14.Gains.

「さららさんは大丈夫なんですか」

その夜の夕食。問い掛けたハルトに、十条はきょとんとしてから、未春を見た。

「ハルちゃんは、未春と同じこと言うんだなあ」

「俺は『何してんだ、帰れ』って言いました」

大分違う気がしたが、十条が受けるニュアンスは同じらしい。鳩のように首を傾げてから、大丈夫、と頷いた。

「ご飯食べたら帰るよ」

「そういうことではなく……夕飯ぐらい、さららさんも連れてくればいいじゃないですか」

未春がちらと視線だけ寄越す。

――なんだよ、別に他意は無いぞ。千間のこともあるだろ。

ハルトの内心が伝わったかはともかく、未春の視線がゆらりと食卓に戻るなり、十条は合点がいったような顔で頷いた。

「さらちゃんは『未春のご飯は大好きだけど、太っちゃうから遠慮する』ってさ」

おい、だからそういうことじゃねえんだよオッサン。

未春のメシが、うっかり過食傾向にあるのは確かだが――当のシェフが無反応なので何か言ってやれと視線を向けると、本当に一流料理人のようにむっつりしていたが、何となく手付きがそわそわしていた。無意味に小皿を寄せたり、盛られたツナサラダを底から返す。

……もしや、こいつ……“未春のご飯大好き”に喜んでる……?

「ハルちゃん、スズさんが手出してる」

うわの空かと思いきや、ぶっきらぼうな指摘に慌てて手元を見ると、いつの間にか椅子の狭いスペースに滑り込んでいたスズが、伸びをするようなポーズで片手をテーブルのかぼちゃに出していた。なんでお前はお前で、ツナではなくかぼちゃの煮物に手を出す?

丸い頭を丁重に押し戻すと、大人しく引き下がる代わりに薄緑の眼にジロリと見られた。

「おスズは甘い匂いが好きなんだよねえ」

そこだけはこの保護者と気が合うのか。スズはしぶしぶといった具合に椅子からぼてっと飛び降りると、うらめしそうに振り向いてから顔を洗い始めた。その隣では、ビビの視線がこちらとスズを行ったり来たりし、目が合うと何かの期待に耳がぴんと立った。

「そういえばさ」

口の中のものを咀嚼するのも程ほどに、十条は言った。斜め前の未春から『呑み込んでから話せ』の気配を感じたが、構わず続ける。

「例の銃殺事件、被害者は全員がいじめっ子だったってさ。テレビはワイドショーぐらいだけど、ネット上はだいぶ騒いでるよ。被害者への中傷は凄いし、被害者と親しかった子達もけっこう攻撃されてるねえ……」

いじめといっても色々あるらしく、大抵は愚にもつかない幼稚な頭が群れることで始まる為、一人のいじめに対し、いじめっ子というのは複数居るという。

無視やネット中傷、傍観者も含めると、クラス全員でした、なんてこともあるらしい。被害者の周囲が攻撃されるのは、「死ななかったお前らも仲間だろ」と言いたい連中によるものだ。

一方、明快な首謀者が居るパターンも少なくない。ある一人や二人を中心に徒党を組む点は前述と同じだが、首謀者の性格次第で質は変わって来る。瑠々子の件では、主にSNS上の悪口と、学校での陰湿な嫌がらせだが、他のいじめっ子にはこれを上回る犯罪行為もあったという。殴る蹴るの暴力、万引きや金銭を強要したり、服を脱がせた写真やいたずら動画をネットに上げる等々――果ては強姦もあったというので、ハルトは心底呆れた。

日本の義務教育はどうなっているんだと思わざるを得ない。

彼らは物事を捉える感覚が甘く、幼稚な認識でもって判断し、自身のストレス発散が幼児の頃となんら変わらないのだ。成長過程にある子供が欲求を抑えきれず、泣いたり喚いて訴えるように、未だ自己中心の世界に居る彼らは、気に入らないものに当たり散らし、排除しようとする。無論、幼いから仕方ないなどと片付けられるわけもなく、いじめという行為自体が悪だ。他者をいじめる以上、他の何を高めても――素晴らしい成績だろうと、スポーツ万能だろうと、美しく在ろうと、愚かで醜い生物のままに違いない。

