17.Siblings.

 部屋に流れていたのは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」だった。

迫り来るように唸る打楽器と、崖を転げ落ちるような絃楽器が激しく混じり合う。

部屋の中央に座していた小さな老紳士は、手元に置いていたリモコンのスイッチを皺だらけの指で押した。唐突に音が消えると、むしろ無音の圧力が室内に満ちた。

「優一、よく来てくれた」

景三ひじり けいぞうは、杖と肘掛けを頼りに、椅子から身を起こした。

「利一の葬式以来だな。巧一は元気か」

ややしゃがれた声は、地の底から響くようだ。

「はい。先生もお元気そうで」

千間が隙のないお辞儀をすると、景三は皺の割には異様に鋭い目をすっと細めた。

「掛けなさい」

向かい合うと、景三は杖に両手を置き、深く椅子にもたれた。皺と骨で作られているような老人だが、黒革の椅子と同化すると威厳はいや増した。

「今日はどうした」

「ご無沙汰していましたので、ご挨拶に」

「そうか。ちょうど昔話がしたかったところだ。巧一は脚が悪いし、利一はさっさと逝きよった。茉莉花も忙しい。今ではお前ぐらいしか話し相手がおらん」

「心得ています」

「ところでお前、まだ結婚はせんのか」

「色々と都合がありまして。ご容赦ください」

「ふ……奥手かね? そうは見えんが――まあ、よい。優里に先を越されても、お前の次代が当主なのは変わらん。うちの茉莉花もお前を気に入っておる。その気があるなら口を利いてやるぞ」

千間は不敵な一笑に伏すと、先を促した。この青年は、幼い頃からあまり意見しない。

それが聞き分けが良いとは異なるのを、景三も知っている。

「聡いお前が、28年前に子供だったのが悔やまれる。利一もそう思っておったろう。されば、我々の計画を若造に“持っていかれる”こともなかった」

景三の言葉は静かだったが、徐々に微かな炎がゆらめく。外の音も聴こえない無音の空間で、千間は大人しく拝聴した。

「『春の祭典』さえ、上手く行けば――この国はもっと豊かになった筈だ。馬鹿どもを排除できたものを、あの若造め……」

杖が、枯れ木のような両手に音も無く締め上げられた。

「優一」

「はい」

「何故、十条を殺さんのだ!」

何処からそんな大声が出るのか、突如、一喝した景三は堰を切ったようにまくしたてた。

「お前は充分育ったろう! 何のために……何のためにわしらが出資したと思っとるんだ? え? つまらんヤクザ者を血祭りにあげる為ではないぞ?『スプリング』を投与したのも、お前個人の為ではない! わしらは腐れ行くこの国を憂慮し、財を注ぎこんだのだ!世を食い荒らすだけの馬鹿な芋虫どもを排除し、誇り高き日ノ本を蘇らせる為に!」

千間はやはり、答えなかった。怒り狂い、肩で息をし始めた老紳士を静かに見つめた。

「わしはもう永くないだろう――この老人の人生すべてを、お前は無駄にするつもりではあるまいな?」

「存じております。心疾患と伺いました」

「知った上で放任しておるわけか? たわけた小僧め。この老体がタダで死ぬと思うなよ?『スプリング』も『パーフェクト・キラー』も隠した。わし以外は誰も知らぬ。わしが死んだ時は、あれがばら撒かれる仕組みもある」

「存じております。先生が如何に脅迫されようと、お話しになられないことも」

「お前がわしを脅すか?」

老紳士は高らかに笑った。体全体が大口開けているような笑いだった。

「利一もできなんだことを、孫のお前がやるか?」

何の為だ、と景三はせせら笑った。

「家に従い、親に従い、己の欲望に従い、『スプリング』がもたらす力にすがるお前が?」

できるものか。意味もあるまい――歯を剝き出して笑った。

「わしは『先祖返り』と呼ばれたお前に期待したが、これがお前を守る為の言い訳なのは知っておる。お前がそう在るために血の滲むような努力したのもな。故にわからん。何故、十条なんぞを放置しよる。研いだ牙を無駄にするな。その気になれば、お前は出来る」

千間は口元を歪めた。何を企むか、得体の知れない笑みに、景三は少しばかりひやりとした。ひょいと伸ばされた手が、リモコンのスイッチを押した。途端――ゆらゆらと、妖しく煙るような音――『春の祭典』が、スピーカーから響き渡る。

「――先生、いいえ、BGM東京支部の元・代表殿。僕はこれまでの人生、あなた方が造る囲いの中で生きてきました」

曲調が揺れ、ぶれ、高鳴り、踊り、また揺れては震える。

「祖父は僕に殆ど関わろうとしなかった。しかし、亡くなる少し前に一言だけ忠告した」

音のざわめきから、刺すような緊張感が迫る。

「『時が来たら、お前が聖景三を始末しろ』と」

景三の顔色が変わった。杖をちらと見るが、すぐに目を離すまいと目の前の男を睨む。白んだ薄いこめかみに、冷や汗が滲んだ。

「焦るなよ、爺さん」

千間の口調がガラリと変わった。管楽器の音が、打楽器の音が弾ける。

「スイッチは壊れていない。“来られる人間が居ない”だけだ」

「優一、貴様――!」

「そうお怒りにならずとも、先生には感謝しています。些末な計画には、少々呆れていますが」

老紳士のこめかみに筋が浮くが、鋭い声が「動くな」と命じる。

「昔話をしたいんだろ? 聞いてやるから話せ」

「一族がどうなっても構わんのか? 優里の腹の子が――」

「黙れ。大人しく28年前の屈辱を話してみろ。貴様の誇り高き国とやらの為に、数十の子供を不幸にした経緯をな」

「……――下衆な言い方をするんじゃない!『春の祭典』は、犠牲の上に成り立つ、理想国家構想だ! 年間、約二兆から三兆もの損失を生む芋虫どもを役立ててやろうという温情だ! たかが数十のガキなど、人類の生贄の歴史からすれば安いものだろうが!」

「たかが、数十か。過激派の思想は何でも金勘定で困る」

「わからん奴だなあ! 穏健派ぶった連中の戦後教育が上手くいったと思うか? 奴らが生んだのは莫大な借金となまっちろい百万近くの芋虫だ! わしはなあ、私産という私産をBGMに、学園に、例の施設にも投じてやったんだ! 汚名で滅びるだけの貴様の家にも、バカな政治家にもだ! それを、それを――あの若造……十条が全て掻っ攫いおった……!いいか、『スプリング』も『パーフェクト・キラー』も渡さん! 貴様にも、小牧の小僧にも何一つ渡すものか!」

ハハハハハ、と千間が声を立てて笑った。せいぜい微笑む程度しか笑わなかった男が、ソファーにもたれ、天を仰いでげらげら笑う。こんな姿は初めてだ。小学生の頃でさえ――きちんと座り、黙って大人しくしていた子供が。

わずかに狼狽する景三を、刃のように切れそうな目が見据えた。

「国の教育がずさんなのは認めてやってもいいが、戦争屋が国家を代弁するなよ。吠えて屈服させる時代は終わったぞ」

千間が宣言のように言い放つと、景三は生意気な態度の若者を睨み、尚も皺がれた声を張り上げた。

「貴様――いつから十条と繋がっている? 茉莉花が黙っていると思うか?」

「十条と? せめて利害の一致と言ってくれないか。茉莉花なら、確かに完遂するだろう。先生の構想と、差異があるかはともかくとして」

――何だと?

