21.Good Luck.

 あの日は、確かにおかしかった。

いつも乗る通学バスが、道路工事の徐行運転や、救急車に道を譲るなどの細々した理由で少し遅れた。授業に遅れるほどではないが、早くても遅くても都合が悪いため、国見正幸くにみまさゆきは急ぎ足で校門を抜けた。いつも声を掛けてくる連中は、早ければ用が長引き、遅ければ入念な待ち伏せをする。

――タイミングが合えば、スルーすることも可能だ。

走ると目立つ為、同じ方へ向かう学生の合間を進むと、連中はやはり纏まっていた。思わず身が強張る。……が、やはり今日はおかしい。絶対にやって来ると思っていた彼らは、既に用は終わった顔で、さっさと行ってしまった。

おかしい。

落ち着かない気持ちで講義に向かい、ノートを開いたとき、見覚えの無い小さな付箋に国見は目を瞠った。ページの内容と全く関係のないそれは「Good luck!」と小さくプリントされた付箋だった。

こんなもの、貼った記憶もなく見たこともない。気味が悪いと思いながら帰宅した翌日、異変は最高点に達した。

連中の一人が、銃殺された。どのテレビも特番を組んだ事件では、奴を含め、10人の若者が銃によって殺されたと報じた。

嘘だと思った。いじめの主犯が消えたことにほっとするよりも、妙な胸騒ぎがした。

日本の事件とは思えない。そう思っていたら、今度は覚せい剤で死んだ大手グループ会社の会長が犯人だという報道が流れた。使用済み拳銃まで発見されたというから間違いないのだろうが、気持ちが悪かった。


「Good luck!」――幸運を祈る。


良い意味である筈の言葉が、怪しく脳に響く。

これが、奴を殺した誰かのメッセージだとしたら?

殆ど見ないテレビの報道は慎重らしいが、ネット上では即座に噂が乱れ飛んだ。最初に目に留まったのは、被害者全員がいじめの加害者という話。

――もし、奴が殺された理由が……「悪」を罰する為のものだとしたら?

いじめられていた自分も、誰かに監視されているのではあるまいか。親も、知り合いの誰も知らない筈の秘密を、拳銃を所持した何者かが見ていたのでは……?

「お、ひじりグループの事件じゃん」

ぎくりとして振り向くと、隣に居た男がこちらのパソコン画面を覗き込んでいた。

「タダイシ」という苗字か名前かもわからないあだ名しか知らない男は、摘まんだ煙草で画面の聖景三けいぞうを示す。

「この会長、相当ヤバい奴だって聞いてたけど、こんな事件起こすとか半端ねえよな」

「へ、へえ……ヤバいんだ、この人……」

「裏社会のドンとか何とかって話。うちはヤクザとか関係ねーからいいけど」

――関係なくても、金は行ってると思う。

口には出さずに呟くと、男は煙草をふかしながらぼやいた。

「そういや、クレさんも銃持ってたっつーから……関係者だったのかもなあ」

「え?」

仲間の何気ない一言に、急に現在に戻された国見は振り返った。

「クレさんて……クレタニって人ですか?行方不明になったっていう……?」

「そー。ちょっと前にいきなし。あの人、ヤクザ関係じゃねーって言ってたけど、銃なんか持っててそりゃねーわって感じ。一緒に仕事してた連中も消えたから、怪しくね?」

「はあ……」

詐欺グループの間では、少し騒然となった話だ。

クレタニと名乗る男が仕切っていた、東京の振り込め詐欺の拠点がひとつ消えた事件である。不気味なのは、文字通り「全てが消えた」のだ。此処と同じく、アパートの一室に詰め込まれていたパソコンも、大量の携帯電話も、家具や衣類、ゴミの一つさえ残さず、忽然と。

タダイシのように交流のあった人間が気付いて発覚したが、クレタニを含む四人全員が音信不通であり、携帯電話も見つかっていない。また、彼らは別に部屋を借りていたが、その部屋も空き家であったかのように空っぽになっていたという。

その上、この件はニュースはおろか、警察沙汰にもなっていない。関係者は皆、薄気味悪く思ったが、進んで警察に相談などする筈もなく、行方不明という扱いのまま、数カ月が過ぎてしまった。

「とっくに、殺されてたりして」

不穏なことを言う割に、あまり興味がない顔で男は煙草をふかし、隣の席に戻った。

「殺されるって……何の為にですか?」

「へ? 知らね。金じゃねえの? ボスの金くすねたとか」

「あぁ……なるほど……」

それしか言えず、国見は肩をすくめた。

仮に殺されたのなら、銃を持っていた人間も大したことが無い。ガンマンなど、コミックやゲーム、嘘八百の刑事ドラマを思い浮かべてもピンと来なかった。百発百中なんて、あんなものはフィクションに決まっている。空になった部屋が血まみれだった話など聞いていないし、銃撃戦なんて騒々しいことがあったのならニュースにならない筈が無く、この部屋の連中だってもう少し警戒する。

「まあ、俺らはそういうの勘弁だよなー」

「それは、まあ……」

調子を合わせるように国見は頷いた。この男は些か踏み込んでいるようだが、こちらはスマートフォンやパソコンを操作し、大手企業や運送会社、銀行や市役所職員を騙るメールやメッセージを送るだけの下っ端だ。逮捕はあるかもしれないが、突如、銃殺される危険は感じない。だから続けられる。

危険な世界なのはわかっているが、人身売買だとか、覚せい剤だとか、そういうものには関わる気もないし、関わらない気もしている。今、犯罪に関わっているのに、殺す、殺されるとは無縁だと思っている自分に、格別の違和感は感じない。何故と問われたこともないが、気楽で、安易に大金が手に入る。だからやる。やめる理由も特にない。だから続ける。その程度だ。

「ラクに稼げるんだけど、やってみない?」

ネット上で、知らない人間に誘われるまま、振り込め詐欺に関わったのは、大学入学から間もなくだった。悪いことなのは、知っていた。悪いと思ったこともある。

ただ、「悪い」という概念は無いも同然だった。アウトローや反社会主義を掲げるつもりは毛頭ない。自分は「悪いことをしたいわけではない」のだ。

これは「楽に稼げる」からやっている。アルバイトの募集要項にありがちな「明るい人」だの、「人と接するのが好きな人」、などという化けの皮が必要ない。本当に好きなら構わないのだろうが、一生懸命やろうと給与が上がるわけではないし、実力があればある程、非正規雇用のまま利用されるのがオチだ。安い商品に文句を言う客に頭を下げ、会社のミスを上層部に代わって申し訳ありませんと謝る。はっきり言ってバカバカしい労働だ。

