1-5

 フィアレッタが婚姻の申し出を受けると決めてからは、あっという間だった。

 まだフィアレッタが幼いこと、レースディア家が抱えている事情や積み重ねてきた歴史が歴史なだけに結婚式は大々的に行われず、アトラリア領内の教会で密やかに行われた。限られた人間しか参加していない式はとても静かなものだったが、フィアレッタの記憶に大事な日の記憶として刻まれるには十分だった。


 式に参列したエヴァンやフィアレッタが幼い頃から面倒を見てくれていた使用人たち、フェルドラッド家の人間はずっと不満そうな――あるいは物言いたげな顔をしていて、思わず苦笑が浮かんでしまったが。

 そして、今。無事に式を終え、フィアレッタは夫となる男性とともに馬車で揺られていた。


「……」

「……」


 がた、がた。ごと、ごと。

 ただただ車輪と馬車が揺れる音ばかりが響いている。

 二人を乗せた馬車は見慣れたアトラリア領を離れ、見慣れぬ景色の中を走っている。

 多くの自然が残る道を走っていたのが、途中からだんだんと自然を破壊しすぎず適度に残された道へと移り変わり、さらに舗装されて走りやすく整えられた街道へ――走る道が移り変わるにつれて、感じる馬車の揺れも穏やかなものへ変わっていった。

 平野には雪のように白い魔法植物であるフェブラン草が咲き誇っており、季節を問わず白く染まった美しい景色が広がっている。


 ここが、レースディア家が治める領地――シュネーガイスト領。

 白い精霊という意味の名を持つ、フェブラン草をはじめとした魔力を含んだ植物が多く育ち、魔法薬や医薬品に使われる薬草が豊富に採取できることで知られている地。

 そして、妖精や幻獣たちを傷つけたという負の歴史が今でも鮮明に残っている地だ。


「綺麗……」


 思わず、とても小さな声がフィアレッタの唇からこぼれ落ちた。

 アトラリア領を出てシュネーガイスト領に入るまで結構な時間が経っているはずだが、その一言がようやく響いた人の声だ。

 それぐらい、フィアレッタと男性との間に会話らしい言葉は一言もなかった。

 本当に――とても綺麗な景色だ。雪が降っているわけでも積もっているわけでもないのに、白く染まったように見える大地は幻想的で、アトラリア領の景色とはまた雰囲気が異なる。


 けれど、なぜだろうか。

 一見するととても穏やかな景色なのに、なんともいえない違和感も覚えるのだ。


 荒れ果てているわけではない。

 栄えていないわけでもない。

 活気がないわけでもない。

 馬車の窓の向こう側に広がる景色におかしな箇所は見当たらないはずなのに、活力が足りていないような――なんともいえない違和感が胸に引っかかる。

 穴が開きそうなほどに景色を見つめても、おかしいところを見つけようと目を凝らしても、何もおかしな点は見当たらないのに。


「……そんなに珍しいか?」

「!」


 突如、フィアレッタのものではない声が聞こえた。

 この場でフィアレッタ以外で話す人など、たった一人しかいない。

 わずかに両肩を跳ねさせたのち、フィアレッタは声が聞こえたほうへ――自身が座る席の正面へ目を向けた。


 正面の席には、エヴァンと同じぐらいの年齢に見える男性が座っている。

 おそらく二十歳ほどの男性である。座席に座っている状態でも、フィアレッタよりもうんと背が高いのだろうと予想ができる。

 髪は長く伸ばされた綺麗な銀髪。日に当たるときらきら輝いて見えるほど美しく、まるで晴れた日に見る新雪のようだ。フィアレッタの髪が春の色なら、彼の髪は冬の色だ。

 こちらに向けられている切れ長の目は、大地に流れる血潮の色――色鮮やかな赤だ。


 彼がレースディア家の現当主にして、シュネーガイスト領主。

 フィアレッタと婚姻を結び、夫となった人。

 ジルニトラ・レースディア侯爵だ。


「はい。アトラリアとはまた違った雰囲気の景色で……とても綺麗です」

「……そうか」


 返ってくる言葉はそっけなく、声も淡々としている。

 接する者に冷たさや恐怖を感じさせてしまいそうな態度だ。彼の雰囲気やまとう空気に気圧されてしまう人もいるだろう。

 けれど、フィアレッタの目には冬を呼ぶ妖精のような――とても神秘的で美しい人として映った。


 が、少し気になる点もある。

 メイクでカバーしているようだが、ジルニトラの顔色はどうにも悪く見える。目の下にも、うっすらとだが青黒いクマが刻まれており、疲れた印象がある。

 メイクで隠しても、なおクマがあるとわかるぐらいなのだ。メイクを落としたらもっとはっきり――それこそ、べったりという表現が合いそうなほどにクマが浮かんでいるのかもしれない。


