19.Damage.

「さらちゃん」

こちらを覗き込んだ優しい瞳を、さららはぼんやり見上げた。

「……トオルさん」

「わ、懐かしい」

辺りを頼りなくふらつく瞳に、十条は目尻に皺を寄せて微笑んだ。徐々にはっきりする視界には、積み上げられた書類、新聞やファイルを含めたそれに囲まれたパソコン。本が隙間なくぎっしり詰め込まれた本棚。彼の部屋のベッドの上。

「僕をそう呼ぶということは、思い出したかい?」

「……ええ、私……どうしてこんなに大事なことを……忘れていたのかしら……?」

さららの語尾は歪んだ。目尻に溢れる涙を、長い指先が拭った。

「ごめんよ。僕が悪いんだ。恨んでくれて構わない」

「……どうしてそんなこと言うの。哲司てつじさんも……修司しゅうじも……優一さんも……私の周りの男の人は、皆、そうなんだから――……優しくて、秘密ばかりで、私なんかの為に傷付いて……」

十条は寂しそうに首を振って微笑んだ。

室月むろつきさんのことも、修司くんのことも……千間くん――いや、優一くんのこともわかるんだね。良かった。でも、気分が悪いだろう?」

「ええ……ひどい気分。……でも……良いことも沢山思い出したの……だからなのかしら……とても落ち着かない。嬉しくて、不安で、悲しい……お誕生日とお葬式が一度に来たみたいな気分……」

微笑したさららの目から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

その細い手を温かい手が握った。

「無理しないで。僕らは君を守りたくて薬を使ったけれど、辛かったと思う。いくら時間が経っても、死にたいぐらいの気持ちを全部受け止めるのは苦しいよ」

「薬……そう……私が沢山、人を殺したからなのね……?」

十条は困った様に微笑んでいたが、そっと頷いた。

「君が望んだわけじゃない。僕が、もっとしっかりするべきだった」

「ううん……トオルさんは悪くない……ずっと、守ってくれたもの……」

この弱い心が死んでしまわないように、ずっと。

「……トオルさん、優里はどこ?」

「リビングで待ってるよ。君を心配してる。荒っぽいやり方で悪かったって」

「……いいのに。ただ、どうして今日だったの……? 私、優里の区切りっていうのが何なのか、まだわからないわ……」

「本人から聞くかい?」

さららが頷くと、十条はドアを開けて声を掛けた。風のように飛び込んできた優里を見上げると、既に散々泣き腫らしたらしい目が再び潤んだ。

「ごめんね……さらら……ごめんなさい……」

「優里、いいのよ……私、自分でも思ったよりちゃんとしてる」

「優里さん、さらちゃんは例の区切りの事を聞きたいそうだ。話してあげて」

十条に促され、優里は目元を拭い、幾度が頷いた。

「二つあるわ。一つは……私が薬の開発に成功したこと」

「薬?」

「……順を追うわ。さらら、私のおじいちゃん……千間利一りいちのことは覚えてる?」

「覚えてる。あの漢方屋さんでお会いした……」

「そう。おじいちゃんは貴女に使われたパーフェクト・キラーの生みの親よ」

急に頭の奥がすっきりしたように、さららの頭に千間利一の言葉が甦る。

――自分を責めるのは、やめなさい。

あれは、いつの出来事だったかしら……?

「未春とハルちゃんも入っておいで」

声を掛けられ、ひょいと顔を覗かせた二人の青年は、それぞれに不安な顔をしていた。

「さららさん、大丈夫ですか……?」

訊ねた未春は冷静に見えたが、恐らく錯乱していると言っても良いほど焦っている。それを見上げて、さららはベッドに沈んだまま微笑した。

「大丈夫……昔と反対ね」

「……はい」

笑顔で言われて、未春は少しだけ安堵したようだった。その様子を見届けて、ハルトは枕辺に腰掛けている十条に向かった。

「俺たちを呼んだってことは、この間の続きを説明してくれるんですね」

「そういうこと……さあて、喋るかあ」

「私も知っていることは話すわ。トオル……ちゃんが見ていないこともあるから」

「ありがとう。僕が寝そうになったら、さらちゃんが叩いてね」

枕辺に話し掛ける男をじろりと見下ろし、未春が憮然と言った。

「俺が叩くんで安心してください」

十条は思い切り嫌そうな顔をした。

「それ、寝たら死ぬじゃん……」



「優一さん、お待たせいたしました」

センター・コア支部のビル。さららが見たら懐かしむか慄くか、或いは何も浮かばない入口には、当時のように救急車が詰めかけていたが、赤いランプが回るばかりでサイレンの音はしなかった。

車を降りた室月は、運ばれる男たちよりも、文庫本を捲っては眺めていた背に声を掛けた。

「……大丈夫ですか?」

彼は頷いてから振り向いた。

「あの日を思い出すな」

苦笑する千間に、室月も同じような苦笑いを返した。

「あの時は、醜態を晒しまして」

「謙遜するな。お前はあの時から出来る男だ」

答える代わりに頭を下げた室月は、立ち尽くすような千間の背に、躊躇いがちに声を掛けた。

「優一さん、少しお休みになられた方が……」

「ああ……」

室月が示す車の方へ歩き出したものの、何か、去来するものがあるらしい。乗り込んで尚、彼は同じ方を見つめ続けた。

「どうかなさいましたか……?」

気遣う様な声に、千間はどこか自嘲めいた微苦笑を浮かべた。

「……わからないが、疲れているようだ。さっきから、嫌な思い出ばかり甦る」

かつての東京支部の時代から使われているホテルを背に感じながら、千間は呟いた。

十条の緊急オーダーに従い、修司とさららを救いに降りた日も、このホテルの一室に茉莉花まりかと居た。一度や二度ではない。

何度も、あの女と同じ部屋に居た。

「優一、結んで頂戴」

あれは、十条が要海と対峙して負傷した日のことだ。

ハイヒールを履いた足先を突き出され、優一は無言で床に膝をついた。白い足首に絡まる黒い紐を器用に結ぶのを、茉莉花はじっと見つめた。ついこの間、同じハイヒールでこの男の顔を引っ叩いたが、その頬にはそんなことは無かったかのように傷一つない。

