15.Unnatural.
待ち合わせ場所に現れた大柄な男は、カフェテラスにスーツ姿で着席していたハルトを物珍しそうに見下ろした。
東京・丸の内の仲通り。日本一のビジネス街とも呼ばれる、オフィス・ビルだらけの合間、カフェや飲食店が軒を連ねる黄色い並木道には、昼食を取りに来たサラリーマンやOL、観光客などでごった返している。
「……なんだよ、お前目立つんだから、早く座れ」
見た目だけなら営業マン風のハルトは、対面の席に顎をしゃくった。少年の頃から達観しているが、自分の前では今でも子供っぽい。大男が大人しく対面に座ると、二人は商談かビジネス上の付き合いに見えなくもなかった。
「ハルのスーツは久しぶりだな」
「あのなあ……ジョン……あんたに合わせてやったんだ。でかいスーツ男のお前と、普段着で並ぶと目立つんだよ……」
いちいち角の立つ口調で言われるが、一年の殆どをスーツで過ごす男は納得した様子で本題に移った。
「『
ハルトは大げさな溜息を吐いた。吐くなり、ざぶん、と飲みさしのアイスコーヒーから氷を摘まんだ。
「ハル、行儀が悪いぞ」
「うるさい。俺をイライラさせるな」
氷がぎゅうと潰れるくぐもった音の後、ごりごりと嚙み砕いてから、ハルトは吐き捨てるように言った。
「……どいつだ?」
「一番最初に気が狂ったやつだ。お前が気に病むことはない」
「ヘンリーか」
頭上の木々がざわざわ揺れた。黄色く染まり始めたケヤキの木漏れ日が落ちる表情をテーブルの隅に向け、ハルトは押し黙る。アイスコーヒーを運んできてくれた店員にジョンが目礼した後、クリップ付きの伝票がコン、と置かれたのを合図にするようにハルトは顔を上げた。
「――何故、俺に黙っていた」
「ミスターがお前に話さないときは、全て気遣いだ」
ハルトはぎろりと睨んだが、ジョンは石のように身じろがない。目の前の青年がわっしと握ったグラスからヤケ酒のようにコーヒーを飲み干すのを見守り、口を開いた。
「ハル、冷静に聞いてほしい。ヘンリーが奪取されたのはこちらの不手際だが、聖景
「ハッ……選り好みしてもらえた有難さに泣けてくるな。役立たずはケージに入れとけってことだろ? どいつもこいつも勝手に攫ってきたくせに、人の好いフリはやめろ!」
ハルトの声は決して大きくはなかったが、溢れんばかりの怒気は隠しようがない。隣のテーブルのビジネスマンたちが少しこちらを見た。また大きく木々が揺れた。
外は良くなかったかもしれない、とジョンは思った。
夜ではないが――お互い、嫌な記憶を思い出す。がらがらと氷を口に入れ出す青年を見ていると、何度も、亜熱帯の蒸し暑さと虫の鳴き声、ざわざわと揺れる木々、青い草のざわめきが甦る。
「……あんたらの狙いは、新薬の撲滅か?」
開示を許されたのか、ジョンは素直に頷いた。
「さっさと動かないのは、あんたらも十条さんのご都合待ちってことかよ」
「俺からは答えられない」
テーブルが拳でガン!と叩かれた。周囲で数名が振り向くが、声を掛けてくる者は居ない。
「ハル、何かムキになっていないか」
「俺が? 何に?」
すかさず振ってくるトゲに、まるでハリネズミかサボテンだな、と思ってから、ジョンは声のトーンを抑えた。
「トオルと聖を敵と決めてかかっている様に見える」
「だったら何だ」
「……ハル、冷静になれ。今のお前はリビアの仕事の後に似ている」
禁句とわかりつつ述べた苦言に、ハルトの頬が微かにひくついた。やはりお気に召さなかったらしい――落ち着く為なのか、その年の若者にしては多すぎる溜息が吐かれた。
「ジョン……その話はナシだ。いつも言ってるだろ? ノーサンキューなんだよ」
「……俺の言葉が気に入らなければ氷を食え。冷静なお前は最高の逸材だが、そうではないお前は周囲を危険に晒して自滅する」
「へー……言うな、ジョン……俺のどこが冷静じゃないって?」
「全てだ。あの時も、お前は友達が関わったことで、冷静さを失った」
周囲の空気がひび割れた気がした。掴み掛からないだけマシだが、そうなってもおかしくない顔が脅迫のように口を開いた。
「ジョン、俺に友達は居ない。居たこともない」
「……ハル、お前はわかっている筈だ。エルはエル、未春は未春――」
言葉を聞き終える前にハルトは残った氷を呷っていた。ガラン!とガラスを転がってきた氷を含むと、ぎゅうと獣のような歯が噛み潰す。
「……John、You promised……!」
冷気を孕む怒声だったが、目付きは煮えたぎり、言葉には火が点いていた。
怒りに突かれて、敵を残らず倒すまで止まらない目。引き金を引かなければ大人しい筈の魔法の弾丸。――十三年前に暴発した、彼も恐れる内なる凶器。ジャンキーなど及びもつかない狂気の拳銃を胸に抱いていた少年は、今もその破壊力に怯えている。
「ハル、落ち着け」
「落ち着けだと? あんたは……俺から奪ったものの代わりに、俺に一生従う約束だ! ノーサンキューはジョークじゃない……!」
「……ああ。ミスターを除いて、俺が従うのはお前だけだ」
「じゃあ、黙って従え――説教じゃなくて仕事をしてくれよ……!」
以前、椅子ごと蹴飛ばしてきた頃よりは落ち着いている青年に、ジョンは自身のスマートフォンを差し出した。画面に映っているものを示し、低く言った。
「トオルについてだが、聖との密会は無かった」
「……連絡の取り合いも?」
「こちらが関知できる範囲では」
ハズレか、とハルトは呟いた。綿密に連絡を取らなくても大事ないということだろうか?
「代わりといっては何だが、トオルは夜間に度々、未春が居た児童養護施設に出入りしていた」
「……児童養護施設?」
示された画面に映るのは、ほのぼのとしたカラーに彩られたホームページだ。
「まさか、“新しい未春”でもスカウトしてないよな?」
「いや。人と会っているだけだ。四十代の女性と、十代の少女」
ハルトが目を瞠った。ジョンは静かにスマートフォンを引くと、写真を撮るのは危険と判断した、と付け加えた。
「まさか……それは無いだろ? 10年前の事件で、その二人は――」
「ハル、疑うなら確認をとれ。もしくは違和感を探れ。お前は冷静であれば、ミスター並に切れる」
違和感?違和感なら山とある。どの違和感だ?
ハッピータウン、DOUBLE・CROSS、駆け巡る様々な情報の中、ふと、明香の言葉が反芻した。
――あの人ね、結構寂しがり屋なんです。
寂しがり屋? 嫁煩悩で、子煩悩。十条が本当にそうだとしたら、失った家族の……あるべき筈のものが、無いのではないか?
