3-2
「フィアレッタ嬢……!?」
ジルニトラが名前を呼んだ瞬間、フィアレッタは一瞬だけ寂しそうに顔を曇らせ――けれど、すぐに柔らかく笑ってみせた。
妖精や幻獣たちから深く愛されるのも頷ける少女だ。
腰の辺りまで伸びたストロベリーブロンドの髪はふわふわとウェーブがかっていて、ところどころに編み込まれた花飾りが彼女の愛らしさを引き立てている。
こちらへ向けられる銀色の目はいつ見てもほんの少し眠たそうに見える。
着ているドレスがレースやフリルをあしらった甘めで可愛らしいデザインをしていて、フィアレッタが持つ人形のような愛らしさを引き立てていた。
ジルニトラよりもうんと幼く、うんと小柄な彼女は、その小さな両手でティーポットとティーカップが乗ったトレーを持ってこちらを見つめてきていた。
「お忙しいところ、すみません。旦那様」
フィアレッタの唇から紡がれた一言を耳にした途端、ぎしりとジルニトラの心が音をたてて軋んだ。
ああ、本当に――自分はこんなに若く、幼い少女に侯爵夫人としての立場を押し付けたんだ。
改めて現実を認識し、罪悪感を噛み潰す。
「……無理に妻らしく振る舞おうとしなくてもいいと言ったはずだが。どうした?」
まだ幼い少女なのだ、無理に妻として振る舞わず好きなように過ごしてほしい。
式を挙げた日も馬車の中で伝えたのだが、上手く伝わっていなかったのかもしれない――そう考えて言葉を紡ぐも、ジルニトラの唇から発されたのは非常にそっけない声だ。
傷つけてしまったかと慌ててフィアレッタの顔を見るが、当のフィアレッタは傷ついたり表情を曇らせたりせず、じっと静かにこちらを見つめてきている。
かと思えば、にぱりと無邪気に笑ってトレーをこちらに向けて差し出してきた。
「お茶をお淹れしたんです」
「……いや、俺はフィアレッタ嬢が好きなように過ごしていてくれたら、それで――」
「わたしが旦那様と一緒に飲みたくて用意したんです」
間髪入れずに言葉を返され、ぐっと言葉が詰まった。
好きなように過ごしてくれたら十分だと言おうとして、一緒に飲みたいから用意したのだと返されてしまったら、もう何も言えない。
さらに、そのために自分が用意したのだと言われてしまったら、それはもう断れない。
できるだけ早く仕事を終わらせるのを優先するか。
一緒の時間を過ごすため、わざわざ茶を用意してまで足を運んできたフィアレッタを優先するか。
どちらを取るか思考を巡らせるが、答えは実質一つしかない。
「……わかった」
浅くため息をつきながら、一言返事をする。
たったそれだけの短い返事だったが、フィアレッタはぱあっと表情を明るくさせ、嬉しそうに口元を緩ませた。
「そこに応対用のローテーブルとソファーがある。使うといい」
つぃと指で、執務室の端のほうに置いてあるローテーブルとソファーを示す。
主に来客があったときのためのものだが、ささやかなお茶会を開くことに使っても許されるだろう。ジルニトラが当主となってから――いや、そのずっと前から使われていなかった家具でもあるし、使う機会があるほうが家具たちも喜ぶはずだ。
ずっと放置され続けていたローテーブルもソファーも、普段から使用人たちがしっかりと掃除をしてくれていたおかげで埃一つ見当たらない。
うきうきとした様子で、フィアレッタがローテーブルに持ってきたティーポットとティーカップを並べていく。
仕事の手が一度止まるのは完全に想定外だったが、嬉しそうにお茶会の準備をしているフィアレッタの姿を眺めていると、不思議と苛立ちや不満が遠ざかり、微笑ましいものを見るかのような感情が胸の奥に広がるのを感じた。
……まるで小動物のような令嬢だ。
心の中で呟きながら、ゆっくりとした動きで執務椅子から立ち上がる。
動きどおりの歩調でフィアレッタの傍まで歩いていき、ローテーブルを挟んで向かい合うように設置されているソファーの片方に腰かけた。
直後、それを待っていたと言いたげな勢いでジルニトラの前にずいとティーカップが出される。
そんなに楽しみにしていたのかと驚いたのもつかの間、ふわりと柔らかな香りが鼻をくすぐった。
「……これは……ベールクティー、か?」
口に出しながら、一人で首を傾げる。
甘やかさと爽やかさを感じさせる香りは、何度も楽しんだことがある香りだ。おそらく銘柄はベールクで間違いない。
けれど、ジルニトラがよく知っているベールクとは少しだけ異なる。
ベールクティーは、甘さの中に爽やかさを感じさせる香りが特徴の紅茶だ。
しかし、フィアレッタが持ってきた紅茶はベールクティーの香りの中に、ほんのかすかだが花のような香りも感じられる。
ベールクティーによく似た異なる銘柄の紅茶なのかとも思ったが、ティーカップの中で揺れる紅茶の
「……フィアレッタ嬢、この紅茶の茶葉はなんだ?」
こんな紅茶は一度も見たことがない。
いくら考えても正体に辿り着けず、フィアレッタへ問いかける。
紅茶を持ってきた本人に尋ねれば一体どんな銘柄なのか、正体に辿り着けると思ったのだが。
「ふふ、旦那様はどんな茶葉だと思いますか?」
フィアレッタの唇から返ってきたのは答えではなく、逆にこちらへ問い返してくる言葉だ。
ジルニトラが眉間により深くシワを寄せる。
出会ってきた多くの人間が怯んできた表情だが、フィアレッタは全く怯むことがない。にこにこと楽しそうな態度を崩さない。
幼く小柄である彼女からすれば、人よりもすらりと背が高く、表情の変化が乏しいジルニトラは恐怖の対象になってもおかしくない。
実際にシュネーガイストの地で生きる領民たちのうち、フィアレッタと同じぐらいの年齢の少女には何度か泣かれてしまったことがある。
そんな出来事もあり、ジルニトラは己の容姿が幼い子供に威圧感を与えるものだと自覚していた――故に、ジルニトラが不機嫌そうな様子を見せても怯えたり泣いたりしないフィアレッタの姿は意外だ。
――同時に、ほんの少し。
ほんの少しだけだが、ほっとしたようなそうでないような、不思議な感覚が胸の奥で広がった。
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