「ところで、先生の演説は愉快ですが、肝心な場所が抜けていますね。取り寄せたアメリカの化け物を放したのは、どなたの失態ですか」

「……」

景三は黙した。何故、こいつがこんなことを尋ねる。

BGMアメリカ支部が極秘に進めた、ネバダの育成施設――マグノリア・ハウス建設には、景三も一枚噛んだ。というより、頼み込んで無理やり金を差し込んだも同然の出資だった。軍事国家に育った景三には、徹底した殺し屋教育の末、どんな人間が生み出せるのか興味があった為だ。

施設に関与した北米支部と南米支部の代表それぞれに働きかけ、資金援助の見返りに教育プログラムの提示を求めた。施設内での取り組みは、概ね安定していたと言って良かった。しかし、結果は惨敗。

施設内では優秀だった少年たちは、施設を出て間もなく連続殺人犯こと、シリアルキラーと化した。理由は様々あるが、北米支部のアマデウスはプログラムの途中から危険は感じていたらしい。それでも押し切ったのは、もうその頃には少年たちが後戻りできない戦闘技術を保持するレベルに到達していたからだ。始末が可能か試験的に行った訓練では、彼らは圧倒的な力を発揮し、並の軍人程度では相手にならないことがわかっていた。

途中で脱落した者を除き、最初で最後の卒業生は27名。所属先は北米と南米で分け合う予定だったが、残った27名中、一人は発狂して捕縛され、二人は失踪、23名が、卒業後にめいめい、仕事とは無関係の惨殺事件や連続殺人を犯し、BGMに殺処分された。

――たった一人を除いて。

当時の景三は、この処分に憤慨した。目的は違うが、殺人衝動を抑える薬を千間利一――当時、医師だった優一の祖父に作らせていたからだ。

「アマデウスよ、人は資源だ。あれほど手を掛けた子らを安易に処分するとは何事だ」

電話越しになじった景三に、北米支部の代表は落ち着き払った態度で応じた。

「ケイゾー、私も後悔している。初めから我々は、人間の指導などすべきではなかったのだ」

「何を弱気な。こちらの新薬開発は伝えた筈だ。何故待てなかった?」

「我が国の悪い癖だ。銃社会の崩壊は早い。私とて待ちたかったが、一人に委ねる結果を生んでしまった」

「一人? どういうことだ。それは唯一の生き残りのことか」

「そうとも。生き残りという括りならば、彼の他に行方不明が二名、一名が監禁状態だがね」

景三は震えた。一人だけ――物になる少年が現れたのか。狂うことなく、同じ殺しのエリート達を全て始末するほどの、才能の持ち主が!

景三は手元に呼び寄せたかったが、アマデウスは彼にしては珍しいほど頑なに拒んだ。

「ケイゾー、悪いがそれはできない。貴方に借り受けた資金は私から返却しよう。この件から北米・南米支部は手を引くと決めた。貴方もそうして頂く。少年は私が責任を持って管理しよう」

「南米はそれで納得しているのか。その少年に価値があるなら、金を出した甲斐は充分あると捉えるが?」

「ならば、はっきり申し上げよう。貴方にあの少年は扱えまい。――貴方は既に、自国の天才少年に敗れたのではないかね?」

「そ、それは……」

十条十。たかが十代の少年一人に城を追われた男に、言い返す言葉はなかった。しかも、景三が息をしているのはアマデウスが間に立ってくれたおかげだ。十条はアマデウスの介入を歓迎し、TOP13に推挙してもらうことを条件に、景三を東京支部代表の座から降ろすのみで矛を収めた。景三がアメリカからエリートの少年を呼び寄せたがる理由を知らぬアマデウスではなかった。

「ケイゾー、貴方の自国を想う憂慮と努力を私は評価している。しかし、私はもうトオルとは同志なのでね。彼は貴方の思想に近い計画を持っているし、仲良くするのは悪くないと思うよ」

「わしの邪魔をした若造にかしずけというのか」

「傅く? ああ、仕えるという意味かい。いいや、ケイゾー、それはナンセンスだ。日本には良いレストランが沢山あるだろう。旨い食事を共にし、握手でもしたまえ。我々の目的は略奪でも戦争でもないのだから」

「な、ならばアマデウス、貴公とその子を招待しよう! 貴公が好きなシェフを呼んでも構わん――どうだ?」

「嬉しいが、それはまたの機会にするよ――東洋の平和な島国で、才能を飼い殺されるのも困るのでね」

尚も食い下がろうとして、景三は黙した。この言い分では仮に少年を呼び寄せても、アマデウスの監視は避けられない。かつて、欧米の裏社会を震撼させた狙撃手に見張られるのは、常に銃口突きつけられるも同然だ。

「では……監禁状態の少年はどうだ。閉じ込めるだけなら何処に居ても構うまい」

「例の新薬とやらの検体にするつもりかね?」

アマデウスは電話越しに何やら思案しているようだったが、やはり断った。

「残念だが、日本の安全が保障できない。我々が監禁という措置を選んだことを考慮してくれたまえ」

仕方なく景三は引き下がったが、諦めるつもりはなかった。

理想の実現には、力が必要だ。千間家に投資したのもその為だ。遥か昔の戦を起源に、維新の頃に暗躍した暗殺一家は、時代の変化によって既に没落間近だった。裏社会から消えようとしていた千間家を景三がわざわざ引き留めたのは、遥か昔、聖家を主とする上下関係だったことに由来する。両家にこの関係は失われて久しかったが、聖家が時代に合わせて変革したのに対し、千間家は因習はびこる性質を変えることなく、滅びを前に尚も暗殺術にて復興しようともがいていた。

たった一人、戦友の利一を除いて。

「利一、お前は何とも思わんのか」

当主の利一は常に冷めた印象の男だ。たまたま、本家唯一の男児に生まれた為に当主になった男は、分家が命を狙っていると噂されるほど一族では浮いている。戦後に勉強し直して医師になり、過激派である次期当主の息子にも嫌われているらしく、景三が間に入ってようやく事を収めていた。戦争時から目を掛けてやっているつもりだが、利一は昔も今も、半ば耳を傾けながら、半ばは別の事を考えているふうだった。

「何とも、とは、今の日本のことをか」

若い頃から無口な利一が低い声で尋ねると、景三は頷いた。

「戦争を経験しておきながら、昨今の日本を嘆かぬのは非情というものだ。利一よ、巧一はやる気がある。『先祖返り』の孫はなかなかのものではないか。お前はどうする? 分家の二人を殺した十条に報いる気はないのか」

景三と共に戦火をくぐった男は、椅子にもたれたまま、組み合わせた自身の手元を見つめていた。

「景三、お前、茉莉花とは会っているのか」

唐突な一言に、景三は唖然とした。

茉莉花は唯一の肉親たる孫娘の名だ。聖家は子に恵まれず、景三を最後に男児が生まれていない上、彼の娘二人の内一人は結婚することなく事故死、茉莉花の母は彼女を産んで間もなく癌を患い亡くなった。後を追うように婿である茉莉花の父と、長年連れ添った妻も病気で失った景三にとって、茉莉花は可愛い孫娘というだけではなく、次代を担う跡取りでもあった。現在は景三のグループ会社の一端と、聖彩学園の理事に赴任した茉莉花は、会うこと自体殆どないが、関係は良好だ。

「大学も女学校だったが、良い人は居ないのか」

急に孫娘の動向を尋ね始めた友人に、景三は首を捻った。利一が家のことについて聞いたことなど殆どない。強いて言えば、親族が大事の時は必ず見舞いに訪れ、葬式の手伝いも買って出たが。

「どういう風の吹き回しだ、利一。茉莉花がどうかしたのか」

「……私は、茉莉花がまともな人間と幸福になれるなら、それでいいではないかと言いたいだけだ」

手元を見ていた利一が、目元だけで景三を見た。真意が汲めない澄んだ目は、こちらの姿を映すようだった。

「それは……わしにBGMから降りろと言っているのか?」

「降りる云々より、十条に構うのはもうやめろ。茉莉花は聡い子だ。お前の執念で奴と殺し合わせるのは可哀想だ」

「フン、そうならぬ為にお前の家を擁したのではないか。わしが一体、お前たちにいくら出したと思っているんだ? 巧一も足さえ傷めなければ物になったろうに――さてはお前、可愛い孫を差し出すのが嫌になったな?」

「そう思うなら、それでも良い。確かに私にとって、優里と優一は幾つになろうが何者になろうが、可愛い孫だ。お前の野望にくれてやるつもりは毛頭ない」

景三は信じがたいものを見るように利一を見た。一人息子の誕生にさえ、にこりともしなかった男が、孫を可愛いだと?景三に頼まれるまま、顔色変えずにパンクロニウム注射を何本も打ってきた男が、唐突に何を言い出すのか?