 過去にレースディア家がやったことの内容が内容だ。社交界でも微妙な立場にあるだろうから苦労する場面も多いのだろうが、それにしたってこんなにも疲れているように映るのは少し気になる。

 心の中で首を傾げているフィアレッタの目の前で、ジルニトラの唇がゆっくりと動く。


「……フィアレッタ嬢は」

「あっ……はい」

「フィアレッタ嬢は、噂で聞いていた感じでは……少なくとも、デビュタントを終えた年齢だとばかり思っていたのだが」


 一瞬だけきょとんとしたが、すぐに納得した。

 ジルニトラが口にした疑問は、はじめてフィアレッタと出会った人が揃って抱く疑問だ。

 フィアレッタ本人と会うよりも先に、社交界での噂を耳にしたのなら余計に。


「わたしは過去に妖精たちの領域に招かれたことがありまして……そのときの影響で、心のほうが少し先に大人へ近づいてしまっていまして」

「……妖精たちの領域では、人間の領域と時間の流れが異なると耳にしたことがあるが……その影響か?」

「はい。こちら側の世界は身体と精神の時間が同じ速度で流れるのに対し、妖精たちの領域では身体の時間は緩やかに、精神の時間だけが早く過ぎてしまいますから」


 妖精や幻獣たちの時間は、彼ら彼女らには適度な時間なのだろうが、人間にはあまりにも早すぎる。たった数日の滞在であったとしても身体と精神の乖離が進んでしまう。

 フィアレッタが同年代の令嬢たちよりも大人びた振る舞いをするのはそういうことだ――故に、フィアレッタに関する噂を耳にした人間は、フィアレッタがデビュタントを迎えたぐらいの年頃だと勘違いしてしまうことが多い。

 ジルニトラがフィアレッタへ婚姻の話を持ち込んできたのは、年齢を勘違いしていたという部分もあるのかもしれない。


「……そうか」


 苦笑を浮かべて答えたフィアレッタへ、ジルニトラが返した言葉はそっけない一言だけ。

 そのまま、まるで興味をなくしたかのように視線をそらし、窓の外へ目を向けた。

 会話が途切れ、なんともいえない沈黙が再度馬車の中に広がる。


 ……あまり会話が得意な人ではないのかしら。


 苦笑を浮かべたまま、フィアレッタも馬車の外に広がる景色へ目を向けようとした。


「フィアレッタ嬢」


 が、その視線が窓の外へ向けられる前に、ジルニトラがフィアレッタを呼んだ。

 反射的にぱっとジルニトラを見る。

 ジルニトラは相変わらず窓の外を眺めたまま、フィアレッタのほうを見ずに告げる。


「俺のことは、無理に夫だと思わなくていい」

「……えっ?」


 無理に――だなんて。

 無理をしたわけではなく、自分なりに考えて、この婚姻を受けたのに。

 フィアレッタがあっけにとられている間に、ジルニトラがさらに言葉を続けた。


「俺を無理に夫だと思う必要はないし、侯爵夫人として振る舞おうとも思わなくていい。俺もあなたに負担がいかないようにする。……何も難しいことは考えず、何も気にせず、好きなことだけをしてのんびりと過ごしてほしい」


 ジルニトラを無理に夫だと思わなくていい。

 侯爵夫人として振る舞おうとも思わなくていい、ということは。

 妻としての役割を果たそうとしなくていいと告げられたようなもの――と考えていいのだろうか。

 ジルニトラはそれ以外に告げることはないと言わんばかりに唇を閉ざし、窓の外の景色を眺めている。


「……」


 もともと、これは一種の政略結婚。

 互いに愛はなく、婚姻を結ぶことで得られるメリットを重要視したもの。

 だから、一般的な夫婦関係には決してならないだろうと思ってはいたし、覚悟もしていたが。


 ……これは。

 これは、想像以上に先が不安かもしれません。お兄様。


 今はもう遠く離れた場所にいる兄へ、心の中で呼びかけるも、もちろん返事はない。

 全て納得したうえで選んだとはいえ、なんともいえない不安がフィアレッタの心の中で渦巻いていた。

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