5-3
ティムバーの茶園作りには、一度潰してしまった元小麦畑を使わせてもらうことになった。
なんでも、長く続く不作を前に小麦作りを諦めてしまい、この村で三番目に大きい小麦畑を持っていた家が畑を潰してしまったらしい。希望を捨てずに違う作物を育てるかティムバーを出るか悩んでいたところに茶の木の話がフィアレッタとジルニトラによって持ち込まれ、村を救う手助けができるなら――と快く畑を差し出してくれた。
自分の力が足りずに全てを諦めようとしていた領民がいたことに、この話を聞いたとき、ジルニトラは強い罪悪感と申し訳なさでひどく心が痛んだ。
けれど、フィアレッタがそんな村人の心にも希望を与えてくれたのだと思うと、彼女には本当に感謝しかない。
「……本当に、すごい人だな。あなたは」
広大な畑に立ち、村人たちに指示を出す小さな背中を見つめながら、ジルニトラは一人、とても小さな声で呟いた。
きっとこれを本人に直接言ったら、彼女は大したことはできていないと首を振るのだろう。これまで一緒に過ごす中で、フィアレッタという少女はそういう人物であることは少しずつ理解できてきた。
彼女からしたら大したことではないのかもしれない。けれど、不安や心配を抱える村人たちの心に寄り添い、ささやかな希望を与えたというのは非常に大きな偉業だ。
――ジルニトラがどれだけ手を尽くしても、対策を講じても、村人たちの心に希望を与えられなかった。ジルニトラにはどうしてもできなかったことを、フィアレッタはやってみせたのだから。
「……フィアレッタ嬢、あなたは――」
きっと、シュネーガイスト領にとって、レースディア家にとって、そしてジルニトラにとっても必要な人物だ――なんて。
政略結婚という形で生まれ故郷から引き離しておいて、そんなことを口にしたら不快に思わせてしまうだろうか。
「旦那様!」
思わずそんなことを考えた瞬間、畑に立っていたフィアレッタがくるりと振り返った。
突然こちらを見るとは思わず、驚いたジルニトラの両肩がわずかに跳ねる。
だが、驚いたということを表に出さず、小さく咳払いをして気を取り直すと、ゆったりとした足取りでフィアレッタの傍へ歩み寄った。
「どうした、フィアレッタ嬢。何か不安な点でも見つかったか?」
「ええと、不安なことと言いますか……。少し旦那様にお聞きしたいことがありまして」
そう前置きをして、フィアレッタは眼前に広がる景色へ目を向けた。
彼女の視線を追って、ジルニトラも目の前の畑に視線を向ける。
広大な畑には老若男女問わず大勢の村人たちが集まっており、農具を手に、一度潰してしまった畑を蘇らせるべく動いている。
ある者は鎌やスコップで雑草を取り除き、ある者は鍬で畑の土を耕し直し、またある者は土の状態をより良くするために石灰や堆肥を撒いて土の中に混ぜ込んでいる。元畑の空き地と化していたはずの場所は、みるみるうちに再び畑としての姿を取り戻しつつあった。
何も問題がないように見えるが、はたしてフィアレッタは何を気にしているのか。
ジルニトラが抱えた疑問に対し、フィアレッタ本人がゆるりと唇を開いて答えを口にした。
「今回の計画はティムバーを救うための方法でしょう? なので、確実に茶の木が育つよう、豊穣を司る妖精か幻獣を呼ぼうかと考えているのですが……」
「……その辺りは、フィアレッタ嬢に任せようと思っていたのだが」
「わたしも独断で決めようかと思っていたんですけど……その、ティムバーでは、今後茶葉の生産に力を入れていくおつもりなのでしょうか」
わずかに首を傾げたジルニトラへ、フィアレッタはさらに言葉を続ける。
「現在、ティムバーの名産品といえば小麦でしょう? これまでは小麦の生産に力を入れていたのだと思いますが……今後は茶葉作りを中心に切り替えるご予定はありますか?」
「ああ……なるほど、それを聞きたかったのか」
フィアレッタの問いに対し、ジルニトラは村人たちが畑を整えていく様子を眺めながら思考を巡らせた。
二人が話している間に彼ら彼女らの作業は進み、すっかり畑として蘇った地にフィアレッタとジルニトラが用意した茶の木の苗木を植えている。周囲より二十センチほど高くした土に植え穴を掘り、丁寧に苗木を植えつけていく村人たちの表情は輝いている。