「景三……私は先日、駄目だと知りながら、“例の子”を見てきた」

“例の子”という言葉に、景三は息を呑んだ。

「驚いた。あれは『人間』だった。『スプリング』は、彼の命を救う代わりに、心を殺した筈なのに……」

信じられなかった、と利一は言った。表情に変化は見えなかったが、彼は確かに驚愕しているようだった。

「私はそれが、十条との差だと思った。若造と侮った頃から、我々はとうに負けていたんだ。今更ケチをつけるのは、始末が悪くはないか」

景三は内心、歯噛みした。たかが孫、たかが一度の敗北、たかが赤ん坊――戦友の牙を抜いたものすべてに唾棄したい気持ちを抑えたのは、プライドだった。見た目だけは悠然と構えたまま、景三は頷いた。

「――良いだろう。お前が耄碌したのは惜しいが、最後に一つ頼みを聞いてくれ」

「……言ってみろ」

「アメリカBGMの連中が、ネバダの施設を出た化け物を秘密裏に飼っている。こいつを日本に移す。お前に輸送後の“飼育”を頼みたい」

「そんなものをどうするつもりだ」

「万一の時は『パーフェクト・キラー』で抑止できる。こいつに『スプリング』を使えば、十条より強くなれるに違いない」

利一は憐れむように首を振った。

「お前の理論は酔狂過ぎる。アマデウスには相談したのか?」

「奴は十条に傀儡されて役に立たん。利一、やらぬというなら、わしはそれなりの手段に出るぞ。天彦は保たぬだろうし、小牧の小僧は何を考えているかわからん――優一はともかく、優里は如何様にもできるのを忘れるな」

「……では、こちらも約束してもらおう。十条を倒したら、化け物はどんな手を使っても処分しろ。『パーフェクト・キラー』は『スプリング』の為の薬物ではない。運よく適合しても、例の子や優一のように平常心を保てる確率は一割に満たない」

「平常ではなくとも、わしは良いがな」

景三の一言で、利一は説得を諦めたようだった。

アマデウスも、強引な奪取を黙認した。恐らく、利一と同様に老人の説得を無駄と悟った為だ。『春の祭典』計画の為に造った施設――聖家が所有する島の中で、ひっそりと化け物は暮らすことになった。

利一は週に一日程度、化け物の様子を見に来た。

景三の望みでは、利一は『スプリング』――身体能力の飛躍的向上を促す禁止薬物を、適度に投与する筈だった。適合すれば、腕力や回復力が異常に向上するが、適合したとしても何らかの障害を負うことになる、ハイリスクな薬物を。不適合の場合は重い精神障害を来し、研究段階でも九割の被験者の気が狂った薬物を。

「化け物は、不適合だった」

利一が愛した孫を見上げて、忌々し気に景三は呻いた。

「その上――利一はわしを裏切った。奴め――不適合と知るや、化け物に『スプリング』ではなく、『パーフェクト・キラー』を少しずつ投与し、牙を抜こうとしくさった。茉莉花が気付かねば、せっかくアメリカで得た訓練さえも無駄になるところだった」

「だから、先生は祖父を殺したんですね。復讐の邪魔になると思って」

思いの外、穏やかに言う優一をじろりと見て、景三は頷いた。

「……昔は、利一もやる気があった。米兵に侮られる悔しさも、自国の愚かな教育にも、奴は憤慨していた――多くの友や隣人が、銃弾に、爆撃に、飢えに、もがき苦しみ、血反吐にまみれて死んでいったからだ。生き残ったわしらは、祖国の新たな未来を考える同志である筈だった」

「同志として、先生は新政府と米国に尾を振り、祖父は……戦時中に自国兵士と敵兵向けに研究され、製造には至らなかった薬物の完成に漕ぎ付けた――」

「そうだ!『パーフェクト・キラー』は、殺意や破壊衝動を抑える強力な精神安定剤。人体強化剤の『スプリング』と並べば、無駄な戦費無くして強国面する連中を制圧できる。『春の祭典』は美しい計画になる筈だった――自らの殻も破れぬ芋虫どもに、『スプリング』の羽を与え、『パーフェクト・キラー』が無力化する者を撃破する……!」

計画の話となると目の色輝く老紳士を、優一は揺らぎのない目で見つめた。ずさんな教育に育った、ずさんな教育しか知らない哀れな遺物を。

「祖父を殺した後、先生は化け物に『スプリング』を投与しましたね? かなりの量を一度に。それが十年前だ。結果、彼はスタッフ数名を惨殺し、島の中を暴れ回った。業を煮やした貴方は『パーフェクト・キラー』を過剰投与したが、元には戻らなかった。こちらの薬が持つ記憶障害を来し、随分、苦悶したようですね」

景三は檻越しに化け物を見たが、それはまさに手負いの化け物だった。大柄な体を檻の片隅に縮め、がたがた震えていた。麻酔銃によって捕獲された為かと思ったが、パーフェクト・キラーの副作用らしく、何か嫌な記憶を思い出しては、檻を壊さんばかりに揺さぶり、殴り付け、英語か別の言語か判別つかない言葉を叫ぶ。そしてまた、疲れたようにうずくまり、名前らしきものをぶつぶつと呟いた。こちらの声も届かず、筆談も上手くいかず、意思の疎通は不可能と診断された。

「だから、先生は半ば廃人に近くなった化け物を、十条の家に放った」

「それが、どうした……? 散々、金をかけておきながら、あの若造を殺し損ねたことを笑うつもりか?」

「いいえ。先生は、自慢の化け物がどうやって死んだかご存知ですか?」

「当たり前だ。十条が殺したのだろう。バケモノがバケモノを屠った……奴の妻子を殺ったのは傑作だったがな」

「ハハ……やはり、ご存知ないようだ。化け物退治をしたのは十条ではない。貴方が歯牙にもかけず、犠牲を良しとした子供の一人ですよ」

「な……何……!? そんな子供――……」

視線を泳がせた老人は、不意に喉に何か詰まったような顔をした。

景三の頭に浮かんだのは、幼い少女だ。保育器にしがみつき、引き離そうとするスタッフを物ともせぬ力で抵抗し、大声で喚いていた。

そのすぐ傍には、保育器と少女を不安な面持ちで見ている少女が居る。

あれは何だと鬱陶しそうに尋ねた景三に、スタッフは冷や汗混じりに答えた。

――小牧天彦の愛人の娘たちです。片方が例の子供を執拗に気にしておりまして――……

「老いさらばえた頭で思い出したか?」

「優一……!!」

「もういいでしょう。愉快な演説、大変楽しませて頂きました」

優一の小馬鹿にした調子の拍手が、バイオリンの燃えるような旋律に混じった。

刹那、景三は手元の杖の先端を勢いよく引き抜いていた。杖の先端に化けていた小型拳銃がすかさず優一に向く。この至近距離なら構える必要などない。迷わず発砲した景三は、少なくとも怪我を負わせたと確信した。

「ジジイにしては素早いじゃないか」

目の前に居た筈の優一が、真横で喋った。その言葉が言い終わらぬ内に、景三の手元に鋭い痛みが走った。

「――ッうぐぅ……!」

拳銃を握っていた手を、長く細い針が貫いていた。景三の手を机にピン止めするように突き立ったそれは、細さからは信じ難い強度で刺さっている。

「ゆ、優一ィッ……! わしを殺せば……、薬は……ッ……!」

「あんな欠陥品が何の役に立つ? 貴様が屍の上に呑気に胡坐をかいている内に、時代は変わったんだ」

冷たい声音と共に、伸ばしたもう片手にずぶ、と刺さる嫌な感触に景三は血の気が引いた。

乾いた口からこぼれる絶望が、音に掻き消える。

「『スプリング』も、『パーフェクト・キラー』も、既に価値は失われた」

不思議とよく聞こえる声に、両手を標本のように机に貼り付かせた景三は目を剥いた。

「な……なんだと……!? 貴様、一体……」

「呑み込みの悪いジジイだ。俺の姉は、祖父より優秀だったということだ」

「ば……バカな……!優里が……!? しかし、優里は、茉莉花が……――」

「そうだったな。お前の敗因は、孫娘の変化に気付かなかったところだろう」

「茉莉花が、何だと――」

振り返り、優一はにやりと笑った。

「本人に聞け。運が良ければどこかで会う」

土気色になった顔で景三は何か叫ぼうとしたが、体を蝕む痺れに声は掠れ、苦鳴は激しい曲調に押し潰されるように掻き消えた。いつの間にか、室内に数人の気配がする。翳む視界に映るのは、揃いのツナギを着た者たちだ。マスクをし、年齢や性別の曖昧な連中は、黙って室内を動き回り、各所を拭いたり、何やら大きなアタッシュケースを置いたりした。

