23.Fight.
豪華クルーズ船・ホイットニーは、きらびやかな光を放つ白い巨体を、真っ暗な海に浸していた。
乗船前、厳しすぎるボディチェックに辟易していた乗客も、今は優雅な音楽と上等のアルコールを手許に穏やかな時間を過ごしている。乗客の殆どはスーツやタキシードに身を包んだ男性だ。いつもならめいめい、自慢のネクタイを締めてくるのだが、今夜は黒に統一されていた。このほど亡くなった悪党の大御所に対する、ささやかな弔いの意だったが、合間を美しく着飾ったコンパニオンが入り混じり、会場は喪の雰囲気よりも
「今年はやけに厳しかったですなあ」
靴の中まで調べられましたよ、と笑う男に、話し相手の男も大きく頷いた。
「いやはや、全く。聖氏が亡くなられたこともあるのでしょうが――特別なVIPが乗船するとかしないとか……」
「ほお。まあ、小牧の若社長はもともと慎重な方ですからね。おかげで寛げます」
慎重というよりも神経質と噂される男の話に、苦笑し合ってグラスを傾けた。
悪党ばかりが集う席で寛ぐというのも妙な話だが、小牧が何より重要視するのは利益だ。利益を上げてくる者を小牧は歓迎し、擁護する。そこには義理も人情もないが、煩わしいものは何もない。この場に集まるのは、同じ利益に準ずるビジネスパートナーであり、共犯者だ。明日も明後日も、一流の酒をグラスに注ぎたいのなら、小牧と組んだ手を離さなければいい。
「おや、あれは聖の――
黒スーツに沈みそうな黒いドレスを纏いながらも、ひときわ眩しい女に周囲は目を細めた。実の祖父の喪に服すには毒々しい強烈な赤いマニキュアの指先がグラスを摘まみ、妖艶な赤い唇で笑む顔立ちは年齢不詳の美しさだ。
「相変わらず、ギムレットがお気に入りですな」
男は興味が無さそうに言ったが、茉莉花の傍に立つ青年の均整とれた長躯と、整った顔立ちは、一段と男ぶりを増しているようだった。周囲のコンパニオンが盗み見る表情は、女王に話し掛けられても動じることなく、余裕がある。
中には“格別の”興味を持つ乗客も居るらしく、密かなささやきが聴こえた。
「ギムレットは、
「そうらしいが、詮索しない方がいい。女王蜂の独占欲は並ではないとの噂だ」
忠告に、相手もよく知った顔で頷いた。
「触らぬ神に祟りなし、だな」
「それより、もう一人の男は誰だ? 連れの女性も見たことが無い」
盗み見るのは、茉莉花らと殆ど同時に会場入りしたペアだ。
男の方はギムレットよりもわずかに背が高く、俳優めいた容貌に何やら場違いなくらいにとぼけた笑顔を浮かべている。その隣にひっそりと付き従う女は、裾をたっぷり折り込んだエレガントな紺のドレスを纏い、とろけるような艶のパールがあしらわれたピアスだけを飾った姿は、茉莉花と並ぶと初々しいほど清楚に見える。
「思っていたより、注目されないわね」
茉莉花がせせら笑うように呟いたのは、周囲の挨拶と視線が一通り外れた頃だった。
茉莉花こと、
「クレイジー・ボーイは、知名度が低いのかしら?」
くすりと笑った女王蜂に、ひょろりとした男は苦笑いと共にセットされた頭をわしわしと崩す。
「いやあ、僕は
「気にしたこともない癖によく言うわ。その頭に載せているのは鳥の巣なの? レディをエスコートする気なら、頭の上で小鳥を飼うのはやめた方が良くてよ」
男の頭に顎をしゃくっての茉莉花の言葉に、清楚な淑女が慌てて両手を口元にやって吹きだす。エスコート役として完璧な男の方にもちらりと笑みが浮かんだ。
何やら和やかな様子を周囲は訝しみつつ、“女王蜂がご機嫌なのは良いこと”と捉えることにしたらしい。商談や企みに忙しい男たちが距離を置くと、茉莉花は謎のペアを連れて窓際の席に移った。
「FMスター達は上手くいっているの?」
ギムレットが引いた椅子に、流れるようにもたれて尋ねた茉莉花に、カーペットに椅子の足をとられながら、もたくさと引っ張っていた男は頷いた。
「その呼び方カワイイ。今度使おっと」
「構わないけれど、可愛い二人に蹴飛ばされるのは貴方だけにして」
男は含み笑いしながら連れを着席させると、自分もよっこいしょ、と着席した。
「今頃、当たってるんじゃないですか? 此処まで音は聴こえないと思うけど」
「私たち……こんな風にのんびりしていて良いのかしら……?」
不安げに眉をひそめた淑女に、男はにっこり笑った。
「大丈夫だよ。あの二人は上手くやるさ」
「優一、
長い脚を組んでの茉莉花の問いに、ギムレットはそっと顔を近づけて答えた。
「先ほど、二人に予定の品を渡したと連絡が。今は予定通り、
そこまで告げて、ギムレットは入口の方に目をやった。予知するようなタイミングで会場に現れたのは、ひときわ痩身の青年を屈強なSPが囲む一団だ。青年は我先にと挨拶に来る者たちに応じながら、少しずつ会場を進んでくる。
「僕たちも頑張らないとね」
そっと肩を叩かれた淑女は、きゅっと唇を引き結んだ。
会場と反対側――船尾側のエリアは静かだった。
今夜は宿泊者が居ない上、通常なら盛況しているバーやジム、各ショップも営業していない為、クルーの数も少ない。誰ともすれ違う気配の無い廊下を歩いていたのは、客にもスタッフにも見える二人の青年だ。
黒のスーツに、同色のベストとネクタイが揃いの二人は、片方はアタッシュケースを持ち、片方は手ぶらで会場とは逆方向の廊下を歩いていく。
「室月さんはアマデウスさんの所でも通用するな」
先ほど会ったばかりの男を讃えるのはハルトだ。その辣腕ぶりを既に知っているのか、隣で当たり前のように頷くのは未春である。
先日、いち早く聖のスタッフとして清掃員が乗船する際、てっきり紛れると思っていたハルトに、室月はあろうことかゲート式の金属探知を示し、受付を指示してきた。