事実、今、被害者周辺に向けられる言葉や視線は、彼らが行ったいじめと何ら大差ない。

攻撃に大義名分を掲げたら、それは戦争と同じだ。やり方次第では、虐殺ともいえるし、殺戮ともいえる。

ただし。

「……俺には何も言えません」

熱のない口調でハルトは言った。いじめの加害者をどうこう言う資格は自分には無い。銃殺されるほど罪深かったのかと問うこともできない。自分は紛れもない殺人者であり、力也に話した通りの究極悪なのだ。道ですれ違ったことさえない人間を何人も手に掛けてきた悪党が、どうして他の罪に意見できる。

十条は幾らか呆れ顔で苦笑した。

「ハルちゃんは時々、罪悪感が服着て歩いてる感じだね。リビアの件も――」

「Stop it!」

突如、外国人が現れたような鋭い声に猫達の両耳が跳ね上がった。未春さえ箸を止め、ハルトを見た。その両眼には憤怒が揺らめき、同時に――何だろう?

彼らしくない暗さがどろりと滲んだ。何気なく覗いた穴が、吸い込まれるように真っ黒な闇であったような。

十条は動じることなく、口にチャックのジェスチャーなどしているが、ハルトの険悪な表情は和らがなかった。よほど、タブーである言葉らしい。

――リビア。アフリカ大陸の国名だと思うが、どの辺りかはわからなかった。

「ネイティブってカッコいいなあ」

「十条さん、あの件を口外するのはやめて下さい。それに俺は――」

「 “同業者に舐められるのは嫌”なんだっけ?」

「……どうやら十条さんは、さららさんよりひじりさんと親しいようですね」

「あれれ、ハルちゃんに皮肉を言われちゃったよ。未春、僕と聖さんてどう思う?」

「お似合いです」

「ははは、お前はハルちゃんの味方ってことか。良いことだなあ」

一体何が良いのか、にこにこと食事を摘まむ男を薄気味悪そうに見てから、ハルトは今度こそ重い溜息を吐いた。

「十条さん――銃殺事件は、本当にBGMへの依頼ではないんですか」

ハルトの問い掛けに、十条は箸も茶碗も持ったまま顔を向けた。肯定にも否定にも見える微笑は、単純にメシが旨いという顔にも見えた。

「ハルちゃんは、誰かがBGMに依頼して、いじめっ子を殺害したと考えてるのかい?」

「まあ……素人にしてはやりすぎですし、十人に関連性は無い様ですから……」

十人の若い一般人を一晩で銃殺など、愉快犯がすることではない。

思い付きや突発的な行動でどうにかなることではないからだ。そもそも何故、銃殺なのか。十人を同日に別の場所で銃殺するなど、アメリカでも大いに目立つ犯罪だ。全員が射殺時の銃声を聴かれていないということは、何処かに拉致された上で殺害されたと見られるが、その現場とて銃声は響く筈だし、数ヶ所に分けて複数犯で行っても同じことだ。しかも、発見場所は全員別。集めて殺した場合、わざわざ遺体を各地に置く手間が何なのかわからず、集めなかった場合はかなり大人数が関わらなければ実行できない。拉致、殺害、遺体設置と最低でも三回は人目につく可能性が有り、多人数が関わるやり方は、殺し屋には不都合だ。遺体の運搬も一人では難しい――かといって、複数が関わると発見のリスクが増すし、足もつきやすい。

BGMなら、清掃員クリーナーのスキル次第で、ある程度はカバーできるが、遺体の処置は“らしく”ない。犯行現場が特定されなければ銃殺を隠す方が日本では自然だし、世間に銃犯罪を宣伝するように放置するのはBGMらしくない。

BGMの本分は、あくまで裏側から世界を順調に回すこと。その為に裏社会を牛耳るのは好ましいが、ナチやポル・ポトのように一般人を震え上がらせる必要は全く無い。遺体を発見されないように処理するならわかるが、こうも大々的にマスコミを騒がせるのは無意味どころか失策だ。