たまの罪悪感は、街中やメディアを通して、イラつく人間を見掛ける度に消えた。

誰彼構わず怒鳴り付ける老人、酒に酔って若い女性に絡む爺さん、店員相手に無理難題を喚くおばさん、高価なブランド品をたっぷり身に付けた婦人、誰かの悪口ばかりペチャクチャ喋る高齢者は、みんな罪悪感を消してくれる。国見の場合、騙し盗るのが大金であればある程、罪の意識は低かった。無駄に貯め込んでおくから、経済が停滞する――そう思って納得していた。タンスの奥や古い通帳に刻まれた、今にも腐りそうな金を吸い上げて、世の中に回してやると思えば、むしろ気分は良くなった。

大体、使っていないんだからいいじゃないかと納得した。

この部屋のリーダーをしている男の本名や年齢も、国見は知らない。知りたいとも思わない。隣の男もたまたま年が近そうだから話し相手になっているが、現場で顔を合わせる以外に接点はない。食事程度の交流だって御免だ。こんなヤニ臭くて貧相な語彙力しかない奴と、面と向かってメシを食うなど冗談じゃない。

それでいい。これでいい。人を殴って金を奪っている奴とは違うんだ。非常識なことをして、迷惑を掛けたことなど無い。殺されることなんて……あるわけがない。

「ねー、ハヤさん、今日飲み行きません?」

煙をくゆらせながらの呑気なタダイシの声に、グループの中心者である男は目の前の画面を見たまま答えた。

「うっせえ。俺は海外の物件探すので忙しいんだ」

「えっ、いーなあ。何処行くの?」

「ま……アジアだな。フィリピンか、カンボジアか……金も回しやすいとこで――」

こいつら、金の話しか頭にないのか。一息ついて仕事に戻ろうとしたときだった。

珍しく、アパートのチャイムが鳴った。

「クソ、誰だよ……おい、見てこい」

基本的に、此処を訪ねる人間は宅配か出前だが、今は食事時ではない。少なくとも、関係者は鍵を所持し、チャイムなど鳴らさず勝手に入ってくる。指示された国見が大人しくインターフォンを確認すると、見覚えのある人物にぎょっとした。

「あのー……すいません。国見……あ、いや、正幸くんて、居ます?」

意外なその人物。知らん顔をすることもできたが、国見はできなかった。

“あの日”にまつわる異変のひとつ。葉月力也はづきりきやが立っていた。



 都心部から離れた大学は、都会なら縦に重ねる敷地をのびのびと横に広げている。大学周辺は戸建てとマンションが山を埋める樹木のようにひしめく住宅街で、むしろ学内の方が整備された街の趣があった。余裕のある道幅は綺麗に舗装され、暗くなっても規則正しく並ぶ外灯が照らし、手入れの行き届いた芝生、どっしりと枝葉を広げるケヤキやイチョウ、四角く整えられたサツキの生垣等、隙が無い。二年間それなりに通っても、入ったことのない棟の方が多く、誰が出入りする施設なのか知らない建物もあった。

その広さ故か、知り合いが少ない所為なのか、未だに受け入れられていないような気になる在学先を、国見は憂鬱な面持ちで歩いていた。

隣には、友人そのものといった顔つきの力也が居る。

開口一番、先日、アパートに入るのを見たと言った男は、どちらかといえば申し訳なさそうな顔つきで言った。

「ホントはその時、声掛けたかったんだけどさ、テストも近かったし、久々にバイトも入って時間無くて。こんなに大学近いなんていいよなあ。羨ましいよ」

「あ、いや……あそこは俺の家じゃなくて――……し、親戚のオフィスみたいなもんで……テスト前とかに、たまに借りる感じっていうか……」

「へー、そうなのか。いいな!」

力也は人懐こそうな顔でにかっと笑った。全然良くない。おかげで今日はもう帰れと追い出され、腰を落ち着けるのに学校なんぞを選ぶ奴と居る羽目になった。

「それで、用事が有るって言ってたけど、何……?」

力也に言われるがまま、学生食堂までやってきた国見は、憂いを隠すこともなく尋ねた。

ノートの写しだろうが何だろうが、とっとと済ませておさらばしたい。この騒々しい空間に居ると、喉元締め上げられているような気がする。殆どの時間、多くの学生で溢れ、外部の人間が利用することもまま有る食堂は、様々な食べ物の匂いとお喋りが充満していた。

様々なグループが点在し、食事をとりながら談笑したり、テキストを前に話し合ったりしている。スマートフォンやノートパソコンを凝視して忙しそうな者も居れば、暇そうに画面を見ている者も居る。

「えっと……大した用事じゃないんだけど、さ……」

――遠慮とかいいから、早くしろよ。

内に呟いて返事を待つと、力也はしどろもどろに言った。

「えーと……国見って、語学とか……得意?」

「は?」

急に飛んできた話題に不機嫌が露出するが、力也は気にした風もない。

「語学っていうか、英語。話す方の」

「いや……」

「だよなあ……俺もさ、バイト先のセンパイ見てたら話したくなったんだけど、難しくてさあ……」

知ったことか。雑談なら他の奴に言ってくれ。なるべく興味が無さそうな相槌を打つが、察しが悪いのか、感受性が故障しているのか、力也は楽しそうに喋った。隣の席でさえ、何を喋っているのか判別つかない騒々しさの中、面白くも何ともない話をぼんやり聞き流す。最初の十分がのろく過ぎ、ぞっとするほど永遠に続きそうな無言の時が過ぎる。ざわめき、食器の触れる音、当事者だけが楽しい言葉が辺りで弾ける。それら全てから独立して平坦な自分。

「――国見? だいじょぶ?」

「えっ……あ、うん……ぼうっとしてた……」

視線を力也に戻すと、彼は何やら無意味そうに自身の首元をさすりながら切り出した。

「……あのさ、俺、気になってることがあって」

語学の件はジャブだったらしく、国見が反応する前にワッと飛び出すように言った。

「国見っ……いじめ、受けてる……よな?」

殆ど無意識に、国見は小さく唇を噛んだ。思わす、眉間に皺が寄る。それは上手いこと前髪と眼鏡が覆い隠した為、力也は尚も踏み込んだ。

「俺も、あったんだ。昔……今は平気だけどさ、その……しんどいよな、やっぱ……」

気遣いを満面に喋る力也に、国見は大げさに溜息を吐いてやりたくなった。

たまに居る。こういう……模範的なイイ奴。学級委員や熱血教師よりはマシだが、仲間意識を持たれるのは始末が悪い。同類だと思われるのは迷惑だからだ。多くのいじめの被害者は、彼のように同調してくれる人間を好むかもしれないが、自分は嫌だ。何なら「お人好し」なんてものは苦手中の苦手だし、肝心な時は役に立たない。