「お二人の容姿は目立ちますので」と、如何にも危険物対応スタッフらしい格好をさせて粛々と作業をさせ、何事も無く終了すると、金属探知機を船内に運び入れる様に示し、でかぶつをごろごろと運んで行った倉庫にてハルトをぎょっとさせた。
そこではハルトと未春に交代する清掃員が控えていたのは勿論、室月は金属探知機の平坦な側面を開いて、拳銃、機関銃、空気銃、各種マガジン、弾薬、ダート一式を次々と取り出した。更に、携帯が認められているらしい自らのホルスターから抜いたのは、ご無沙汰していたハルトの拳銃、ベレッタM8000クーガーFだ。
「どうぞ。こちらは万一のことが無いようにお預かりしていました」
受け取り様、思わずハルトは「Great……」と呟いてしまった。呆ける間にも、交代スタッフがてきぱきと武器弾薬をアタッシュケースに詰め、金属探知機の穴を丁寧に元に戻している。未春は慣れているのか、聖のスタッフらしいスーツの装いにさっさと着替え、清掃員が差し出す包丁ケースらしきものからひょいひょいとナイフを取り出し、ポケットは勿論、腰の裏側、靴の中、袖の内側等々、傍で見ているハルトにもどうなっているのかわからない箇所に次々と収納されていった。
「お前、そんなにあちこち入れて刺さったりしないのか……?」
一切何も持っていないように見える男は、“当たり前だろ”という顔で頷いた。
「……というか、使うのは明日だろ? 今からそんなに武装してどうするんだ」
「いつも入れてるから、これでいい」
「おい、いつもって……店に立ってる時もか?」
またしても当たり前の顔で頷くが、不審者どころの騒ぎではない。こいつ、まさか警察に行った時や、例の警部と喋った時も全身ナイフ男だったんじゃ……
嫌な想像を裏付けるように、当日の今日――いつも通り、すたすた歩いていく仕草に妙なところは全くない。
「あ」
豪華な装いのエレベーターが二台並んだ前で、未春が立ち止まった。
「こないだのバイクだ」
「どっちだ?」
「下。室月さんが言った通り、倉庫の方だと思う」
ハルトも耳を澄ましてみるが、船が出す低音以外は蚊が飛ぶほどの音さえ聞こえなかった。
「じゃ、上が改造人間か。予定通り別れよう」
未春が頷いたのを見てから、ハルトが進もうとした刹那、ぐいと腕を引っ張られた。
「う?……なんだ、どうした?」
二の腕を掴んだ未春が、何やら唇をきりと噛んでいる。
「……ハルちゃん」
「なんだよ、まさか何処か刺さったのか?」
最大限の気遣いを示したつもりだったが、未春は唐突に阿呆を見るような目になると、ぽいと放り出すように手を放してから、ぼそりと言った。
「……気を付けて」
「ん?おお……お前もな」
奇妙なナイフ男がエレベーターに乗る背を見届けてから、ハルトは首を捻りながら、もう一方に乗り込んだ。
降りたフロアは、少しだけ冷える気がした。
ご丁寧に、目の前の壁には赤でべったりと矢印を書いた紙が貼られていた。分かれ道に差し掛かる度にやかましい貼り紙は増え、雑に貼られた紙が示す方角へハルトは歩いた。このフロアは完全に無人と思われるほど、辺りに人の気配はない。
辿り着いた先は、大きく開け放たれた入口を取り囲むように矢印の貼り紙がべたべたと貼られている。
やや薄暗いそこに入り込むと、二車線ほどの距離を置いて、バイクに跨った男が居た。
「あっれれェ……?」
こっちを向いて派手な色柄のヘルメットを弄んでいた男は、ハルトを見るなり頓狂な声を上げた。年齢はこちらより上だろうか、ヘルメットの派手さに劣らず、短い金髪に赤いメッシュが散っている。十条よりも更にひょろ長い印象の体形をし、ヘルメットと同じぐらい派手な色のフォントやポップアートにまみれたバイクジャケットを上下身に着けている。
反響した間を置いて、男は跨っていたマシン――前回顔を合わせたDUCATIではない――もっと小さなオフロード用に近いバイクの上で頬杖をついた。
「……ンだよ、こっちが釣れちまったのかァ……未春チャンだと思ったのによォ」
「おー、そいつは悪かったな」
実は、ハルト達も当初はターゲットを逆にするつもりだった。
だが、わざわざ相手の狙いに合わせることもないか、と交換しただけのことだ。
無論、こんなことは初めてである。
気分を害するかと思ったが、男はハルトの言葉に手を振った。
「いやいや、そんな事ないぜ。あんたが本物の『
「本物の……って、どういう意味だ?一応、俺はその恥ずかしいあだ名で通ってるが」
「おっ!じゃあマジでフライクーゲル!? おおっしゃ! ラッキー!」
バイクから伸び上がって天を仰ぐほど喜ぶ男に、ハルトは本気で嫌そうな顔をした。
「……変な奴だな。弾丸に当たる趣味でもあんのか?」
「イヒヒ、さすがにそりゃねえよ。でもよ、魔法の弾丸が“当たらねえように”動けたら――最高だぜ」
ハルトは首を捻り、頭を下ろし、顎を撫で、うんざりした顔を上げた。
「……なあ、それ、後日エアガンとかでやらねえか……? いくらあんたがスプリング適合者でも、実弾で遊ぶのは危ないぞ?」
至極『普通』の忠告を放つハルトに、男は肩を揺らして笑った。
「ヒヒ、やっぱ思ってたのと違うわァ――イイ奴じゃん、フライクーゲル」
「そのあだ名で呼ぶのやめてくれ。ハルトでいい」
「へ? なんでよ、かっけェじゃん」
「矢尾だったか? そんならあんたのも申請しといてやるよ。バイク関連がお望みか?」
「ヒヒ……光栄だね。俺ァ、見ての通り、バイクに乗るしか能がねェ。“俺たち”は逃げる奴を追っかけるのが仕事だからなァ……」
「 “俺たち”?」
ハルトが反復するや否や、一度に大量のエンジン音が鳴り響いた。突然、サーキットのど真ん中に放り出されたように、静寂を突き破り、入って来た場所から続々とバイクが走り込んできた。どのバイクも小型だが、何か仕込んでいるのか、走行音とクラクションの洪水はヘビメタかパンク・ロックのライブ会場だ。
ハルトの身を掠めるように入り込んできた集団は、二十は居るだろうか?
