの香りをつけたものを作るのも悪くなさそうだ」


 ティムバーの茶葉にリンデンの香りをつけたフレーバーティーか――と、フィアレッタは頭の中で思い浮かべる。

 ジルニトラに出した妖精茶のようにほんのりと香りをつけるのではなく、フレーバーティーにするならしっかりと香りをつけなくてはならない。茶葉がもともと持っている香りが強いため、それに負けない香りをつけるとなると、しっかりと香りをつけなくてはならないだろう。

 香料の調節に苦労しそうだが、フレーバーティーとして開発してみる価値はあるかもしれない――そう思い、フィアレッタは小さく首を縦に振った。


「そうですね、香料の調節は大変そうですが……ティムバー付近にリンデンが咲いていたはずですし、ティムバーらしい紅茶に仕上がるかも……」


 しれませんね、と最後まで続くはずの言葉は途中で途切れ、ぴたりと止まった。

 ティムバーで作られた茶葉。小麦畑を想起させる香り。リンデンのフレーバー。ティムバー付近に咲いたリンデン――いろいろな情報がフィアレッタの頭を駆け巡っていく。


 ティムバーらしい紅茶。

 妖精や幻獣への感謝の示し方。

 この茶葉を作るにあたって手を借りた妖精や幻獣たち。

 ユグドラシルと和解するための条件。


 ――ティーパーティー。

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