「……要海かなみったら、電話越しに半狂乱だったわ。天彦たかひこおじ様は落ち着いた御方なのに、あいつの癇癪は誰似なのかしら」

もう片足を差し出すと、青年は無言で同じように結ぶ。その顔を覗き見る様に小首を捻り、茉莉花は瞬かぬ目で尋ねた。

「優一、――理由を知っているの?」

「……いえ」

こちらを見上げることなく首を振った青年に、茉莉花は小さく唇を噛んだ。

「済みました」

静かに告げると、すぐに離れ、椅子に引っ掛けてあった上着を羽織った。

茉莉花が奪い取って放り投げたものだ。英国貴族のようなクラシック・スタイルの室内は、茉莉花が祖父に買い与えられた一室である。祖父の地位を奪った十条は、このホテルも仕切り始めたが、忌々しくも聖家の資産を奪おうとはしなかった。優位を鼻にかけるような態度を茉莉花は憎らしく思ったが、自宅よりも都合のよい城を手放す気にはならなかった。

見事なダマスク織に包まれたソファーも、アンティーク調の装飾が入ったオーク家具も、中世の姫が使っていたような大きなベッドも、皆、自分のものだからだ。

――目の前で、背を向ける青年も。

茉莉花はじっとその背を見つめた。いっそ睨んでいるほど、見つめる。上着とシャツに覆い隠された背には、茉莉花がつけたばかりの爪痕がある筈だが、もしかしたらもう消えてしまったかもしれない。口惜しいほど、意地悪な体だ。

視線に気付いたように青年は振り向いたが、目はこちらを見ていない気がした。

「そろそろ、行きましょう。要海さんが騒いでは事です」

「……」

茉莉花は黙って足を組んで座っていた。青年も黙って返答を待ったが、茉莉花はルージュの唇をぷいと背けた。

「やめるわ。どうして私が、お子様の愚痴を聞かなくてはならないの?」

「……聖さん、そう言わずにお願いします。先生はお加減が良くないので――」

「ええ、こんな夜中におじいさまに聞かせるのも気の毒よ。十条に負けてベソかいてる奴の話なんて」

「……では、私だけ行って参ります」

さっさと出て行こうとした青年の背に、茉莉花は倒れ込むように抱き付いた。かわせるだろうに、そうしない妬ましい体に力を込める。

「聖さん――」

「その呼び方はやめて頂戴」

「……小牧は放置できません。もし、ポイズン・テナーを手に入れられたら尚更――」

「だったらそんな女、殺してしまえばいいわ」

茉莉花の一言に、背から伝わる呼吸が止まった気がした。

細い腕をすっと引き抜き、茉莉花はソファーに戻った。座りなさいと命じると、青年は思った以上に神妙な顔で目の前の椅子に座った。

「名案ね。これで皆、余計な気を回さずに済むでしょう」

「……十条や、要海が何というか――」

「あら――優一、あなた意外と慎重派なのね。私が言うのよ?あんなつまらない連中、気にするのはやめなさい」

「……しかし、」

言いかけた瞬間、優一の顔に勢いよく紅茶がぶちまけられた。コーヒーテーブルの上に乗っていたそれはすっかり冷めていたが、整った顔を強かに濡らして滴を垂らす。

「私に口答えしないで」

凍り付いた声が告げると、青年は拭うこともなく頭を垂れた。茉莉花はテーブルに身を乗り出し、前髪に隠れた目元を覗き込むようにぎろりと睨む。

「優一、あなた――」

「……申し訳ありません……」

「あの子が好きなの?」

「まさか――……」

「そう。じゃあできるわね?」

「……」

ほんの一瞬、答えあぐねた頬桁に飛んだのは凄まじい平手打ちだ。微かに血が滲んでも、優一は何も言わなかった。

「悔しいでしょう? 私に好き勝手言われて。悔しいわよね? 私だって悔しいわ。あんた一人、思い通りにならない悔しさに狂いそうよ!!」

悲鳴のような怒号を叫ぶと、茉莉花は机の上の何もかもを叩き落とした。ティーポットやカップが割れる音が響き、何事かと常駐していたスタッフが扉を開けた。

「やるのよ優一!!」

スタッフらが慌てて陶器を拾う中、茉莉花は吼えた。

青年は俯いたまま、濡れそぼつ髪も腫れだした頬もそのままに座っていたが、やがて思い出したように時計を見て、立ち上がった。

「行って参ります」

一礼すると、文句らしきものを喚く女に背を向けて部屋を後にした。



「こんばんは、優一くん」

駐車場で唐突に掛けられた声に、優一は息を呑んだ。

気配には敏い自分も気付けないほど、その男は闇に紛れていた。上着もズボンも髪さえ黒い長躯の中で、顔だけがへらへらと笑っている。

「十条さん……」

いっそ、無視して通過したくなる男は、優一が呟いたところで目を瞬かせた。

「おやおや、頬っぺたどしたの?髪もまあ濡れちゃって」

急に世話焼きのおばさんみたいな口調になった男が距離を詰めてくるのから、優一は逃げるように後ずさった。

「……何でもありません。何か御用――いや、こんなところで何をしてるんですか?」

数時間前の事件のことは聞いている。だから茉莉花が要海に呼ばれたのだ。要海を含む小牧家のアウトロー15名が十条を襲撃したが、さららの介入によって要海と部下一人を除いた全員が皆殺しに遭った。十条が遺体の全てを即座に処分に回した点から、単純に殺されたわけではないのは明白だった。

十中八九、さららがポイズン・テナーを使ったに違いない。

――つまり、スプリングを接種している十条も只では済んでいない筈。事件から数時間が経過しているとはいえ、本調子ではないだろう。

ふと、「今なら殺せるぞ」と過った殺意に覆い被さるように十条はにこにこと声を上げた。

「僕はねえ……優一くんに相談が有ってきたんだ」

「……お断りです。僕が聖に仕える身なのはご存知でしょう」

大まかに上司であり、敵でもある存在に、優一は眉をひそめた。聖家に従う千間家は十条とは因縁が深い。かつての東京支部に両親と姉夫婦を殺されている十条は、支部を壊滅させる際、聖に従っていた千間家の人間を二人殺している。景三に至っては十条に敗れて尚、いつか倒してやろうと恨み言を吐いているし、景三に溺愛されて育った茉莉花も同様だ。

それがわからぬ頭ではないだろうに、この男はことある毎に馴れ馴れしく接触してくる。

「まあ、そう言わずに。君にとって悪い話じゃないと思うよ?」

「申し訳ありませんが、今は急いでいますので――」

無視して車に乗ろうとする優一に対し、十条は素早く助手席に入り込んでいる。

「十条さん――……」

あろうことか、既にシートベルトを締めてニヤニヤ手招く男は、どう頑張っても追い払えそうにない。諦めて乗り込むと、十条はパントマイムのように自分の両耳を指さし、口パクをした。