矢尾の後ろにずらりと並んだところで、彼は楽しげに両手を叩いた。
「いいねェ、フライクーゲル! ちっとも避けねェとこも気に入った!」
ハルトはやかましいエンジン音を前に、返事をせずに彼らを凝視した。全員が様々な色柄のフルフェイスのヘルメットで顔が見えず、様々な体型を派手な色のバイクスーツに包んでいる。アメリカ各地の壁に見たスプレーやペンキが叫ぶようなグラフィティを思い出す。よく見ると、手や足をテーピングのようなものでバイクに固定している者が居た。
「紹介するぜ、フライクーゲル。俺の仲間たちで、『ゾンビライダー』って呼んでる」
「ゾンビ……?」
そうは言うが、腐った死体のようには見えない。どちらかというと、バイクの音や排気ガスで生き物の感が薄れ、無言のライダーたちは機械のような印象を受けた。
「こいつらは皆、元・暴走族やバイク窃盗犯でよォ……事故ったり、喧嘩で体がイカれた後、聖の研究所送りになっちまって、スプリングの実験台になった気の毒な連中さ」
「おい……まさか、こいつら全員、適合者なのか?」
「イヒヒ……安心しろよ、全員が非・適合者だ。一度モンスターになった後、ギフト・ギビングに愛されて大人しくなった。おつむは足りねェが、技術だけはまあまあだぜ?」
「……そうかよ。じゃあそこに並べ、モンスターの効果を消してやる」
ハルトが目の前に顎をしゃくると、矢尾が肩を揺らして笑った。
「イヒヒヒヒ……おいおい、そりゃねェぜ、フライクーゲル? こいつらはな、自分の生まれに嘆いて暴れて、走って走って走って初めて生きたんだ。せっかく、バカみてェな死に様をスプリングが叩き起こしたってのに、それを無くすって?」
「愚問だな。お前らは間違いなくバカだ。人生を嘆いて暴走だと? そんなもん、勝手な期待を裏切られて怒る迷惑な客と一緒だ」
「勿体ねェこと言わないでくれよォ……誇らしくぶっ飛ばしていてェだけのカワイイ奴らなんだぜ?」
「ドーピングで得た矜持ではしゃぐな。さっさと並べ。一人残らず、冷静なバカに戻してやる」
矢尾は首を振ってから、彼らと同じような派手なヘルメットを被ると、幾らかくぐもった声で笑った。
「ヒヒ……アメリカのエリート様には、俺たちの虚しさは通じねェかァ。悲しいが嬉しいぜ、フライクーゲル。名の有る相手は大歓迎だ!」
矢尾の声に呼応し、バイクは一斉に爆発するようなスタートを切っている。体当たりする気か、向かってきた一台からハルトは横跳びに退くが、構える隙を与えないつもりだろう、両サイド斜めから切り掛かるように次の二台が連携してくる。後方に飛び退くと、てっきりぶつかるかと思われたバイクは機体が擦れそうなほどギリギリの距離ですれ違う。その向こう側から更に二台、息つく間もなく同時に向かってくる動きは、コンピュータ制御のように早く正確だった。障害物のない場では、圧倒的に不利だ。
――さすがに空気銃だけで済むほど、甘くはないか。
クーガーを抜いたハルトに、ひときわ――けだものの心臓のようなエンジンを脈打たせ、爆音の中で怪鳥のように笑うライダーが肉薄する。
「イヒヒヒッ! いいねェ、フライクーゲル! 素早いじゃん!」
「……ッ!」
殆ど行き過ぎてから聴こえた声に振り向くハルトの上着の裾がスパッと切れて宙に舞った。微かに皮膚を擦っていったのは、矢尾のバイクに取り付けられたチップソーカッターのような円形の刃だ。自分の足をも切り取りそうなそれを両側面に、他のバイクにも似たような刃や両刃ナイフのような刃物を認めて、ハルトは小さく舌打ちした。秒単位で同じ場所に留まれば、肉までスライスされること間違いなしだ。おまけに、彼らは皆、姿勢を低く保ち、バイクと一体化して向かってくる。正面からのんびり狙う間は無いし、連射で一度に二、三台落とすには向こうのスピードが速すぎる。
「……」
ハルトはクーガーを持つ手を下ろした。なるべく動きをセーブしてうろうろとかわし、掲げぬままの拳銃の引き金を引く。やかましい走行音に紛れて銃声が吠えたが、何か起きたようには見えない。
「おいおい、フライクーゲル、何を遠慮してんだよォ! 要海チャンの倉庫は爆弾でも簡単には壊れねェぜ!」
何処からか響いた矢尾の声に、ハルトは「そいつはいいな!」と怒鳴り返し、気怠いステップを踏むようにバイクを避ける。既に上着やズボンの裾は数ヶ所が切れているが、致命傷には至らぬらしく、彼はまた構えない拳銃を何処かに発砲した。
―― 一体、何をしてやがる?