「もし、ウチに依頼が来たのなら、一番確実な殺し屋は誰だろうね? 十発以上の弾丸とそれに見合う拳銃を所持し、一人一発で仕留める技術があるのは」

にこにこ笑っている。……絶対にわざと言っていやがる。

「アリバイ云々の話をしなければ、真っ先に怪しいのは俺ですか」

「ちょうど最近、撃ったばかりだしねえ」

ハルトの視線が弾かれるようにのんびりした顔に向いた。視界にない未春がわずかに動いたようだったが、確かめるより先に十条がケラケラ笑っていた。

「怖い顔しないで。あの日、聖さんと電話したから、僕は玄関に居たんじゃないか」

「……それはそうですが――」

聖はそんなことまで話すのかと言い掛けて、ハルトは気付いた。

十条がニヤニヤ笑っている。――クソ、またやられたか。

「悪い人だな」

「ごめん。察しは付いていたから勘弁してよ。聖さんなら、確実に君に発砲を要求すると思ってたから」

「ハルちゃん、誰か撃ったの?」

「的とスピーカーと身内三人の脚だけだ」

未春は眉を寄せたが、謎のスピーカーについて聞かれる前に十条に向き直る。

「服はとっくに洗いましたが、弾数でも調べますか」

「まあまあ。ハルちゃんを犯人にはしないさ。要は、いま日本に居る殺し屋でこんな芸当ができるのは君ぐらいしか居ないってこと。海外から凄腕の殺し屋がやって来て……なーんて映画みたいな話は突飛過ぎるでしょ」

海外からやってきた殺し屋、という言葉にハルトは少し胸がざわついた。

――気にするな。まだ、そうと決まったわけじゃない。

「ウチに依頼は来ていないし、僕はこの手の依頼は受けないよ」

「……聖さんも?」

“時期尚早”とやらの件を踏まえた上で尋ねると、十条はにやっと笑って頷いた。

「 “仮に”、彼女が依頼を受けていたら僕らに隠す意味はないね。秘匿するなら、この件はワイドショーに取り上げられずにお蔵入りが正しい。それと、この殺人が世間にお披露目するタイプのものなら、怨恨が動機なんだから弾丸一発ずつでは済まないさ。彼女の兵隊はおあつらえ向きの狂人ばかりなんだから」

千間の“下手な”バーベキュー写真を思い出し、妙に納得した。

BGMの性質上、公開処刑めいたものは極めて少ないが、やるならば絵に描いたような残酷さを演出する。仮にこれが殺したいほどの憎しみによる報復なら、確かに大人しすぎるかもしれない。

また、“人は資源”と聖は言った。その言葉が本当なら、現状が悪質でも、未来ある若者を安易に殺しはしないだろう。どうせ殺すなら、あの島に監禁して“再教育”して使うぐらいのことはやりそうだ。では、BGM以外で――俄然怪しいのは。