「……大丈夫です。毎回乗せた後に確認しています」

「そっか。茉莉花ちゃん独占欲強いもんね。聞いてたらゴメンねー。オジサンが大好きな優一くんと車内に二人っきりでー」

不気味な断りを入れると、走り出した車の中で十条はウキウキと喋り始めた。

「要海くんのとこ行くんでしょ?茉莉花ちゃんはどうしたの?」

「……気分が優れないようなので、僕が代わりに」

「フーン、元気そうだけどねえ」

ジロジロとこちらを見る視線に、髪をもう少々きちんと拭けば良かったかと後悔した。

「十条さん、こんなところに居ていいんですか?」

「あ、優一くんは僕の心配してくれるの?僕さあ……二リットルぐらい血吐いた気分だけど、スタッフにそんなに吐いてませんって怒られちゃって……一時間寝たら、栄養ドリンク渡されて病院追い出されたんだよ……みんな冷たいと思わない?」

くすんくすん、などとウソ泣きに興じる男にうんざりしながら、優一はハンドルを切った。

「僕は貴方の心配はしませんし、そんなことは聞いていません」

「あー、そっちか。さらちゃんなら無事だよ。信頼できる人が来てくれたから預けてきた。今は軍隊だって簡単には手出しできない」

「……それも聞いていません」

「フーン?……ま、いいけど。僕は君のそういうとこ好きだし」

どんなところだ、と胸中に毒づいて、優一は溜息混じりに肩を落とした。

「相談とは、何です?」

「聞いてくれるの?」

「聞いて、車外に追い出そうと思っています」

そんなあ~と情けない声を出しつつも、今度は嬉しそうに笑っている。感情の起伏が忙しい男は、シートにずり落ちるようにもたれて溜息を吐いた。

「……僕、今回のことでちょっと懲りて、反省してるんだ」

「ようやくですか」

「あはは……僕さあ……東京支部を壊滅させた時――必要だと思うものを残して、それ以外を廃棄したんだ。君の親族もいるから、申し訳ない話だけど」

そう言われても、優一はこの点をあまり気にしていない。叔父達を含め、千間家は時代錯誤だと思っていたし、彼らは人殺しである自分たちを何とも思っていなかった異常者だ。

「反省も促して、期待もしたよ……それがどうだい、この有様。結局、僕が与えたのは恩赦じゃなくて単なる圧力だったんだ。反省するのは僕の方だったってこと。だから、改めて……次世代を育てようと思ってる」

「何でも一人でやろうとする人の考えとは思えませんね」

十条は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「今ね、目を付けてる子が五人居るんだ。戦隊モノっぽくていいでしょ?」

意味不明なことを囀り始めた男に黙っていると、そのまま構想を楽しそうに喋る。

「一人は、君も知ってる室月修司くん。こないだの件で決心がついたそうだ。正式に清掃員クリーナーとして雇うことにした」

「……室月は、そう言うと思っていました」

修司の父親の哲司は、殺し屋から清掃員に転身した珍しい男だ。その正体は十条の両親と姉夫婦をオーバー・キルしてしまった経歴の持ち主である。尤も、哲司は殺人鬼だったわけではなく、他の仕事の際に道路で不慮の事故を起こしてしまったのだ。

この要因も、十条の姉が出産直前の身で、互いに急いでいた故の衝突事故だった。

これが元で十条十は若くして天涯孤独となる。彼は周囲が一生分泣くのではないかと思うほど泣き腫らし、まともに寝食を取ることもできずに嘆いたという。妻と死に別れている哲司はこれを大いに悔やみ、表側の事故として罪を償い、BGMを去ろうと考えたが、待ったをかけたのはあろうことか、十条本人だった。この天才少年は景三が揉み消すよう指示した事件の犯人を突き止め、事故原因となったBGMの活動にも行き着き――一週間と経たずに日本の裏側を暗躍していた組織に辿り着き、これにメスを入れる為、仇である哲司に助力を求めた。

この時、十条と哲司が何を言い交したかは知らないが、以来、哲司は清掃員として十条の為に死を惜しまない忠誠を誓っている。その意志は、息子にも引き継がれたということだ。姉同然に育ったさららの事もあるだろうが、十条は哲司を擁して以来、この父子を身内のように大事にしている。修司にしてみれば、シングルファザーの家庭に口ばかり出して何もしない親族より、しょっちゅう声を掛け、援助してくれるこの男の方がよほど好ましい身内なのだろう。

「二人目も清掃員。ただ、この子はアメリカBGMを見習って『劇団』での採用をする」

「アマデウスが抱える組織ブロードウェイですか。達人級は別人に成り代わるという……」

「そう。まだ子供だから加入はもう少し先だけど、この道じゃあ天才の気配がする。肝が据わっていて面白い子だから、その内、紹介するよ」

十条が面白いと称するからには、さぞかし癖の強い子供に違いない。思わず嫌そうな顔をしてしまったが、優一は先を促した。

「三人目も子供ですか」

「うん……三人目も、まだとっても小さい。でも、この子は多分――僕より強くなる」

優一は目線だけ、ちらと十条を見た。

「……例の子供ですね?」

「そう。僕や君と同じ、スプリング適合者だ。ただ……精神面に非常に難がある。利一さんはスプリングで無理やり成長させた時に心が死んだって言ったけど、人格が無いわけじゃないと僕は思う。たぶん、無色透明の水みたいな子なんだ。普通に過ごさせてあげたいけど、適合者である以上、身体能力がそれを許してくれない。女性ならごまかしが効くけど、男だしね。僕は彼の育成には全力で取り組むつもり……そうしなければ、彼は史上最悪の殺人マシーンになりかねない」

テールランプやライトが行き交う道路を見つめる目を見て、優一は皮肉を言おうとしてやめた。世界随一の殺し屋が、殺人マシーンにならないように人殺しを育てる――指摘するのも馬鹿らしい構想だ。それでいて、最悪の事態を避けるには、この男の力が必要なのも、同じくらい馬鹿らしい。

「四人目は?」

「四人目はねー……ミスター・アマデウスにだいぶ恩を売らなくちゃいけない。優一くん、アメリカ支部が極秘にやっているBGMの教育施設の件は聞いてるかい?」

優一は頷いた。極秘といっても、千間家が従う聖家の総統とも言うべき景三は、この施設にかなり熱を上げている。各国から集められた生え抜きの少年たちが、ネバダの広大な敷地で日夜、殺しの訓練をしているという話だ。