矢尾がその動きに眉をひそめた時、再び爆音に紛れて発砲音がした。不意に一人が僅かにバランスを崩した。しかし、ハルトはライダーを狙っていない。全く別の方向に発砲しているのに、また一人、傾ぐ。気が付くと、発砲の度に、整然と動いていたバイクの動きが乱れていく。
「なんだ……一体……?」
この射撃は何だ? 一度はスプリングを得た彼らは体に障害こそあるが、並の人間よりも鋭敏な感覚を持つ。更に矢尾を中心にヘルメットを介した電気信号を送って互いに連携し、銃を構えさせず、軌道に入らぬよう走らせているのだ。それなのに、ある者は足を、ある者は手を、まるで――見えない何者かが、別の場所から発砲しているようだ。また一人、また一人と撃たれてバランスを崩す。
再び発砲音がしたとき、矢尾の隣に居た一人が、ヘルメットを“下から”突き上げられるように穿たれて後ろに飛んだ。乗り手を失ったバイクがしばし動いて倒れる。
「な――……!」
狼狽した矢尾の耳に銃声が響いた瞬間、高速回転していた円形刃が順に叩き割られるように弾け飛ぶ。ほんの僅かな間、動きが乱れたのを狙ったらしい――連射音が鳴り響いた。そこからは早い。走行音を黙らせる弾丸が、次々と襲い掛かる。倒れ伏す仲間と、虚しくタイヤを回転させるバイクの中で、気が付くと一人だけ立っていた男が、拳銃を構えてこちらを向いていた。
「……こいつァ……良いもん見せてもらったわァ……」
矢尾が呟いた時、凄まじい衝撃がヘルメットに襲い掛かり、体もろとも吹き飛ばした。
「なあ、例の話聞いたか?」
真っ暗な闇に向けて煙草を吹かしながら、男は同僚に話し掛けた。船の外部を警備するのは暇で仕方ない。後方に近い側面は尚更だ。緊張を強いられる会場よりは楽かもしれないが、陸から離れた位置では夜景も見えず、視界に入るのは暗いだけの海だ。冷えてきた潮風で後方へ吹き飛ばされていく煙を見た同僚も、同じように自身の煙草に火をつけた。
「なんだよ、例の話って」
「聖
「ああ、聞いた」
煙草を咥えて、同僚も頷いた。
「覚せい剤中毒ってマジなのか?報道操作じゃねえの」
「だよなあ……あの爺さん、酒も煙草も女もやらないガチガチの禁欲家だろ?いきなりドラッグぶっ込むかねえ?」
「イカれてたって話は聞いたぜ。引きこもり連中にドラッグきめて、軍隊作る気だったとかなんとか……」
「引きこもりぃ? ハハハ……そいつは、やべえわ。どんな軍隊だよ? 食事は部屋の前に置いときゃいいのか?」
大口開けて笑い合う。
「結果的にゃ、社長は一人勝ちだな。あれだろ、爺さんの後見は美人の孫娘なんだろ?」
「ああ。女王蜂ね。四十近いって聞いたが、三十くらいにしか見えねえな。やり手だろうと女は女、頭のイッた爺さんよりはやりやすかろうよ」
「言えてんな。あとは社長に“産めねえ”子供ができりゃ、うるせえ一族も黙るんだろ?」
「ああ……社長もこれで少しは――……」
言い掛けた男が、不意に黙った。摘まんだ煙草の火が風に煽られ、見る見るうちに灰になる。
「どうした?」
「なんか、変な音しねえか?」
「変な音……?」
耳を澄ますと、確かに――潮風と波音に紛れて何かがバタバタと動く音が――……
男が煙草をぼとりと落とした。
「お、おい……!ヘリだ!」
暗闇から急に姿を現した一機は、客船を行き過ぎ、そのまま過ぎ去るかと思われたが、船首の方に方向転換してきた。ぎょっとした男たちが連絡を取るのも忘れて唖然とする中、彼らの耳に別の音が響いて来た。
暗闇に目を凝らすと、モーター音らしきものを立てながら、海面を並走する影が――……
「……船?」
豪華客船ホイットニーの巨体に対し、小型船はクジラに対する小魚のように波を切りながら徐々に近づいてくる。人間が居るのはわかるが、数は定かではない。
「おい――まずいんじゃねえか……連絡を――」
それが男の最後の言葉になった。船尾の方から飛来してきた数発の弾丸に撃ち抜かれ、前に倒れる。声を失い後退りした男も、持っていた拳銃を出す間はおろか、逃げることもできずに絶命した。男らを撃った二人組は、出で立ちだけなら軍人を思わせた。闇に溶け込むアサルトライフルを手に、片方が何やら死体を確かめ、首を振った。もう片方は、眼下の小型船が船にフックをかけるのを見届け、てんでバラバラの衣服に防弾チョッキを身に着けた彼らから見えぬよう身を引いた。
互いに顔を見合わせ、そっと闇に紛れて前方へ向かう――
優雅なクラシック音楽が流れる会場は、緊張に包まれていた。
小牧 要海と、聖 茉莉花――今や、日本の裏社会を代表する男女が、直接顔を合わせることは滅多にない。しかも、聖家は大御所と名高い景三が殺害され、世界的な殺し屋組織であるBGMに属するセンター・コア支部が何者かに襲撃されて壊滅したばかりだ。
センター・コアの件は表社会では公になっていないが、裏では当然、大事件として取り沙汰され、一体何者の仕業なのかと悪党を震撼させている。
小牧グループの犯行を囁く声、かつて景三を手玉にとった謎の殺し屋の噂、このタイミングで日本に駐留している『死神』を疑う話等々、みな身の振り方に戸惑いながらさざめいていた。
その緊張高まる一席で、何故か同席しているひょろりとした男は、大きなくしゃみをした。
相対していた要海も茉莉花も、露骨に嫌な顔をした。
「風邪ですか」
問い掛けた要海の声は、堅く冷たい。男はすんすんと鼻を鳴らして呑気に笑った。
「いやあ……潮風のせいですかねー。それとも誰か噂してるのかな?」
隣の淑女が気遣う声に、大丈夫、と答えながら軽く鼻を啜る。
「噂なら、十条さんは尽きないでしょうね」
「はは、最近は若い連中に煙たがられてるんで、それかもしれません」
「昨今の若者は厚顔無恥ですから」
自身も充分、若い部類に入る男はにこりともせずに言うと、手を組み直した。
女か迷う名前に似てか、男にしてはほっそりして色素の薄い容貌は、少年期と殆ど変わらない。ただし、今は更に一切の無駄話を嫌うだろう堅物に見える。高価なスーツを身に付け、髪の毛一本乱れぬよう撫で付けた様といい、小牧グループの代表としてのオーラを全身で示している。
表と裏、いずれの事業も指揮している若者を、十条はしみじみ眺めた。
「要海さんは、ご立派になられましたねえ」
親戚のように言った十条に、要海は全く表情を変えない。
「貴方はお変りないですね」
「いやいや、もう最近は肩や腰が痛くって。皺も白髪も物忘れも増える一方です」