「 “時期尚早”の待ってるものと、古馴染みってのはどうなんですか」

また、未春がちらとこちらを見た。

やはり、視界の端に見た表情からは何もわからない。

「ンー……」

箸先を口元に当てたまま、十条は唸った。誤魔化す気か、はぐらかす気なのか。こちらはこちらで底意が見えない。

「その反応は、無関係ではないと思っていいんですね?」

「ハルちゃんの察しの良さは、ときどき扱いが難しい」

へらへら笑うと、十条は軽く頷いた。

「無関係ではないよ。僕がいま言えるのはそれだけだ」

「……わかりました」

身内以外にこういう悪党が居るのは気掛かりだが、こっちは正義の味方ではない。

「そういや……お前だけ仕事してるよな」

ハルトの問い掛けに、未春は箸にかぼちゃの煮物を摘まんだまま、怪訝な顔をした。

「BGMの?」

「そう。お前、昨日の夜も、さっきも夕飯前に出てっただろ」

よほど近場だったのか、コンビニ感覚で帰って来た未春は、一瞬忘れた様子のかぼちゃを口に入れ、もぐもぐやってから瞬きをする。

「だったら何」

「なんでだよ」

「『なんで』って何が?」

「なんで俺が無害な店員やってて、お前は殺し屋してんだって話」

「ああ、そういうこと」

お馴染みになってきた相槌を打つと、未春は小さく眉を寄せた。

「俺宛の依頼だから受けてるだけ」

「……ンだよ、ご指名かよ」

「ハルちゃんこそ、なんでやる気MAXなの?」

「なんだその……やる気MAXって。またCMか?」

「やる気十分ってこと」

「別にそういうわけじゃない。誰かさんのせいで慈愛に満ちた店員の役に回されてイライラしてるだけだ」

「十条さんにイラつくのはやめた方がいいよ。キリ無いから」

「ねえー、二人とも」

抗議の呼び掛けは別の方角からやって来た。

「君たちのテンポのいいトークは面白いけど、そういうのは本人が居ないとこで言うものでしょ」

さして広くもない丸テーブルを囲む三人目は、にやけ半分に不平を述べた。

「あのねハルちゃん、未春に来てる仕事以外は、しょうもなくてさ。僕が蹴ってるんだよ」

「何でですか。どんどん持ってきて下さい」

未春がまた怪訝な顔をする。

「ハルちゃん、変なもん食った?」

「……お前にだけは言われたくない」

テーブルの片隅に据え置かれた『カステラサイダー』なる黄色い液体が詰まった瓶を見て言うと、十条が「それは美味しいよ」と余計なことを言った。

「蹴った仕事はいくつですか」

「結構ある」

「なぜ断ったんです?」

「常識的に見て。僕は君に、無駄な殺しをやらせたくないんだ」

「あの、十条さん――何なんですか、その遠慮は? 俺はいちいち気にしてませんよそんなこと!」

テーブルを叩きかねない口調だったが、空きスペースの少なさに手は出なかった。普通なら静まり返りそうな雰囲気だが、未春は箸を止めないし、十条はネジが一本飛んだみたいにけらけらと笑った。

「ダメだよ、気にしなくっちゃ。僕たちは出る杭を打つけど、大抵のものは無いより有る方が楽しいんだから。そのソーダみたいにさ、嫌そうな顔するより、面白いって笑った方がハッピーだと思わない?」

このまま幸せ論議に入られてはたまらず、ハルトは未春を箸先で示して口を挟んだ。

「だったらコイツの仕事量を減らせばいいでしょう。殆ど一日一殺状態じゃないですか」

「ははは、最近悪いやつが多くてね~困っちゃうよ、ホントぉ~」

「そのユルいヒーロー気取り、マジでどうにかなりませんか……!」

苛立ちに呂律が怪しくなったところで「二人とも」と未春が口を開いた。

「ケンカすんならメシ食ってからにしろ」

この家を仕切るボスの命令に、 “二人とも”は少々神妙な顔付きで食事に戻った。

黙々と、それぞれに行儀よく。いい歳の男三人のテーブルにしては、厳かと言ってもいい。ハルトの胸中は、例のアップダウンに苛まれていた。眼前にはふっくらと湯気を立てる白米、甘辛いタレが絡む白葱の肉巻き、鮮やかな橙がほろりと崩れるかぼちゃの煮物などなど――「家庭的」という言葉がぴったりの食事を、血の繋がっていない三人が囲む様。

そのテーブルで世間話のように交わされる人殺しの話。

一日一殺の男が作る食事が、おふくろ感のある旨いメシなのはよくない。自分の飯を平らげたスズが空席でのんびり居眠りしているのもよくない。ビビが膝に小さな手を掛けてきて、首を上下に揺らしながら食卓を覗いてくるのもよくない。

一日一殺の未春が、何で解消しているやら、キリング・ショックの片鱗さえ見せないのもよくない。殺し屋風情が、のうのうと平穏に過ごす有り様。

――腑抜ける。着々と。或いは既に。

この店と、ここに関わる人々に触れていると、知っていたつもりの正統性は失われ、ズレていることが正しく思えてくる。この店の面子に、殺し屋に必要な臓腑を抜き取られたみたいに。そういう意味じゃ、こいつらはプロだ。間違いなく。

「仕事に関してだけどさ」

ボスが納得するまで平らげた頃。当のボスが後片付けのためにキッチンに向かったのを機に、十条はやんわり切り出した。

「ハルちゃんが気にしないなら尚更、僕が選んで与える。いいね?」

「……わかりました」

不満を全く隠さずにハルトは頷いた。組織は組織、上司は上司、と飲み込む。組織とは腐敗しやすく、上司とは、馬が合わない人物の方が多い。ぶつぶつと内に勝手な理論を打ち立てた部下を知ってか知らずか、十条はにこと笑った。

