5-6

 先ほどまでは確かに村の賑わいを感じていたのに、今は不思議と静まり返っているように感じてしまう。

 二人が身構え、緊張する中、ユグドラシルは片手を頬に当てて優雅に笑った。


『どうしてだなんて。自分が管理する領域に愛し子が現れたという噂を聞けば、誰だって気になるでしょう?』

「領域って……」

「……もしや、ティムバーの北にある森のことか?」


 ジルニトラがそういった瞬間、フィアレッタの脳裏にフロスピクシーたちと対話をした森の景色が浮かんだ。

 そうだ。彼の言うとおり、ティムバーの北には妖精や幻獣たちが住んでいる森がある。

 過去に妖精や幻獣たちの姿が確認された場所はないかと問いかけた際に教えてもらった森――あの森が妖精の女王が治める領域の一つだとしたら納得がいった。


 数日前は苗木だった茶の木たちが急速に成長したのも。

 小さな農村であるティムバーがたくさんの小麦を収穫できていたのも。

 シュネーガイスト領の中でも、ティムバーが特に不作に悩まされている理由も。

 全ては妖精の女王、ユグドラシル。彼女がティムバーのすぐ傍にいたからだ。


『ええ、ええ。あの場所は古くより私の地。私の領域。私の国。まだこの村ができていない頃からずっと、私はここで人の子たちを見守り、村ができてからはここで生まれ育つ人の子たちを見守ってきました』


 ……ああ、やはりそうなのだ。

 フィアレッタの頭の中で、全てのパズルのピースがかちりとはまった。

 ユグドラシルが現れた地の周辺は、あらゆる植物がよく育つ。

 きっと、ティムバーに住まう人間たちの中に、過去にユグドラシルと友好関係を結んだ者がいたのだろう。お気に入りの人間のためにユグドラシルは祝福を授け、村人たちも彼女の祝福を受けて豊かに暮らしていた。


 ところが、レースディア家が妖精の炉心を作り出し、争いのために妖精や幻獣たちを捕らえるようになってからは関係が悪化し、仲間たちを守るために妖精や幻獣たちに姿を隠すように命じて自身も姿を隠した――妖精の女王という非常に大きな力を持つ妖精の傍にある村だったから、他の町や村よりも不作の影響が大きかったのだろう。

 横目でジルニトラのほうを見れば、彼もまた、なにやら納得したように目を細めて思考を巡らせていた。


『……まあ、そこにいる子の家が過ちを犯してからは、姿を隠していましたけれど』


 ユグドラシルの目が一瞬だけジルニトラに向けられる。

 コルンムーメが向けた目とは比べ物にならないほどの冷たさを感じさせる目がジルニトラの姿を映し、鋭く射抜く。

 見る者全ての心を凍てつかせるような視線に、ジルニトラはもちろん、フィアレッタの呼吸まで一瞬詰まった。

 ゆっくりと瞼を閉じて深いため息をつき――次の瞬間、ユグドラシルはまたふわりと柔らかく微笑む。


『でも、私たちの愛し子が来ていると聞いて、外に出てきてみたら……コルンムーメたちの力を借りて興味深いことをしていたので。つい見物に出てきてしまいました』


 ゆっくり息を吐き出したのは、フィアレッタが先だったか。それともジルニトラだったか――はたまた二人同時か。

 先ほどまで感じていた威圧感が消え、無意識のうちに細くなっていた呼吸が元に戻っていく。

 何度か深く深呼吸を繰り返したのち、フィアレッタはユグドラシルを真っ直ぐに見つめ、唇を開いた。


「では……ユグドラシル様は、興味や好奇心からこちらに……?」

『それも理由の一つだけれど……もう一つ、理由があるの』


 ユグドラシルが猫のように目を細め、唇の両端を持ち上げる。

 優しく、穏やかに――けれどどこか不穏な気配を感じさせる微笑みとともに、ゆっくりとした動きで両手をフィアレッタへ伸ばし、華奢な身体を抱き寄せた。

 ジルニトラへ見せつけるかのように。


『あなたを私の国に連れて行こうと思って。だから迎えに来たわ』


「……え?」

「……な」


 間の抜けたフィアレッタの声と、物言いたげなジルニトラの声が重なり、空気を震わせた。

 皿のように目を丸くして二人が呆然とする中、ユグドラシルだけが満足そうに微笑んでいる。


 今、ユグドラシルは何と言った?