目尻に皺を寄せる十条に対し、要海も隣に立つ部下も愛想笑いひとつない。周囲を取り囲むように居並ぶ黒スーツたちに至っては、軍隊のように起立して頬一つ動かさない。
それは、十条の隣に座るさららも同じだった。以前は頼りなく揺れていた瞳は、今はただまっすぐ腹違いの兄を見ていた。それに気付いているのかいないのか、要海はさららに見向きもせず、十条に冷たい視線を置いた。
「お呼びしたのは他でもない。さららを返して頂きたい」
静かだが高圧的な声に、さららの表情が固くなる。
十条はもの柔らかな微笑のまま、首を捻った。茉莉花はちらりとその顔を見たが、何も言わずに手元のシャンパンを喫する。
「これはまた藪から棒に。まるで僕がとったみたいに聞こえますね」
「不躾な態度はご容赦願います。言うまでもないが、さららは元々、うちの身内です」
「その上、ポイズン・テナーを持っているし?」
十条の言葉に、要海は書いたような眉ひとつ動かさない。
「もう良い歳だ。いつまでも小娘のつもりで出奔されていては困る。然るべき相手と見合いし、血筋を守ってもらわなくてはなりません」
「またまたぁ……そんならもうちょっと早く呼ばなくちゃ。彼女に選ぶ権利もありますし、出産は、男の我々には想像を絶するとんでもない負担があるんですから」
「ご理解頂けて何より。それなら早急にお返し願いましょう」
「――私は、帰りません」
一言も喋らなかったさららが、はっきり述べた。刹那、要海の頬がひくつく。
「お前の意見は聞いていない」
無機質で冷たい一言を発した男を、さららの瞳は真っ向から見据えた。
「小牧の遺産も何も要りません。私はあなた方の道具ではないし、ポイズン・テナーも利用させる気はありません」
「黙れ」
低く言った要海の視線が、柔和な面立ちからは想像もできない怒りを孕む。
「不埒なメス腹から産まれた女が図に乗るな。貴様に声と腹以上の使い道なぞ無い」
さららは、きゅ、と唇を噛んだが、彼女が何か言う前にほんわかした声がとんでもなく大きく響いた。
「ああ~~~~ゲスのゲイ野郎は口が悪くていけないなあー。そこのオニーサンのもケツに突っ込んで、四つん這いになってる人が言うことかい?」
指差された部下の
「もういい。取り押さえろ」
「あわわ、要海くんてばジョーク通じないタイプだっけ?それともマジでその人の突っ込んでるの?」
慌てて両手を小さく挙げる十条だが、既に遅い。瞬く間に歩み寄ってきたスーツ男らが手を伸ばし、或いは懐から拳銃を抜いた。周囲が緊張にざわめき、コンパニオンが悲鳴を上げる。
「そんなジョーク通じるわけないでしょ!」
さららの叱責が響いた直後、スーツの男たちが踏み出たときだった。
「みっともない態度はやめなさい、要海」
気怠くもきつい声音に、全員の視線が集まる。我が城でくつろぐように椅子に腰掛けた女王蜂が、今にも手を出そうとしている男たちを睨みつけた。
「私が居る席で拳銃を抜くなんて、躾のなっていない部下ね。――優一」
「はい」
茉莉花の傍らに影のように起立していた青年が片手を軽く振ると、一人の男が握っていた拳銃は弾かれるように吹き飛び、壁に縫い留められたようにくっついた。その銃身には、竹串ほどの針が貫通している。放心状態になった部下を前に、要海が椅子を蹴るように立ち上がった。
「茉莉花……何の真似だ。うちの事情に口を出すな!」
「うちの事情ですって? 笑わせないでくれる?あんたが本当に拘っているのは、この女じゃなくて、
要海が息を呑んだ。茉莉花は要海の怒鳴り声にも全く動じず、椅子に深く腰掛けたまま、かえって男を刺すような目で見返した。
「自分と母親を無視した父親が憎いから、愛人の娘に当たると、素直に仰い」
「な……にを……! お前に何がわかる……!」
ぶるぶると唇を震わせた要海が茉莉花に迫ろうとするや、すっと横から出た男が立ち塞がる。
「
「申し訳ありませんが、それは出来ません。主の無礼はお詫びいたします」
物静かな謝辞に、茉莉花がクスクスと笑った。
「あら、優一……吠えるだけ吠えさせればいいのに。此処は要海のプライベートな空間よ。
つんと顎を反らした女王の視線は、今度は困惑したさららの方に向いている。
「貴女も、大人しい顔はやめたらどうなの? そんな凶暴な男を従えて、小芝居もいいところだわ」
「やだなあ、聖さん。凶暴だなんて滅相も無い。僕はこうして丸腰で、とっても冷静に話し合いに来てるじゃないですか」
「最近では一番下手なジョークね。お前が丸腰で居るところなんて、見たことがあると思って?」
茉莉花の言葉に、要海はぎろりと十条を睨んだ。男は潔白を証明するように両手をぱっと広げて見せている。油断はできないが、この男には誰よりも入念にボディチェックや金属探知をした。念のため調べさせたさららも、刃物やカード、鏡やヘアピン等、少しでも鋭い物や尖った物は所持させていない――大丈夫だ。
「茉莉花は黙っていろ。貴様を此処に呼んだのは、この件の証人にする以外無い」
十条への保険として優一を呼ぶ口実でもあるが、それは言うまでもないことだ。茉莉花はついとそっぽを向き、要海も座りなおした。
「もう一度言おう。さららを返せ。本人が何と言おうと、こちらは縁者で貴様は他人だ。公的に誘拐犯にすることもできる」
「裏で勝てないから、表で勝負しようって? 要海くん、それは僕と全面戦争するって言うようなものだよ。僕は君に合わせてこの場に来たけど、交渉に来たわけじゃない。彼女を自由にする為だ」
「自由だと……――」
――自由になりたかった。
死に際、あの男は虚空を見つめて、老いと病に潤んだ目でそう言った。
――小牧を捨てて、彼女と、娘たちと暮らしたかった……
「……自由など、認めてやるものか……!」
――良いですか、要海。
貴方は小牧の次代を担うのですから、格式高い教養を身に着け、常に品格有る人物と交流しなければなりません。お父様のように、底辺の女を追いかけ回して子供を作るなんて愚行、絶対に許しません。いいえ……私の子である貴方が、そんなことをする筈はありませんね? そう、この女もこの女です。証拠はすべて押さえてあります。
名家の当主をたぶらかして、なんて恥知らずで厭らしいのでしょう。
要海は、こんな女に騙されることはありませんね? さあ、証拠をよく見て、聞いて、覚えなさい! 女の下賤な手管を学び、お父様のようにならない為に!
