2-4
馬車の中で見た、妙に疲れているように見える姿。
同じ屋根の下で暮らしているはずなのに、ジルニトラとすれ違いもしない日々。
彼の姿をこれでもかというほど見かけない毎日。
ジルニトラと暮らしているはずなのに、彼の姿を見かけなかったのは、もしかして――。
「……バートランド。先ほど『レースディア家の現当主になってから旦那様は全ての仕事をお一人でこなそうとされている』と……そういっていましたよね?」
「はい」
「それは……わたしがレースディア家に嫁いできてからも、変わらず続いていますか?」
バートランドからの返事はない。
だが、沈痛な面持ちが全てを物語っていて――フィアレッタもくしゃりと表情を曇らせた。
同じ屋敷で暮らしているはずなのにジルニトラと会わなかったのは、そういうことだ。
一日中、執務室の中でひたすらに仕事をしているからフィアレッタと顔を合わせることがなかった。
メイクで隠す必要があるほど顔色が悪かったのも、無理をして仕事をする毎日を送っているから。
目の下にクマがあったのも、おそらく睡眠時間を削ってまで仕事をしているから。
脳内で次から次に疑問の答えが出て、フィアレッタの背筋を冷たいものが駆け抜けていった。
「……先代の当主様が旦那様に任せた――もとい、投げた仕事もまだ数多く残っています。だというのに、旦那様は全て自分一人だけでこなすと宣言され……。私たちがいくら無理があると主張しても聞き入れてもらえず、時間だけが過ぎ去っているのが現状です」
「そん、な」
「これぐらいのこと、一人でできなければ他の家門から認めてもらえないだろうからと――そう口にされて」
言葉が出なかった。
何を言えばいいのかわからなかった。
意味を持たない言葉ばかりがフィアレッタの喉につっかえる。
誰がどう考えてもオーバーワークだ。本来やらなくてはならない仕事に加え、先代が投げてきた仕事までやらなくてはならないなんて。
傍目から見ているフィアレッタでもわかるのだ、ジルニトラ本人がそのことに気づいていないわけがない。
わかっていて――おそらく、彼は誰にも頼ろうとせず、己を追い詰め続けている。
……これはよくない。非常によくない状態だ。
自分自身の限界を超えて無理をすれば、その分のダメージは確実に身体へ蓄積されていく。あまりに無理や無茶をする期間が長くなれば、身体にかかる負荷やダメージも膨れ上がってしまい――ある日突然限界を迎えてしまう。
動けなくなるだけならまだいい。
蓄積したダメージの量によっては、動けなくなる以上の最悪のことが起きるおそれだってある。
両親が亡くなったばかりの頃のエヴァンも無理を繰り返していた。あのときは不安になったフィアレッタがメイド長に相談し、実力行使で休ませたから大事にならずに済んだ。
けれど、ジルニトラの場合、彼自身が使用人たちを遠ざけている。使用人たちの思いを無視し、たった一人だけで無理を続けている。
これでは、最悪の事態が起きてしまっても即座に気づけない。
「……どうしてバートランドが助けを求めてきたのか、本物の妖精茶を必要としているのか……理解できた気がします」
ため息混じりに呟き、フィアレッタも執務室の扉に目を向けた。
こうしてフィアレッタとバートランドが言葉を交わしている間も、ジルニトラは一人だけで報告書や手紙たちと向き合っている。
たった一人、誰の手も借りようとせずに。自らの命を削りながら。
ぎゅっと目を細めて険しい顔をしたのち、深く息を吐き出し、フィアレッタはバートランドに向き直った。
「バートランド」
「なんでしょうか、奥様」
まだフィアレッタが幼い頃、エヴァンは言っていた。
妖精茶を他の人に振る舞いたいと思ったときは、本当に必要なのかをよく考えてからにしなさい、と。
あのときの教えに従い、妖精茶を振る舞う相手は慎重に選んできたけれど。
必要なときは――今だ。
「キッチンに案内してください。それから、キッチンで働いている使用人の方々に箝口令を敷いてください。何を見ても、どんなものを見ても、決して外部の人間に話してはならないと」
バートランドが息を呑み、両目を大きく見開いた。
驚愕と歓喜、二つの感情を織り交ぜた目でこちらを見ている彼へ、フィアレッタは優しく微笑んでみせる。
「旦那様へ妖精茶をご用意します」
フィアレッタがそういった瞬間、バートランドの顔にはっきりと歓喜が浮かんだ。
ジルニトラ本人は自身が抱える事情に立ち入ってほしくないと思っているかもしれない。
だが、知ってしまった以上、もう知らなかった頃には戻れない。
見なかったふりをして、知らないふりをする気にもなれない。
過去に、無理をして己を追い込みボロボロになっていった領主の姿を見ている身としても。
レースディア家の現当主と婚姻を結んだ――ジルニトラの妻としても。
動かなければならないのだ。
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