「……遺品がない」
しばし経った後、ぼそ、とハルトは呟いた。
「遺品?」
「そうだ……あの家、写真も無い。さららさんの部屋にはあんなに沢山あったのに……だから俺は最初、十条さんが結婚していることに気付かなかった――……」
十条の部屋に菓子を届けた時も、写真は見当たらなかった。妻子を心から愛していたのなら、写真はもちろん、遺品も手放せない筈だ。見るのが辛くて遺品を隠すことはあっても、写真は別。
――“あいつ”も、妹の写真だけは手放せないと言って――
「ハル、大丈夫か?」
眉間をぐっと押さえて、ハルトは頷いた。思い出があるだろう店の改装、夜行性、気配の無い足音、残っていない家族のすべて。
「――どうりであの人、朝起きられないわけだ……遺品を飾る風習は未春じゃ気付かなさそうだし、他の人間じゃあデリケートな話で指摘しない……」
「或いは、気付くのを待っていたかもしれない。トオルはそういうところがある」
「ああ……ありそうだな。人を試すのが好きそうだ」
「この件はどうする」
「未春には……俺から話す。わざわざ“死んだことにした”辺り、何か他の弊害もあるのかもしれない。死者の方が……都合が良――」
言い掛けて、不意にハルトは口をつぐんだ。
死者……?
「どうした?」
「……変だ。あの部屋も……無かった気がする」
眉を少し動かしたのみで言葉を待ったジョンに、ハルトは顔をしかめた状態で向き直る。
「さららさんの部屋だ。大勢の写真があるのに、実の妹や、本当の家族らしき人が居なかった」
「?……別の部屋にあるのではないか? 最近はデータのみにしている者も多いだろう」
「一般人ならあんたの言う通りだが、さららさんの写真の飾り方はそういう感じじゃない。日常的な写真も、全部が丁寧に額に入れて壁一面に飾ってあった。他人の写真をあれだけ飾って……復讐まで考えるほど特別な妹の写真を飾らない理由はなんだ?」
「顔を見るのが辛いのでは」
「一理あるな。だが、それなら“惨殺された筈の”十条
だから、十条と結婚しない?――いや、それなら……とっくに別の人間と付き合う方が自然だ。彼女の性格からして、自分を貫くよりも遠慮して身を引くタイプだ。同じ部屋に泊まるのはおろか、肉体関係を持つこと自体、避けるに違いない。
「ジョン……小牧うららについて調べてくれ。可能なら死亡診断書も確認しろ」
「構わんが、小牧うららは……かつての東京支部在籍の者による殺傷で死亡し、遺体が解体されたと裏にも記録済みだ」
「だったら尚更調べ直した方がいい。彼女を殺した奴はわかるか?」
「本名は不明だが『カット・アウト』と呼ばれていた男だ。医者を志して挫折し、臓器売買目的の解剖や殺人を行っていたが、仕事と無関係の“解体”をする殺人鬼だった」
「ああ、俺も聞いたことはある。アマデウスさんの変態リスト入りの野郎だ」
臓器に執着して、解体したものを写真に撮っていたという筋金入りの狂人だ。同業者だろうと思い出すだけで胸糞悪くなるが、有名人だけに反って怪しい。わかりやす過ぎる。
「28年前、トオルがデリートしたと聞いた。犯人はこいつではないのか?」
「考えてみろよ、ジョン……このSFには決定的におかしいことがある。十条さんがその変態野郎を殺したのが28年前。さららさんが十条さんと偶然会ったってのは18年前。お前らの記録にも小牧うららの名前があるってことは、十条さんはさららさんの事をあらかじめ知っていた筈だよな。並の人間なら気付かなくても、あの人に限って有り得ない」
毎日、十数部の新聞を読み漁り、十代で殺し屋を何十人と手に掛けた男だ。現在の記憶力が擦り切れていても、さすがに18年前は後半と云えど二十代。常人よりも頭の回転は速く、この姉妹の名は珍しい。
「トオルが気付いていたら、何か……?」
「おいおい、デカブツ、日本に来て鈍ってんのか? 十条さんが“BGMとして”、さららさんと“偶然”会うことは絶対に無いってことだ」
「……ハル、何が言いたいんだ?」
「俺らが知っている話だと、十条さんは、さららさんが殺人を犯そうとするのを黙殺、或いは知った上でBGMに招いたことになってる。何故、“BGMだと名乗る必要があったんだ”? 他に何とでも言い訳はできた筈だし、ただ無駄な殺人を止めるためなら十条さん本人が出張らなくても、清掃員や警察関係者の仲間だっていいだろ? 彼女がBGMの活動をほぼしていないんだから、スカウト目的でもない。彼女が実家と不仲なのを哀れんで手元に呼んだ――としても、殺し屋だと明かす必要はないよな。彼女にとって、殺し屋は妹の仇のお仲間だ。わざわざ狙いに来いよって言うようなもんだろうが」
自身に無礼を働く人間さえ、きちんと救急車を呼んで対処しようとしたさららだ。まともな一般人の思考を持つ彼女が、自分の肉親を殺した人間と、殺し屋と名乗る人間を分けて考えられるとは思えない。「同じ組織内の殺し屋です」などと名乗れば、ソフィアの件と同じことになるのは必須だ。
「ハルの推測からすると、トオルが全く無駄なことをしたように思える……確かに妙な話だ」
「だから調べ直してくれ。きっと、二人の関係は俺らが思ってるのとは全く別物の可能性が高い。もしかしたら――……うららの死自体、別の理由かもしれない」
「わかった。調査し直そう」
「ついでに、もう一つ――関係ないかもしれないが、さららさんの交友関係で、違う高校の女子生徒が居たみたいだ。どこの誰なのか調べられるか」
今度は敏腕秘書は迷わず頷いた。
「解り次第、連絡しよう。他に気になることは」
「他は――無いけど……」
言いさして、急にばつの悪そうな視線が向いた先には、ジョンの手元――飲みさしのアイスコーヒー……ではなく、その中の氷。
「また、腹を壊すなよ」
空のコップに中身ごと流し入れると、気恥ずかしそうに髪を掻く青年をよそに、ジョンは伝票を取って立ち上がった。
十条さんは、いつも俺に何かを頼む。
「未春ぅ~……アレ作って、アレ」
十条さんの「アレ」は、種類がある。今は三時過ぎ。皆が「十条フロート」とか「ギガ・カロリーフロート」とか呼んでたココア・フロートのことだ。
「未春さぁ……ハルちゃんのこと、どう思う?」
十条さんは最近、俺にこの話ばかりする。
ハルちゃん。今作ったフロートを「デス・フロート」って呼んでた。十条さんは飲み続けたら死ぬらしいそれを美味しそうに飲んで、返事を待っている。
――困った。
「どう」っていうのが何なのか、俺にはよくわからない。ずっと、色んな○○ちゃん、○○さん、○○くんについて「どう思う?」と聞かれたが、未だによくわからない。
さららさんのことも、リッキーのことも、ラッコちゃんのことも聞かれた。三人のことは答えられると思った。さららさんは、優しくて、寂しくて、綺麗で、十条さんには勿体ない。リッキーはそそっかしくてうるさいけど、すごく良い奴。ラッコちゃんは明るくてしっかり者だけど、動物の事になると狂ってる。俺はそうやって答えたつもりだったけど、十条さんは「そういうことじゃなくて」と聞き直した。「未春が、どう思うのか聞きたいんだよ」――俺は答えられなかった。
「どう」って何。みんなを“何”だと思えばいい?
