5-4
人間の一人や二人ぐらい、簡単に飲み込めそうなほど大きな身体を持つ獣だ。その姿かたちは狼にとても近く、硬そうな長めの被毛は色づいた麦穂を思い出させる黄金の色。鋭い光を放つ両目は燃える太陽を思い出させる紅蓮の色。ここまでなら巨大な狼だが、四本ではなく六本の足がこの獣を異形たらしめていた。
村人たちの間で驚愕と恐怖を織り交ぜた声が一斉にあがる。
突如現れた異形の狼に誰もが驚き、恐怖や警戒心をあらわにする中、フィアレッタだけは落ち着き払った様子で自身の傍に降り立った巨狼を見上げていた。
「女王自ら来ていただけるとは……ありがとうございます、コルンムーメ」
『子が呼んだのよ。母が来なくてどうするのですか、愛しい我が子』
低く落ち着いた声が空気を震わせ、フィアレッタの鼓膜へと伝わる。
本当に血が繋がっているわけでもなければ、彼女が率いる群れの一人として過ごしたのは遠く過ぎ去った過去のこと――だというのに、いまだにフィアレッタを本当の我が子のように扱ってくれるのは少しだけくすぐったくて、同時になんだか嬉しかった。
フィアレッタはそっと両手を伸ばし、巨狼の被毛に触れる。ごわごわとした固めの被毛を優しく撫でれば、巨狼も柔らかく目を細めた。
「大丈夫ですよ、皆様。このお方はわたしが呼んだ幻獣ですから」
その後、恐怖や警戒の目を向けているジルニトラや村人たちに声をかけ、フィアレッタは巨狼の被毛からそっと両手を離した。
「このお方はコルンムーメ。穀物の精霊ともいわれている幻獣です。特にこのお方はコルンムーメたちを率いる女王という立場にあり、豊穣の力を司っています」
「……そういえば、先ほどの歌の中でコルンムーメ、と……」
「はい。あの歌はわたしが小さい頃、幻獣たちの領域で過ごしていたときに教えてもらったんです。コルンムーメたちの力が必要になったときは、この歌を歌いなさい――と」
『我が子は我々のように遠くまで力強く届く声をあげることができませんから。この子にとっての遠吠えです。人の子よ』
つぃ、と。
コルンムーメの目がジルニトラへ向けられた。
ジルニトラの目とよく似た――けれど、ジルニトラの目よりもはるかに鮮やかで、はるかに力強い紅蓮の目がこちらの姿を映し出す。
燃え盛る太陽の色の奥に警戒とわずかな敵意が隠されている。フィアレッタに向けているものよりも冷たい目に怯みそうになるが、ジルニトラはしゃんと背筋を伸ばし、コルンムーメの目を真っ直ぐに見つめ返した。
『……しかし、我が子よ。これだけの人の子がいる場所で私を呼んだということは、あなたの頼みはこの人の子たちが関係したものですか』
けれど、コルンムーメがジルニトラを見つめていたのも数分という短い間だけ。
彼女はすぐにジルニトラへの興味を失ったかのように、再びフィアレッタへと目を向けた。
ジルニトラに向けていたものとは異なる、温かい色を宿した目を。
「はい。コルンムーメ、あなたには……いえ、あなたたちにはこの茶園と……将来的には小麦畑の番人をお願いしたいんです。どうかお願いします、ティムバーの村の人たちを救うためにはあなたたちの力が必要なんです」
コルンムーメへと語りかけるフィアレッタの声はとても真剣なものだ。
彼女は今、真剣にティムバーの村人たちのことを思い、未来のために動こうとしている――そう思うと、ジルニトラも自然と一歩を踏み出すことができた。
妻となってくれた彼女がこんなにも頑張ってくれているのに、領主である自分が何もせずに見ているだけだなんて、そんなことが許されていいはずがない。
「俺からも頼む。……いや、お願いします。コルンムーメの女王。……このままでは、村人たちは不作を乗り越えられずに飢えて死んでしまう。領民たちを救うにはあなたの力が必要なんです」
そういって、ジルニトラはコルンムーメへ深々と頭を下げた。
領主が頭を下げるという光景に驚き、村人たちの間でざわめきが広がった。
領民たちの上に立つ者がこのような姿を見せるべきではないのかもしれないが、そうもいっていられない。今はティムバーに住まう村人たちの命がかかっている緊急事態なのだから。
