第二話

2-1

 シュネーガイスト領での暮らし――もとい、レースディア家での暮らしは不安で始まった。

 だが、フィアレッタの不安とは裏腹に、フィアレッタ・レースディアとしての暮らしはとても平穏なものだった。

 よそ者という目で見られても仕方ないと思っていたのに、初日から屋敷の使用人たちはフィアレッタにとてもよくしてくれた。

 幼さを理由に見下すこともなく、過度に子供扱いすることもなく、レースディア家の女主人として接してくれる――もっと不安な暮らしになるだろうと思っていただけに、驚きを隠せなかった。


 とても平和で穏やかな毎日。

 ほぼ不満もない日々。

 だが、レースディア家で暮らし始めてから、フィアレッタは一度もジルニトラの姿を目にしていないことが引っかかって仕方なかった。


「……うーん……」


 広い廊下に、フィアレッタの唸る声と足音が響く。

 レースディア家の屋敷は、落ち着いた上品さを感じさせるとても大きな屋敷だ。

 フェルドラッド邸も上品な雰囲気でまとめられた屋敷だったが、フェルドラッド邸がエレガントな印象でまとめられているとしたら、レースディア邸は全体的にシックな印象でまとめられている。

 入ってすぐに来客を出迎える玄関ホールは広々としており、中央部では螺旋階段が二階に向かって伸びている。


 左右には廊下が伸び、その廊下からは多くの客室に繋がっている。一階だけでも数多くの部屋が用意されており、かつては大勢の来客があったのだろうと思わせるものがあった。

 フィアレッタが今歩いている廊下は一階の廊下だ。広い廊下にはフィアレッタ以外の人影がほとんどなく、ここで働いている使用人が少ないことを物語っている。

 一種の物寂しさを感じさせる屋敷を移動しながら、フィアレッタはレースディア家に嫁いできてから今日までの記憶を思い返した。


 夫婦ではじめて過ごす夜は、何も起きなかった。

 目覚めたフィアレッタの隣にジルニトラの姿はなく、広いベッドの中、一人だけで朝を迎えた。

 あんなやり取りをしていたのだ、何も起きないのは予想の範疇だった。

 だが、次の日も、その次の日も一人で朝を迎え――さらには日中も夫の姿を見ないとなれば、さすがに思うものがある。


「……旦那様、どこで何をしてらっしゃるんだろう……」


 フィアレッタが眠っている間に休み、フィアレッタが起きてくる前に活動を始めているのだとは思う。

 だが、これまで過ごしてきて、日中、一度もすれ違わないというのはどういうことか。


 同じ屋敷の中で暮らしているのだから、一度ぐらいは屋敷の中ですれ違うなり顔を合わせるなりする機会があってもおかしくなさそうなのに。

 誰か旦那様の行方を知っている人がいたらいいのだけれど。

 考えながら歩き続け、玄関ホールに足を踏み入れたとき――一階の奥から燕尾服に身を包んだ男性が歩いてくるのが見えた。


「おや、奥様」

「あっ……バートランドさん」


 男性もフィアレッタの姿に気づき、はたりと目をしばたかせる。

 ジルニトラやエヴァンよりも少し年上の男性である。青みが強い紺色の髪は白髪交じりで、こちらを見つめる目は深い海の色に染まっている。落ち着いた黒い燕尾服に身を包んだ彼は、少し間を置いてから優しく微笑んだ。


 彼のことは知っている。

 レースディア家で働く使用人たちのうち、執事長を務めている男性――バートランド・サフィーフラウだ。

 フィアレッタもバートランドを呼び、ぱたぱたと彼のほうへ小走りで向かう。

 すると、バートランドは優しい微笑みから苦笑へ表情を変化させた。


「バートランドさんだなんて。お気軽にバートランドとお呼びください」

「あ……まだちょっと慣れなくて……」

「少しずつ慣れていただけたら。呼び方の練習にはいつでもお付き合いしますので」

「ありがとうございます。わたしもできるだけ早く慣れられるよう、頑張ります」


 とはいえ、あまり彼らの仕事を邪魔したくはない。

 できるだけ自分一人で努力し、バートランドを呼び方の練習に付き合わせる回数は少なくしなくては――。

 心の中でひっそりとそんな決意を固めていると、眼前のバートランドがわずかに首を傾げた。


「ところで……奥様はこんなところでどうされたのですか? 迷ってしまったのなら、向かいたい場所までご案内しますが」

「あ、えっと――」


 特に何らかの目的があるわけじゃなくて、少し歩いていただけ――と。

 そう答えようと薄く唇を開けたが、ふと、思う。


 執事長であるバートランドなら、ジルニトラの居場所を知っているのではないか?


 バートランドはジルニトラに仕えている身だ。彼の生活をサポートする立場にある者だ。フィアレッタは知らないジルニトラのスケジュールも、彼なら把握している可能性が高い。

 さすがのジルニトラも、使用人たちに自分の居場所やスケジュールを一切知らせずに行動するなんてことはしないはず。


「……バートランド……は、旦那様がどこにいらっしゃるかわかりますか?」


 もし、バートランドもジルニトラの居場所を知らなかったらお手上げだ。

 ささやかな期待を胸に、フィアレッタがバートランドへ問うた瞬間。


 バートランドの表情がわずかにこわばった。

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