彼らと何やら喋っていた優一は、ふと床を這うように蠢く景三を見て、呆れ口調で呟いた。

「――まるで芋虫ですね、先生」



 センター・コア支部の廊下を文庫片手に歩いていると、通りすがりの連中が勝手に避ける。それが、ギムレットの仕事後の風景だと皆が知っているからだ。雑談していた人間も、電話を掛けていた者も声を潜め、静かに目礼だけで見送る。

「お帰り、優一」

ソファーにもたれていた聖は、入室してきた千間に声を掛けた。隣に影のように立っているのは、ハルトにサインを頼んだ男だ。

「只今戻りました」

丁寧に腰を折った千間をしばしゆったりと眺め、聖は唐突にぷーっと吹き出した。

「千間さーん、もう演技はいらないよ」

艶やかな女の顔は、瞬時に軽薄そうな若者のそれに変わっていた。声は妖艶な魔女から、よく通る中性的なものに変貌している。千間は「そうか」と一言述べたのみで、手前のソファーに腰掛けた。すかさず、立っていた男が近寄って腰を屈めた。

「優一さん、何かご用意致しますか?」

「いい。それより、そいつの醜態は大丈夫なのか」

顎をしゃくるのは、ハイヒールをポイポイと足先から放り、ソファーに寝そべった聖だ。知らぬ者が見たら、女王の気がおかしくなったかと肝を冷やす光景に、男は頷いた。

「先日、フライクーゲルがネズミを見つけてくれました。やはり小牧のスタッフでしたが、先の電話で触れましたか?」

「いや、要海かなみはプライドの高さではジジイを上回る。只の催促だ。早く妹を連れて来いとな」

「あの人、ホントにさららさんの兄なわけ?どんな母親から生まれたんだか~……」

自室でだらけるような聖に、千間はにやりと笑った。

「そのまま返してやろう。お前の気色悪い女装には、そろそろ我慢が切れる所だった」

「うっそ、マジィ? 千間さんノリノリかと思ってたわー。ねえ、むろちゃん」

室ちゃんと呼ばれた男は肩をすくめて苦笑いだ。

室月むろつき、苦情は正直に言った方がいいぞ」

「はい、優一さん――茶話さわの女王像は“本物の聖”よりもオーバーなので、冷や冷やしていました。優一さんはよく合わせられたかと」

「だ、そうだ。茶話、誰をモデルに演じたんだ?」

ウィッグの髪を玩んでいた聖茉莉花ならぬ茶話明香さわあすかはフフフ、と女の声で笑った。

「92年公開アメリカ映画『氷の微笑』のキャサリン・トラメル」

明香は唇を尖らせてソファーに座り直すと、脚を組んだ。

「しゃあないでしょ。俺は聖さんのこと殆ど知らんもん。どうせシャロン・ストーンには及びませんよーだ」

苦笑する男らが含み笑いを交換し合うと、明香は千間を見て言った。

「その顔だと、ジジイの始末は済んだみたいですね」

「わかるか」

「わかりますって。もっとスッキリした顔すりゃいいのに。積年の恨みを晴らしたんでしょ? お爺ちゃんの仇討ち――」

「お前は有能だが、お喋りが過ぎる」

不機嫌そうに遮られて、聖は視線を斜め上に向け、ちろりと舌を出した。

「お遊戯会とやらは上手くいったんだろうな?」

「十人中、脱走一人含む不合格四人。ま、上々じゃない? 十条さんには半分残りゃ良いって言われたんで」

「脱走者はどうした」

「俺は崖から落っことしたけど、室ちゃんがスタッフに拾わせた。息してるんで、不合格者と一緒に搬送するよ」

「そんな奴、労働力になるのか」

「さあね。先方は“何でもいい”ってことだから、いいんじゃない?」

千間は鼻で笑った。確かに知ったことではないが、搬送先は紛争地域や災害地域だ。戦闘員ではないが、現地ボランティアとして瓦礫撤去や被災者支援などの復興支援をするのだ。ろくに動けない者の利用法も、明香は知っているようだった。

「お前は殺し屋じゃなくて正解だ」

「オーバー・キルしちゃうから?」

「違う。気分屋だからだ」

明香がルージュの唇を尖らせたとき、横から低い声が掛かった。

「優一さん、此処を引き取る手筈ですが」

「ああ……面倒だが、仕方ない。お前達が出た後に済ませよう」

「お手を煩わせて申し訳ありません。明香を送った後、すぐに戻ります」

「気にするな。僕はキャサリン・トラメルと二人になる方が嫌だ」

「こら、優一、生意気言うとアイスピックで刺しまくっちゃうわよっ」

慣れた手つきでハイヒールを履き直した明香が指さすと、千間はうるさそうに手を振って笑った。

「室月、頼んだ」

「はい」

「はいはーい。またねー千間さん」

ひらひらと手を振った後は、そこに居るのは茶話明香ではなく聖茉莉花だ。頭からつま先まで隙のない女に化けた聖を見送ると、本物の茉莉花ではないと知りながら、わずかに胸の内を逆撫でられた。自信に満ちた顔、薔薇の香水、マニキュアが塗られた長い爪、押し付けがましいほど女を主張する全て。首に絡んでくる腕、しっとりした皮膚、食らいつくような唇。全部だ。

怖い奴、と千間は内に呟いた。

以前、ハルトと力也が座っていたソファーに腰掛け、高い天井を仰ぐ。

「……」

立つのが面倒だと思う程度の疲労感がある。良かった。自覚がある内は、突然倒れることはない。「スプリング」とは、祖父もよく名付けたものだ。

「春」という意味は景三に配慮したこじつけのようなもので、実際は「ばね」を指す。ばねの持つ復元力やエネルギー蓄積などの特徴からイメージされた名は、何度も負荷が掛かる性質上、疲労によって破壊してしまう可能性も含まれる。

千間は「スプリング」の数少ない適合者の一人だが、何故か自身の疲労感がわからない疾患を患っている。単純に活動の限界時間があるわけではなく、行動内容によって変化する為、気を抜くと唐突な全身疲労で動けなくなってしまう、危険な症状だ。

「……」

自然と、溜息が出た。明香はすっきりしたらと言ったが、想像していたよりも、不快なものだ。

ぼんやりしていた耳に、誰かが慌てて走る音が近付いてきた。忙しないノックの後、返事を待たずに扉は開いた。

「……あっ……千間さん! た、大変です……!」

「どうした」

「聖会長が、亡くなられたと――」

「聖さんには」

「つい先ほど外出なさったばかりで……ご連絡していますが、繋がらず……同伴した室月にも通じません。別のルートから連絡を受けているかもしれませんが……」

「心配するな。聖さんの所で“何か”は起きない。起きるのは此処だ」

えっ、と声を上げた男は、千間が立ち上がる所までしか、よくわからなかった。叫び声を上げた姿で床に倒れたが、喉からは音にならない空気だけがこぼれた。その喉を矢のように穿った針を引き抜き、一振りして千間は部屋を出た。

「いま、何か――」

音に気付いて覗いた男は、トン、と千間に肩を叩かれてポカンとした顔のまま膝を折り、倒れた。スーツの肩口に、見えない程の針穴があったが、それだけだ。千間は立ち止まらず、廊下を渡った。徐々に周囲が騒がしくなる。

