第三話

3-1

 体重を預けたことで、椅子の背もたれがわずかに悲鳴をあげる。

 祖父や父の代から使われ続けた執務椅子は意外と丈夫で、新品だった頃に比べると少しずつガタがきているものの、ジルニトラが体重を預けてもしっかり受け止めている。

 今はもう会うこともないだろう二人が良いものを残してくれたことに少しだけ――ほんの少しだけ感謝しつつ、ジルニトラは天を仰いだ。


「はあ……」


 浅く、短く、息を吐く。

 周囲の音で簡単にかき消されてしまいそうな吐息だったが、聞こえるのは時計の音ぐらいの部屋の中でははっきり聞こえる。

 少しの孤独感や息苦しさがジルニトラの胸で渦巻くが、すぐにため息としてそれらの感情を吐き出した。


「さすがに、もう何日もこれとなると疲れるな……」


 唇から小さな声での弱音がこぼれ落ち、誰もいない空間へ溶けて消えていく。

 執務机にずらりと並んだ書類の山やたくさんの封筒たち――これらを全て一人だけで処理するなど無理があることは、ジルニトラもよくわかっている。

 わかっているが、こればかりは自分一人で全てこなさなくてはならない。

 祖父や父の代とは異なるのだと、他家に示すためにも。

 他家の人間に認めてもらうためにも。


 ――若くして、本当に若くして自分の下に嫁いできてくれた……まだ家族と平和に過ごしたかっただろう彼女に少しでも良い暮らしをさせるためにも。


「……」


 純白のドレスに身を包んだ彼女の姿を思い出した瞬間、思わず唇から重い吐息がこぼれた。


「……まさか、あんなに……」


 あんなに若いだなんて、思っていなかった。

 アトラリアの地をまとめる『妖精卿』と呼ばれる伯爵と、その妹である令嬢の話はジルニトラも何度か耳にしていた。

 古くから妖精や幻獣と信仰がある家に生まれた令嬢で、妖精や幻獣たちからも深く愛されるほどの実力者。特に妹である伯爵令嬢は兄である伯爵以上に妖精や幻獣に愛されていて、幻想の住人たちに関する知識も深いのだ――と。


 そんな家に生まれた人間と婚姻関係を結ぶことができれば、今代のレースディア家当主が本気で妖精や幻獣とともに生きようとしていると周囲にアピールできる。妖精や幻獣たちに関する知識も家に取り入れられるだろうし、一石二鳥だ。


 ……そう、ジルニトラはアトラリア伯爵令嬢を利用しようと考えた。こんな考えしか浮かばない自分に嫌気が差しつつも、それが良い方法だと思い、彼女を利用するつもりでバートランドが提案してきた婚姻の話に頷いた。

 結果、罪悪感にひどく苛まれているのだが。


 だって、思わないじゃないか。

 周囲からも高く評価されていて、大人びた振る舞いをすると噂されている伯爵令嬢が――まだあんなにも幼い人だなんて!


 ぐっと苦い顔をし、ゆっくりとした動きで背筋を伸ばす。

 わかっている。こんなのただの言い訳でしかない。悪いのは確認を怠った自分だ。

 バートランドが持ってきた話に頷くとき、相手の令嬢についてもう少し詳しく聞いておけば防げたこと。まだ幼い彼女を家族から引き離し、こんな周囲から冷たい目を向けられている家に若くして嫁がせたのは自分だ。

 だから、せめて少しでも彼女が快適に、そして幸せに過ごせるよう、力を尽くさねばならない。


「……あまり休んでいる暇はないな」


 そうだ、休んでいる暇はない。これぐらいのことを自分一人でこなせなくては、一人の人間に幸せに過ごしてもらうことなどできない。

 一人の少女を幸せにすることのほうが――目の前にある仕事を全て片付けるよりも難しいことなのだから。

 自分自身に言い聞かせ、疲れを訴える身体をなんとか動かして再度ペンを握る。

 まだ目を通していない報告書を一枚取り、目を通そうとした。


 ――……こんこん。


 瞬間。

 紙をめくる音でもペン先が書類や便箋をひっかく音でもない、全く異なる音が空気を震わせた。

 落としていた視線を書類から扉へと向ける。


 こんこん。


 ジルニトラがすぐに返事をしなかったからか、再び扉がノックされた。

 まだ返事をせずに扉を見つめていると、さらにノックの音が響く。

 扉の向こうにいるのが誰かわからないが、どうやらジルニトラが返事をするまで立ち去る気はなさそうだ。


「……入れ」


 少しでも早く仕事を片付けなければならないというのに。

 バートランドかその他の使用人が止めに来たのだろうか、平気だと何度も言っているというのに。彼らは少々心配性すぎる。

 使用人たちだとしたら、おそらくバートランドだろう。昔から付き合いがあるというのもあり、彼は時折無理にでも休ませようとあの手この手を使ってくるし、そういうときはノックが聞こえなかったふりをしてもなかなか立ち去らない。

 手元の報告書に視線を落とし、ずらりと並んだ文字列に素早く、けれどしっかりと目を通していく。

 少し遅れて扉が開く音が聞こえ、ジルニトラは顔をあげずに口を開いた。


「バートランドか? お前が忠告してきたとおり、少し休憩をした。自分の状態は俺が一番よくわかっている。だから何も心配する必要はない」


 言いながら、手元の報告書にペンを走らせる。

 普段ならすかさず反論が返ってくるところだが、なかなか返事が来ない。

 ……どうしたのだろうか。いつもならもっと次から次に反論の言葉を口にし、ジルニトラを止めようとしてくるはずなのに。


 少しだけ不審に思いつつも印章を手に取り、報告書に押す。

 その間も部屋の中へやってきた何者かからの返事はなく、ジルニトラの眉間に深くシワが寄った。


「どうした、バートランド。何か言いたいことがあるなら――」


 わずかな苛立ちを込めた声でいいながら、ゆっくり顔をあげる。

 視界に移るものが書類から執務机の端に移り変わり、扉の前に立っている人物の足元が見え――姿が完全に見えた瞬間、ジルニトラは目を見開いて、ひぅと引きつった呼吸音をたてた。


 扉の前に立っていたのはバートランドではない。

 つい最近屋敷にやってきたばかりの人間。先ほどまで考えていた相手。

 自分が家族と引き離し、この家へ連れてきた少女だ。

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