「その中に一人、日本人が居るんだ。射撃に素晴らしい才能を持っているって」

「日本国内では、あまり使えない才能ではありませんか」

「そうだね。使えない世の中なら、その方がいい。でも、きっと……10年か、もっと先……彼が必要になると思う。勘だけど」

「勘、ですか……」

優一は一笑に伏したが、十条の勘が規格外なのは知っている。殺し屋の統括はもちろん、実業家としてもやり手のアマデウスに恩を売るのは並大抵のことではあるまいが、この男が予言したことは大抵叶ってしまう。

その――とてつもなく不便な、キリング・ショック解消法も原因だろうが。

「最後の一人はどこの誰です?」

「此処に居るよ」

思わず振り返ってしまい、切り替わった青信号に慌てて発進させる。

「冗談はやめてください」

「僕は本気だ」

てっきりグダグダと御託を並べるかと思いきや、十条は真剣な口調で言った。

「茉莉花の折檻の理由、当てようか。さらちゃんを殺すよう言われた。でしょ?」

何か言い掛けて、優一は口をつぐんだ。

「君は聖家には過ぎた才だ。景三は人を資源だと言ってるけど、彼のやり方は力任せの買収だろ。それで君が手に入るんなら、僕はジジイが払った分の十倍でも百倍でも突っ返してやるよ」

「……貴方という人は――……」

百倍払うから寄越せとは、よほど横暴なやり方だ。

「……何故、僕を引き入れたいんです。貴方さえ居れば、小牧も聖も物の数ではない筈だ」

「まあね。僕は両家の悪党を再起不能にするぐらいわけもない。でもそれじゃ、両家の表の会社でまともに生活している人たちにシワ寄せがいく。僕はね……ほんの数分、数時間、一日で脅かされる命に知らん顔をしたくないんだ。弱い部分が傷つくと、悪意が芽吹く。僕のBGMは、金利主義の連中が作ったものとは違うものにしたい。社会の裏側で溜まる憂さが表に流れてしまわない様に、金や力で奪い取るやり方を変えていきたい。僕が君たちに頼むのは、その前の仕事だ。平和をどうしても理解できない奴らを倒す、圧倒的な力を持つ世代が、君たち。同時に、僕が間違えたら後ろから刺してくれる才能と心を持った君たちが必要だ」

落ち着きたい気持ちと裏腹に、信号は青のままだ。オールグリーンが受け入れる行く先に向けて、アクセルを踏むしかない。渋滞でもないのに自然と出た舌打ちは、何に対してだったか。

「ひとつ、質問させてください」

「どうぞどうぞ」

「つまり貴方は、現在の聖と小牧は黙認するんですね。聖はともかく、要海をどうするつもりですか」

「優一くんが協力してくれれば、一時的には大人しくなると思う。最低でも、こっちの準備が整うまでは」

「嘘ではありませんね?」

「うん。何かに誓おうか?」

「結構です。僕は神も仏も信じていません」

「じゃあ、君のお姉さんに誓おっかな。美人だし、“守ってあげたくなっちゃう”」

にっこり笑った男に対し、優一は心底嫌そうな顔をした。

「……僕は貴方のそういうところが嫌いなんだ。さっさと作戦を喋って降りて下さい」



「要海さん、お待たせして申し訳ありません」

深く一礼した青年を、要海は能面のような顔で一瞥した。

年齢も身長も優一の方が上だが、態度は要海が数倍上だ。

「優一か。茉莉花はどうした」

「少々、体調を崩しまして……今夜はご容赦ください」

「フン……あの色惚け女め。これだから女は嫌なんだ……さてはお前とヤり過ぎて立てなくなったか」

優一は何も答えずに苦笑のみに留めたが、要海は全く笑わない目許はそのままに、唇だけニヤリと笑った。

「あばずれが嫌になったらうちに来い。歓迎しよう」

「ありがとうございます」

いつも殊勝で礼儀正しい青年は、要海の気分を少なからず良くする。部下もそうと知っている為、優一が居るときは自身が行うことを大抵、任せるようになっていた。普段、高飛車なお嬢様の世話をしているだけに、優一は手際が良く隙が無い。

「お話は伺いましたが、お体は何ともありませんか」

気遣う調子の優一に、要海は頷いた。

「僕はあれの影響を受けるものを接種していないからな。だが、新薬を飲ませた部下は全滅した。まさか……うららの声を受け付けなかった連中が、さららのみに殺られるとは……予想外だった」

「しかし、収穫もあったのではありませんか。十条にはどちらの声も有効だったのでしょう?さららを研究すれば、対策が見つかるのでは」

「そうだ。十条め……どうせ奴はすぐに回復するバケモノだ。今度の事など何もなかったように邪魔をするだろう」

黙する要海をしばし見つめ、優一は言った。

「宜しければ、僕が彼女を連れてきましょうか」

「できるのか?」

「東京支部は十条に獲られましたが、聖家と小牧家が協力する姿勢は変わりません。僕も一応、スプリング適合者です」

「そうだ――確かにその通りだ。今ならお前の方が上かもしれないな!」

急に元気を取り戻した要海に、部下もほっとした。こんなことなら、初めから優一に任せれば良かった。まあ、聖家に恩を売られるのは、小牧家としては避けたいところではあるが、この際贅沢は言っていられない。十条がのさばる限り、悪の第一党勢力には決して戻れず、のし上がることも許されない。

「いつが宜しいですか」

自信があるのか積極的な優一に、要海は新しい玩具を与えられた子供のように笑った。

「明後日、親族やグループ関係者の集まりがある。つまらん年末行事だが、此処で大きくさららを披露しておけば、十条の息が掛かった者でも安易な手出しはできなくなる」

さららが大手グループ会社の令嬢と知れ渡れば、他の家に入り浸るのは目立つし、一般人面で闊歩することは難しくなる。ポイズン・テナーも不安定ながら、既に人を殺すほどの威力を示している。彼女の研究を進めれば、裏社会の勢力図が変わるに違いない。もし、人心操作や兵器のレベルに進めば、証拠隠滅に暗躍する聖の力を借りなくても良くなるし、陳腐なヤクザにムダ金撒く必要も無い。おまけにさららは見目が良い。政略結婚まで行かずとも、良い話には事欠くまい。最低限の利用価値はある。