「未春にやらせている件も同じ。内容次第でどちらが適正か決めて指示する。さっきの話だと、まるでハルちゃんが殺しダイスキーみたいに聞こえちゃうけど、君は千間くん達とは違うんだから自重しようね」

千間か。確かに、人殺しが好きでBGMの仕事を望むわけではない。殺し屋以外のことを、安穏とやるのが嫌なだけだ。殺し屋なんぞ、どうせ殺されるか、目も当てられない事故死で死ぬに決まっている。手を下すのが、復讐者なのか、身内なのか、法なのか、はたまた神や悪魔なのかはわからないが、詰まるところ――良い死に方は絶対に無い。そのとき、穏やかに暮らしていたくない。きっと、錯覚するからだ。これまで何をしてきたのかが朧になり、死をすんなり受け入れられなくなる。

「聞き分けが良くて助かるよ。まあ“郷に入っては”ってことで。宜しく」

思い切り不満を顔に出しつつ、ハルトは頷いた。上司は上司。部下は部下。上司が仕事と言うなら仕事――アマデウスの過重労働とどちらが良いとも言えない。仕事は、仕事。Welcome to black company――まあ、ホワイトである筈のない職場だ。諦めろ。自分にこんこんと言い聞かせていると、十条はやんわり口を開いた。

「とはいえ、君を飼い殺すのは勿体ないよね」

「は? ……はあ……」

それらしい仕事なら歓迎するが、目の前の笑顔には期待できそうになかった。

「ハルちゃんなら、代理に申し分ないと思う」

嫌な予感しかしない前フリを、十条は少しも裏切らなかった。

「僕のお使いで、此処に行ってくれないかな」

テーブルに置かれたカードを覗き込むと、白い紙面にしゃれた黒字で「Gemstoneジェムストーン」と小さく書かれていた。「原石」などの意味を示す英語の裏を返すと、住所と電話番号らしきものが書かれていたが、他には何もない。

「何をする所ですか?」

「臓器売買斡旋所」

思わず吹きそうになると、ジョークジョークと笑われた。……確かに、これはキリが無い。

「小さな劇場だよ。学生や素人でも利用できる場所で、演劇や音楽、ダンス、ファッションショーとか、色んな催しをしてる」

「はあ……」

若い芸術家――ダイヤの原石という意味か?

花束を持ってご機嫌伺いに行くなどゾッとしないが、オーナーや関係者が一般人とは限らない。事実、アマデウスの知り合いには、旧式の映写機を回す劇場を趣味で運営するギャングが居るし、裏取引の為だけにカフェを経営するブローカーも、血を落とすのに特化したクリーニング屋も居る。近場なら武器とパンを扱う車ヲタクがわかりやすい例だ。少し居住いを正したハルトに、十条は相変わらずのんびり言った。

「僕はこの劇場を支援していて、公演には結構誘ってもらうんだけど、なかなか行けなくてさ。いつもメールや花じゃ味気ないし、君が挨拶に行ってくれると、とっても助かる」

駄目だ……どう考えても花束を持っていく依頼にしか聞こえない。

「本人がたまに顔出すのがいいんじゃないんすか……」

「やだなあ、ハルちゃんらしくもない。殺しの依頼の“代わり”に僕が頼むんだから、百戦錬磨の君は察してくれないと」

別にキナ臭さを求めているわけではないのだが、ご機嫌伺いに持参するイメージを花から拳銃に変えるべきかと思ったとき、十条は首を捻りながら言った。

「僕も添え状は書くけど……この時期は何が良いのかなあ。やっぱり無難に花がいいかも。適当に買っておくよ」

贈答品は鉛弾ではなく花に決定した。花をぶら下げて劇場に挨拶に行く百戦錬磨の殺し屋とはもはや何なんだ。

「……ちなみに、これを断ったら?」

「リッキーの助太刀でもするかい? テスト前でヒィヒィ言ってたよ」

にんまり笑われて、力也の質問責めと、聖の施設の胸くそ悪い実演が浮かび、こめかみが痛くなった。子守りか挨拶の二択とは。嵌められている気しかしない。

「……わかりました、行きます」

「ハルちゃん、あっくんとこ行くんすか」

食器を洗っていた筈の未春が、背後でぼそりと言った。毎度毎度、お前は猫か幽霊か?