阿鼻叫喚よりは、大人しい苦鳴と悲鳴を床に落としながら、千間は廊下を渡った。



『トリック・オア・トリートー?』

はにかみ半分の小さな声に、トリート!と返事をして、ラッピング済みのお菓子を手渡す倉子と力也を遠巻きに眺めながら、ハルトはいつかの譲渡会を思い出していた。

元気な倉子や陽気な力也は子供に人気があるようだ。

「おや、ハルちゃん……堂々とサボり?」

相も変わらずぼさぼさの髪をそのままに、生あくびの十条がカウンターの隣に座った。

その前に立っていたさららは、両腰に手をやって呆れ顔を浮かべた。

「サボりはトオルちゃんでしょ。ハルちゃんはさっきまで大変だったのよ」

「大変って?」

「はあ……英語圏の方々が、ちょっと……」

答えるハルトは溜息混じりだ。基地内に関わらず、この界隈に外国人が多いのは知っていたが、帰国子女を良いことにマシンガン並のお喋りを食らったのだ。終いには彼らの親まで続々とやって来て、アメリカの近況やゴシップ、日本での暮らしについて話したがり、濃密なバニラやユリの香にひとしきり揉まれた挙句、ようやく解放されたところだった。

「はは、やっぱりハルちゃんはうちの人気者になったねえ」

コーヒー片手にニコニコする上司をじろりと睨んでやるが、文句らしい文句も出ない。

「それにしたって、今年は随分大勢来てるわよ。ドーナッツなんて、あっという間に無くなっちゃったし。トオルちゃん、何処まで営業したの?」

「ああ――たぶん、ディックの触れ込みだと思うよ。彼こっち長くて知り合い多いから」

ハルトが内心、報酬の赤いボディに凹みでも付けてやろうかと思案したところで、入口から元気な声が響いた。

「ハッロー! 皆げんきー?」

軽薄な若者丸出しの調子で現れた人物に、ハルトが思わず毒を吐きそうになった刹那、いち早く嫌そうな顔をしたのは倉子だった。

「ゲッ! あっくん……!」

先程までの優しいお姉さんモードは何処へやら、害虫でも見つけた様な顔をした倉子に、当の若者――明香は全く動じていない。あまつさえ、ひらひらと手を振ってみせる。

「わー、ラッコちゃーん、今日も可愛いね~!」

褒められているにも関わらず、倉子はチッ!と舌打ちするや、サササッとハルトの隣に回り込む。ほおお~と明香はニヤニヤ笑って顎を撫でた。

「ラッコちゃんは『ハルちゃん』派なん? お目が高い」

おいおい……変な派閥作らんでくれ、とハルトが思う傍ら、倉子が可愛いというよりは数倍ドスの利いた声を出す。

「……ハルちゃん、あっくん知ってるの?」

「こないだ会った」

“先日はどーも”と、こちらも意味有り気に言ってやると、察しの良い青年はにっこり微笑んだ。現在まで電話も無視していたとは思えない愛想だが、先日かぶっていた好青年の顔はやめたらしい。誰かをからかいたくて仕方のない道化が、今にもステップを踏みながらやってきそうな笑顔だ。

「フフ、こちらこそ。その様子だと、ミー君に色々教えて貰えました?」

「まあな」

よくも騙しやがったなと言いたいところだが、余計に舐められそうなのでやめた。現に、にんまり笑っている明香に懲りた様子は微塵もない。今すぐ胸倉掴んで問い詰めたいハルトより、先に噛み付いたのは倉子だ。

「あっくん、何しに来たのよ?」

同僚に対して警戒心丸出しの言葉に、さららに頭を下げていた明香は胸を張った。

「俺? 仕事仕事。ちゃんと呼ばれて来たんだって。ねえ、トオルさん?」

うん、久しぶりだねーとか言っている上司まで、倉子の胡乱げな視線に晒された。

「まあまあ、ラッコちゃん、仲良くしてあげてよ。あっくんもいつまでもイタズラ小僧じゃないからさ」

「フーン……へえー……ふーん……」

倉子の視線は剣呑さが増すばかりだ。一方、イタズラ小僧などと呼ばれて尚、全く堪えていない明香は十条に負けず劣らずのスマイルだ。ハルトは呆れた苦笑を返した。

「歓迎されてないな、非常勤」

「イヤイヤ、ハルトさん、これがラッコちゃんなりの愛情表現で――」

「違うしッ!」

威嚇するように吠えた倉子は、こそこそとハルトの背に話し掛けた。

「ハルちゃん、気を付けて。あっくんはすぐヒトのこと騙すの! 声真似とか超ヤバイんだよ。あたし何回も動物とか鳥の鳴き声で騙されてるんだから……!」

「……それ、もっと前に聞きたかったな……」

「でもさあ……ラッコちゃんて女の子なのに、虫とか爬虫類とか全然怖がらないじゃん。フェアじゃないよね」

「残念でしたー。大体さあ、女子に虫やヘビって発想がサイテー。ハルちゃんもそう思うでしょ?」

などとやっている内に、どたどたやって来たのは力也だ。

「あっくんじゃーん! 久しぶりー!」

こっちは諸手を挙げての大歓迎だ。

「おおーリッキー!」

がっしりハグするという暑苦しい再会をやった二人の後方では、未春が眉間にわずかな皺を寄せている。ほぼ無表情の面に「うるさい」と書いてある気がした。

「リッキーは仲良いんだな」

「ハルちゃん、リッキーは誰とでも仲良いよおー……」

まだ嫌そうな顔をしている倉子の声と、互いをバシバシ叩いて笑い合う若者二人に妙に納得していると、明香がサッと未春に視線を移した。

「ミー君~! いつ見てもイケメ、ンぶう……」

力也と同じように飛び上がって行った明香に対し、指一本触れさせずに喉輪をキめてやる未春の表情は無だ。おお……かなり仲良しのご様子で。

「ミーぬん……ちょ、のどはやめて、のどは……」

ギブアップを唱えた明香を放るように解放し、未春は十条に向き合う。

「今日、あっくん居るんすか」

「うん。仲良くね」

「仲良くはしません。仕事はします」

にべもない回答に明香がキイキイ声で抗議を唱えたが、清々しいほど未春は無視した。

「ちぇ、ミー君てば機嫌わるー。俺が『ハルちゃん』騙したの、怒ってんの?」

え、そーなの? と十条が呟いた瞬間、空気が凍った。全員の視線を集めた未春が“無”を貫けたのは数十秒あったか、無かったか。

「……外、掃いてきます」

ぼそりと言うなり、視線の輪をすたすた抜け出て行ってしまった。

「なんだ、アイツ……」

呟いたハルトに、ちらちらと視線が集まった。

「ハルちゃんてさあ……」

沈黙を破ったのは倉子だ。

「ときどき、すっごくニブチンだよね」

ニブチンの意味はわからなかったが、何故か全員頷いたので不平を言おうと思ったとき、件の人物は即座に戻って来た。

「十条さん、さららさん、お客さんです」

振り向いた先に立っていた人物に、ハルトは目を瞬いた。

「こんにちは」

パンツスタイルのスレンダーな女性は、今日は白衣ではなかったが、穏やかに微笑んだ。

優里ゆり

さららが呟いた。



 一般住宅地の合間、古き時代から時が止まった様に、千間家はある。

幅広い敷地を持つ家は高い漆喰壁に囲まれ、豪商か武家屋敷といった風の邸宅は、良い枝ぶりの松や梅を配した立派な中庭や、大きな倉もあった。見るからに周辺の有力者だが、千間家はその屋敷以上に目立つことを拒み、ひっそりと潜むように暮らしている。

ほんの数時間前、その廊下を渡っていた千間優里は、変わらぬ風景に冷めた視線を送っていた。数ヶ月前までは、盆や正月の頃しか帰らない娘がやって来ても愛想笑いさえ程々の両親は、最近とにかく機嫌が良い。それが気に入らなかった。