「かしこまりました。当日、僕が連れ出します」

「頼もしいな。まあ、お前が相手で文句を言う女はそう居ないだろう。期待している」

すっかり機嫌が良くなった要海に、優一はそつのない笑みを返した。

――文句を言う女か。文句を言う女は常に居た。今は。

「文句か……」

呟いた一言に「えっ」と声を上げたのは、要海ではない。今は落ち着き払った大人になり、車を運転する室月だ。

「……すまん、何でもない」

流れゆく都会の景色に告げて、千間は開いた本に目を落とした。



溺れかけたような呼吸で、さららは目を覚ました。

「How are you feeling?」

突然、近くから響いた耳心地の良い英語に、さららは仰天して起き上がった。

「Oh、Relax、Relax……」

声の主は、さららが寝ていたベッドの数歩先のソファーにゆったりと腰掛けていた。三十か、四十そこらと思しきすらりとした白人系の男だが、きちんと整えたブロンドや綺麗な青い目を見つめていると、年齢が曖昧になる不思議な顔立ちだった。

目元は好奇心旺盛な子供っぽくも見えたが、如何にも落ち着いた言葉は老紳士のようにも感じた。シワひとつないブルーグレーのスーツを纏い、テーブルにノートパソコンを据え、手元には何かの書類を持っている。

無論、知り合いでもなければ見かけた記憶も無い。

さららが答えに窮して黙っていると、男は空か湖のような目を瞬き、口元に手をやってからコホンと咳払いをした。

「Excuse me.――アー……体調はイカガかな?サララ?」

やや癖のある日本語で男は話すと、ニヒルな笑みを浮かべた。その目尻に皺の寄る笑顔が少し十条に似ていて、さららは戸惑いつつも小さく頷いた。

「……あなたは……誰です?此処は何処で……トオルさんは……?」

喋る毎に、さららの声は泣き出しそうに歪んだ。

「Aww……Don't cryー!」

男は笑顔のまま立ち上がり、骨ばった大きな手でさららの頭をよしよしと撫でた。胸ポケットに納まっていたハンカチを取り出すと、高そうな絹地を惜しげもなくさららの目許に当て、命綱のように細い手に握らせた。

「No worries……I'm Amadeus」

自身の胸に手を当て、男は一語一語、ゆっくり喋った。

「アマデウス?……さん?」

復唱したさららに男は軽快に指を鳴らした。

「That’s right!アー……トオルは戻るよ、すぐ。ココは、Yokota Air Base.OK?」

ヨコタ・エア・ベース? 横田基地? なんだってそんなところに?

ポカンとする少女にアマデウスはにこやかに笑いかけ、ステップでもするように入口に向かい、ドアに向けて何か話し掛けた。

「I understand. I'll do it right away」

ドアの向こうから、低い声が滑らかに返事をした。

男はさららにウインクしたが、少女はどうすれば良いかわからず、ハンカチを手にして待っていると、程なくして扉は開いた。

立っていた屈強そうな黒スーツの大男も白人系だった。こちらは厳めしい顔つきのグレーの瞳をちらりとさららに向け、すぐにアマデウスに向かってトレイを差し出した。大統領のボディーガードでもしていそうな男が差し出すそれは、高級ティーセットではなく、素朴でシンプルな濃紺のマグカップとポットだ。男がドアの外へ消えると、アマデウスは鼻歌なぞ歌いながらポットを傾け、二つの分厚いマグにお茶を注ぎ、一つをさららに差し出した。少女がどぎまぎと受け取り、ぺこりとお辞儀をすると、アマデウスもぺこぺことペンギンのようなお辞儀を返した。茶は予想外の緑茶だ。あまり熱くないそれを外国人と二人、そっと啜るだけの音が響く。

静かだ。あれからどれだけ経ったのだろう?

「……」

今になって十条の血を吸った制服を着ていないことに気付いた。袖が余る大きなシャツと、スウェットパンツ。普段なら誰が着替えさせたのだろうと赤くなるところだが、さららの意識はそこまで及ばなかった。

トオルさんはどうしたろう。あんなに血を吐いて無事に済むとは思えない。自分が何かを叫んだ後、目の前の男たちが大声で叫んで苦悶していたが、彼らはどうなったのだろう。

この外国人に聞けばわかるのだろうか……?

唐突に電話の音が響き、さららはびくりと身を震わせた。

「Hi. Oh……No,No,Hurry up!」

男は何やら文句のように言うと、さっさと電話を切ってしまった。

「……あの……」

言い掛けたさららに、男は自身の口に人差し指を立てた。さららがきょとんとしていると、男はそうっと立ち上がり、ドアの傍に忍び足で近寄った。そのまま十分かそこら、男はドアの脇に張り付いていたが、ふと……向こうから誰か近付いてくる音がした。さららは気が気でない。ドアが開いた瞬間、立っていたのが十条だとわかったのも束の間、謎の紳士が勢いよく飛び掛かっている。

悲鳴が上がった。さららが固唾を呑んでいる前で、十条が自身と同じくらいの体格の男を懸命に押しのけようともがく。

「うおおお、アマデウスさん……!ちょっとおお! やめて下さ……あだだだだだ!」

いつの間にかヘッドロックを決められている十条が、目をまん丸にしたさららの視線に気付いてへらっと笑った。

「やあ~……さらちゃん、具合どお……っていだだだだ、ちょ、ギブギブギブ!」

程なくして十条を解放した男は、首をさすっている十条に英語の羅列をマシンガンのように放った。さららを手のひらで指し、しゅんとしている男に捲し立て――数分後、さららに笑顔で手を振るなり颯爽と出て行ってしまった。嵐と快晴が同居しているような男だ。入れ違いに入った屈強な男が、テーブルのものを手早く片付けてケースにしまうと、ポットやマグも回収して、これまたさっさと出て行った。

「怒られちゃった……」

しょんぼりと髪を掻きながら苦笑した十条に、さららは笑うことができずに肩をすくめた。

「トオルさん……さっきの怪我は……」

「見ての通り大丈夫だよ。それより今ので首痛めたよー……」

「はぐらかさないで、ちゃんと教えて下さい……!さっきの人達は死んだんですか? 私のせいで?」

十条は黙って頭を掻いていたが、だらんと手を下ろして頷いてから、首を振った。

「君のせいじゃない」

「うそ……! だって……!」

「君のせいじゃないんだ」

些か強く、十条は言った。彼自身が訴えるような口調だった。

「君はあの人たちを殺したかったわけじゃない。僕を守ろうとしてくれたんだよね?」

「……そうだとしても、死んだんでしょう?」

「さらちゃん、それは事実ってだけで――」

「わかりません。わからない……もう、嫌です……私のせいで、誰かが傷ついたり死ぬのはいや……! 私なんか、居なければ良かったのに……!」

声をひび割れさせるさららに、十条は深く歩み寄り、強く抱き締めた。しゃくり上げる少女の耳元に、はっきりと囁く。

「さらら、それだけは絶対に違う」

この世の真理のように、十条は言った。

「居なければ、なんて言わないで。君はもう此処に居るんだから」

「だけど……私が……あんな声、出せなければ……」

「それは、悪い大人たちが勝手にやったことだよ。今回だって、君をそっとしておけば、こうはならなかった。君のお兄さんだって、そうなんだ。悪い大人が寄って集って、彼を悪党にしてしまった。君たちは何も悪くない。絶対に」