人間。女性。男性。子供。大人。名前が付いている俺以外。
先に会ったみんなのこともわからない俺に、最近の十条さんはハルちゃんのことばかり聞く。
「あのさぁ、未春……僕、ハルちゃんに会ったとき、キター!って思ったんだ。きっと、“ハルちゃん”が正解なんだ。間違いないって」
十条さんのこういう話は、八割……いや、九割はわからない。キター!って何が来たんだよ。ハルちゃんは、とっくの昔に此処に来てるし、ハルちゃんはハルちゃんだ。あんた糖分で酔ってんのか?
「だからさ、未春……お前もハルちゃんを助けてあげるんだよ」
助ける?ハルちゃんを?ハルちゃんは助けなんか要らない。頭は良いし、器用だし、本人はそう思ってないみたいだけど人気者だし、身の回りは整ってて、家事なんて何やらせても完璧だ。正直、十条さんより、助けることなんか無いと思う。
「どうして俺が、ハルちゃんを助けるんすか」
十条さんは、ココア色の氷が張り付いたアイスクリームを口に入れて、きょとんとしてからへらっと笑った。
「ハルちゃんは、お前の友達だからさ」
友達。
友達。
友達?
何度も噛み砕こうとして、ずっと呑み込めない言葉を繰り返す。
――友達って、なに?
確かにハルちゃんは、リッキーやラッコちゃんと違う気はする。
でも、理由が「友達だから」と言われてもわからない。
あっくんは「えー! ショック! 俺ら友達じゃなかったの?」と言った。
知らない。何がショックなのかもわからない。
友達って、いつの間にかなるもんなの?どこか特別なの?
「あーぁ……もっと早くアマデウスさんに相談すれば良かった……」
十条さんは、いつも俺の前で独り言をぼやく。唐突に。ぶつぶつと。
そりゃもう、うるさく。
「もう28じゃないか……まったくさあ……ようやく及第点て感じ。お嫁さんはどうすればいいんだろ……もしかして恋愛って、友達より難しい……? 父性って自然に芽生えるのかなあ……?」
これは俺の話だと思うけど、独り言だから放っておく。適当に聞き流していると、十条さんは急に話し掛けてくる。
「あ、いつも言ってるけどね、未春、さらちゃんはあげないよ? 手を出したら叔父さん怒るゾー」
十条さんは、昔からよく、さららさんの話をする。
「今日、さらちゃんがね」、「さらちゃんがさあ」、「明日はさらちゃんと」、ヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラしながら言う。
なんか、ムカつく。
「ふう…………」
今のは、只の溜息。十条さんが時々やる、唐突な溜息。これが出ると、喋り疲れたみたいに静かになる。急に目の前の全部を忘れたみたいな顔して、何か食べていても箸が止まる。
「あのさ、未春」
さっきと違う声だ。十条さんが、ちっとも笑っていない時の。
「はい」
「僕が居なくなったら、お前が皆を守ってあげてね」
「十条さんが、居なくなったら?」
十条さんの言うことは――わからない。
「死ぬ予定でもあるんすか」
まず、デス・フロートをやめた方がいいと思う。十条さんは、またいつもみたいにへらっと笑った。
「未春、それは皆にあるものさ」
「皆に」
「そうだよ。お前にも、ハルちゃんにも。だけど、死ななくても良いときは避けたいじゃないか。だからお前が守るんだ。いいね?」
「……はあ」
よくわからないが、念を押す時の十条さんは何言っても無駄だ。
守る?……それは時々やって、さららさんに怒られることだ。
怒って、最後は泣くんだ。
昔、施設で職員さんを殴ろうとした男を動けなくしたら、職員さんも泣いた。
――ごめんね、未春くん。私の為に、ごめんね――
俺が守ろうとすると、泣いたり謝られる。胸の奥が、ぎゅっと締まる。
「そうそう、未春、あのさ――」
十条さんの言葉は、いつも強引に引っ張ってくる。俺の都合は気にしない。
うるせーな。大人しく飲んでりゃ良いのに、このオッサン……
――あれ……今の、なんかハルちゃんに――……
「お? 未春? どうかした?」
返事をしない青年を、十条は覗き込むように仰いだ。未春の視線は、不可思議に泳いだ。十条の前に置かれたフロートのグラス――もう空っぽだった――を見てから、何もないテーブルへ揺らぎ、虚空へ浮いて、二、三度瞬き――ようやく十条の前に戻ってきた。
「……なんでもないです」
絶対に何でもなくはない様子の未春に、十条は首を捻った。
「ちょっと顔赤くない? だいじょぶ?」
「赤くありません。大丈夫です」
「ええー、何だろう? 怒ってるんじゃないよね? 何照れてんの?」
「照……れてません……」
変なイントネーションで答えると、空っぽのグラスをスッと引くや、すたすたと厨房へ行ってしまった。
十条は腕を組んで身を乗り出し、その背をじっと見つめた。ふと見下ろすテーブルには、使用済みのスプーンが置かれたままだ。
「アマデウスさんに……アイス送ろっかなー……」
普段なら、絶対に忘れられないそれを持ち上げて、十条は呟いた。
「はいはーい、あーさでーすよー!」
ハキハキした声に叩き起こされた青少年らは、皆苦しそうにしながらも起き上がった。
そこは、無機質な白壁と灰色のマットレスの上にベッドが並べられただけの部屋だった。十人の青少年らは誰も口を開かず、まるで寝坊に気付いたかのように大急ぎで寝間着からスポーツウェアに着替えた。それを見渡しながら、よく通る声を発した青年は、にこやかに中央の空間を往復していった。皆、青年が通るとびくびくした。
無理もない。初日、反抗して起きなかった一人が、この青年に腹を足蹴にされたのである。バレエでも優雅に踊りそうな脚の一撃は見た目より鋭く、不良じみた恰幅のいい少年に、涙と胃の中身を垂れ流させ、彼のみならず周囲も恐怖に陥れた。
翌日、皆で相談して反抗的な態度を取ると、今度は食事に異変が起きた。一見、カレーのように見えるそれは、皿の中で米ではない白くもっちりした塊と、何か得体の知れない黒いものがちらちら見えるカレー色のスープが盛られていた。何だかわからなくても腹は減る――が、手を伸ばした一人が短い悲鳴を上げた。
「何、これ……虫……!?」
高校生ほどの女子が身の毛もよだつといった顔で立ち上がると、全員がその料理の正体に目を剥いた。スープの中にごろごろしているのは、もとはさぞやむっちり太っていただろう芋虫だ。嫌がらせにも等しい食事だと、教卓のようなテーブルに掛けている青年を睨むと、彼は平気そうな顔でそれを素手で食べていた。一同が唖然とする中、慣れた手つきで白い塊をもぎとっては小さな団子にし、スープにつけて、黒い虫ごとむしゃむしゃと頬張った。
「食わないの?」
やせ我慢などではない。青年はニヤリと笑って尚も芋虫を摘まんだ。
「君たちねえ……これはモパネワームっていう、アフリカ南部のありがたーいタンパク質なの。スーパーに缶詰でも売ってるちゃんとした食用。ま、蛾の幼虫ちゃんだけど」
今にも吐きそうな面持ちになる皆を眺めて、青年は虫を口に放り込んだ。