気の毒な両親は待ちかねているのだ――この家の“伝統”を引き継ぐ子が生まれるのを。

「むかっ腹が良くないと思って、来なかったのよ」

誰も居ない廊下で、優里はそれほど大きくもない腹に話し掛けた。

お腹の子にゆっくり家を見せたい、という優里の言葉を、両親はすんなり受け入れた。

見えるわけがないのに何をバカな――と呆れたが、おかげで今は殆ど使うことのない廊下をのんびり歩いていられる。

「広いお家でしょう。この家はね、“しきたり”っていう網やロープががんじがらめに張り巡らされていて、全員が従わなければ身動きできないのよ」

その一つは、男児が優先されることだ。

優里が生まれた翌年、母親はすぐに弟を出産した。普通の家なら何という事は無い出産だが、千間家では何よりも男児を欲する故の伝統だった。

「女の子は何も気にせず可愛がれるから良い」と、親戚の誰かが口にするのを幼い優里も聞いた。実際、両親は殆ど弟に付きっ切りで、優里は手伝いの者や祖父母に育てられた。

両親に甘えや我儘ひとつ通用しないことを、優里は早くに悟った。言い含めたのは祖父だ。

「優里、お前は賢い子だな」

言う事をひとつ守る度に祖父が褒めてくれるので、優里は弟を恨まずに済んだ。

それに、そもそも優里はひとつ違いの弟が嫌いだったことはない。一緒に遊んだことさえないが、同級生の少年みたいにふざけたりしないし、静かすぎるということもない。一体両親はどう育てたものか、弟は適度に落ち着いていて、頭の良い子だった。

廊下を渡る足を止めて見つめたのは、窓から見える一室だ。

優里は時折、親の目を盗んではその部屋に居た弟に会いに行った。弟が姉に興味を持っていないのは知っていたが、彼はうるさそうにしながらも相手をしてくれたからだ。

彼の方が兄みたいな態度だったのが、少し不満だったけれど。

「ねえねえ、優一」

その日も、優里はこっそり弟の部屋の窓から顔を覗かせていた。優里の部屋は弟の部屋と普通の家二軒分は離れていたが、ご近所でも訪ねる感覚で歩いて行った。

「優里、また踏み台を持ってきたのか」

何度片付けられてもめげない姉に、呆れた様子で弟は苦笑した。大抵、優里が顔を覗かせても彼は椅子から動かない。今日は本を読んでいたようだが、優里が読んでいる小学生向けではない――ココアみたいな色の分厚い本だ。

「そんなの面白いの?」

表紙に絵もない本をつまらなそうに指すと、弟は面白くはないと言って本を閉じた。

弟の部屋にはそんな本ばっかりだ。他の子が夢中なゲーム機も漫画も車の玩具もない。優里もそれほど興味はなかったが、ぬいぐるみや絵本など、玩具はそれなりに持っている。弟の部屋は、そういう楽しいところがちっともない。

「今日は何の用?」

可愛くはないけれど、日に日にハンサムになる弟は、一応は話を聞いてくれる。優里は得意げに、持って来ていた物を差し出した。

「朝顔の種を貰ったの。おじいちゃんと育てるから、咲いたら優一にも見せてあげるわね」

楽しそうに話す優里に、弟は苦笑混じりに小さな黒い種を見ていたが、突然、サッと片手を上げた。急に厳しい目で襖の方を睨む。

「――優里、部屋に戻れ。母さんが来る」

鋭い声音に、優里は慌てて頭を引っ込めた。弟は耳が良い。只でさえ、足袋を履いている母が廊下を歩く音なんて優里にはさっぱりだったが、見つかると叱られる。踏み台にしていたスツールを素早く畳み、できる限りそっとその場を離れた。角を曲がる前に振り向くと、開いていた窓は、静かに――しかし、ぴしゃりと閉じられた。

今も見えるような光景を思い浮かべ、優里はふう、と溜息を吐いた。

約束の朝顔が咲く頃、弟は外出が増え、優里の来訪を断ることが多くなった。

つまらなくなった優里は、祖父の店に入り浸り始めた。医師を引退した祖父が、半ば趣味で営む漢方薬の店は独特の香りがして、珍しいものが沢山ある。家に居るよりもずっと楽しい。此処では優先される弟は居ないし、彼と比べられることもない。

……まあ、居た方が面白いと思うけれど。

そう思っていた優里にとって、祖父の利一は数少ない味方だった。

白髪頭の痩せて厳めしい顔付きはちょっと怖く、無口な祖父は笑うことも殆ど無かったが、声を荒げたり怒ることもなかった。優里が弟に何かしたいと言うと、家の者は皆一様に首を振ったり他の事を勧めるが、利一は二つ返事で手伝ってくれた。

誕生祝いや手紙を渡しに行ってくれたり、竹とんぼや紙飛行機の作り方を指南し、花の世話を手伝ってくれる。部屋に行けばお菓子をくれるし、テストの良い点を見せれば褒めてくれた。それに、季節を問わず、藍染めの甚平を着た姿は背筋も伸びていてかっこいい。夏祭りでは、可愛らしい浴衣より利一の甚平が良いと駄々をこねると、同じものをオーダーメイドして、お揃いを着て行ってくれた。父親や母親と来ていた子供より、優里は誇らしい気持ちだった。