「……僕は……」
――要海さん、紹介しますわ、うちの娘です。宜しければご一緒に。
――社長、如何でしょう。あの大手のお嬢様です。ええ、お似合いですとも。
――要海さん、早くお決めになられた方が宜しいかと。
――要海くん、女は若い内に手懐けるに限るよ。
――ああ、別に妻だけにしなくても、ブランド品され貰えれば愛人で良い女なんて幾らでも居ますよ。
「認めるものか……! 僕は認めない! 絶対に! 絶対に……!!」
机に向けて両の拳を叩きつけて、血を吐くように要海は吠えた。客も妙な空気に気付いたのか、固唾を吞んで見守る。
十条が、何か言おうとした時だった。彼の顔から、ふっと笑顔が消えた。
ぐるりと背後の窓を見てから振り向き、要海を凌ぐ大声で叫んだ。
「全員、伏せろッッ!!」
「……お?」
気付くと、矢尾は大の字に倒れていた。ヘルメットは吹き飛ばされ、何やら頭はガンガンするが、致命傷になるような怪我はしていなかった。あちらこちらに倒れている部下も、苦しそうに呻いてはいるものの、絶命した奴は居ない様だった。
「調子はどうだ? イージー・ライダー?」
ポケットに手を突っ込んで上から覗いた男に、矢尾はニヤリと笑った。
「……たまんねェよ、まったく。あんた最高だ……」
「そいつはどうも。賛辞はいいから弁償してくれ」
ハルトが千切れた裾を振って見せ、苦笑した。
「……なァ、さっきの妙な射撃、どうやったんだ? 教えてくれよ」
ひっくり返ったまま言った矢尾に、ハルトは面倒臭そうな顔をし、拳銃を取り出して軽く摩った。
「自分で言ったろ。
「はァ……?」
「何故、『魔法の弾丸』だと思う?」
「命中率が高ェからじゃねーの……?」
「ああ、大概当たるからな。でも、それは練習して、しっかり構えれば大抵の奴は当たるようになる。俺の場合、そうじゃない弾も当たるんだ」
「……?」
腑に落ちない矢尾に対し、ハルトは近くに倒れたバイクに銃口を向けた。
「俺はな、あっちに向けて撃っても、あんたに当てられるんだよ」
「は……!?」
銃が狙っているのはまるきり明後日の方向だ。そんなバカな……――
「さっき食らったのに信じられないか? じゃ、お前の手の先に転がってるメットが跳ねたら拍手喝采だ」
ハルトが狙いを少しずらし、間髪入れずに撃った。ギャンッと何かが音を立てた直後、ヘルメットは悲鳴を上げて宙に浮き、耳障りな音をたてて床に落ちた。
矢尾は両手をのろのろと持ち上げて拍手した。
「ヒヒ……すっげ……そうか――『
「そうだ。俺は何処に当てれば何処に跳ね返るかわかる。だから『魔法の弾丸』だってよ。言っとくが、弾の威力によっちゃ跳ね返らずに貫通するし、数センチの誤差はあるぞ。眉間に当たるか、目玉に当たるか程度にはズレる。まあ……そういう結果はあんまり変わらないし、俺も普段はやらない」
「参ったなァ……敵わねェわ……」
額に手を当て、はあー……と溜息を吐く。
「悪いが、あんたらには薬を打たせてもらった。もう、こういう真似はできないだろうし、普通に交通ルール守って楽しく走るんだな」
よく見ると、周囲にはダートが人数分放り出してある。スプリングの効果を消す薬が本当なら、此処に転がる連中はハンディキャップ付のバイク狂でしかない。
この凄腕スナイパーが、一人一人、刺して回ったのを想像して、矢尾は何だか可笑しさがこみ上げた。
「イヒヒ……フライクーゲルさんよ、俺を殺らねェのか?」
「その名前で呼ぶなっての」
鬱陶しそうに言うと、ハルトは拳銃をしまって首を振った。
「あんたを殺す依頼は受けていない。しょうもないシリアルキラーなら“後で”許可を取るが、そういう話も聞いてない」
「イヒヒヒヒ……かっけェなァ……ほんと、敵わねェわ、全く」
「救護は自分で呼べるか?」
ハルトが問い掛けた時、船が一瞬、大きく揺れた。
時は、少し遡る。
ハルトと二手に分かれた未春は、予定のホールの前に来ていた。
躊躇することなく扉を開くと、きらびやかな光が満ちていた。普段なら、奥の舞台をぐるりと取り囲むだろう椅子は取り払われ、金の手すりだけが残されている。それだけなら異様という程ではないが、眩いスポットライトを浴びる舞台の上には、天井に迫るほど巨大な影が鎮座していた。真っ黒なボディから何本もアームを生やしたそれを見た未春は、一瞬、カニを想像した。無論、カニと呼ぶには腕も足も多すぎる。
室月が言っていた高圧洗浄機らしきノズルは上部にしつえられ、左右に目玉のように付いているのは発光したら目がおかしくなりそうな巨大ライトだ。
舞台に同化するようなボディの両脇からは山ほど束ねられた黒、赤、黄色や緑の線が、舞台の裾に伸びている。
その全ての中央に、機械の山に埋もれるように小柄な誰かが座っていた。
「だあれ?」
その音声は、どこか別の場所から聴こえた。ホール内のスピーカーを使用しているのか、アナウンスのように響いたそれは、子供じみていて男女の区別がつかない。それも肉声ではなく、機械を通した様子のイントネーションだった。
そして、壇上の人物は、身動きはおろか、口を開いた様子は全くなかった。
「ふらいくーげる、じゃないの?」
「来ない。あんたの相手は俺」
相手は押し黙り、じっと未春を見つめた。その目の前に扇状に広がったコンソールを、何本ものアームがピアノ鍵盤をでたらめに押すように連打した。
「きらー・ましーん。とぅいんく・ないふ。ぶろっせる・りっぱー。ぶらっく・まどねす……へえ、いっぱい呼び名があるんだね。じゅうじょうみはるくん。知ってる。私も“あの施設”知ってる」
“あの施設”という言葉に未春は微かに眉を寄せたが、こくりと頷いた。
「未春でいいよ」
「みはるくん。はじめまして。私はジャンク」