しかと抱き締めたまま、十条は静かに言った。

「……子供はね、皆、とても綺麗に生まれてくるんだよ。僕の両親も、姉もそう言った。誰が否定しても、僕はそう信じている。悪い大人の死に、君が責任を感じることなんてないんだ」

「だからって……私が……、私が殺してしまったことは、変わりません……!」

緩んだ力に顔を上げると、これまでに無い程、間近で彼は微笑んだ。

「『自己防衛』なんて言ったら、君は怒りそうだね」

その通りなので、さららは頷いた。襲い掛かる脅威への対処法は殺害のみではないし、はずみで、と述べるには意図的だった。恐慌状態とはいえ、自分が発する謎のエネルギーが何を引き起こすのか、予感はあった。相手が死ぬかもしれないと知りつつ行ったのなら、たとえ他の手段を持たなかったとしても、自己防衛の枠からは、はみ出るだろう。

「さらちゃんは真面目だからなあ……僕は悪党が減って、結果オーライなんだけどな」

不穏な本音を穏やかに呟いて、十条は虚空を仰いだ。

「じゃあ、ここからは結果論で話そう。――まず、さらちゃんに公的な罪はない。

そもそも、この事件は“起きていないこと”になっているからね」

十条の口八丁ではなく、小牧側もこれには一枚噛まねばならないという。殺傷ならばともかく、さららの能力によって死亡した以上、死因を隠す必要があるからだ。何といっても、効果を助長させる薬の開発元は小牧側なのだ。仮に死因をでっち上げたとしても、遺体そのものから違法薬物が発見される恐れも有り、事件現場に呼び出したのも要海の部下である為、何かと都合が悪い。また、彼らとしては本件を表の人間に知られるより、裏の人間に知られる方が痛手なのだと十条は言った。

「悪党にも、体裁ってものがあるのさ」

少し面白そうに付け加える。今回の件で小牧にとって大いにまずいのは、さららを奪取できなかったことだ。もし、目下、日本で最も優れた悪である十条を、追い詰めた上でさららを手元に置いていれば――BGMは勿論、他の裏社会をも震撼させ、大々的に名を売ることができる。

ところが、十条にさららを取られてしまえば真逆の展開だ。さららの能力が露見すれば他にも彼女を狙う勢力が現れるだろうし、薬物は小牧だけの特権ではない為、類似品が出回ったり、さららをダシに要らぬ取引を持ち掛けられる可能性もある。何より、妹の危険な能力を自らの部下で証明した要海は笑い者になること必須だ。

「腐っても、元は商人だ。要海くんの側近も、その程度の計算は出来る筈だよ」

小牧のブランドに泥を塗るぐらいなら、数人の命など無かったものとする。さららは改めて背筋が冷えた。人間の最もおぞましい部分を覗いている気がした。

「私は……人を殺しておいて、何も知らない顔をしなければいけないんですか……?」

できない、とさららは思った。BGMが嘘八百で覆い隠しても、犠牲になった人間がいる事実は変わらない。亡くなった人物の良し悪しに関わらず、自己防衛だの殺意の有無に関わらず――殺害したという事実は残る。永遠に。

それに、要海は安易に諦める人間には見えなかった。この先、何度も火の粉が降り掛かるとしたら。いっそ死ぬか、自分の喉を――身震いするさららに、十条は微笑した。

「さらちゃんが毎日苦しくて泣いちゃうなら、僕が毎日慰める。それでどう?」

十条が事も無げに放った一言に、一瞬、さららは心臓が止まったと思った。

上手いことばっかり、と思わなかったわけではない。だが、十条が何の他意もなく、本気でそう言っているのをさららは知っていた。そんなことできないでしょう、と言ったところで、この男はにこにこしながらやってのけてしまうことも知っていた。

結局、さららにできたのは、曖昧にのろのろと首を振るだけだった。

「まあ……さらちゃんの性格からして、罪を認めてほしいんだろうけど、僕は無意味だと思うんだ。君は被害者で、あれは已む無きことで、誰の死も望んでいないんだからさ。人間の気持ちに至らない法に、君の若い人生を委ねるのは、僕は断固反対だ」

それでも、と言いそうなさららを片手で制し、十条は人差し指をすっと立てた。

「だから、ひとつ提案しようと思う」

「提案……?」

「さらちゃん自身で、君の脅威を取り除く」

さららは目を瞠った。脅威――つまり、要海を? 実の兄を殺せという意味か?

緊張した表情で悟ったのか、十条は慌てて手を振った。

「違う違う。誰も殺さない方法で、君のお兄さんにも諦めてもらうってこと」

上手い話をにこにこと喋った十条を、さららは見つめた。一見すると、悪魔の誘いのようだった。

「本当に、そんなことができるんですか」

「うん。律儀な好青年の手を借りればね」

「……トオルさん、例えばっかり。ちゃんと教えてください」

ごめんごめん、とへらへら笑う男を眺めるうち、さららは落ち着いてくるのがわかった。

ふと、握り締めていたものに気付いた。先程の外国人が置いて行ったハンカチだ。高級品なのだろう、しっとりと肌になじむ、吸い込まれるような深いブルーのペイズリー柄を見つめ、さららはぽつりと言った。

「返し忘れちゃった……」

先程、十条が言った“怒られちゃった”に似ている気がして、ほんの少し笑みが浮かぶ。

「相変わらず良いもの使ってるねえ。いつか返そう。彼、すごく忙しいからさ」

それまで元気でいてよ、と十条が言うので、さららは苦笑した。

「……トオルさんは、ずるいです」

「そうかい? うーん、そうなんだろうな……僕も悪党で、大人だからね」

ずるい。そんな言い方、ずるいです。

――……だったら、私は子供をやめる。大人になるわ。あなたと同じ、ずるい大人になる。

「教えてください、トオルさん。私、どんな悪いことをすればいいですか?」



 小牧グループの年末行事は、いわゆる忘年会とはやや異なる。

広く豪華なパーティー会場に親族・グループ各社の役員などを集め、一年の労を労うという点は同じだが、小牧家の権威を確認する場の意味が強い。その年に問題を起こした者、多大なミスを犯した者は、たとえ親族や重役であろうとこの場から外される。参加するということは、本家に認められ、頭取に準ずる意を表明するということだった。