弟が来てくれなかったのが、寂しかったくらいだ。……少し。ほんのちょっと。

家の中から訪ねることは殆どなかった襖をそっと開いてみると、中は昔のままだった。子供らしいものが何もない部屋は記憶のまま、弟が居ないだけの静けさを保っている。

障子から透ける光が、細かな埃をきらめかせた。跡取りとして居座ればいいものを、祖父が亡くなった後に出て行ってしまった部屋の主は、もう此処には帰って来ない気がした。

「ええと、左の本棚の――……」

当時はココア色に見えた臙脂の本をひとつ手に取り、優里はページを捲った。祖父は弟に秘密を渡すとき、こうして本を介していた。

優里の誕生日と同じ数字のページに、朝顔の押し花が入ったしおりが有った。殆ど色褪せることなく鮮やかな紺の朝顔を手に取り、優里は呟いた。

「……ほんと、貴方の叔父さんはカッコつけよね」

押し花を貼った紙の隙間に別の紙が挟んであるのを確かめ、微笑した。

開いたそれには、懐かしい筆文字で、あまりにも苛烈な遺言が綴られていた。


〈優一へ 

長い間、何もしてやれず、すまなかった。私は恐らく、戦友に殺されるだろう。

お前たちを自由にしてやれなかったのが心残りだが、ここまでの様だ。

私のすべては、優里に託す。どうか、守ってやってほしい。

優里は必ず、私が果たせなかった目的を果たすだろう。

だから優一、その時が来たら、お前が聖景三を始末しろ。

千間の家など捨て置き、姉弟仲良く幸せに過ごせる日を祈る 利一〉



「もう二十年近く経つのね」

カウンターの前で感慨深そうに呟いた優里に、さららは笑顔だけ返した。

その顔を、ちょっと恨めしそうに優里は見上げる。

「さららがちっとも変わらないから、私まだ高校生の気分よ」

「だったら優里の方がおかしいわ。お子さんが出来たのに、変わらないなんてずるい」

優里は傍目にはそれほど大きくは見えない腹をひと撫でして笑った。

「アラフォーの女が慰め合うなんて、泣けてくるわね」

「ほんと」

くすくす笑い合うと、確かに、別のカウンターを挟んでお喋りした頃に戻った気がする。

「優里、今日はどうしたの? ずっと忙しそうだったのに」

ここ数年、医師の仕事が忙しいと言って会えずにいた友達は、ゆったり辺りを見渡した。

DOUBLE・CROSSの店内は、再びやって来た子供たちで盛況していた。明香が見事なジャグリングを披露し拍手を浴びる傍ら、倉子や力也が菓子を配っている。

それを眺め、入り口のガラス戸をまんべんなく眺めてから、優里は目を細めた。

「うん……ひとつ、区切りがついたから……報告みたいなものよ」

そう言ってから、優里は再び間を置いた。医師になった辺りから、この女友達は奇妙な間を空けて話すことがある。合間に周囲の景色をじっくりと見渡す癖も、その頃からだ。

「報告って……何か良いこと?」

ピンと来ずに、さららは首を傾げた。優里は気の無い様子で、別の方角を眺めた。

愛想笑い一つないのに、女性に囲まれている青年が居る。その近くには、屈み込んで外国人の子供と流暢な英語で話す青年。それらすべてに、柔らかいジャズが降り注ぐ。

「優里、どうかした?」

「ううん、何でもないわ。報告は別に、後でもいいの」

「話しておいて、それ?」

気まぐれにしか思えない言動に、さららは怒るでもなく苦笑した。優里の視線は再び店内を巡り、子供たちに惜しみない笑顔を撒いている十条に目を留めた。

「ねえ、優里。お腹の子は順調なの?」

「ええ、問題ないけど、よく蹴飛ばすのよね。男の子だからかしら」

振り向いてから、腹を撫でて優里は首を捻った。さららも友人の腹部を見つめて、にっこり笑った。

「性別は関係ないって聞くけれど……元気が有っていいじゃない」

「旦那も言うのよね、きっと私似だって」

「あら、優里に似ればとてもいいわ。体は丈夫だし、ハンサムになるもの」

「それでいて、ウロチョロするやんちゃな子になるんでしょ?」

再び顔を見合わせて笑い合うと、優里はバッグの中から小さな紙袋を取り出した。

「頼まれていたものよ」

「ありがとう」

自然に受け取ったが、さららは紙袋を見つめて不思議そうな顔した。

「直接渡すなんて、久しぶりね」

「そうかもね。今日は特別。区切りがついたの……それだけよ」

「その区切りって、何のことなの? 優里、大丈夫? なんだか少し元気がないわ」

「私は元気よ。……嫌なことは、弟に押し付けたもの」

さららはおっとり小首を傾げた。

「どういうこと……? 待って――弟さん……? 優里に弟なんて……」

「ええ、居るわよ。昔から生意気で、カッコつけの弟が。名前は優一。わかる?」

「優一さん……」

さららは独り言のように呟いてから、頷いた。

「そう……そうね。やだ、私、もうボケちゃってるのかな? ……そうよ、この間、お会いしたばかりなのに」

「会ったのね。私も少し前に会ったわ……次に会うのが、少し怖いけれど」

「怖い? ……どうして? あんなに――……優しい人なのに」

「……“今日の貴女は”優一のことがわかるのね?」

さららの目が、幾つか瞬いた。カウンターを回り、友人の傍に屈んだ。

「やっぱり変よ。どうしたの、優里……? この間、お店に来た優一さん……入院していたそうだし――」

「さらら、これは私の実家の問題。決着がついたのよ。だから私はおかしくなんてないの。とっても元気。これからもっと、そうなるわ……」

「――……決着って……何の話?」

「今度は、貴女の番ということよ、さらら。私と会った日を、覚えてる?」

「優里と……? それは――あのお店でしょう……?」

「そうよ。私のおじいちゃんのお店」

利一の店「紺夜こんや」は、優里の城だった。

主に漢方を扱う店だが、西洋ハーブやお茶も販売する、利一の趣味のようなものだった。

優里が一番好きだったのは、入って正面に見える大きな薬棚だ。カウンターの奥にそびえる小さな格子に仕切られた棚には、同じサイズの大きなガラス瓶が整然と並んでいて、名前や効能が書かれた木のプレートも同じように並んでいる。天井から垂れた、大正時代のステンドグラス・ランプも素敵だが、使い込まれてくすんだ棚や机の濃い飴色も素晴らしい。瓶の中身はもっといい。乾いて白っぽい葉っぱや、赤や黒、緑の木の実を、スコップで掬うところなんて最高にわくわくする。利一は奥で何か難しそうな実験をしているが、休む時にはカウンターの端にお気に入りの椅子を据え、ラジオやジャズを聞いたり、新聞や本を読む。お店に来る人間は業者が中心で、それほど多くない為、優里は店内を眺めたり、持ち込んだ椅子に腰掛けてカウンターの上で絵を描いたりしていた。それが落書きから宿題になる頃には、店の薬品を全て把握し、十を数える頃には利一の代わりに店番をすることもあった。たまに優里を目当てにやって来るお客も居て、微々たる自尊心を慰めてくれた。

高校に進学した頃、優里は医師を目指して勉強に力を入れていたが、やはり学習机は店のカウンターが良いと言い張った。祖父は根負けし、たまの店番と引き換えに優里に勉強スペースを提供してくれた。一族は、姉が医師になれば弟の役に立つと踏んだようだが、正式にカウンターの半分を手に入れられれば、優里は何でも良かった。

そんな……ある日。梅雨の穏やかな雨の日、珍しい客が訪れた。

古い手押し扉は、開くたび、錆びた真鍮のチャイムがカラン、と侘しく鳴る。優里はノートと山のような参考書から顔を上げた。立っていたのは、制服姿の少女だった。

――女の子だ。

優里はちょっと驚いた。冷え性に悩むOLや主婦が来ることはあっても、学生が来るのは稀である。どこかで見た様な一般的な紺のブレザー姿で、歳は同じくらいの綺麗な子だ。肩より短い髪も、化粧っ気のない色白の顔立ちも、お手本のように制服を着た立ち姿も、なんとなく品がある。よく見掛けるナイロンのスクールバッグを肩に、只の透明ビニール傘の雨露を気にしながら傘立てに納めるのをつい眺めてしまってから、優里はこっそり祖父に近寄った。利一はマイルス・デイヴィスの『So What』を聴きながら居眠りをしていたようだが、客が来ればすぐに目覚めた。

どういうわけか、利一は歳の割に弟のように耳が良い。

優里は精一杯できる小声で話し掛けた。

「ねえ、おじいちゃん。女の子が来てるわ。珍しいわね」

利一は皺だらけの首を伸ばして少女の方を見ると、頷いた。

「お前の方が良いかもしれん。声を掛けてやりなさい」

もちろん、と優里はカウンターを回って少女に近付いた。

「こんにちは。何かお探し?」

棚を見上げていた少女は優里に振り向くと、やや困惑した表情を浮かべつつ目礼した。

――引っ込み思案なのかしら、と優里は思ったが、よく考えたら漢方の店に入って、女子高生に声を掛けられるとは思わないだろう。優里はなるだけ穏和な笑顔を浮かべた。お客にはこの店を好きになってもらいたいので、誰にでも優しく話し掛けると決めていた。

「突然ごめんね。私、ここの店主の孫で、優里っていうの。処方はできないけれど、おじいちゃんに言いづらい悩みがあれば、何でも聞くわよ」

「お孫さん……そうなんですか」

少女は覇気のない声だったが、ぺこり、と頭を下げた仕草は丁寧だった。

「ありがとうございます……悩みは……その……大したことないんですけど、少し、見せて頂いてもいいですか」

「どうぞどうぞ。ごゆっくり」

にこやかにカウンターへと戻った優里だが、――嘘だわ、と思っていた。

大した悩みがないどころか、難題を山ほど抱えている顔だ。あれは恐らく、勉強や色恋沙汰ではあるまい。まだ若くて可愛いのに、と興味を引かれた優里は、静かに――しかし、棚の薬ひとつひとつを凝視する少女を、のんびり眺めた。

「案内は要らんか」

利一の問い掛けに、優里は頷いた。そうか、と利一は席を立った。

「では、私は少し茶を頂いてこよう。お前はどうする?」

「頂きます。あの子にも下さいな」

「わかった」

祖父は程なくして、盆に青磁の湯飲みを二つと、小さな菓子を二つ持ってきてくれた。

こういうところは、祖父は名前の通り、実に気が利く。孫のにこやかなお礼を背に祖父が裏に消えると、優里は少女を手招きした。この雨では、他の客は来るまい――遠慮する少女をカウンター前の椅子に座らせ、優里は斜めに向かい合う形で茶をすすった。少女は落ち着かない様子で、面接にでも来ているような顔つきで茶を見つめた。