ジャンクの声に合わせて、周囲のアームがガシャガシャガシャとお辞儀をするように折れ曲がった。並の人間なら動揺したかもしれないが、未春はぺこ、と会釈した。
「はじめまして。よろしく」
ハルトが居たら変な顔をしそうな会話だったが、至って真面目な未春の反応に、ジャンクはあちこちをカタカタいわせて声を上げた。調子はすべて平坦で全く変わらないが、どうやら興奮気味に喜んでいるらしかった。
「うれしい。私にちゃんとごあいさつしてくれるの、うれしい。戦ってくれるの、うれしい。かなみを喜ばせることができるの、うれしい」
口元は全く動かないのに、ジャンクは饒舌だ。言語レベルは十歳にも満たないが、右半分だけ見える顔は、妙齢の女性だ。半分は機械の顔を縁取る髪は豊かな亜麻色で、さららと同世代にも見えるし、
「君、女の人?」
未春の問い掛けに、ジャンクのアームはギギギと動いた。
「ジャンクは、ジャンク。どっちでもいいの。でも、かなみはおんなのこがキライ。おんなのこはイヤ。でも、おとこのこになるのは難しいから、どっちでもいいの」
「そう。俺もどっちでもいいよ」
本当にどうでも良さそうな未春だったが、ジャンクは好意的に受け取ったらしかった。アームをがちゃがちゃ言わせて動く様は、子供が歓声を上げているようにも見えた。
「やさしい。みはるくん、やさしい。つぶしちゃうの、もったいない。でもがんばる。かなみによろこんでほしい。がんばる!」
語尾がハウリングのようにひび割れ、未春が一歩退いた。先ほどまで足が乗っていた場を、生き物のようにアームの一つが鋭く突いている。床からずるりと抜き出たアームはカニかと思ったが、巨大な掘削機か、エサを啄む嘴だ。
「みはるくん、はやい。データ更新。更新。更新――」
今度は未春も飛び退いた。降って来た一撃は重く、穿たれた床には亀裂が走っている。椅子が無い分動きやすいが、隠れる場はなく、ジャンクのアームは思った以上に有効範囲が広い。反撃せぬまま、ホールを駆け抜ける未春の後を、叩き潰しては連打していく。金の手すりを飛び越えた姿を追うアームがスーツの裾、紙一重のところで優雅な手すりを叩き潰す。耳障りな金属音と共に曲がった手すりを肩越しに認め、未春は素早く反転し、バネのように床を蹴って逆走した。
「……!?」
スピーカーから微かに響いた雑音は、ジャンクの驚愕だったのか。手すりを壊し、ほんの数秒、動きが鈍ったアームの先を未春の靴が踏みつけた。そのまま歩くように跳躍し、関節部分で白光を閃めかせた。関節部分が工業用スライサーで切り取られたようにぱっくりと傾ぎ、自重で重い鉄の塊となって落下した。未春も床に着地すると、手にしていたナイフ――歪な刃こぼれのそれをぽいと捨て、別のものを抜き取った。ジャンクは千切れた場所から火花を散らすアームをふらふらと動かしていたが、ぽつりと呟いた。
「……更新」
間髪入れずに別の四本のアームが未春が飛んだ足元を同時に破砕した。今度は足以外も狙うことにしたらしく、先ほどよりも薄いが素早い刃付きのそれが空を薙いだ。未春は片時もじっとしていない。ホールを風のように駆け抜け、徐々に舞台の方に進んでくる。意図に気付いたジャンクが、カタタタタタとコンソールに打ち込むと、舞台の下から大量のラジコンカーが飛び出す。一見、玩具のようなそれは生き物のように走り出すと、未春の足元で炸裂した。が、それは一早く長い脚に蹴飛ばされて宙を舞い、アームの一つを巻き込んで爆発した。
「みはるくん、すごい、すごい、更新が追い付かない――ジャンクより、機械みたい」
ザザザと雑音を交えながら響いたのは、賛辞だったのか中傷だったのか、未春は返事をせずにラジコンの一機にナイフを投げている。弾丸のように空気を引き裂く高音を立てて命中したそれは起爆し、周囲は誘爆して巻き込まれた。黒煙を見つめて突っ立った未春を右側面から襲ったアームは、見向きもせずに振り下ろされた刃に串刺しにされて沈黙し、上から行った刃は左手に忽然と現れた刃に軌道を逸らされ、ふらふらっと後退してから跳ね返った攻撃に刃を立ち割られる。最後に、煙を割ってきた一撃は、何もない場所を空振りした。
「……???????」
ジャンクの機体やホールに付いた幾つものカメラが忙しく動き回るが、未春の姿は何処にもない。
「どこ? どこ? どこ?」
困惑した様子で壊れたアームや無事であるものをガシャガシャと振り回すが、補足できない。
「これ、生体装置用?」
真横から響いた声に、ジャンクは止まった。
生体である方の顔に、殆ど触れそうな距離で未春は顔を近づけている。その片手にはナイフ、もう片手にはコードの束があった。
「これ切ったら、あんた死ぬの?」
「……」
ジャンクは沈黙した。作り物のような目が、未春の無表情のアンバーを見た。
フラッシュは使う間がなかった。この距離では無意味。高圧洗浄は使えるが、こちらがショートしかねない。何より計算上、彼がコードを切る方が早い。
更新、敗北。更新、敗北―――
「じ……」
「自爆はやめてよ。あんたの要海も船に乗ってる」
未春の忠告に、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ……と軋んだ音を立てながら、アームが下ろされ、ラジコンも止まった。手の内を読まれて解決策を見失ったらしいジャンクがフリーズ状態になると、未春は首を捻ってから束をどさりと落とした。軽く袖を振るような仕草をすると、ナイフも消えた。ジャンクはぴくりとも動かずにそれを見ている。
「ねえ、聞いていい?」
ジャンクは動かない。静かに耳を傾けている、と未春は何となくそう思った。実際、先ほどまでは低いモーター音がしていた周囲は静まり、反撃を狙う様子は無かった。
「あの施設って、何処のこと?」