「いつでも相談して」なんて人間は視界に入れるのも嫌だ。

なにしろ、自分は「いじめられっ子」だと思っていない。面倒な連中なんて慣れっこだ。生活に支障が出る程に暴力を振るわれたら警察沙汰にすればいいし、今の稼ぎからすればちょっとした小金をせびられるなど何でもない。「かわいそう」とか「大丈夫?」などの何の足しにもならない同情や共感を抱かれる方が、身を掻きむしりたくなるほど煩わしい。

「……あのさあ、俺、別に何とも思ってないから」

遠慮に取られぬよう、ややぞんざいに国見は答えた。それでも力也の心配そうな視線が揺るがず、仕方なく付け加えた。

「あの事件からは、あいつらも突っかかってこないよ」

悲壮感よりも脱力感のある回答だったが、既にこちらを哀れな同輩の目で見ている力也に通じたかはわからない。こういう時、「大丈夫」などと言うと強がっていると思われやすい為、黙って歩き続けると、力也は何か噛み締めるように頷いた。

「そっか、うん……あんなことあったもんな……」

「そう、だからもういいから――話はそれだけ?」

「う、うん……」

まだ何か言いたげだったが、隣の女子がきゃあきゃあ喋る男の話題にいい加減イライラしてきた国見は席を立った。力也も慌てて立ち上がり、子犬のようにちょこちょこ付いて来た。

「あのさ、何か困ったら言ってくれよな? 俺、なんでもない一般人だけど、良い人はいっぱい知ってるから」

――なんでもない一般人?

妙な自己評価が気になったが、言いたいことを告げたらしい力也は少しすっきりした顔つきだ。若々しく、邪気の欠片もない清々しい笑顔に、国見はわけもなく苛立ちそうになるが、なんとか俯きがちに頷いた。

「どうも……葉月君はイイ人だね」

皮肉のつもりだったが、力也は純朴そうな瞳を見開いて首と手を同時に振った。

「そ、そんなことないって! 俺なんて、センパイとかみたく、なんもできないし……」

興味はなかったが、力也が「センパイ」という言葉を嬉しそうに喋ったのはわかった。まだ正門が見えない通りを歩きながら、一度大学を出てから撒くしかないと決めた国見は、嘲りや溜息を吐くのを我慢して耳を傾けた。

「それ、さっき言ってたバイト先の先輩? この大学の人?」

何の感慨もない問い掛けに、力也は何に気付いたのかハッとしてから首を振った。

「あ、あー……違う、けど、……違わないっていうか……そんなもん、っていうか……」

急に歯切れが悪くなった力也は、片手を振り振り、如何にも誤魔化す調子で笑った。

嘘が下手どころか、墓穴を掘るタイプらしい。こちらはそのセンパイとやらが何処の誰だろうとどうでもいいのに、隠すような仕草をされては却って気になってしまう。

「もしかして、女の人?」

「えっ!」

絵に描いたようなびっくり仰天は、図星ではなく「予想外」で間違いなかった。鼻で笑いそうになるのを堪えて、国見は小学生を相手にしている気分で笑った。

「男の人か。てっきり、憧れの人とか好きな人かと思った」

「う、うん……憧れは――憧れだけど……うーん、ちょっと違うかなー……」

もそもそと話す力也は、つつけばつつくほど喋りそうだったが、勝手に喋り始めた。

「センパイはさ、ちょっと普通じゃない仕事してて……日本以外のヤバいとこにも行ってるんだ。俺より何個か上ぐらいの歳なのに、すっげー落ち着いてて、英語ペラペラで……じ……じゃない、機械……? の扱いとかも凄くて……」

「へえ……NGOとか、報道関係の人?」

国見もよく知らないが、海外の危険地帯に赴く日本人など、不意にはそのぐらいしか思い浮かばない。勿論、治安の悪い途上国に営業や買い付けに行ったり、海外拠点に赴任するサラリーマンや、政府関係者、自衛隊、医療やインフラに携わる人間などなど、いくらでも居るだろうが。

「……んー……ちょっと、うまく説明できないや、ごめん」

「……別にいいけど」

もしや、あまり世間体の良い職業ではないのだろうか?

それこそ、NGOなら隠す必要はないし、営業マンやアーティストだとしても公開して難はない。自衛隊の場合は勤務地や任期を口外できないというが、それは今の話とは関係がないし、医療などの支援活動なら説明に戸惑う必要はない。無論、地元に歓迎されない開発を推す事業者や、奴隷のような低賃金で働かせる企業なら言いづらいだろうが、そんな人間をこの青年が尊敬するとは思えない。

「でも、ホントに大変な時は言ってくれよ? そうだ、これ、連絡先」

がさごそと取り出したメモをうんざりしながら受け取ると、力也は目的を果たしたかのようにほっとしたようだった。

「国見が困ったときは、俺が味方するから」

――そんな綺麗ごと、簡単に言うなよ。

声に出さずに吐き捨てた国見が、何気なくメモをポケットに押し込むと、力也が「あれ?」と間の抜けた声を出した。忘れ物に気付いた等なら有り難い――そう思って顔を上げると、力也はバッグやポケットを漁る様子もなく、ぱちぱちと瞬きしながら前方を見ていた。

釣られて見たのは間違いだった。が、仮に力也が居なかったとしても、無視できなかったかもしれない。

門の傍に立っていた背の高い二人の男は、そのぐらい目立っていた。

力也が子供みたいな歓声を上げた。

「センパイじゃないスか! 未春サンも――えっ、二人ともどうしたんスかあー?」

嫌な予感がした。とっとと逃げるべきだった。

それが出来たらの話だけれど。



 その二人は、ヤクザのようなアウトローに比べれば、全く普通の人間だった。

ただし、一人は普通というには語弊がある、とんでもない美青年だ。力也と何の繋がりがあるのか想像もつかない美男は、すらりとした高身長から伸びた両手を上着のポケットに突っ込み、ぼんやりした無表情でこちらを見下ろした。目元も口元も、肌や髪さえ澄み切って感じる整い方は、ハンサムを通り越し、人間ではないような完璧さを匂わせて気味が悪い程だった。

もう一方は目立つ容姿ではないのに、美男と肩を並べて見劣りしない不思議な男だった。凡庸な顔出ちだが、冴えない印象は無く、これ見よがしなスポーツマンではないのに、インドア派には見えない。かといって特別――何か特筆すべき点も見当たらず、やはり“普通”としか形容できない男は、力也の方を見て親しげに片手を上げた。