「只のお茶よ。変な漢方は入っていないわ」

変な漢方という発言が可笑しかったのか、少女は少しだけ表情をやわらげた。

「……頂きます」

細い両手が茶碗を包む仕草も綺麗だったが、優里は違和感を覚えた。これでも育ちの良い優里から見て、少女の所作は躾けられたものというよりは、無理に型にはめて矯正したような、強張った印象だった。

――この子、何に怯えているのかしら。

そもそも、怖いと思うなら、若い娘には用が無さそうな店に入っては来ないだろう。

「眠れないなら、そういう漢方もあるけど」

優里が唐突に呟いた一言に、少女は弾かれたように優里を見た。

「……わかるの?」

「クマがあるもの。若い子がそんな風に疲れた顔してるのは大体、寝不足だもん」

「……あなたも、あるわ」

やや躊躇いがちに言われて、優里は自分のスクールバッグから鏡を出してくすっと笑った。

「ホントだ。認めるわ、私は寝不足」

少女は優里の前に何冊も重ねられた医学書や参考書を見て、にこりと笑った。

「受験生ですか?」

小さな問い掛けに、優里は首を振った。

「二年。そんなに優秀じゃないから、頑張らないと追いつかないの。でも、塾行くの嫌なのよね」

「どうして?」

「自分の力でやりたいから。私が勝手にやることに、お金掛けること無いと思って」

確固たる決意は、家の力を借りたくないという優里の自尊心の為だったが、少女はそれが経済的な気遣いだと勘違いしたようだ。

「偉いんですね」

偉い――あまり言われたことのない一言に、優里は嬉しくなった。照れ臭くて、慌てて菓子の包みを開けて口に入れた。

それを含んだまま、もう一方を遠慮するであろう手の中に落とした。

「あなたも――受験生、では無さそう」

「一年です」

「ふうん、大人っぽいから同級生か上かと思った」

弟と同学年か。わけもなく悔しくなりながら、優里は茶を飲んで唇を尖らせた。

「じゃあ、ウチに来たのは受験のストレスじゃないわね。何か気になるものはあった?」

「……あなたが言う通り、不眠症に良いものを探していて……」

申し訳なさそうに呟く様子は、こちらに調子を合わせたわけではなさそうだ。普通ならドラッグストアか病院に行くのでは?と尋ねると、少女は困った様に目を伏せた。

「病院に行くと……家族に心配を掛けてしまうから、最初は薬局で買っていたんです。でも、最近はよく効かなくて……そういえば、通学路の近くにこのお店があったなと思って」

「そうだったの」

家族に心配されるなんて羨ましい限りだが、そう思われたくない事情もあるのだろう。

「ちょっと待ってて」

優里は裏に引っ込むと、手に小さなジップ袋――中にティーバッグらしきものが詰まったものを持って、すぐに戻って来た。引き出しをがさごそやっていたかと思うと、無地の茶色い紙袋を引っ張り出して袋を詰め込み、ぽかんとした少女の前に置いた。

「これ、あげる」

「えっ……」

腰が浮く少女を制して、優里は自慢げに胸を張った。

「漢方じゃないから。これは私がおじいちゃんと開発したハーブティー。……って、うちの庭で育てたのを乾燥させただけ。商品じゃないわ」

「でも」

「口に合わなければ香りを嗅ぐだけでもいいんじゃないかなあ。えーと、カモミールと、ラベンダーと、レモンバーベナと……」

「そ、そうじゃなくて……」

「親切は、遠慮しない方がいいわよ。――少なくとも、外ではね。私はそうしてる」

少女は何か言い掛けたが、優里の最後の一言に押し黙った。

「私は幸運なことに、此処に居場所を持ってる。家では自分の部屋でも窮屈で仕方なくて――ああ、どうでもいいわね。とにかく、あなたも此処に来られたのをラッキーだと思えばいいと思うんだけど――」

優里の言葉は途中で切れた。少女がガラス玉みたいな涙をぽとりと落としたからだ。目に見えて慌てた優里に、少女も慌てた様子で涙を拭い、手を振った。

「……ごめんなさい、違うの」

誰かを泣かせたことなどない優里が不安げに見つめる中、少女は照れ臭そうにはにかんだ。

「ごめんなさい……懐かしい人を想い出して……とても嬉しいの……ありがとう」

「……本当に?」

「本当。また、来てもいいですか」

「もちろん、来て。私、いつも居るわ」

マイルス・デイヴィスのトランペットを聴きながら、二人は自然と微笑み合った。

「そうだ。あなた、名前は?」

少女の帰り際、扉の前で優里は尋ねた。少女は“忘れていた”とばかりにくすっと笑ってから答えた。

「さらら。小牧さららです」



「思い出した?」

「……ええ……もちろん、覚えてるわ。あの日のことは――……」

「じゃあ、私と会った“後の時間”にあったことは?」

急にさららの顔色は変わった。優里がそう言ったところで、さららは後ろからやって来た人物に気が付いた。委縮したような表情のさららに笑い掛けたのは十条だ。

「優里さん、こんにちは」

「こんにちは、トオルさん。お昼に会うのは久しぶりですね」

「そうだね。いっつも、お代官と越後屋みたいな会い方してたもんねえ」

「失礼ですね。ワルなのはトオルさんだけでしょ」

親しそうな両者を、さららの不安げな瞳が行き来する。

「ワルって……二人って、そういう知り合いだった、っけ……?」

「心配しないで、さらら。私は旦那ひと筋よ。トオルさんもそこまでだらしなくないわ」

「そうですとも」

胸を張っておどける十条の顔を、さららの薄気味悪そうな視線が上下した。

「……ねえ、なんだか怖い。私、ヘンな夢を見てる……? 気分が悪いわ……」

よろめくように後退り、さららの目は不自然に周囲を彷徨った。その肩をそっと支えて、十条が優里の隣の席に座らせた。怯えた目になるさららを覗き込み、優里は優しく言った。

「さらら、辛いかもしれないけれど、これは現実よ。貴女はこちらに帰ってくるの。貴女が目を逸らし続けた過去を受け入れて、帰って来るのよ」

「帰る……? 過去……?」

さららは頭を抱えた。緊張に突っ張った指先が、栗色の髪をぐしゃりと掴む。

「さらら、落ち着いて聞きなさい。あの日、貴女は」

「いや……!」

椅子から飛び退くように立ち上がったさららが、頭を押さえたまま首を振る。

「いやよ……! その話はしない! いいえ……何のこと? 私は何もしてない……何も、何も、何も……!」

「さらちゃん、落ち着いて」

不規則な呼吸に揺れる肩をそっと、しかし強く引き寄せて、十条は低い声で囁いた。

「大丈夫。怖いことはもう起きない」

「そうよ。大丈夫よ、さらら。思い出すのよ。貴女がおじいちゃんの薬――パーフェクト・キラーを使って、忘れてしまった記憶を」

「……パーフェクト・キラー……」

か細い声が呟いた。


――わかった。必ず良い子に育てよう

あの低くて優しい声は、誰だったかしら……?


――さらら! 走って!

あの一生懸命な声も、誰だったかしら……?


――……気にしなくていい。

いつも背中ばかり向けるあの人は……誰だった……?


――自分を責めるのは、やめなさい。

誰かの声。森の中で聞いたような、静かで、穏やかだけれど低い、お爺さんの声。


――さらら……死ぬなんてダメよ……!私が許さない……!

病院のベッドで、私の代わりに泣いてくれた友達の声が入り混じる。


――はじめまして、十条十といいます。宜しくね、さららちゃん。

――ね、さらちゃん、さらちゃん、一緒にお菓子を焼いてみない?

――さらちゃーん! 実乃里とお絵かきしよー!

あれは、大好きな……大好きな人たちの声だわ……


――……俺も、さららさんが居て良かったと思います……


未春――私もよ。私もそうなの……でもね、私ね、本当は、本当は――――――


そこまで考えて、さららの意識は更に深い場所に呑み込まれた。

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