「こっちの白いのはアフリカの定番主食・ウガリ。君らで言う所の米だ。こう、お団子みたくもちもち丸めて食べるんよ。今日は女子高生がだーい好きなタピオカの元、キャッサバも混ぜてもらったからさ、遠慮なくタピってくれ」
おぞましい一言を経て、翌日は全員がこの青年に逆らうのをやめた。食事は日本でよく見る形態に戻ったが、ありがたみが違った。苦手だった野菜さえ可愛く思えてくる。妙に静かになった食事風景を見て、青年はニヤニヤ笑っていた。
その朝も、青年は朝から元気が良かった。皆が髪を纏めたり顔を洗うなどの身支度を終える頃、明るい調子でパン!と手を叩いた。
「よし、皆バッチリだね。それじゃ、ランニングに行こーう!」
言うなり踵を返し、自ら先頭を走り出す。皆はやはり慌てて従った。部屋を出た先は、殺風景なコンクリートの廊下がある。彼らが使う食堂、トイレや浴室の扉を行き過ぎるが、窓も装飾も何もない、長いばかりの空間が続く。やがて外に出ると、これまた何もない。鬱蒼と繁る木々の間に、二、三人並んで歩ける程度の道路が一本だけ舗装された所をひた走る。木々の向こうは木漏れ日しか見えず、鳥の囀りや枝葉のざわめき以外は何も聴こえない。この道は緩やかに円を描き、元の入口に戻って来るのだが、それまで他の誰かと会うこともなく、街で響いてきそうな電車や自動車の音も皆無である。今は皆、無言で走りきるが、初めはスムーズにはいかなかった。
「足動かせよー! 人間は足が付いてんだから!」
青年は何処までも走れそうなくらい身が軽く、いくら行ってもペースが落ちない。靴底に餅がついたようにぺたぺた走っていた女子が悲鳴を上げた。
「なんで……こんなに走るのよ!」
「はいー? 足が付いてるからに決まってんでしょーがー!」
先頭が苦しそうになったところで、青年は速度を緩め、歩き始めた。ゾンビのように付いてくる生徒らを眺め、道の脇にひょいと座った。
「ヘバんのはっや。世界随一の栄養摂ってんのに、冴えねー体してんなあ……」
何人かは憎悪に燃える目をしたが、皆一様に地面にへたり込む。青年は愉快そうに笑い、折り畳んだ膝に頬杖ついた。
「お前らさあ、歩きたくても歩けなくて、涙が出るほど足を欲する人間の気持ち、わかんねーでしょ?」
誰も返事はしなかったが、数名は苛立った目を背けて無視した。青年は独り言のように構わず続けた。
「人間は頭でっかちを支えるために二足で歩いたそーだけど、俺はそうは思わないね。お前らみたく、足がついてんのに頭と目と手ばっかり使う人間はそりゃあ勿体無いんだ。頭支えるより先に、足ってのは立って歩くもんだろ?歩いて、走って、旅して、何処かへ行く為だ。俺の恩人はそう教えてくれた」
さわさわと木々が揺れた。青年はよく通る声で言った。
「詰まるところお前らは、歩かず、何処にも行かず、立ち止まり、座ってスマホたぷたぷして、おかげさまで人間の本質を忘れた。走るのは、今までの分をソッコー取り戻して、体に自分が何者か思い出して頂く為だ。きついのは、お前らがサボってたからだよ」
そこまで言うと、ひょいと立ち上がって「行くぞー」と走り始めた。
彼らは不平不満を満面に描きつつも、慌てて従った。
ある日突然、このわけのわからない施設に連行された為、恐怖で体が固まっていたのもあるが、ランニングとは、続けると存外できるようになってくる。
その上、この恐ろしい青年は皮肉こそ遠慮なく言うが、遅れた者や脱落者を責めなかった。転ぶものが居ればすぐに戻って来て手当てしたし、苦しそうな者には優しい声を掛けたりして、今の走りへと導いた。一方、サボっているものは目ざとく見つけて容赦なく攻撃した。
また、ほんの些細な嘘や不正も見逃さず、虐待レベルまで厳しく罰した。たとえば他の者の食事をくすねた者には丸一日を水と塩のみで過ごさせたし、女子にちょっかいを出そうとした少年には紙オムツを着けさせ、立っているしかない狭いロッカーに一晩中閉じ込めるおぞましい措置をとった。
スマートフォンもなく、テレビもない監獄に近しい場所だが、奇妙なことに、青少年らがやらされるのは、苦しい拷問でも、辛い勤労でもなかった。
毎朝のランニングと、年代別のごく普通の学習。そしてもう一つ。
「上手くなったんじゃない?」
ピアノの前に座っていた青年はある日、彼らにそう言った。
彼は「ババ」と名乗ったので、皆は「馬場さん」だと思ってそう呼んでいたが、声を上げる者は居なかった。萎縮した様子で周囲と見交わすのを見て、ババはぷっと笑い、鍵盤に親指を流れるように滑らせてから改めて「ブラボー!」と叫んで微笑した。
「そんなビビんなくていいって。君ら上手くなったよ、マジで」
「ほ……本当ですか?」
この頃、ババに対して臆すことのなくなってきた者が訊ねた。察しが良い者は、誠実に従っていれば、彼が危害を加えるどころか親切な人間だと気付いていた。今も、自分たちがやらされていること――歌や音読、発生練習などに全力で挑んだ結果を、ババは心から喜んでいるようだった。
「ホントホント。最初は幼稚園児にも及ばんヘッタクソで、どうなることかとゾッとしたけどさ」
親切だが、歯に衣着せぬタイプではある。それでいて、ババ本人の歌唱力や声の通りは凄かった。彼が歌うと、皆が恐怖を忘れて圧倒された。ババが弾くピアノに合わせて童謡を歌うと、初めは小学生かと恥ずかしくなったが、やがて自分の声の響きに驚いた。ババは一人一人に細かく練習のポイントを指示し、やる気がある者には時間外も喜んで付き合う変な男だった。
たった今歌った“ドレミの歌”も、ちょっとした合唱団レベルの仕上がりだ。
「ところで、キンパくん帰って来んなあ」
キンパくん、とはババが一人の青年に付けたあだ名である。ババは初日、全員にあだ名を付け、本名を呼んだことは一度もない。大抵、見たままの印象から名付けており、センスは少々ひねくれている。キンパくんは金髪故というマシな方で、パーマをしっかりかけた女子に「くるぱー」とか、カマキリに似てるからと「カマキリ」というあだ名にされてしまった者も居た。
「トイレ行ったきりだよなー。長いけど、だいじょぶかなー?ちょっと黒ぶっち、見てきてよ」
黒ぶっちと呼ばれた黒縁眼鏡の青年がすぐに出ていき、数分と経たずに戻ってきた。
「ト、トイレには居ませんでした……!」
「おお~~っとぉ~?」
ババの間延びした声に、全員に緊張が走る。すっと細い指先で、ポロロロロロンと滑らかにピアノを弾いてからババは立ち上った。
「さんきゅー。じゃ、皆はフリータイム。施設から出ちゃ駄目だぞー」
全員、黙って頷いた。ババはにこにこしていたが、恐ろしい事が起こる予感がした。
「あいつ……死ぬんじゃね?」
ババが去ったドアを見つめながら、誰かが蚊の鳴くような声で言った。
キンパと名付けられた青年は、息の上がった肩を上下させながら青ざめていた。
いつも走っていた円しかない道を外れ、雑草を掻き分けて進んだ先の光景に立ちすくむ。
眼下には断崖と大海原があった。ドラマか映画でしか見たことのない其処は、演出された映像の緊張感はなく、ほのぼのした雲が泳ぐ青空の下、強くも爽やかな潮風が吹いていた。
