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「この結婚、受けさせていただきます」

 

 使用人たちが息を呑む音がした。

 妹が出した答えを耳にし、エヴァンもますます苦しそうに表情を歪める。


 全ての話を聞いたとき、フィアレッタの心は決まっていた。


 自分は領主ではないけれど、フェルドラッド家の一員。領民たちの上に立つ者だ。ならば、個人の幸せではなく領民たちの未来や幸せを優先して考えるべきだと――領主の妹としての選択をするべきだと考えたのだ。

 エヴァンが苦しそうに表情を歪めたまま、わずかにフィアレッタから視線をそらす。テーブルに両肘をついて両手の指を組んで強く握ると、その手を自身の額に当てて重いため息をついた。


「……本当にすまない、フィアレッタ。お前の結婚は幸せなものにすると言っておきながら」


 吐き出されたエヴァンの声は重苦しく、彼の心情をありありと物語っている。普段の彼が見せる凛々しさは一切感じられず、語られるのはフィアレッタへの深い罪悪感と後悔、そして申し訳なさだ。

 両親に先立たれたエヴァンとフィアレッタにとって、互いの存在は唯一残された家族だ。たった一人しかいない妹だからこそ、エヴァンはフィアレッタには幸せになってほしいと強く願い、妹本人にもその心を言葉にしていた。


 エヴァンのそんな気遣いや心遣いをありがたく思ってきたが、フィアレッタもまだ幼いとはいえ伯爵令嬢の一人。幸せな結婚ができたら一番だが、貴族にはそうはいかない場合があることも理解している。

 結婚というのは異なる家門同士が強力に繋がり、新たな力を手にするために必要な手段の一つなのだから。


「お気になさらないでください、お兄様。政略結婚なんて珍しいことではありませんし……わたしも伯爵家に生まれた、青い血を持つ人間の一人。恋愛結婚よりも家同士を繋げるための結婚をすることになるだろうって心の片隅で思っていました」


 強く握りしめられたエヴァンの手へ、自身の手を添える。

 わずかに顔をあげた兄をまっすぐ見つめ、フィアレッタは優しい声色で言葉を紡いだ。

 自分が誰かと婚姻を結ぶならデビュタントを済ませたあとになるだろうと思っていたから、こんなに早くになるとは思っていなかったという面もあるが――幼くして誰かと婚姻関係を結ぶというのも、貴族の家に生まれた人間にとっては珍しい話ではない。


「それに何より、わたしは嬉しいんです。ずっとお兄様に守られて、特別なことを何もせずに過ごしてきたけれど……わたしもアトラリアの地や民を守れるのが」

「……フィアレッタ」

「だからお兄様。そんなにつらそうな顔をしないでください。せっかく人生に一度しかない晴れ舞台なのです、どうか笑ってください」


 エヴァンが感じている苦々しさがこんな言葉と笑顔で消えるわけがない。

 消えるわけがないだろうが、少しでも彼の胸に渦巻く苦しさが和らいでくれることを祈り、フィアレッタはとびっきりの笑顔をエヴァンに見せた。


「……」


 何か言いたげにエヴァンの唇が浅く開き、すぐに閉じられる。

 なんともいえない沈黙が場を支配して――数分。辺りに満ちた重苦しい空気を破り、エヴァンが苦笑いを浮かべた。


「……本当に、フィアレッタには敵わないな」


 一言、そんな言葉を落とす。

 罪悪感と申し訳なさを滲ませた顔で苦く微笑んだまま、エヴァンはそっと組んでいた手を開いた。

 そして、その手で自分よりも小さなフィアレッタの手を優しく包み込み、そっと握る。


「もしもレースディア家の人間や結婚相手に危害を加えられそうになったら、すぐに戻ってきてくれ。それ以外で何かあった場合もすぐに帰ってきてくれていい」


 フィアレッタの手を包むエヴァンの手に、わずかに力が込められる。

 もうすぐ生まれ育った地を離れ、遠く離れた他領へ向かうことになる最愛の妹の無事を祈るように。


「これだけは忘れないでくれ。僕はお前の幸せをいつもいつでも、誰よりも願っていることを」

「……はい」


 どうして忘れることができよう。たくさんの愛情を注いでくれた兄のことを。

 父を失い、母も失い、ずっと傍にい続けてくれた――ただ一人の家族。ただ一人の実兄。めいっぱいの愛情でフィアレッタを包み、こちらが幸せになることを強く願い続けてくれたエヴァンの存在はフィアレッタにとってとても大きな存在だ。

 そんな大切で、とても大きな存在のことを、どうして忘れることができようか。


「お兄様が寂しくないよう、お手紙もいっぱい書きますから。わたしが家を出てからも、どうかお元気で」


 ……ああ、でも。

 覚悟はしていたけれど、もう少しだけお兄様と一緒に過ごしていたかったかもしれないな。

 胸の奥深くで芽吹いた寂しさから目をそらし、フィアレッタはエヴァンをぎゅうと抱きしめる。

 エヴァンもわずかに呼吸を詰めてから深く息を吐き出し、妹の身体を強く抱きしめ返した。

 窓ガラスの向こう側で透き通った青空が広がっている、よく晴れた日のことだった。

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