特に今年は、代表である天彦が倒れて間もない為、世代交代を内外に示す場でもあった。

さすがに未成年の若者に代表の座をすぐさま渡すことは無いが、それは表の一般常識であり、裏側の主権は既に要海のものだった。

こうした時の目下の動きは機敏なもので、ぜひ娘や孫を嫁がせたいと狙っている為、天彦への見舞も程々に、誰もが目の色変えて要海の挨拶を待っていた。

「ご立派になられて――」

「若社長がいらっしゃれば、安泰ですね――」

上手くもないおべっかを大量に浴びせられつつ、要海はフロアを巡回した。お世辞はともかく、上等のタキシードを纏った要海の威圧感は十代のものではなかった。

隣には、これも見栄えのいいグレーの上下を纏った優一がぴたり付いて回っている。彼はほんの一時間ほど前、約束通りさららを伴って要海を喜ばせた。そのさららも、今は静かに後ろに従って歩いている。緊張しているのか、表情や動きは硬いが、シャンパンゴールドのシックなドレスは田舎娘をにわか令嬢に仕立てていた。遠慮がちな会釈はまあまあだが、どことなく優一の陰に隠れる様に動く辺りが反って奥ゆかしく、楚々とした印象を好まれるようだ。なかなか上手く手なずけたものだと要海は感心した。

優一によれば、十条とは会わなかったらしい。スプリングによる睡眠症を患う故の沈黙かもしれず、目覚めれば奪取にやって来るのではという言葉に不安は覚えたものの、そろそろ全員に挨拶が終わろうかという時分になっても、いまだ訪れる気配は無かった。

「要海さん、何か用意させましょうか」

部下が進み出てくるのに、要海は頷いた。飲食において、要海の警戒心は尋常ではなく、決まった部下から決まったものしか受け取らない。未成年というのを差し引いても、酒を好まない彼のグラスは無色透明の高価な水で満たされた。それを眺めやり、優一は隣のさららに問い掛けた。

「お嬢様も何か召し上がりますか?」

「お……お嬢様はやめてください。私は、お酒以外なら何でも……」

一言一句が目眩を帯びたような注文に、優一は良い香りのアイスティーを持ってきた。

さららが殆ど呷るようにグラスを傾けた直後、すぐ傍の男が自身の腰の辺りを振り向いた。

「どうかしたの?」

連れの女性が怪訝な顔をするが、男は首を捻った。

「いや、何かチクッとした気がしたんだが……気のせいみたいだ」

ちょうどその背後を空のグラスを片手に通り過ぎた優一のもう片方の手が、何かを弾いた。

ピン、と弾いた指先の動きを、誰も目に留めない。いや――目に留めることなどできない一撃は、あまりに素早く、無音だった。弾かれた細い銀光は、グラスを受け取った男の脛に一瞬だけ留まり、ひと呼吸も待たずに逆再生のように優一の袖に消えた。

その頃、要海は最後の相手と挨拶をかわしていた。親族にして重役を務める男とその妻は、笑顔も程々に、どこの小娘ともしれぬさららを値踏みするように見回していた。

「さららお嬢様は、何かご趣味はありまして?」

上等の着物で固めた親族が尋ねると、さららは縮こまるようにして首を振った。

「いえ、私はこれといって――……」

「あら、では是非わたくしのサロンにいらして下さい。生け花を少々、嗜みますの。今度、個展を開きますから――」

誘いなのか自慢なのかわからぬ申し出にさららが真四角に頷いていると、その背後から落ち着いた声が掛かった。

「さららお嬢様は、歌が得意ですよ」

さららがぱっと振り向くが、優一の素知らぬ顔は興味深そうな夫婦に向いている。

「そうなの? 要海さん」

問い掛けに、要海も意外そうな顔をした。ポイズン・テナーと歌唱力は別物の筈だが、才能が無いとは言い切れない。

「僕も初耳だ」

「聴いてみたいわ。ピアノも有りますし、如何かしら?」

馬の骨を試す良い機会、とばかりの夫人の意見に、要海はどうでも良さそうな顔をしていたが、先程から優雅な音楽を奏でている楽団の方に顎をしゃくった。

「折角だ。恥をかかぬ程度にやってみせろ」

先の事件以来、さららの力が及びそうな部下は配置していないし、さららがあれをコントロールできないのはこちらも掴んでいる。さららは不安そうな顔をしていたが、優一にそっと肩を叩かれ、きゅっと唇を引き結んで共に歩いて行った。優一がさららを伴い、楽団に声を掛けるのをのんびり見ていた時だ。

肩をポンポン、と気軽に叩いた者がいる。振り向いて、要海はぎょっとした。

「じ……十条……!」

こんばんは、と呑気な笑顔を浮かべた男に、要海は思わず後退る。警備は万全だと言うのに、一体どこから紛れ込んだのか? 大声を上げそうになるのを慌てて呑み込む。一般人を前に騒ぎ立てては、せっかくのイメージが台無しだ。必死に焦りを抑える要海に対し、十条は髪を整え、きちんとタキシードを纏って余裕の表情だ。背が高い分、非常に目立つ男は、何も知らない出席者の注目を密かに集めていた。何も知らぬ女性たちがちらちらとこちらを伺い、楽しげに囁き合う。

「今頃……何の用だ? もう、さららは身内の者だと示して――」

「まあまあ。さらちゃん歌うんでしょ? 一緒に聴こうよ」

誰が貴様なんかと、と呟く要海のグラスを、十条はしげしげと見つめた。

「要海くんてさ……薬は主治医が処方したもの以外は絶対飲まないんだって? 食事も毒味させてるって聞いたよ。そんな中世の貴族みたいにガチガチに疑ってたら疲れない?」

「貴様には関係な……――」

言い掛けて、手元のグラスを見て狼狽した。まさか、毒?……思わず辺りを見渡すが、先に飲んだ者は何ともないし、めいめい、グラスの中身は異なる。日本酒やワイン片手にさららを眺め、話し掛けたりしている親族や会社関係者に、倒れたり、気分を害した様子はない。