此処は……島?それとも大陸の端か?いずれにせよ、此処からは逃げられない。見渡す視界には海と空しか見えず、陸はおろか船一隻見えない。
「トイレは、海でやる派かーい?」
軽薄な声にぎくりとして振り向くと、ババがにこやかに片手を上げていた。
「此処まで全力疾走なんて疲れたろ?」
両手を腰に手をやって、ババは呆れ口調で言った。
「キンパくんよ、こっちは君が逃げたい気持ちはよぉーく知ってんの。一生閉じ込める気なんか無いんだからさ、今は諦めて帰りましょーや」
面倒臭そうに手を振った男を睨み、ふと、少年はひらめいた。――此処で、この男を始末すればいいんじゃないか?下は海だ。そう安易に上がれそうな崖でもない。
落ちたらきっと、コイツだって――
「おーい、どーするん? 歩く気無いなら引き摺っちゃうぞー?」
ババが近付いてきた瞬間、少年は勢いよく突っ込んだ。相手の服を引っ掴み、思い切り崖の方へと振り回す――つもりだった。
「相撲でもすんのか?」
ニヤニヤ笑ったババは微動だにしなかった。体が一本の軸で地に繋がっているように動かない。
「キンパくんさあ、初日に俺に蹴られて懲りないのは大したもんですけど、そーいうの鬱陶しいぜ。『気に入らんからやっちまえ』は、平和な社会に要らねーんだよ」
「えっ……!」
少年は声を上げた。ババの言葉に驚いたのではない。慌てて離れようとした体が、信じ難い力で宙を舞っていたからだ。叩き付けられた痛みに苦悶したとき、体の右半分をやけに冷たい風が吹き抜けた。
「ひ……!」
あと一回転がれば真っ逆さまの崖っぷち――半分は空中に寝ている自分に気付いたが、動くこともできずに硬直する。自分をようやく崖に繋いでいる半身の肩口に、ぎゅうとババの足が据え置かれていた。
「バーンジーしちゃおっかな~? どーしよっかなあー?」
歌うようにババは言った。逆光から覗き込んでくる顔の両目はやけにはっきり見えた。
憎悪さえ感じる、悪魔のような両目。
殺される。
「や……やめ……ッ!! やめて……!!」
「フフ、お前さあ、“誰かにそう言われたことなかったか”? そんときお前、どーしたよ?」
え?――ババの声に戸惑った瞬間、少年の体は勢いよく蹴り上げられていた。ぞっとする浮遊感が落下に変わるほんの一瞬――失神する前に見た崖の上で、ババが手を振っていた。
悪魔と呼ぶには、とても穏やかに笑って。
十条家の朝のキッチンは静かだ。
四つある椅子は二つしか埋まらないし、朝食は二セット。決まった席があるというのは、空白が目立つ。
「――と、いうのが俺の見解なんだが」
ジョンと話した内容をかいつまんで説明したハルトに、未春は返事をせずに頷いた。
てっきり仰天するかと思っていたハルトの方が、虚を突かれて頭を掻いた。
「お前……けっこう落ち着いてるな。気付いてたのか?」
「全然」
「全然かよ」
「でも、十条さんが嘘を吐くのは慣れてる」
「そう言うけど、お前……嘘の質や規模が違うだろ。大事な人たちが死ぬのを演出されたんだぞ?」
「わかってる。此処に十条さんが居たら、とりあえず髪全部抜いてる」
あ、まずい。これはけっこう怒ってるやつだった。
ハルトの背筋を戦慄がぞわぞわと行き過ぎた。上司のフォローをするつもりはないのだが、宥める様にそそくさと言葉を選ぶ。
「……さっきも言ったが、どうしてそんなことをしたのかはわかっていない。あの人のことだ、何の理由も無い芝居じゃあないと思うぞ」
「わかってる」
ここ一番の恐ろしい了解に、ハルトは肩をすくめた。
「お前、どうするんだ。二人に会いに行くか?」
「行かない」
思った以上に早いレスポンスにハルトは思わず目を瞠ったが、未春の顔は静かだった。
「どうして」
「どうして?」
なんでそんなこと聞くんだ、というオウム返しに、ハルトは首を振った。
「普通……会いに行きたくなるんじゃないかと思っただけだ。お前は二人のことを、『死んではいけなかった』って言っただろ」
「死んでないなら、良かった。それでいい」
「本当に……それだけなのか?」
「どうしたの?」
訴えかけるような目を見据えて、未春の熱の無い目が問い掛けた。
「ハルちゃんの方が、会いたいみたいに聞こえる」
「……」
ハルトの視線が不安定に傾ぐのを見たと思った瞬間、彼は目を閉じた。眉間を押さえて、重い溜息を吐く。
「――そうだな……それは、お前の自由だ。俺が口を出すことじゃない」
未春はしばらく俯きがちのハルトを見つめていたが、頷いた。
「ごめん、ハルちゃん」
「あ? なんだ――謝ることはないぞ」
「そうじゃなくて」
未春は首を捻り、視線を彷徨わせたが、また首を捻った。
「ごめん、よくわからない」
「なんだそりゃ……いいよ、別に。俺もなんで食い下がったんだか、よくわからん……」
揃って押し黙ると、冷蔵庫の重低音が聴こえた。自動製氷の氷がガララン!と落ちた音にビビが耳を立てた。
「さららさんには……どうする?」
「教えてあげたい。元気になると思う」
「そう、だな……」
未春は真摯にそう思っているようだが、ハルトは曖昧に頷いた。
もし、関係している男の死んだ筈の妻が生きていたと知ったら、普通は……どう思うのだろう。さららと穂積の関係は単なる女同士ではないようだが、間に十条を置いたとき、その良好な仲が崩れはしないのだろうか。妻だけならともかく、娘も居る。娘は――父親と関係していた女を許せるのだろうか。
微かに、ソフィアの影がちらついて消えた。
「お前さ――心当たりはないのか。十条さんの小芝居の理由」
返事はなかった。未春の視線は、テーブルの上に乗っているようで、此処には無かった。睫毛の一本一本が、斜め下を見つめているようで、此処ではないどこかを眺める。
沈黙を破ったのは、ハルトのスマートフォンが揺れる音だった。
画面を確認したハルトの表情が変わるのを、視線をスッともたげた未春が見た。
「……ハルちゃん、どうしたの」
未春の問い掛けに、ハルトは答えない。悪い夢でも見た様な顔のまま、鋭い視線が画面を滑り――ようやく戻って来た時、彼は椅子から立ち上がっていた。
「僕に用事かい?」
不意に入口から掛かった声はハルトでも未春でもない。腕を組み、ドア枠に寄り掛かっていた十条は笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
「弱ったなあ……ハルちゃん。僕言ったよね? ちょっと待ってよって」
「……そっくりそのまま返します。俺が何を掴んだか、一瞬で感知している貴方に」
「そりゃあね。君の性格はだいぶ把握している。ジョンと君がどういう関係で、君が彼だけは遠慮なくこき使うのも知っているよ」
「知っていて泳がせたのは、知られない自信があったからですか」
「んー……正直、ジョンがこれほど君に甘いとは思わなかった」
「では、どうします? 俺はもう見たので、これを処分するだけでは済みません、が……」
自らの電話を掲げたハルトの言葉が終わるか終わらないかの間に、机にダン!と何かが突き刺さった。未春の目の前で微かにぶれるそれは、小ぶりのナイフ――いや、ステンレス製のペーパーナイフだ。