「よー、リッキー」

何気ない仕草の中に、大人びた余裕がある。それに対し、美男の方はぼんやりした顔つきのまま、力也に向けて子供みたいに喋った。

「リッキー、何してんの?」

「えっ? 何って……やだなあ、未春サン、俺ここの学生ッスよ」

力也の尤もな回答に、美男は“ああ、そうか”という顔はしなかった。ぴくりとも表情を変えることなく、ふうん、と軽く呟いただけだ。ふと、その視線がちらりとこちらを見た気がして、国見は思わず目を逸らした。

「帰るとこか?」

“普通”の問い掛けは至って穏やかだ。

「はい!」

「そうか。そちらは友達?」

「そっス」

あまりに素直な返事に、弾かれる様に力也を見てしまってから国見は後悔した。

せっかくのオトモダチが台無しになるじゃないか。

案の定、“普通”の反応が降ってきた。

「違うのか?」

「いえ、その……」

「友達ッスよ。成ったばっかなんです。あ、センパイには言いましたっけ?前に話した国見ってやつです」

いい具合にとぼけてくれる力也に紹介され、軽く頭を垂れると、相手は言及せずに同じような会釈をした。すると、静かに事の成り行きを見ていた美男がひょいと片手を上げた。

「ども。リッキーの先輩の未春です」

そのまま片手を隣に差し向け、ぼそりと付け加えた。

「こっちはハルちゃん。よろしく」

「おい、お前な……」

すかさず“ハルちゃん”が不機嫌そうに美男の肩をぐいと押しやる。

「その紹介はやめろ」

「なんで?」

「……日本は普通、ファーストネームで名乗らないんだろ?」

ファーストネームが定かではない点をスルーした“ハルちゃん”に、未春は苗字ではないらしい美男がうっすら胡乱げな顔をした。

「俺はわりと名乗るよ」

「なんでだよ」

「俺が苗字だけ名乗ると、俺じゃないみたいだろ」

知らぬ人間からすると謎の答えだったが、“ハルちゃん”は理解したのか低く唸ってから、小さな溜息を吐いた。

「センパイたち、最近そういうの多いッスね」

にこにこしている力也を眉間に皺の寄った“ハルちゃん”が見た。

「 “そういうの”って何のことだ?」

「ンー……ボケとツッコミっていうか、漫才っていうか……」

殆ど同じ意味を絞り出した力也は、微笑ましいといった笑顔を浮かべた。

「よくわかんないけど、イイ感じッス」

「?……It doesn’t make sense to me……」

独り言らしき疲れた調子の英語の滑らかさにどきりとした。意味がわからず力也を盗み見ると、こちらもぽかんとしている。

「『俺にはよくわからん』、だって」

“ハルちゃん”は訂正の代わりに美男をじろりと睨んだが、相手は素知らぬ顔で力也に向いている。

「リッキー、俺たち、この人に用があるんだけど」

「え、国見に? あれ? ひょっとして知り合いスか?」

先ほどの挨拶をもう忘れたらしい力也に首を振ると、美男は魅入られるようなアンバーの瞳でこちらを見た。

「君、アパートで何か預かってない?」

「え……」

アパートと言われ、反射的に身を強張らせた。何のことですか、などと聞き返す余裕はなかった。どうしたわけか、蛇に睨まれたカエルの気分だ。

「アパートって……――近所のですか?俺は……何も……」

どうにかそう言うと、二人組はアイコンタクトしてから、“ハルちゃん”の方が、静かだがよく通る声で言った。

「君は、あのアパートに出入りしてたんだよな?」

力也の手前、NOとは言えず、国見は頷いた。油断すると、小刻みに震える気がした。

「『何も預かっていない』という話は、信じていいか」

引きつりそうになる体をどうにか踏ん張って国見が頷くと、ほんの少しの間を置いてから、彼はしかと言った。

「わかった。あのアパートにはもう行かない方がいい。誰かが何か渡そうとしてくるなら、なるべく断れ。難しいなら、ここに連絡してほしい」

差し出されたのは、DOUBLE・CROSSと書かれたショップのカードらしきものだ。のろのろと受け取って、電話番号と住所、営業時間を見つめながら、国見は顔を上げた。

「……あなた方は……警察か何かですか?」

「警察?」

前髪の隙間から見た“ハルちゃん”はどこか自嘲気味に笑うと、外国人っぽく片手を上げた。

「俺が警察に見えるのか?」

「……さあ……本物とか、よく知らないんで……」

「そうか。俺もこっちの警察はよく知らないが、どこも大体似てる。加減の差だと思うが」

「加減?」

「ああ。装備や訓練、医者の世話になる頻度、ひと月のカーチェイスの回数とか、そういうこと」

「……映画みたいな話ですね。警察じゃないなら、何なんです?」

「警察じゃないなら、相手にしたくないってことか?」

可も不可もなく黙っていると、“ハルちゃん”は苦笑した。

「警察がお望みならそっちを頼っても構わないが、困るのはそっちだと思う」

――やっぱり……この人たちは、“知ってる”んだ。

「困る……って……何も困ることなんか……」

「そうか? 俺なら、ポリス・カーに安易に乗るのはお勧めしない。聴取の後に家まで送ってくれるサービスもないしな」

「センパイ、国見……なんかあったんスか?」

隣で遠慮がちに声を上げたのは、成ったばかりのオトモダチだ。

「国見が困ってんなら、俺が手を貸しますよ」

「さすが、リッキー」

“ハルちゃん”は軽く答えて顎を撫でると、思案する風にこちらを向いた。

「君が、あのアパートで何をしているのか、リッキーは知らないんだよな?」

国見はぎくりと身を強張らせた。何をしているのかも、知っている? 警察ではないのなら、本当に、彼らは何者なのだろう?

――とっくに、殺されてたりして――仲間の発言が、喉元を圧迫する。

「……知りません……それって脅しですか?」

「いいや。でも、それなら君はリッキーに対してフェアじゃない。彼が助けたいと思っているのは罪のない一般的な学生の“友達”だ」

尤もな指摘に言葉が詰まった。傍らの力也から感じる純真な視線が鬱陶しくなってくる。

「とにかく、あのアパートにはもう行かない方が良い。どうせ誰も居ない」

「……えっ……」

「ど、どういうことスか、センパイ? あそこは国見の親戚の家だって――」

「悪いな、リッキー。後で説明してもらってくれ」

片手で力也を制した“ハルちゃん”は、徐々に青い顔になる国見を見つめた。

「大丈夫か」

「……“あの人たち”は、どうなったんですか?」

「居なくなった。それで察してほしい」

「俺も……“そうなる”んでしょうか……?」

「それは俺が決めることじゃない。今日の君は、リッキーが連れ出してくれたおかげで、あそこに居なくてラッキーだった。それだけだ」

国見はしばらく黙って地面を見つめていた。幸運を喜び、安堵に胸を撫でおろすなどできなかった。タダイシたちはどうなった? あんな連中、社会的には居ない方がマシなのだろうが――仮に生きているとして、何処に連れて行かれたのか――クレタニ達の事件のように、ニュースにもならない件なのだろうか?

