第六話
6-1
ことこととケトルがかすかに音をたて、湯が湧いたことを持ち主に伝えてくる。
じきに細い口から白い蒸気が細く上がりあがりはじめたのを見計らい、コンロの火を止めて沸かした湯を温めておいたティーポットの中へ注いだ。
中に入れた茶葉が新たに注がれた湯の熱を受け、気分がすっきりして目が覚めそうな独特の爽やかさと薔薇の花を思わせる芳醇さを含んだ香りがフィアレッタの鼻をくすぐる。
すっかり日課となった妖精茶の用意を進めながら、フィアレッタは浅く小さくため息をついた。
「……あの、フィアレッタ様。大丈夫ですか……? その、ずいぶんお疲れのように見えますけど……」
「え? ああ、大丈夫。心配させてごめんなさい、でもこれくらい平気だから安心して」
こちらを見つめて心配そうに尋ねてきたメイドへそう返し、フィアレッタは少しだけ困ったように笑う。
その後、手慣れた様子で先に選んでおいたキャンディスの瓶を手に取り、蓋を開けた。
二ヶ月後に妖精の女王、ティムバー北部の森でユグドラシルと和解のためのティーパーティーを開く。
そのことが決まってから、フィアレッタの生活は一変した。
妖精を招いたティーパーティーの開催自体は、フェルドラッド家で過ごしていた頃に経験がある。招く妖精が好む茶葉や茶菓子を用意し、会場の飾りつけも招く妖精が好みのものにするのがティーパーティーに妖精を招く場合の基本だ。
しかし、今回招かねばならない相手はユグドラシル。豊穣と安寧を司る妖精であり、古き時代を生きてきた妖精の女王の一人。どのような紅茶を好み、どのような茶菓子を愛し、どのような飾りつけで喜んでもらえるのか――本来なら簡単には出会えない相手であるだけに、ティーパーティーの準備に必要なあらゆる情報が不足している。
故に、妖精とのティーパーティーの経験を少しは活かせるがこれまでと同じ感覚で準備を進めることができず、まずはユグドラシルの好みの調査から始めなければならなかった。
少しでもユグドラシルについて記されている文献はないかシュネーガイスト領を巡り歩き、エヴァンに手紙を送ってフェルドラッド家のフィアレッタの部屋にある本を片っ端から送ってもらっては読み漁り、夜遅くまでユグドラシルに関する情報を探して回るのがここ最近のフィアレッタの日常になってしまっている。
「人を愛す紫水晶 落とす涙は花蜜の味 眠れ人の子 より深くまで 忘れよ苦痛の時を ここは安寧 安らぎの場」
けれど、たとえ自分がどれだけ忙しくても、ジルニトラのために妖精茶を淹れるのは一日も忘れたことがない。
キャンディスをティースプーンで一杯すくい、シロップをまとった氷砂糖を数粒、ティーポットへ入れる。そのままティーポットの中で揺れる紅茶色の海をかき混ぜれば、茶葉の香りとともにハーブの香りが辺りに広がった。
今回選んだキャンディスに使われているハーブはリンデン。妖精の女王を招くティーパーティーの準備という、精神的な負担やストレスを感じやすい状況にある今、このハーブがジルニトラの心を休ませてくれるはずだ。
いつもそうしているように魔法の言葉を口にして、きんとティーポットの縁をティースプーンで叩き、陶器と金属が触れ合う音を奏でさせる。直後、ぽんと軽やかな音をたて、ティーポットの中から夢色の煙があがった。
もう何度も繰り返してきた動作。何度も唱えてきた呪文。何度も奏でてきた音。慣れ親しんだ動作を今日も繰り返し、無事にあがった煙から感じる香りにほっと安堵の息をついた。
「それじゃあ、わたしはこれを旦那様のところに持っていくので。今日もキッチンを使わせてくれてありがとうございました」
「いえ……。……あの、その、奥様」
用意した妖精茶と、自分の分の紅茶。それぞれを銀のトレイに乗せて持ち上げる。
キッチンを今日も使わせてくれた感謝を告げ、ジルニトラの下へ向かおうとした――瞬間。感謝の言葉を向けたメイドに声をかけられ、フィアレッタの足がぴたりと止まった。
ゆるりとした動きで振り返れば、眉尻を下げて、そわそわとあちらこちらへ視線を向けているメイドの姿が視界に映った。
どこか言いづらそうにも見える彼女の様子を見つめながら、フィアレッタはわずかに首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
「ええと……大したことではないのですが……。あまり無理をされないでくださいね」
目をぱちくりとさせ、きょとんとする。
確かにここ最近のフィアレッタは忙しいが、自分でも覚悟していた忙しさだ。無理をしているつもりもなければ、無理をしている感覚もない。身体も特別重くなく、大きな不調も感じていない。だというのに、メイドは一体どうしたのだろうか。
思わず心の中で首を傾げたが、あまり表情には出さず、柔らかく微笑んでみせた。
「ええ、もちろん。無理はしないから大丈夫ですよ」
それでは、今度こそ旦那様のところに行ってきますね。
一言だけ返事をし、今度はメイドの返事を待たずにキッチンを出て、ジルニトラが待っているであろう執務室へ急ぐ。
今日の妖精茶はジルニトラの口に合うだろうか、喜んでもらえるだろうか。この一杯がずっと忙しそうなジルニトラの心を少しでも安らがせてくれるといいのだけれど――。
そんなことばかり考えていたから、フィアレッタは気づかなかった。
「……奥様、本当に大丈夫かしら……」
キッチンに繋がる扉が閉まる直前、メイドが小さな声で呟いていたことを。
「最近顔色があまりよくないし、目の下にクマができているように見えたのだけれど……」
本当に大丈夫ならいいのだけれど。
ぽつり。メイドが小さな声で呟いた声は誰にも届くことなく、キッチンの空気の中に溶けて消えていった。
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