「未春、大人しく座ってて」
視線はハルトに据えたまま、十条は静かに言った。ハルトからすれば、未春は動く気配はなかったし、見ていた筈の十条が腕を振る動作も殆どわからなかった。
――未春、三、四人分か。気負ったところで背筋が冷える。殆ど手首だけでペーパーナイフを木製テーブルに突き刺す――まったく、どんなスペックだ。
ハルトが内心毒づいていると、十条はふう、と溜息を吐いてから胸を張った。
「しょうがないねえ。ハルちゃんの未春愛に免じて話してあげよう。座って座って」
「あの、なんか聞き捨てならないワードがありましたが……」
「未春、いきなり僕のこと刺さないでよ」
堂々と無視。未春に至っては肯定も否定もせず、強いて言えば目と腰は大人しく座っている。十条は自分の椅子に掛けると、ゆったり背を預けて語り出した。
「昔々、あるところに――」
「Wait a minute……!」
「何だい、ハルちゃん、やぶからぼうに」
「……どっちが。そのノリでいく内容なんですか?」
「そのぐらい、昔の話から始めなくちゃいけないんだよ。だから僕、面倒くさくて、自然にわかるまで待ってよーって思ってたんだから~」
まさか本当に「面倒臭い」が為に黙っていたとしたらそれはそれで腹立たしいが、そこまで言うなら仕方ない。ハルトがツッコミを諦めて大人しく座り直すと、十条はしみじみ話し始めた。
「昔々、あるところに、僕がぶっ潰す前のBGM東京支部がありました。この悪の組織には、現在も有力な二つの大手グループ会社が居ました。一つは、聖グループ。そしてもう一つが、
「小牧?」
顔を上げたのはハルトだけではない。未春も微量の『驚愕』を目に表すが、十条は構わず話し続けた。
「二社は代々、協力関係を結び、日本の裏社会を牛耳っておりました。彼らの悪行は数知れず、犯罪レベルはもちろん、会社関係者によるパワハラ、セクハラ、モラハラ、傷害事件、過失致死、その他もろもろ。これは主に聖グループが、とにかく隠蔽、隠蔽、また隠蔽の隠蔽大好き組織なので、何でもかんでも揉み消しました。……余談だけど、このせいで僕らが利用中の清掃員は世界的にもスペシャルな隠蔽のプロになりましたとさ」
聖景三が清掃員として辣腕家だったのは千間が言った通りらしい。
「ところがどっこい、当時18歳のピチピチイケメンに部下を千切っては投げ千切っては投げられ、28年前、一ヶ月も経たずに東京支部は乗っ取られてしまいました」
珍妙な脚色は省いてほしかったが、ナイフが飛んで来ては堪らないので黙っていると、未春がぼそっと質問した。
「ピチピチイケメンて、誰のことすか」
「ウソでしょ未春ぅ……僕に決まってるじゃん。写真見る?」
傍聴者が二人とも首を振った為、十条は口を尖らせてから話を続けた。
「当時、東京支部で新薬開発の研究が行われてた話は、千間くんに聞いたかい?」
「げ――俺たちが千間のとこ行った件まで知ってるんですか……?」
露骨に嫌な顔をしたハルトに、十条はにたにた笑っただけだ。
「ま、僕には味方が多いもんで。壁に耳あり障子に目あり、十条十に味方あり……なーんてね。それはいいとして、僕は当初、研究施設をただ壊せばいいと思ってたんだけど、困った問題が発生してしまった。施設には、研究材料として大勢の子供が居たんだ」
「子供……千間さんは、新薬が女児を利用すると言っていましたが」
「ふうん? さては彼、気を遣ったな。正確には、子供は検証材料で薬の材料じゃないんだ。――ともかく、僕は子供たちの行き先に神経を使った。殆どは、僕もお世話になった児童養護施設に預けて済んだけど、二人だけ、非常に問題のある子たちが居てね」
ちら、と十条は未春を見た。
「君らも察しがつくだろう――当時、8歳のさらちゃんと、赤ん坊の未春だ」
未春は二、三度瞬いただけだった。
「妹のうららさんは……?」
ハルトの問い掛けに、十条は首を振った。
「僕が施設を壊す前に、死亡していた」
「死亡……じゃあ、殺人鬼に殺されたわけではなかったんですね」
「おんなじだよ。施設側は実験のショック死って言い張ったけど、まあ信用ならないし、仮にそうだとしても、殺したも同然だね……享年7歳。浮かばれないさ……」
全身の気が抜けるような溜息を吐いて、十条は首を振った。
「一体、何の薬を研究をしていたんです?子供が死亡する程って――」
「開発された薬は二種あった。一種は身体機能向上薬『スプリング』。一種は超・精神安定剤『パーフェクト・キラー』」
「え? 千間は確か――精神安定剤の方をスプリングって……」
「おや、千間くんはつくづく人が好いね。彼がパーフェクト・キラーを伏せたのはさらちゃんの為かな……ま、それはおいおい話そう。まず、小牧姉妹が関わった薬は、このパーフェクト・キラーの方なんだ」
パーフェクト・キラーとは随分、物騒な薬品名だ。しかし、「完璧な殺害」という意味なら、機能向上の方が該当しそうなものだが。
「二種の薬品はもともと、第二次大戦中、日本軍が秘密裏に開発しようとして頓挫したものが元だそうだ。スプリングは自国兵の機能向上目的、パーフェクト・キラーは相手国の戦力ダウンや自国兵のパニック症状を抑えるのが目的。戦後、これを完成させようと動いたのが東京支部を牛耳っていた聖景三と、小牧グループ頭取の
十条がハルトを見た。
「景三の孫の茉莉花が進めていた、BGM教育施設プログラム、及び、殺し屋の輸出さ。スプリングで機能向上し、パーフェクト・キラーで恐怖や不安を抑制すれば、即席キラー・マシーンの完成というわけ」
「はあ……そう上手くいきます……? 戦意に欠るのでは?」
「おっ、さすが元エリート。確かに、パーフェクト・キラーを使いすぎると、安定通り越して戦意喪失だ。此処で登場するのが、小牧姉妹が関わった実験だ。どうも、うららさんの方は、何か先天性の障害があったそうなんだけど……その代わり、特別な声が出たらしい。この声で特定の音を発すると、スプリング接種者への間接的な命令ができるそうだ」
「SF要素が高まってきましたね……」
つい、嘘はないかと疑う視線に、十条は仕方なさそうに苦笑した。
「ハルちゃんが呆れるのは無理ないと思うけど、昔の日本では戦闘機や潜水艦の機械音に敏感になる為、小児へのピアノ教育が行われたこともあるから、あながちSFじゃあないのさ。それに、スプリング接種者が音に影響を受けやすいのは特殊能力でも何でもない。単に身体機能向上で、耳が異常に良いから音の影響を受けやすいってことなんだよ」
「耳が良い?」
ハルトの視線が、十条と未春を行き来して、固まった。
「まさか」
「その、まさか。僕も未春も、スプリング接種者だ。ついでに千間くんも」
あっさり出た告白だが、ハルトは頭を抱えたくなった。なるほど、28年前の東京支部は、潰されて然るべきだ。なんて恐ろしい薬物を開発してくれたのか。
「つまり……スプリングを接種したら、全員ハイスペックになるんですか……?」
「残念ながら、スプリングは文句なしの欠陥品だ。九割がた、自我のないバケモノになる」
「えっ……」