……只の揺さぶりか? 往生際の悪い男だ。

「……貴様こそ身辺には気を付けたらどうだ。今すぐうららの声を食らわしてもいいんだぞ」

「ハハハ、あれはもう食らいたくないねえ……でも、やめた方がいい。あれは今、君にも効果があるんだから」

「……なんだと?」

「パーフェクト・キラーって、殆ど無味無臭なんだって。僕はスプリングしか知らないんだけど、どうだった?」

要海の手からグラスが滑り落ちた。それは厚い絨毯に落ち、割れることはなかったが、ごろりと転がり、とろりと水を吐いた。

「……嘘を、嘘をつくな……!」

そう言った要海の声は震えている。数名が何事かと振り向き、グラスに気付いたウェイターがこちらにやって来る。

「うん。ウッソー」

両手を広げてにっこり笑った十条に、要海は頬をひくつかせた。気分だけなら血潮が沸騰するかと思ったが――しなかった。沸いた湯に氷塊を投げ込まれたような妙な感覚に、瞠目する。いつもの自分なら、顔を真っ赤にして怒号を張り上げる筈だ。

真っ赤どころか真っ青になり、要海は息を呑んだ。

「――その様子だと、効果は抜群ってカンジ? 飲んだのは嘘だけど、ちゃーんとパーフェクト・キラーは接種してもらったみたいだね」

「う、嘘だ……一体……いつ……?」

空調設備にでも仕込んだのか?いや、いくらなんでも薬剤なんぞ散布すれば気付くし、これだけ大勢居れば瞬く間に不快な湿度になる。

「さあ、要海くんが接種したのはいつだろ? 会場に入る前かな? 僕はわからないや」

「どういうことだ……? 貴様、何をし――……」

言い掛けた要海の言葉を遮ったのは、軽やかなピアノの前奏だった。

――やめろ。

さららがマイクに声を流し込む。

やめろ、と叫んだかはわからなかった。

シャンデリアが煌めく下で、さららは歌うというより、声を出した。

音楽ではない単純な音の響きが、会場に広がり、包む。

興奮して落ち着かない妹を宥めようとして、無意識に呟いていた……言葉を持たない伝達音。それは、頭の中を――冷たく透き通った何かが満たすように広がった。高原に佇む湖面を眺める様に、透明な響きは広がって、広がって、広がって――静まり返って、伸びやかな余韻を湛えながら、消えた。

頭を抱えたり、倒れる者は居なかった。

しかし皆――呆けたように虚空を見つめ、呼吸以外の全てを忘れた様な顔をしている。実際、彼らが今日仕入れた情報のすべて、複雑に散らばったそれらは静かにならされて平らになり、まっさらに消えてしまったようだ。

すぐ傍に控えた優一と、遠くから見つめる十条だけが、変わらぬ様子で佇んでいる。

悠久が流れた様な気がしたとき、そっと肩を叩かれた。

「終わったようだ」

優一が静かに言った。

彼が自身の耳から栓を抜くのを見てから、さららは辺りを見渡した。

誰もが、木偶人形になったようだ。

体はこちらを向いているが、ただそれだけだった。

「皆さん、本当に私のこと……忘れたんでしょうか。それに……元に戻るのかしら……?」

不安げに呟いたさららに、優一は気の無い様子で言った。

「爺さんが嘘をついていなければ、大丈夫だろう。パーフェクト・キラーは脳の海馬に一時保存中の情報をクリアにする。それに忘却を促すポイズン・テナーをかぶせた以上、来場者は君のことも、今日初めて会った人間や、今朝の食事内容も、この次に入る情報で上書きされる」

「……要海さんは、覚えていますよね?」

「ああ。だが、パーフェクト・キラーの効果が残る間に君に手を出すほど無謀ではない。猶予さえあれば、後はあの人が何とでもするだろう」

そう答える視線は、のほほんと歩いてきた男に向いている。

「おつかれさま。上手くいったみたいだね」

「十条さん、例の物は手に入れましたか」

ハイハイ、と十条が取り出したのは何の変哲もない透明ケース入りのCDだ。

「うららさんの音声データは一応コレだけらしい。ウェブ上も調べさせてるけど、こればっかりは復元されたらもうしょうがないや。スマートフォンは、鳴ったら壊すしかないね」

「要海の所持品は」

「ロック掛かってるから持ってきちゃった。後で返さなくちゃ」

「部下の物も確認してきます」

去っていく優一を見送ってから、十条はCDをさららに差し出した。

「これはさらちゃんにあげるね。妹さんのものだから」

CDを受け取り、さららはしばしそれを見つめていたが、ふっと顔を上げた。

「ごめんなさい、トオルさん」

短く断った直後、さららはケースを開き、ぽとりと落とした中身をヒールで踏んだ。

ぱき、と小さな音がし、絨毯の上で無残な姿になったそれを、さららは几帳面にケースに戻して――にこりと笑った。

十条も同じように笑い掛けた。

「良かったの?」

「はい。あの子の本当の声は、私が知っています。だから……いいんです」

十条は何も言わずにさららの頭を撫でると、頷いた。

「よし、じゃあせっかくおめかししたし、穂積や哲司さん達も誘って美味しいもの食べに行こっか!」

「でもトオルさん……この人たち、いつまでこのままなんですか?」

周囲の人々は、パントマイムでもしているように硬直し、誰一人こちらを気にしていない。

傾いたグラスから、真っ赤なワインがひたひたと垂れていた。

「えーと、利一さんは『少々強めのショックを受ければすぐに気付く』って言ってたから……」

きょろきょろと周囲を見、天井を見つめ、十条は悪そうな笑みを刻んだ。

「大丈夫。僕らが出た後、スタッフに頼むよ。行こ行こー」

「優一さんは……?」

さららが不安そうに見ると、要海の部下のスマートフォンを何やら操作し、そのポケットに戻した青年がこちらを向いた。

「優一くーん。ゴハン行こーよ」

「行きません」

にべも無い回答に、十条はニヤニヤ笑ってさららを振り返った。

「後処理してくれるって。責任感が強いんだよ。イイ男だよねえ」

さららでも聴こえる声でヒソヒソ言う男に、優一は舌打ちでもしそうな顔だ。

「十条さん、スプリンクラーを使いますが、宜しいですか」

「気が合うね。それがいいと思うな。君、残るんなら浴びないところに居たら?」

「そういうわけにはいかないでしょう。ステージ前に居なければおかしいですから」

言うなり元居た場所に引き返していく青年の袖を、さららは思わず掴んでいた。

「あの……! お、お世話になりました……!」

「……気にしなくていい」

かぶりを振って行こうとする腕を尚も引き留め、さららはどもりながら言った。

「……その、か、風邪……ひかないでくださいね……!」

肩越しに振り向いた青年は、ほんの少しだけ照れ臭そうな顔をして、頷いた。


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