「これから俺、どうしたら……?」

二人組は軽く顔を見合わせた。美男の方が、ぼんやりした表情のまま言った。

「自分で決めれば」

ぼそりと出た言葉に、何故か腹の底がカッとなるのを感じた。

「あ……あんたら、勝手にやっといて――」

どうしてくれるんだ、と言うつもりだったが、言えなかった。刹那、脇から唐突に凄まじい爆音が響いた。それがバイクの音だと国見が気付くより早く、何かに強く押された自身が息を呑む間もなく空を仰いでいた。フルフェイスメットを付けた何者かが行き過ぎるのを見たと思ったが、もうその時には黒い塊のようなバイクは脳内を磨り潰すような轟音と共に走り去っていた。

次に呼吸したとき、ようやく自分が路面に仰向けに倒されたとわかった。

「……いって……ッ……」

コンクリート面に強かに打ち付けた痛みをこらえて身を起こそうとすると、ひょいと手が伸ばされた。見上げた先で、にこりともしない美貌が見下ろしている。

「ごめん、強く押しすぎた」

こちらを軽々と引き起こしながら、感情の見えない顔で謝罪されるが、気後れした頭には何も入ってこない。周囲はざわつき、皆バイクが走り去ったのだろう道路を見ている。

……どうやら、歩道に飛び込んできたバイクをかわすために突き飛ばされたようだ。すぐ傍らでは、同じく “ハルちゃん”の方に突き飛ばされたらしい力也が助け起こされている。

それを遠い場所のように眺めて、はっと気づいた自分の服の有様に血の気が引いた。

Tシャツ一枚残して、上着はスライサーで真横にカットしたようにすっぱり切れている。無意味と知りながら、両の手で切れた――否、切られた箇所に傷が無いか押す。

「お見事」

先ほどよりもずっと硬い声で“ハルちゃん”が言った。

美男は何も気にしていない様な顔で頷いた。

「逃がしちゃったね」

「ナンバーは見えた。十分だろ……今のバイク、DUCATIか。速いな」

二人の会話を聞きながら、国見は裂けた服を見下ろした。あと数ミリで、皮膚に到達していた事実に遅れてきた動悸が心臓を叩いた。

「直前まで音が鳴らないようにタイミング計ってたみたいだ。俺のことを知ってる奴だと思う」

「お前だと知ってて目の前に飛び込むなら、勇気があるか、バカのどっちかだ」

二人がこちらには意味不明の会話を終える頃、周囲は平常に戻り始め、美男の方は距離を置いてどこかに電話を掛け始めた。

「怪我は無いか?」

“ハルちゃん”に尋ねられ、国見は曖昧に頷いた。

「今のは、一体なんです……?」

「さて、何だろうな。俺が聞きたい」

肩をすくめて苦笑した姿は、最初に感じた“普通”の印象だった。

「一応確認するが、命を狙われる覚えはあるか?」

「……あ、ありませんよ……そんなの……!」

やや強張った答えになるが、“ハルちゃん”は軽く頷いた。

「それじゃ、巻き込まれたってことだな」

“ハルちゃん”は確信に満ちた声で言うと、いまだ腰の辺りをさする力也に笑い掛けた。そこに美男がすたすたと戻ってくる。

「連れてくれば? って」

「やれやれ……そう言うと思った。だってよ、国見君。どうする?」

「は……はあ……?」

「二択だ。俺たちと一緒に来るか、警察に駆け込むか。家に帰っても構わないが、万一、さっきの奴が君を狙ったなら、人の目も関係なく襲いに来ると思う」

最悪の二択だが、初めから二択ではない――

一択だ。明快に危険なストーカーさえ取り締まれない警察に、「心当たりがないのに襲われました」という被害届に効果があるわけがない。仮に懇切丁寧に話を聞かれれば、詐欺に関わっていたことがいずれバレる。

「リッキーも来るか?」

こちらの返事などお見通しなのか、既に同行する風の“ハルちゃん”だ。

「は……はいッス……」

少々理解が追い付かない顔だったが、力也は頷いた。不覚にも、一般人丸出しの力也の存在に、国見は心なしか安心した。刃物を持った人間を恐れない二人は頼もしいが、こんな異様な連中に両脇を挟まれるのは落ち着かない。

歩きざま、アパートの方を振り返ったが、これといった異常は感じなかった。人も車もそれぞれの目的に向かって進み、サイレンひとつ響いてこない。

「あ、あの……――」

振り向いた二人の静かな視線に戦きながら、国見は言った。

「あのアパートがどうなったか……自分の目で……確かめたいんですけど……」

再び、彼らはアイコンタクトを交わし、美男が時計を確認して“ハルちゃん”に頷いた。

「たぶん、終わってると思う」

「そうか。鍵持ってるか?」

“ハルちゃん”の問い掛けに頷いて、国見は緊張に胸が軋んだ。とんでもないものを見に行くことだけは、わかっていた。

「ハルちゃん」

歩き出して間もなく、美男がぼそりと言った。

「なんだ?」

「ポリス・カーって、パトカーのこと?」

「……パトカーってなんだよ」

妙な沈黙が落ちた。美男がふっと笑ったようだった。

吹き消すように無表情に戻ると、ぼそっと「パトロール・カ―」と告げ、“ハルちゃん”が虚空に瞬き、思案顔になり、ちらりと力也に振り向いた。

「あ、合ってますよ、センパイ。日本じゃ警察の車はパトカーって言うんス」

力也の説明に納得したのか、“ハルちゃん”は二、三頷いて、ひどく小さく「I see.」と呟いた。



 昼が傾いだ時分、冷たく乾いたコンクリートの建物は厚い影を落とし、小さなアパートは誰も住んでいないかのようにひっそりとしていた。

幸い、手持ちの鍵はまだ回ったが、扉を開いてみて一瞬、国見は狼狽した。無意味に部屋番号を確認し、改めて玄関先を見て、微かに青ざめる。

行きがけにようやく本名がわかった“ハルちゃん”こと、ハルトは、部屋を覗いて感心した顔をした。「Wonderful」という響きが聴こえたが、国見はそれどころではなかった。

「……」

入室した瞬間からわかる。有った筈の全てが無かった。人の気配は皆無である。

わずか数時間でモデル・ルームと化したように、何もかも綺麗さっぱり消え、踏まれては薄汚れたカーペットもそっくり無くなり、剝き出しのフローリングに埃はおろか、男が屯していた匂いさえ曖昧だ。玄関に脱ぎ捨ててあった靴は、靴箱の中まで空っぽ、室内の全てを占めていた机、パソコン、上着の引っかかった椅子、ずらりと並んでいた携帯電話、雑然と置いてあったコップやポット、飲みさしのペットボトル、吸い殻の溜まっていた灰皿、菓子袋、電気さえも――すべてだ。すべてが無い。