 彼女が何を言ったのかわからず、しきりに瞬きを繰り返すフィアレッタ。

 ユグドラシルはそんなフィアレッタを愛おしそうにぎゅうと抱きしめると、幼い子供がぬいぐるみにするように優しく頬を擦り寄せた。


 連れていく。迎えに来た。あなた。私の国――驚いて思考を止めていたフィアレッタの脳が少しずつ働きはじめ、ユグドラシルが発した言葉を一つずつ理解し、飲み込んでいく。

 全ての言葉を理解した瞬間、フィアレッタは思わずユグドラシルの腕を強く掴んだ。


「ッユグドラシル様!? な、なんでそうなったんですか……!?」

『あら、決まってるじゃない』


 きょとんと不思議そうな顔をして、ユグドラシルは言う。


『あなたは一度、私たちの国に来たことがあるでしょう? それに、あの妖精嫌いの家の人間にはあなたのことを任せておけないもの』


 ちらり。ユグドラシルの目から温度が消え、先ほどと同じ目がジルニトラへ向けられる。

 鋭く冷たい目に再度射抜かれ、ジルニトラが一瞬だけ呼吸を詰める。

 けれど、すぐに息を深く吐き出し、ジルニトラはユグドラシルへ一歩近づいた。


「……すまない、妖精の女王」


 ユグドラシルが唇を真横に引き結び、全ての表情を消す。

 見る者全ての心を凍てつかせる表情。お前の存在が不愉快なのだと明確に語る絶対零度の顔。

 ほとんどの人間が気圧されて何も言えなくなってもおかしくない表情だが――ジルニトラはもう一度浅く息を吐いてから、逃げ出すことなく相手の目を見つめ返した。


「レースディア家が過去にあなたたちにしたことは許されないことだと思っています。あなた方妖精たちにとって大切な存在を任せておけないと判断しても仕方ないでしょう」

『……わかっているんじゃない』

「けど」


 ジルニトラが大きな声で一言発した。

 凍りつきそうになるかのような空気を吹き飛ばし、言葉を続ける。


「けど、その人は俺にとって、とても大切な人です。……こちらの世界で、ともにいさせてはくれませんか」


 ゆっくりとフィアレッタの目が見開かれていく。

 大切な人――確かに今、ジルニトラはフィアレッタを大切な人だと口にした。


 大切という言葉がどのようなことを意味しているのかはわからない。

 恋愛的な意味で使われているとは限らない。

 フィアレッタとジルニトラの出会いを考えると、それ以外の意味で使われている確率のほうが高い。

 けれど、彼が発した『大切な人』という言葉はフィアレッタの心に響き、じわりと強く熱を発した。


 こんなことを思っていい場面ではないのに。

 こんなことを思っている余裕なんてない場面なのに。

 とても嬉しくて、気恥ずかしくなってくるほどに嬉しくて――少しでも気を緩めると口元が緩んでしまいそうだ。


『……ふぅん? そんなことを言って、私たちの愛し子を利用しようとしているだけじゃないの?』


 いけない、こんなことを呑気に考えている場合ではない。

 両手で口元を覆い、数回ほど深呼吸をして浮かれる心を落ち着かせる。

 最後に浅く息を吐き出してから両手を下ろし、フィアレッタは己を抱きしめているユグドラシルの顔を見上げた。


「違います、ユグドラシル様。旦那様は――ジルニトラ様は確かにレースディア家の方ですが、過去のご当主様方とは異なり、妖精や幻獣たちと共存していきたいと考えてらっしゃいます」


 ぴくり。ユグドラシルの肩がわずかに動き、反応を示した。

 ゆっくりとした動作で、ユグドラシルの目がフィアレッタへと向けられる。

 視界の端で、ジルニトラが浅く口を開いて目を丸くする様子が見えた。


『……本当?』

「ええ。ジルニトラ様は過去と同じ過ちを犯すことはありません。妖精や幻獣たちと生きることを強く望んでらっしゃいます。ですから……ユグドラシル様も、ジルニトラ様のことを……今のレースディア家のことを、信じてくださいませんか?」

「フィアレッタ嬢が口にしたとおりだ。……俺は、父上とお祖父様たちと同じことは決してしない。嘘偽りなく、過去のレースディア家のように妖精や幻獣たちと歩んでいきたいと考えている」


 どうか、信じてはくれないだろうか。

 必死に訴えるフィアレッタに続き、ジルニトラも言葉を続ける。

 落ち着いているように見えるが、ジルニトラも内心はフィアレッタと同じで必死だ。その証拠に手はかすかに震え、表情もこわばっている。

 はたして静寂が続いていたのはどれくらいの時間だったか。

 永遠にも感じられそうなほどの長い時間が続いたのち、ユグドラシルの唇から浅く息が吐き出された。


『……そう、そうなの。なら、わかったわ』


 ユグドラシルの腕から力が抜ける。

 フィアレッタの身体からそっと両腕を離すと、ユグドラシルはそのまま一歩後ろへ下がった。


『私たちの愛し子までそういうのなら、そうね。こうしましょう』


 二人をじっと見つめ、妖精の女王が告げる。


『今から二ヶ月後、私の森でお茶会を開いて。そのお茶会で私を満足させられたら、妖精嫌いの家との関係を見直すことにしましょう』

「……お茶会を?」

『ええ。私を上手にもてなして? 上手にもてなせたら、妖精や幻獣たちのことをちゃんと考えているのだと判断するわ。これ以外での和解は認めない』


 さあ、どうする?

 わずかに首を傾げ、ユグドラシルが両目を細めて不穏に微笑む。

 どうするか――だなんて。そんなの、もう決まっている。


「二ヶ月後ですね。わかりました」

「後日、改めて招待状を送らせていただきます。どうか楽しみにお待ちくださいませ」


 最初にジルニトラが答え、フィアレッタがそれに続く。

 和解のための条件がそれしかないのなら、首を縦に振るに決まっているのだ。

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