「うん、挨拶に行ってもらう。何か用事?」

「いえ、あっくんには何も。ハルちゃんに頼みがあるだけです」

「お前が俺に? 何だよ?」

こっちも面倒な頼みじゃないだろうな。そう思いつつ、好奇心混じりのハルトに向かって、未春は無表情に言った。

「行く途中のケーキ屋で、さららさんにマフィン買ってきて。チョコと、ブルーベリーと、ブルーチーズにイチジク入ってるやつ。売り切れてたら任せる」

もはや反論する気も起きない。お使い以外の何でもない頼み事に、ハルトは眉間に皺を寄せたまま頷いた。



小劇場「Gemstone」は、驚くほどレトロな建物だった。

英字かと思っていたロゴは、カタカナで「ジェムストーン」だったし、型抜きしたようなそれが一文字ずつ、煤けた白壁の屋根に乗っかっている。庇になっている出っ張りを電球がずらりと囲み、一見するとシカゴ・シアターやアポロ・シアターに似ていなくも――いや、似てないな……と、ハルトは考えを改めた。

最寄りの駅前がパチンコ店や小さなスーパーぐらいしか無かった為、うっすら予感はしていたのだが、小ざっぱりとしつつも、老舗というよりは単なる古い建物だ。

十条に、せっかくだからとチケットを押し付けられたハルトが已む無く公演を拝んだ後。

「どーもー、お待たせしました」

劇場主と名乗って現れたのは、先ほど舞台で主役を演じていた役者だった。

「すいません、外で待たせちゃって。混むのはいいんですけど、出入りの時は狭くって」

気にしなくて良いと告げると、青年はニコッと笑った。

「茶話 明香さわ あすかっていいます。改めて、はじめまして」

爽やかに挨拶した青年は、どこかこざっぱりしていて、歯並びが綺麗だった。

「君が劇場主なのか? 此処の?」

「ハイ。驚きますよね。こんなワカゾーで」

仰る通りなので素直に頷いた。どう控え目に見ても、二十代前半の青年は、やや小柄だが全体にすらっとしている。日本人らしい、何となく雅な印象で、色白の面に細筆で引いたような眉や目許は利発そうだが、お喋りが好きそうな今どきの若者にも見える。少なくとも、この古い劇場とは結びつかない。

代理は代理なので丁寧に名乗ると、青年は楽にして下さいと砕けた調子で笑った。

もう人が引いたから中に入れますよ、という明香に従って劇場内に戻ると、ごく小さなロビーのテーブルに案内された。其処かしこから妙な音がする黒革の椅子にかけると、明香は親し気に話し始めた。

「トオルさんやミー君に聞いてます。帰国子女の『ハルちゃん』でしょう? お会いできて嬉しいです」

滑舌の良い挨拶になんとなく気圧されながら、ハルトは頭を下げた。

「はあ……どうも。ミー君ってのは未春のことだよな?」

「ですです。俺、DOUBLE・CROSSの非常勤なんで」

「え、そうなのか」

先に言えよと居ない上司に胸の内で毒づく。どうやら、力也が言っていた“モデルみたいな奴”とは、彼の事らしい。明香は社交的な微笑を浮かべた。

「トオルさん、言ってませんでした?」

「全く」

「ハハ……あの人、サプライズ好きですからね」

あの性悪はサプライズというよりイタズラ好きだと思う。

「店には、忙しい時期に呼ばれるの?」

「あ、いえ、非常勤というのは俺の都合なんです。学生と演劇活動やってるんで、夏休みとか、イベントの時とかにちょこちょこ稼がせてもらってるんですよ」

「学生なのに此処の運営もしてるのか。大変だな」

「いえいえ、俺は名前だけなので気楽なもんです。前の劇場主が畳もうとしたときに、頼み込んで譲ってもらっただけで……運営は専ら、前からのスタッフさんに任せきりだし。俺がやってるのは前の主と業者に借金をコツコツ返して、書類にサインするくらいですね」