「……あの施設は、ひじりのけんきゅうじょ」
「聖の――……ジャンクは俺のこと知ってるって言ったよね。会った事ある?」
「ないよ。だから、はじめまして。でも、みはるくんは特別だったの。ゆうめいじん。いつもおおぜいがすごいって見てた。私、とっても気になってた。でも、じゅうじょうとおるが連れてっちゃった。みんないなくなっちゃって、つまんなかったよ」
「そっか……ごめん」
自然に出た言葉に、未春は少し目を瞬き、首を振った。
「……さららと、うららには会った事ある?」
「あるよ。とってもなかよしのふたり。でも、うららはしんじゃった。みはるくんは、見てたよね」
「俺が、うららが死ぬのを見てた……?」
カタタタ、と何かを読み込むような音がした。
「見てなかったのかな。赤ちゃんだからかな。私は見てないの。みはるくんが居るところには入れなかったから。ほんとはうららもダメなの。でも、勝手に入っちゃった。うららはみはるくんがキライだったみたい。私はすき。さららもすき。だからさららは、みはるくんを守ってくれた」
「……さららさんが……俺を……?」
タタタタタタ、とジャンクが何かを打ち込む。
すうっとホールが暗くなり、白い壁に何かを投影した。
掠れて、古い映像だ。音声は入っていない。監視カメラだろうか――定点カメラと思しき映像の中央に、保育器らしきものがある。
普通の保育器の倍はありそうなその中で、何故か目を見開いた状態で天を見つめる不思議な赤ん坊が居た。そこに、画面の端から何かがずるずると這って来た。
飾りのないワンピースを着て、細い毛を伸ばしきりにした女児だ。足が動かないのか、上半身のみで這ってくると、保育器に取りすがり、中を覗き込む。上からの映像である為、どんな顔をしているのかはわからない。やがて、女児の腕が力任せに保育器を叩いた。ドーム状の透明なそれは女児の力ではどうにもならない筈だが、数分と経たずにそれは飴細工のように割れた。赤ん坊はぴくりとも動かない。相変わらず天井を見つめていて、覗き込んでいる女児さえも見ていないようだった。
女児の手が、無造作に振りかぶられた。殆ど迷いなく、その小さな拳が赤ん坊に向けて下ろされる。が、赤ん坊はやはり無反応だ。ガラス玉のような目を天に向け、頬が腫れても、鼻血が出ても、泣き声ひとつ上げずに動かない。
その時だ。見切れた画面の向こうから、勢いよく別の女児が走って来た。赤子を殴る女児と瓜二つの背格好をした彼女は、小さな両手で凶暴な腕を掴み、引き離そうと必死だった。ところが、女児はとんでもない馬鹿力なのか、全く動く気配がない。
後から来た女児が思い切り引っ張ったとき、がくんと女児が上を向いた。カメラに映ったその顔は、赤子の返り血を浴びて、子供とは思えない狂喜に満ちていた。
見つめていた未春の胸に、シリアルキラーの言葉が浮かんで消えた。
ちょうどその時――妙なことが起きた。唐突に、血濡れた拳で女児が耳を覆った。
そのまま、引っ張っていた女児の手から転がり落ち、床に伏してもがき苦しむ。
その口から赤いものが吐き出され、床に塗りたくりながら這って、這って、這って、動かなくなった。
後から来た女児も、それを見つめたまま、ぴくりとも動かなくなった。
わずかな間を置いて、ばらばらと白衣の大人たちが走り込んでくると、立っていた女児はぺたりと床に座り込んだ。保育器を振り返り、最初の女児のように崩れるように取りすがると、天に吠えんばかりに泣き始めた。
音が聴こえないことが、むしろ壮絶な涙だった。
今度は大人の一人が苦しみ始め、一人、また一人と床に倒れ――ふっと吹き消すように映像は消えた。ふわりと周囲が明るくなる。
「……」
未春は映像の中の女児のように黙って突っ立っていた。
胸の奥が、ぞっとするほど冷たい。ハルトではないが、氷を丸のみした気分だ。
喉元まで氷が詰まったように、呼吸が苦しい。
「みはるくん、たたかったときより、鼓動がはやいよ。だいじょうぶ?」
「……うん。ありがと」
何故お礼を言ったかわからないが、礼を言われたことをジャンクは好ましく思ったようだ。
「みはるくん、このあと、さららに会った?」
「……うん」
「ほんとう? よかったね。よかった。さらら、うららがおかしくなってから、ずっと泣いてた。いい子なのに。みはるくんのことも、心配して泣いてた。うららもいい子だったのに。おかしくなっちゃったの。あれを飲んだから。あれを飲んだら、うららは足が壊れちゃった。ジャンクとおんなじ。でも、ジャンクは怖いこえで怒らないよ。うららは怒ってた。いつも。じぶんよりちっちゃい子は、みんな叩いた」
「”あれ”って……」
問おうとして、未春は直感した。そうか。隠された真実は、これか。
未春は答えを呟こうとして、口をつぐんだ。
今、何か聴こえた。あまり聞くことのないこの音は――
「みはるくん、外がへん」
ジャンクがそれまでとは異なる、不安げな声を出した。
「ジャンク、かなみに負けちゃったっていおうと思ったのに、かのうにつながらないの。あと、電気がいっぱい消えてる。こわい。電気なくなっちゃうと、ジャンクはしんじゃう……」
機械音に混じる怯えた響きに、未春は頷いた。
室月に掛けてみるが、出ない。ハルトは……掛けようとして、邪魔をする可能性に気付いてやめた。ホールの反響音のせいで少々大げさに聴こえる音に耳を澄ます。
――大人数がバタバタ走り回る音がする。パララッと軽い銃火器の音らしきものがする。ハルトが暴れている音ではなさそうだ。
未春はジャンクを見上げ、全体を眺めて首を捻った。
「……ジャンク、あんた、このデカブツから外せない?」
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