フィアレッタは願いを込めてコルンムーメを見つめ、ジルニトラは頭を下げた姿勢のままコルンムーメの返事を待つ。
村人たちも一言も発さず、コルンムーメがどのような判断を下すのかをひたすらに待っている。
穏やかな風の音がわずかに聞こえる中、コルンムーメがおもむろに深くため息をついた。
『……本当は、妖精嫌いの家に生まれた人間に手を貸すのは好ましくないのですけれど……』
ジルニトラの心にコルンムーメの言葉が鋭く突き刺さり、鋭い痛みを放った。
言葉の棘を向けられることも、その棘が心に突き刺さることも全て覚悟していた――が、覚悟していてもやはり苦しいものだ。
ジルニトラというレースディア家の現当主の存在が原因でフィアレッタの頼みを断られてしまったら――強い不安がジルニトラの心に生まれ、影を落とす。
緊張や不安で身を固くするジルニトラへ、コルンムーメの声が届く。
『ですが、可愛い我が子の頼みなら仕方ありません。私としても、妖精嫌いの家となんの関係もない人の子たちが無意味に死ぬのは避けたいことですから』
「……と、いうことは……」
フィアレッタが目を大きく見開いて両手で口元を覆う。
ジルニトラも弾かれたかのように顔をあげ、コルンムーメの目を見つめる。
二人の目を静かに見つめながら、コルンムーメがゆっくりと首を縦に振った。
『ええ、ええ。特別にあなたたちの頼みを聞きましょう。可愛い我が子の頼みです、今回だけは特別ですよ。……我らコルンムーメと妖精嫌いの家が和解したのだとは思わぬよう』
そういって、コルンムーメがじとりとした視線をジルニトラへ向けた。
レースディア家との和解を選んだから頼みを聞くことにしたのではない、フィアレッタが頼んだのと無関係の人間が命を落とすのが嫌だから頼みを聞くことにしたのだ。決して勘違いをするな――。
敵意を込めたコルンムーメの言葉に、ジルニトラは無言で頷いた。
勘違いをするつもりはない。コルンムーメという幻獣との対話が成立したのも、協力を得られるのも、全てフィアレッタのおかげなのだから。
「そのことはきちんと理解しています。……レースディア家の人間に手を貸すのも不快だろうに、本当に感謝します。コルンムーメの女王」
感謝を口にし、ジルニトラは再度コルンムーメへ頭を下げた。
コルンムーメからは特に返事はなく、ふんと鼻を鳴らすだけだったが、ジルニトラにとってはこれだけでも十分だ。
ゆったりとした足取りでコルンムーメがフィアレッタの傍から離れ、緩やかな動きで畑全体を見渡す。
そして、大きく息を吸い込んで太陽を見上げ、大きく吠えた。
うぉ、おぉおぉぉ――……ん。
力強さを感じる低い遠吠えがびりびりと空気を震わせる。
コルンムーメの遠吠えは魔力とともにティムバー全体へ伝わり、祝福の力を失った大地にもう一度力を与え、どこまでも広がっていく。
枯れ果てた大地に緑が宿り、豊かに実った麦穂が作り出す黄金の海の幻想を、ジルニトラもティムバーの村人たちも確かに見た。
「……よかったですね、旦那様」
「……ああ」
いつのまにやら傍に来ていたフィアレッタに声をかけられ、はっと我に返る。
安堵の表情を滲ませて微笑んでいる彼女へ頷いたのち、ジルニトラはもう一度畑に立つコルンムーメへ視線を向けた。
フィアレッタもジルニトラの視線を追い、大地に祝福の力を与えてくれているコルンムーメを見つめる。
「またしばらくしたら様子を見に来ましょう。そのときはまた一緒に来ましょうね」
「もちろん。そのときはまた、同行を頼む。あなたの時間をもらいすぎているようで少々申し訳ないが……」
「あら、お気になさらないでくださいな。わたしがやりたくてやっていることなんですから」
そういって、フィアレッタは少女らしくころころと笑った。
きっと、ジルニトラは生涯忘れないだろう。
眼前に広がる光景も。
この光景を作り出すために尽力してくれた、フィアレッタの笑顔も。
きっと――忘れることは、ないだろう。
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