茶葉の生産を任せる地を増やすと決めているのだ、ティムバーにその役目を任せて小麦の生産を異なる農村や町に任せるという選択肢もある。
けれど、ジルニトラの心は最初から決まっている。
「……いや、ティムバーで作るものを増やすつもりではあるが、小麦の生産をやめる予定はない。ティムバー産の小麦で作るパンは他領からの人気も高いからな」
ティムバーがここまで追い詰められたのは不作が大きな原因だが、一つの作物しか作っていないという点もジルニトラは昔から気にしていた。
小麦という一つの作物だけを育てていたら、何らかの理由で小麦を作るのが難しくなった際、あっという間に収入源を失って飢餓が起きるおそれがある。ティムバー産の小麦やそれで作るパンは人気が高く、大切な資金源となっているが、いつまでもそれだけに頼るわけにはいかない。
茶葉の生産と小麦の生産。
ティムバーで作られるものを二つに増やせば、もし小麦を作れなくなっても茶葉のほうから資金を得ることができるはずだ。
その考えをフィアレッタに伝えれば、彼女はゆったりとした動作で一つ頷いた。
「では、小麦畑を守ってくれる幻獣を呼ぶことにいたします。今後も小麦の生産を続けていくのなら、あの子はきっとぴったりだと思いますから」
ふわり、笑ってそういうと、一歩前へと足を踏み出す。
村人総出で行っていた苗木の植えつけ作業も無事に終わり、丁寧に植えられた苗木たちがずらりと畑に並んでいる。
まだ未熟で若い茶の木たちへぐるりと視線を向けたのち、フィアレッタはここまで頑張ってくれた村人たちへ穏やかな笑顔を見せた。
「皆様、頑張ってくださってありがとうございます。ここからは、どうかわたしにお任せください」
村人全員にそう声をかけ、フィアレッタは踏み出した足を前へ動かす。
畑から出るために下がっていく村人たちとすれ違い、畑の中央に立つと、おもむろに目を閉じた。
幻獣を呼ぶ――と確かにそういっていたが、どうやって呼ぶつもりなのか。村人たちとジルニトラが同じ疑問を胸に見守る中、フィアレッタが両手を己の首元へ添えた。
そして。
「大地に落ちる麦穂の涙 畑に降り立つ守り人いずこ 三度吠えて厄災遠く 七度吠えて実りあれ 波打つ黄金の海が戻るまで――……」
透明な歌声が、彼女の喉から奏でられた。
紡がれた歌声は朗々と響き、風の音や木々のざわめきと一緒に畑全体へ――そしてティムバー全体へ広がっていく。
数分前、畑で作業をしていたときは風も何もない穏やかな天気だったというのに、今やフィアレッタの歌声に合わせて楽器を演奏するかのように、風や木々、さらには足元の植物たちまでもが音を奏でていた。
ふわり、ふわりと舞い踊る風でフィアレッタのストロベリーブロンドが揺れ遊ぶ景色は幻想的で――とても美しかった。
「風引き連れ来たれ豊穣 来たれ実りの時 コルンムーメ」
ずっと聴いていたくなる歌声も、やがて終わりのときが来る。
最後にフィアレッタがそう歌った直後、喉に添えていた手がゆっくりと下り、しんと静寂が場に戻った。
歌声の終わりに合わせ、風の音も木々や草花のざわめきも収まり、数分前とほぼ同じ状態が戻ってきた。
――いや、待て。
本当に、数分前と同じ状態に戻ったのか?
ジルニトラの中で、内なる自分が疑問の声をあげた。
風そのものが止まったわけではない。肌を撫でる風はまだ吹いている。北の方角から吹いてくるその風は、少しずつ緩やかに――けれど確実に勢いを取り戻してきている。冬の方角には似合わない、柔らかな麦穂の匂いを運びながら。
まるで、何かが風を呼びながら一歩ずつ近づいてくるかのように。
……何かが、近づいてくるように?
ジルニトラの頭にそんな可能性が浮かんだ瞬間。
風が運んでくる柔らかな麦穂の匂いの中に獣の匂いが混ざり、はっとわずかに息を呑んだ。
「フィアレッタ!」
危ない――と。ジルニトラが言い切る前に、一層強い風が吹いて。
どすり。
重い音をたてて、一匹の巨大な獣がフィアレッタの傍に舞い降りた。
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