すると、借金の為に不定期のバイトか。

はて……彼は倉子や力也の側……或いは“知らない”人間なのだろうか? つい観察してしまうが、身のこなしや雰囲気は一般人のそれだ。これでBGMなら完璧だが、殺し屋と捉えるにはあまりに清々しい。千間に並ぶ殺人狂共にはこういう人間も居るが、こちらはそれがわからぬほど素人ではない。殺し屋がコツコツ返済というのもおかしいし、清掃員だとしても、まあまあ高収入だ。ギャンブル等で金遣いが荒い――可能性もあるが、そういうタイプにも見えない。

「トオルさんには感謝してます。金銭的な支援は勿論ですが、顔が広くて、色んな人を呼んでくれるんです。今日も噂のハルちゃんが来てくれましたしね」

「俺は……来たところで何の役にも立たないけどな」

そういえば殺し屋の一面を知らない人間には、一体何者だと思われているのだろう?

アメリカでは裏も表もアマデウスの部下だが、日本では責任もなく自堕落に生きてる独身男……か?――なんだか癪だが……もう少し謙虚に振舞った方がいいのか?

ハルトの内部葛藤をよそに、明香はにこやかに首を振った。

「いいんですよ、ただ観て頂ければ。劇場の文化を支えてくれるのは、なんといっても観客です。衣食住に比べると立場は弱いですが、人には文化が絶対に必要ですから」

この志を支えるのが、人にして最も人ならざる殺し屋とは何とも皮肉だが、アマデウスも文化の必要性は度々言及していた。仕事に関与のない趣味を持てとやかましく、昔は演奏会だのミュージカルだのに連れて回されたが、派手なエンターテイメントは性に合わず、本に落ち着いたのを思い出す。

「君みたいな人が劇場主だと、周りが期待しそうだね」

「それは有難いですが、俺、役者としてやっていきたくて。テレビじゃなく、舞台でやる方の」

「へえ……俺は素人だけど、向いてるんじゃないか」

役者の世界で何が良いかは知らないが、劇中でも彼の声はよく通り、ハンサムな容貌以前に観客を惹き付けていたと感じた。うまい感想でも言うべきだろうが、常に周囲に気を張る殺し屋の頭に、気の利いた賛辞は浮かばなかった。

とりあえず、良い公演だったと告げると、明香は嬉しそうに礼を述べた。

「ハルトさんは聞いた通りのイケメンだなあ。声も良いですね。あの店、顔面偏差値高すぎると思いません?」

顔面偏差値? 妙な単位に辟易しつつ、ハルトは首を振った。

「俺は良くても並だよ。まあ、確かに美形は多いかな……? 振り込ませハンサムと天然タラシはともかく」

決して未春と十条に他意があるわけではない。決して。誰とは明言していないが、明香はニヤニヤ笑った。

「ハルトさんはカッコいいですよ。あの二人とは違うタイプの……何て言うのかな、余裕がある感じがいいですね。英語もペラペラなんでしょ? 憧れるなあ……バイリンガル」

褒められるのは嬉しいが、度が過ぎれば気味が悪い。

苦笑に留め、よっぽど整った顔を仰ぐ。

「茶話君が居た方が、あの店は華やかになるよ」

「あはは、どうも。明香でいいですよ。一応、同僚じゃないですか」

「だったら俺は後輩だ。明香先輩って呼ばないと」

「光栄ですけど、まさかリッキーを先輩って呼んでいませんよね?」

「最初から、こっちが“センパイ”って呼ばれてる」

やっぱり? と明香は笑った。

「リッキー、良い奴でしょ。トオルさんとさららさんは優しいし、ラッコちゃんは元気で可愛いし。ミー君はカッコよくて面白い」

「面白い、か。そうかもな」

殺し屋の側面を知らなければ、只の器用でとぼけたイケメン……か?