「……普通じゃない……」

思わず、本音が口を突いた。ハルトと、彼に輪を掛けて物静かな未春は見慣れた光景なのか、壁に背を預けて密かに言葉を交わし、こちらを待っているようだった。

力也だけは、黙って周囲を軽く見渡し、感想を述べることなく押し黙った。此処を訪ねた時、開けた玄関から少しは中を見たのかもしれない。

「なあ、国見――ここ、親戚の家じゃないのか……?」

ここ一番のとぼけた問い掛けに、国見は思わず力也を睨んだ。

「そんなこと、マジで思ってんの?」

力也は黙って辺りを見たが、答えは出ない。

「……詐欺グループの拠点だよ、ここ」

はっと顔を上げた力也が息を呑んだ。

午後の濃い日差しが差し込む中、時間を止められたように硬直し、点になった目で国見を見た。きっと、育ちが良いのだろう、そんなに驚くかと可笑しくなる。ハルトと未春が口を出さないことも含めて、国見は少し気が楽になってきた。

「……それ、ジョーク?」

重い病状を医者に告げられたような顔で力也は言った。呑気そうに見えるが、面白いぐらいマジメな奴だ。国見は軽く首を振った。

「俺も結構、稼いでた方だよ。末端に落ちてくる報酬なんて、一割もないぐらいだけど」

「詐欺って……振り込め詐欺も……?」

「当たり前だろ……殆んどそれ。俺は若いから、銀行とか、役所とか、孫のフリで――」

「なんでだよッッ!!」

突如、大声を上げて掴み掛かってきた力也に押され、数歩後退した国見の背に、強かに壁が当たった。どちらかというと力也の大声に驚いて、瞠目した目に、激しい憎悪を滾らせた力也が居た。これまでの陽気なお人好しではない。国見が一度も見たことのない――いや、もしかしたら有るのかもしれないが、見ないふりをしてきた目だ。間近な距離から突き刺してくるような怒りと真剣さ。

瞬いているのに、ほんの一秒も逸れない視線に、国見はぞっとした。まるで、猛獣の尾を踏んでしまったような危険を感じる。

この様子に対し、もう二人居る筈の彼らは止めに入る様子もなく、口を開く気配もない。

「……人を……――」

力也が呟くように言った。

口を開いた途端、何故か強い圧力がほんの少し和らいだ。力也は眉や唇を厳めしく奮わせながら、痛みを堪えるように続けた。

「……人を、騙さなくちゃいけないぐらい……お前、金に困ってる、のか……?」

「……え?……それはー……」

「もしかして、親がシングルとか、兄弟が多いとか……家に借金があるとか……そういうことなのか?」

――なんだ……こいつ。

悪党を優位にさせそうな可能性を挙げながら、こちらの襟元を掴む拳は震えている。

「それとも、脅されてやってたのか……?」

否定したらすぐに殴り掛かってきそうな目に、国見は殆ど反射的に頷いた。

せっかく与えられた逃げ口上を受け取らない手はない。が、追及されればすぐにボロが出ると気付いて曖昧に首を振り直した。

「……あの、家は困ってないけど、強制的にやってたっていうか……」

正義感が強そうなこいつなら、被害者を装おうぐらいが良いのかもしれないと思ったが、「強制?」とおうむ返しにした力也の目は違う色を帯びた。

「う……うん。脅すってほどではないけど……簡単には、抜けられない感じっていうか……」

力也は何やら思い悩むような顔になった。徐々に掴んでいた力が弱まり、ゆるゆると離れると、「ごめん」と小さく呟いた。

「そっか……ホントはやりたくないことを、やらされてんだな……」

確認するように呟く力也からは、先ほど覗いた強い敵意はどこへやら、溢れんばかりの哀れみが満ちている。親を失った孤児か、国を追われた難民に向けるようなそれを見ていられず、国見は慌てて目を逸らした。……何なんだ、こいつ。

「……それ、辛かったよな」

でも良かった、と力也はひとりごちて、小さく苦笑した。

「そうじゃないなら、俺はお前を許せないから」

ふと、国見は背骨を冷たいものが貫いていく感がした。身震いしそうになり、慌てて首もとに手をやって斜めに視線を落とす。

「……もしかして……だ、誰か、知り合いが被害に遭ったとか……?」

「うん」

先ほどまでのつかえたような話し方に対し、力也の回答は迷いがなかった。

「婆ちゃんが引っ掛かった。息子が会社の金無くしたから助けてくれ、っていう……ホント、よく聞くやつ。床に正座して、親父たちに何度も何度も、泣いて謝ってた。謝ることじゃないのにさ。爺ちゃんの葬式でも、人前ではしゃんとしてた人だから、俺……なんか、背中丸めて震えてるの見たら、いっぱいいっぱいになった」

「……」

ぎゅ、と心臓を掴まれる感覚がした。こんな話、想定内の筈なのに。

「……その、俺が言うことじゃないけど……犯人、捕まるといいな」

言い訳のように言うと、奇妙なことに力也はまた、小さく苦笑した。

「ああ……うん、犯人は……もう居ないからいいんだ」

居ない?

ふと、がらんどうの部屋に不気味な圧迫感が満ちる。壁際の濃い影の部分に立っている自分の足元を見つめて、嫌な汗が背筋を滑った。

「……捕まったってこと?」

「捕まったら、その方が良かったんだろうけど」

力也は首もとをさすりながら躊躇いがちに答えた。

「なんていうか……居なくなったっていうか。此処の人もそうなんじゃないかな……」

どういう意味だ。不穏な気配を感じたが、釣り込まれるように聞いてしまった。

「逃げた……ってこと?」

まどろっこしい問答のわりに、力也ははっきりと首を振った。思案顔で国見をまじまじと見た後、彼にしては非常に抑えた声で呟いた。

「死んだんだ。みんな」

――とっくに、殺されてたりして。

「死んだ……?」

「うん。だから、良いってことはないけどさ……」

「そんな事件、何処にも報道されてない、よな……? どうして知って……――」

そこまで言って、力也が話した件を、無関係と言わんばかりに聞き流している二人の青年を振り返った。何の感想も抱いていないかに見える顔は、既に知っている内容だからなのか、――それとも。

「そろそろ良いか?」

暗い壁際から、ハルトが尋ねた。

ぴくりとも動かない未春の双眸が、暗闇から見つめてくる。

自分は頷いたか、わからない。ただ、ただ……胃に重い液体がたっぷり入って揺らぐ感じがする。部屋を出ると、傾いた日差しが眩い世界になったが、自分だけ、暗い空間に居る気がした。