「しかも、自我のあるバケモノにも困った疾患がランダムに現れる。それぞれの潜在機能に由来するとか何とか僕にはさっぱりだけども、僕は睡眠症、千間くんは疲労無自覚だから気を付けないと急に倒れちゃう、とかね。機能向上が聞いて呆れるよ」
「未春も?」
思わず見てしまったが、未春は先ほどから無表情を通り越してきょとんとしている。共同生活をしている上で、未春に疾患らしい疾患は見られない。下手をすると、くしゃみやあくび、咳込む仕草さえ見たことが無いかもしれない。
十条はやや物憂げな顔になって頷いた。
「未春の疾患には名前が無いんだ。わかりやすく言うと、失感情症かな」
「失感情症……?」
「ただし、語弊がある。本来の失感情症は、感情を言葉で表現するのが困難だったり、想像力が制限されている症状なんだ。でも、未春の場合は、有るべき感情が全て休眠状態で生まれている。理由ははっきりしないそうだけど、スプリングで命を拾ったせいだと診断された」
未春は大人しく聞いているが、自分の話だと思っていないような顔つきだ。いつの間にか、ビビが膝に乗っているが、それさえ気にしていない様子である。
「普通の出産ではなかった、ということですか」
十条は頷いた。微笑している筈なのに、怒りのような、痛みのような、複雑なものが揺らいだ。
「未春が生まれる前に、母体は事故死している。未春も死亡する筈だったが、秘密裏に取り上げられ、投与されたスプリングが機能し、たまたま命を拾った。研究者の話じゃあ、生命維持に使い果たして感情まで手が回んなかったのでは、って話だけどさ――なんとも適当だよねえ……しょうもない奇跡の出所は、自分たちが作った薬なのにさ」
世間話でもするような口調だが、ハルトはその研究者は生きていない気がした。
「ともあれ、奇跡的に生き延びた未春だけど、命は拾っても不安定な状態は変わらないから、一年間ほど保育器で育った。体はまともな0歳児になれたものの、スプリングの効果は止まらず、理解力だけが早回しで成長して、有る筈の周囲との会話や接触が無かったことで表現力が育たなかったらしい。だから未だにこういう性格。初めの頃はつつかないと反応しないもんで、僕はもおー大変だったよ……今も」
本当に眠そうに大きな欠伸をすると、十条は涙目を指で擦って一息ついた。
「明香は、あなたが何より未春を優先していると言いました。俺には理解不能でしたが、『つつく』という行動が、未春に必要だったと言い切れますか?」
「当然、と言っても理解しそうにない顔で聞かないでほしいな」
「先ほどの話では、殺し屋にする必要が見受けられなかったので」
「ふふ。ハルちゃんは優しんだから~……じゃ、先にさらちゃんの話をしよう。……と、いっても――僕は当時の自分の判断が、100パーセント良かったなんて思ってないから、そのつもりで頼むよ」
やれやれ、と首を捻ると、十条は椅子に深くもたれた。
「まず、小牧姉妹は小牧グループ代表・
「……俺に?」
「うん。さらちゃんは保育器にべったりで、何か話し掛けていたそうだよ。離そうとすると泣いて暴れたらしい。妹の代わりだったのかもしれないね」
「……」
何か思案するように俯く未春に、十条は言葉を続けた。
「さらちゃんは後の事件で、この記憶も曖昧になってる。でもね……彼女の深層心理で、お前が占める部分はとても大きいんだ。その分、一緒にするのは危険だった。現状、さらちゃんだけが発声できる音の力は、スプリングと深く繋がった人間ほど強い影響を受けるから」
「その音って……さららさんだけでも行使できるんですか」
「いや……妹の録音音声と合体しないと効果はほぼ無いんだけど、彼女が精神的に追い詰められた際に、これまで三回ほど発動している。内一回は僕も痛い目を見た。研究者が『ポイズン・テナー』って呼んだそうだけど、まさにソレ。大きな音じゃないのに、頭の中に入っちゃいかんものが大量に流れ込んで、脳が七転八倒するカンジ。やばいものを食べると、体は拒絶して吐くでしょ? でも、頭はそう安易にはいかない。一度入り込まれると、効果が切れるまで、脳がデタラメな命令をする感じ。唐突に頭や内臓、体の節々が痛くなって、血は吐くわ、苦しいわ……」
そう言われてもどんな感じかわからないが、この男を七転八倒させる能力は大変なものだ。では、さららの扱う「毒」とは、この音声を指すのか?
「あれ……それじゃ、さららさんは何故、BGMに?」
無関係で済めば、その方が都合が良い筈なのに、というハルトに、十条は困り顔で笑った。
「そりゃあ、僕を殺したい人は大勢いるからさ……かわいそうだけれど、放任はできない。僕は彼女には早くに正体を明かし、彼女にも偽の経歴を与えた。後日、彼女の経歴はあながち嘘ではなくなってしまうけどね……」
うとうとする目を拭い、十条はゆっくりしてきた調子で喋った。睡眠症というのは嘘ではないらしい。
「さらちゃんは――他の子達と一緒に児童養護施設に送りたかったけど、僕は彼女の声に危険があるのは漠然と感じていた。それだけに、未春や他の子どもと一緒にするのを避けた。彼らをはずみで殺してしまったら、彼女はきっと立ち直れない。だから僕はさらちゃんを別の場所に預け、未春は試験運用の赤ちゃんポストに預けた。なんせ僕は、このとき18歳で……自分のことでもいっぱいいっぱい……」
生あくびを差し挟み、ふう、と溜息を吐く。
「僕は未春が成長したら会わせていいと思っていたよ。ところが、未春ったら児童養護施設に入ってからも悲しいほど『無』なんだ。あ、こりゃイカンと僕は慌てて未春に接触した。並の人間関係では未春を人間にできないって気付いたから」
「だから“つついた”と?」
「そうだよ。僕だって超やばいことしてると思ってたさ。愛情は他の人に任せて、僕はひたすら反対側を教えた。人間を叩いたらどうなるのか、切れたらどうなるのか、未春は全部見せて説明しないと理解できなかった。普通の人間なら最悪、理解できなくてもいいけど、未春は片っ端から人間を殴り殺せる性能の持ち主なんだから、ほっとくわけにもいかないでしょ……現に、僕が頑張ってコレなんだから」
十条は未春を指さしながら、ふわわ……と、再びあくびをする。
「未春の周りはみーんな、僕が選んで用意した人ばかり。半分はさらちゃんの為でもあるけど……愛する家族、良い同僚、悪役……未春がウッカリ殴らずに済む人たちと、ウッカリで警察沙汰にならない人たち……」
「未春を海外に送った件は、どうなんです」
「ああ、ハルちゃんが剣呑なのはそこが原因かあ……」
酔っ払いみたいになってきた十条はふにゃふにゃと笑うと、髪をくしゃくしゃに揉みながら頷いた。
「あれは、さらちゃんともう一度離す必要が出たからさ。さらちゃんが安易に訪ねていけない場所が最低条件だったけど、どうせなら未春に裏社会を見せとこうかなって。どうせ未春は言葉足らずなんだろうから補足するけどさ、未春が居たのはちゃんとしたクラブだよ。信じ難いことではあるけど、僕は人間に触る方法を知ってもらいたかったわけ。僕が相手するもんじゃないしさあ……おまけに顔がいいんで、日本でやらせるとストーカーや本気にしちゃう子が出ると思った。椅子売るだけで女子の財布すっからかんにする野郎なんだから、子供出来ちゃったり、虚偽の認知でも迫られたら困るじゃん。殺しも一般人相手じゃないよ。人身売買するブローカーとか、子供のAV作るような奴ら」