「……ここ、カフェ?」

生きた心地もなく、怪しい事務所に行き着くと想像していた国見は唖然とした。

随分、遠くまで連れられた気がする、国道16号線沿いに位置するその店は、店名を力強く主張する看板をまばゆいライトが照らしている。中が見えるガラス張りの店内は、二階に続く大きな鉄製階段がある以外、珍しいところは一つもない。半分は大量の椅子が陳列されたインテリアショップ、半分はカウンターとテーブル席を備えたカフェ、ご丁寧に禁煙を促す看板まで設置されている。おまけに売り物らしき椅子の上には、どっしりした猫が寝ていた。

「おかえりなさい」

挙句、茶と黒の斑をしたくりりと丸い目の猫を抱いた綺麗なお姉さんが出迎える始末だ。

「ハルちゃん、さっきからビビが甘えん坊さんなの。抱っこが良いんですって」

「すみません。代わります」

ハルトが苦笑して、美人から可愛い声で鳴く猫を受け取った。彼女は「良かったね」と猫に話しかけると、すっかり思考停止していたこちらに振り向いた。

「リッキーのお友達ね。どうぞ座って。トオルちゃん、もうすぐ起きてくると思うから」

「さら姉、調子……大丈夫スか?」

「大丈夫よ。ありがと、リッキー」

にっこり微笑んだ彼女に、何か飲む?と聞かれてどぎまぎしていると、後ろからがっしり両肩を掴まれた。

脇からずいと顔を出すのは、近いほどハンサムが過ぎる未春だ。

「国見君――甘い派?苦い派?」

「え……ッ……ど、どっちでもないですけど……」

「冷たい派?あったかい派?」

「う……あ、あったかい……かな……?」

「ホットのカフェオレひとつ」

美人が呆れ顔で両の腰に手を当てた。

「未春ったら、そんな注文の取り方、初めて見たんだけど?」

彼は無表情のまま、すっと手を放した。

「俺が淹れます。リッキーはいつものでいい?」

力也がハイ!と頷くと、彼は何事も無かったように上着を脱ぎながら、すたすたとキッチンの方へ去っていく。力也がその背を見ながら、こっそり教えてくれた。

「……未春サンは、さら姉の専属警備員なんだ」

「……あ、ああ……どうりで――もしかして恋人?」

背を向けていた未春がぐるりと振り向いた。

何かまずいことでも言ったのか、殆ど無の表情から表現しがたい悶々とした空気を感じる。美人がくすくすと笑って手を振った。

「未春は家族で、弟みたいなものよ」

「そ……そうなんですか……」

「そうそう。未春がさらちゃんと付き合うなんて十年早いよ」

突如、背後からした声に、国見は椅子から落ちそうになるほど仰天した。立っていたのは未春でもハルトでもない。彼らより更に上背がある男が、荒れ放題の髪を掻きながら、見るからに人の良さそうな笑顔を浮かべていた。

「どうも、君が国見正幸くんだね」

「は……はい……?」

「はじめましてー、ここのオーナーの十条とおるです」

いまだかつて出会ったことのないタイプの男は、年齢不詳の笑顔で右手を差し出した。吸い寄せられるように握手をすると、長い指を持つ大きな手にやんわり包まれるのを感じた。

「急に連れ出されて驚いたよね。うちの仲良しコンビが、失礼なことしなかった?」

「え?あ、いえ……し、してません……」

慌てて手を振り、国見は狼狽した。これでも詐欺師だ、もっと上手く答えられるつもりなのに、仲良しコンビはおろか、この男の前でも上手くいかない。

「気を遣わせたらごめんよ。未春はともかく、うちのハルちゃんは優しいんだけど、悪党には厳しいんだ」

“悪党”のワードに、一瞬、心臓を掴まれる気がした。……普通に見えて、変な店だ。自分がどういう経緯で此処に来たのか、うっかり忘れそうになる。

「その服、ちょっと見せてもらってもいいかい?」

否と言う間もなく、十条と名乗った男はこちらの裂けた服を覗き込んでいる。診察を受ける気になりつつ――そういえば、穏やかに微笑んでいる美人が、見るからに異様な服に対し、何も指摘しなかったことに気付いた。

「うーん、なるほど、なるほど……よくわかった。ありがとう」

にこやかに言うと、十条はキッチンでカップを準備していた未春に声を掛けた。

「未春~~コーヒーは、呼んだら持ってきて。国見くん、向こうで君の今後について話そう。リッキーも一緒に聞く?」

こちらの反応より早く、力也は神妙な顔で「はい」と返事をした。

スカスカになったスポンジみたいな自身の体を、ジャズとコーヒーのいい香りがすり抜けるようだ。何も奪われていないのだが、異様な喪失感が胸を占める。

奥のテーブルに向かい合うと、面接みたい、と十条は目尻に皺を寄せてにこにこ笑った。

「さて、国見くん、君にはこれから三つ、選択肢があります」

先ほど、ハルトが示した選択肢より増えたが、内容を聞いて国見は唖然とした。

「一つは、正規ルートで詐欺の罪を認めて服役すること。まあ、君はリッキーの友達ということだから、報道はシャットアウトしてあげる。ご家族には知られてしまうけれど、それは仕方ないよね。家族なんだもの、受け入れなくちゃ」

胃の奥底に氷塊を投げ込まれた気がした。それでも、目の前の男の印象は不気味に思う隙がないほど優しい。

「二つ目は、君が騙し取ったお金の全額を被害者に返済すること」

「……な……ぜ、全額……!?」

「こらこら、騙し取った側が驚いちゃいけない。君が居たグループのデータはあるから、漏れや余分が無いように調べるよ。まあ……一億かそこらじゃない?ただ、この選択肢は期限が厳しいから注意して」

「期限……?」

「そうそう。若い人もいるけれど、大抵は高齢者だからね。コツコツ返済なんてしていたら間に合わない。いいかい? 君たちが騙し取ったお金は、皆が皆、老後の資金とか、タンス預金じゃないんだよ? ご両親を亡くしたお孫さんの大学入学用の費用、障害のあるお子さんの生活資金、難病を抱えた家族の手術代、急ぎの用も沢山あるんだからさ。此処に被害者が居たら、君は良くても数回は殺される」

十条の声は穏やかだが、真綿で首を絞める雰囲気だ。

「では、お待ちかねの三つ目。僕の元でボランティアをしてもらう」

前の二択から一変、たったそれだけ言って、十条はにこにこ笑った。

「……そ、……それだけですか……?」

「フフフ、そう、それだけ。君はボランティアとして僕たちに無償で協力する。その代わり、君が取った分のお金を、働きに応じて、僕が被害者に返済する。期限はこの完済まで。手続き上、君には給与が支払われるけれど、次の瞬間には全額引き落とし。もちろん、君が別の所に就職して稼いだお金はご自由にどうぞ。どんな形であれ、完済すれば君は自由」

悪魔のような取引を持ち掛けて尚、十条は優しく微笑んだ。

「最後に、君が断るという選択肢があるけれど……僕はおすすめしない。これは君が死亡するのも同様だ。まさか死ねば天国なんて信じてないよね? 死は無だ。何もない。到達点ではなく、終着点。不幸や不運が来世の幸運に転じることはあっても、罪はそう簡単にはいかないと僕は思う。チャンスがある時に対処するのが最も良いんじゃないかな」

膝の上で両の拳を握り、国見は押し黙った。不意に、静かに隣に鎮座していた力也が身を乗り出した。

「十条サン、俺も手伝っちゃダメすか……?」

国見は信じられないものを見る目を向けたが、力也はまっすぐ十条を見ていた。

「リッキーは、彼を許すの?」

「よく……わかんないです……俺、今もばあちゃんのこと考えると、詐欺師なんて皆死んじまえって思うこと……あります。こいつがそうだって知った時、殴ろうとしたし……」

「でも、君は殴らなかったし、彼を手伝う気になっている。何故かな?」

「センパイが教えてくれたから。悪には悪になる理由があることとか、痛い目を見たくないから、みんな傍観者に混じるってこととか……だからって、よくわかんないんですけど、……俺、傍観者にはなりたくない。先に、こいつに味方するって約束したから……」

――『困ったときは、俺が味方するから』――

国見は何も言えなかった。心臓は掴むところがないほど握りつぶされている感じがする。肺腑の奥が熱くて寒い。皆が感動する映画やドラマに、何も感じなかった心が揺さぶられる。

十条は優しく微笑んだ。

「わかった。……でも、リッキーは悪党じゃないんだから、僕たちの仕事を手伝うのは禁止。彼の友達で居れば十分さ」

力也はこくりと頷いて、こちらに照れ臭そうな苦笑いを浮かべた。国見はなんだか胸がつかえて、何も言えなかった。

「さて、どうしようか、国見くん。答えが出ないなら、もう少し考えるかい?」

国見は首を振った。

「……ボランティアって……何をすればいいのか教えて下さい」

「フフ……僕たちが何者か、誰かに聞いたかい?」

予感はあるが、首を振ると、彼は穏やかに説明してくれた。

「僕たちはBGM。正式名称は『BackバックGroundグラウンドMilitaryミリタリー』。世界各国に存在する殺し屋組織だ。個人的な都合や利益ではなく、世界を滞りなく回すことを目的にしている」

「BGM……」

「名前の通り、BGMは音楽の方の意味に掛けていて、あくまで表社会の背景として行動し、表側で評価されることはない。『正義の味方』なんて言い方するとハルちゃんは怒るけど、僕らの主な標的は悪党だ。悪を悪のやり方で倒すプロフェッショナルってとこかな。……おっと、誤解のない様に言うけれど、君を殺し屋にするつもりはないよ。学業は優先してほしいし、基本的には普段通り生活してくれて構わない。君の場合、騙す相手を悪党にするってだけ」

さらりと言われた爆弾発言に、国見は目を剥いた。悪党を、騙す?そんなこと、フィクションでしか見たことがないが……

「……さ、詐欺をやる奴は慎重ですよ?いつも騙されないように注意していて、怪しいと思ったら手を出しません。俺なんかじゃ、役に立てるかどうか……」

「わかるよ。だから彼らは使い捨てる為の若者を沢山雇う。真面目な労働者が日当一万円以下の現代で、一回の受け取りに万札出すのは馬鹿みたいな高給だもんねえ。大丈夫、僕は自分が少々有名人だから君に頼むだけ。詐欺師と同じやり口で申し訳ないけど――どう?高齢者を騙すより、気分はいいと思うよ」

この男は、正義を説くのも悪事を喋る時も同じ顔でやるらしい。

「……わかりました。三つ目の提案を受けます」

「そう言ってくれると思った」

にっこり笑うと、十条は立ち上がってキッチンの方に声を掛けた。

「あの……十条、さん……? ところで俺、誰かに狙われてるんですか……?」

「あ、例のバイクか。あれはね国見くん、君はパフォーマンスのダシにされたんだよ。マジシャンが客席からお手伝いを頼むのと同じ」

「??」

「あのバイクが本気で君を傷つけるつもりなら、ハイスピードの車体で直接ぶつかった方が確実だ。仮に刃物で殺すつもりなら、普通は切り裂くより、刺すものだよ。場所も、お腹よりは首が確実。君はマフラーを巻いていないし、ハイネックでもないんだから、とても狙いやすい。……にも関わらず、相手はそうしなかった。未春が君を庇わなくても、せいぜい一、二ミリの掠り傷で済んだろうね」

「……では、なんのパフォーマンスだったんです……?」

喘ぐように尋ねたとき、すたすたとやってきた未春が、湯気を立てるカップを三つ置いた。約束?通りのカフェオレと一緒に、綺麗な抹茶色に白いラインが入ったドーナッツが置かれた。十条が子供みたいに手を叩き、力也が歓声を上げる。

「すげー! 前に言ってた抹茶ッスね!」

「新作の試食だそうです」

「やったー! ありがとうございまふうー!」

力也が早くも頬張りながら、カウンターの美人に声を掛けた。

「あの……十条さん……?」

「あ、ごめん。……君の詐欺グループから、最終的には何処にお金が流れていたか知っているかい?」

「他の奴は……ヤクザじゃないって言ってましたが……」

「似たようなもんだよ。振り込め詐欺以外にも、リフォーム詐欺とか、嫌がらせや力ずくでお金や土地を取る連中が居るよね。こいつらは所謂、暴力団系で、当たり前みたいに不動産屋やってたり、業者名乗って事業展開してたりする。君たちの親元はその一つ。その上に、更に大手グループ会社が存在するんだ。此処が、僕と因縁のある会社で……」

実に旨そうにドーナッツを齧り、コーヒーを啜って、十条は満たされた溜息を吐いた。

「小牧グループっていうんだ。表向きは海運会社だから、どこかで見たことあるかな?」

「ええと……たぶん……」

「僕たちは近々、そのトップと戦う。まあ、宣戦布告みたいなものだよ。うちのスタッフ紹介するね! みたいな感じ」

「……??」

目が点になってしまった国見の肩を、誰かがつんと突いた。

振り向いた先で、盆を持ったままの無表情な美男がぼそりと言った。

「十条さんの言うこと、いちいち真に受けない方がいいよ。キリ無いから」

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