正当な社会科見学と言わんばかりの十条にハルトは渋面を作ったものの、こっちも力也に似たようなことをしたばかりだ。
「……って言ってるけど、本当か?」
黙って清聴している未春に問うと、小首こそ捻ったが頷いた。その傍らで、十条は倉子のように唇を尖らせて不満そうに呟いた。
「ハルちゃん、ちょっとは信用してよ。僕が未春に秘密にしてることを知ったなら、わかってほしいなあ……」
「それを黙ってるから信用度が低いんですよ……」
呆れて言うが、十条はとぼけた顔で肩をすくめただけだった。
「十条さんは、何故スプリングを接種したんですか?」
「あー……それは……察してくれない?」
ぼさぼさの髪を掻いて、十条はぼやいた。ハルトはやや厳しい目を向けたものの、あっさり引いた。
「まあ、時期くらいは白状するよ。17の時」
ハルトは二、三度軽く頷いた。未春はその様子を静かに見ていたが、特に言及しなかった。
「千間は、開発者の孫だから……ですか?」
「僕は彼とそういう話をしたことないからねえ……色々あるんじゃない? 利一さんは孫に強要するようなタイプじゃなさそうだけど、父親はどうだかわかんないし、単純に僕がキライだからとか」
大いに有りそうな理由が含まれたが、どうも彼らの関係も最初の印象と変わってきている。千間自体、殺人鬼にしては人間味があるように感じる。九割も理性を失うリスクを冒して恋敵をぶっ飛ばそうとしたなら失笑ものだが、家の圧力が原因なら気の毒にも思えてくる。
「千間さんて……本当に殺人鬼なんですか?」
ストレートに訊ねたハルトに、真っ先に形の良い眉を寄せたのは未春だ。不穏な空気を察してか、ビビが未春の膝を脱し、ハルトの足元にやってくる。無言の反発を見てか、十条がくすくす笑う。
「未春、言いたいことがあるなら言ったら?」
「ハルちゃん、千間さんはド変態だって言ったろ」
「だ、そうだよ、ハルちゃん。未春を信じるかい? それとも君の勘を信じる?」
ハルトはわずかにムッとしている未春と、何が面白いのかニヤニヤしている上司を交互に見て、一息ついた。
「保留にします。今、はっきりさせたいことじゃない」
かぶりを振ると、未春は不服そうに見えたが文句は言わず、十条も軽く頷くにとどめた。
「十条さん、子供たちは実験台だと仰いましたね。スプリングやパーフェクト・キラーを接種した子供は他に居たんですか?」
「スプリングは居ないと思う。仮に居ても、発狂したら間違いなく派手に暴れるからすぐにわかる。僕らのように適合しても、このヤバい能力を周囲が見逃す筈がないね。それに、スプリングはかなり高くつく薬品で、製造数は少なかったそうだ。僕が研究施設を潰した後は製造元が無いし、保管の線は効能に難がある」
それはそうだ。製造法が有ったとしても、薬を作るということは単純作業ではない。金も施設も人も要る。薬物自体、長い保存期限を有するものとて、五年程度が限界だ。
「パーフェクト・キラーの方は?」
「ほぼ全員接種済み」
喉に何かつかえたような顔をしたハルトに、十条は困り顔を浮かべた。
「スプリングは接種者も少なく、九割が “諸々の理由”で死亡している。でも、パーフェクト・キラーは精神安定剤だから、量さえ間違えなければ死ぬ危険性は無いし、暴動を起こすことはない。ただ、僕としてはこっちの方が厄介なんだ。パーフェクト・キラーを接種した人間も、ポイズン・テナーの影響を受けやすいから」
「彼らも耳が良いと……?」
「いいや。身体機能には影響しない。ただし、彼らの精神状態は一般人が比較にならないほどクリアなんだ。純粋と言えば聞こえがいいけど、極端な言い方をすれば、未春並に感受性が穴だらけなんだよ」
ピンと来ないらしい若者二人を交互に見やり、十条は宙をぐるりと仰いだ。
「んー……『死ね』って言われたら、『じゃあ、死んじゃおっかなー』って考えちゃうカンジかな」
一瞬にしてハルトが頬を引き攣らせ、未春がぱちくりと瞬きをした。
「実際はそんな単純なことじゃあないけれど、さらちゃんが発動させた時は死者が出た。つまりさ、パーフェクト・キラーを使わなくても、同じように『異常に精神が安定していれば』、ポイズン・テナーで操作できちゃうってこと」
異常な精神安定。無論、それは最高級のリラクゼーションや、禅などという話ではない。俄然、アマデウスが警戒する謎の薬物がちらついてくる。
「この能力を欲しがる相手と、僕は長いこと睨み合いをしていて――……」
語尾を大あくびが攫って行ったが、十条はなんとか夢の世界の手前で踏み止まった。
「……その相手が、小牧グループ現・代表の小牧
爆弾発言を投下するや、ゆらゆらと船でも漕ぎそうな顔になってきた十条は、不意によろめきながら立ち上がった。
「……大丈夫ですか?」
「ううん……ダメ。無理。もう眠い……続きはまた来週~……」
「ちょっ……来週ッ?」
一歩踏み出しかけたハルトの前を、サッと手が塞いだ。未春だ。そう思ったのと、殆ど同時に目先でダン!と音がした。机に一本突き刺さったペーパーナイフは追随を許さない一撃だ。
「じゃ、おやすみ~……」
十条は片手をひらつかせて部屋へと去って行ってしまった。
溜息が、出た。眠気半分でも、こんなバカ力が出るのか。未春は未春で、無言でナイフを抜きに掛かったが、「あ」と一言呟いた。
「折れた」
気の毒に、ぽっきり二つに折れたステンレス製ナイフは、突き刺さった衝撃と、引き抜かれる勢いのどちらにやられたのか答えることもできない。
「……危ねえなあ……ほんと、どうなってんだ、お前ら……」
個人の能力をこれほど異常値まで引き上げる薬。それよりも危険に成り得る薬と、その起因となるさらら。そして、さららの異母兄は聖家並の危険思想の持ち主らしい。
「来週って、マジかよ……」
げんなり呟いたハルトに、ナイフを金属ごみに放り込んだ未春が振り向いた。
「たぶん、来週にはならない」
「はあ?」
「『続きは』によく付く定型文言っただけだと思う」
「そうであるのを願う……」
「急ぐなら、十条さん以外に聞けばいい」
「え、誰か居たか……?」
目下のところ、八方手を尽くしたように思い、ハルトは唸った。千間は最も気になる相手だが、全面的に信じられる仲ではない。
さららも、先程の話がオーバーだろうと直接聞くのはまずい内容だ。ジョンのことはバレている為、今は連絡しない方が互いの為になる。より強いカードのアマデウスはこういう時、電話さえ繋がらない。
他に詳しそうな奴なんて……
「この辺に詳しい人なら、いいんだろ」
そう言った未春は、時間を確認した。午前8時過ぎ。人を訪ねるには些か早いが。
「ハルちゃんが行けば話すんじゃないの?ディックは」
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