「でも、ハルトさん気付いてます?」

「何に?」

「それが、トオルさんの手口だって」

「……手口?」

不穏な響きに眉をひそめると、明香は男にしては綺麗な片手を、フライトアテンダントみたいに掲げた。

「人間って、見た目に騙されやすいでしょ? それです」

見た目に騙される――頭に浮かんだのは未春のイケメン詐欺の呼称だが、どうやら話は違うらしい。

「DOUBLE・CROSSのスタッフは、皆若くて見映えがいい。でも、あの店はそうではなくてもいい系統の商売ですよね。同じ接客業でも、スタッフがモデルに等しい化粧品売り場や、センスが求められるアパレルとは違います。見た目が売りの夜の仕事とも」

「……経営者の趣味ってことは?」

「趣味は趣味ですが、トオルさんの狙いは見た目じゃありませんよ。中身です」

はて、この青年は何を話そうとしているのだろう。ピンと来ぬまま耳を傾けるハルトに、明香はセリフでも喋るように続けた。

「皆、良い人です。さららさんも、ミー君もリッキーもラッコちゃんも、そして貴方も。トオルさんは、美形を集めるふりをして、良い人を集めているんです。おかしいでしょ?」

「おかしい……か? それって、普通だよな?」

たとえアルバイトでも、良い人の方を選ぶに決まっている。力也や倉子が入店した経緯が策略だとしても、理由がそれなら妙なところは無い。この場合、一般人の二人すら“イイ人”以上のクセがあるのだから、十条の良い人の基準がおかしいことになる。大体、詐欺グループじゃあるまいし、悪人を集める経営者など聞いたことが――……

そこまで考えて、ハルトは目を瞠った。

「あ、気付いた顔だ」

明香のいたずらっぽい微笑が、十条のそれと重なる。唐突に、あの店に感じた筈の違和感が甦る。

「君、“知ってる”のか?」

「はい」

本日二度目の“先に言えよ”を胸に、頭を抱えたハルトの口からどっと疲れた溜息がこぼれた。すみません、と悪怯れる様子もなく明香は苦笑した。

「俺が貴方と同業者ではないのは、お気付きですよね」

「ああ……そうじゃなかったら、洞察力と警戒心の低さに落ち込む」

近付いてくる人間に対し、常に危険かどうかチェックしてしまうのは殺し屋のサガである。長年のクセで、日本ではそうそうお目に掛からない銃の所持も気にしているのだから、これで明香がプロなら引退すべきだ。

「ご安心を。俺は目指してる若者たちとも、サイコキラーとも違います。協力者ってとこですね」

「……あ、そう……将来有望な若者が道を外れていなくて何より……」

言ってみてから、いや、協力者なら既に外れているか? と考え直したハルトに、明香は丁寧に補足した。

「残念ながら、道は外れています」

やんわりとかぶりを振り、静かに言った。

「俺は、トオルさんに依頼をしたことがありますから」

ふと、ハルトは寒々しい風が吹いた気がした。

明香の人当たりのよい笑みが、空調の素っ気ない流れが、幾度も掛けられたワックスがぬらぬらと揺れる床面が急に白けた感じがする。かつて、アメリカン・ドリームが羽ばたいていった場所も、床や壁のペンキは剥げ、装飾も調度品も古びて錆び付いていたが、味気ないものではなかった。此処は夢見る人々に託された場所のわりに、何やら“維持”されているような事務的な感がある――似たような感覚をどこかで、と思ったところで明香が小さく笑った。

「そんなにショックですか?」

「……まあ」

ぽつり、ハルトは呟いた。

「ショックというか、苦手なんだ。誰かが死んで、元気になる人見んのが」

君にも事情があると思うが、と、それきり静かになった男を、明香は不思議そうに覗き込んだ。

「苦手だから、聞かないんですね? 俺が誰を殺すよう依頼したのか」

「……いや、死者の話は出来るだけしない主義なんだ。殺し屋なんかに話されたら、浮かばれないだろ」

「ハルトさんは、思ってた以上に優しい人ですね」

違う。殺した人間のことを考え続けていたら、脳がパンクしそうになるから避けるだけだ。完遂が必須である以上、“すべて見る”し、確認する。はっきり言って、何度見ても死体は良いものではないし、清掃員の存在がなければとっくに仕事を降りている程度には苦手だ。

その瞬間だけにして、忘れたいだけ。

否定しようとした言葉をそっと遮り、明香は続けた。

「殺したいと思う相手がいる人間と、殺したいと思われて殺される人間って――ホント、とんでもなく不憫な関係ですよね。少なくとも、俺の場合は」

「……君は、後悔してるのか?」

「いいえ」

明香はきっぱりと言った。

「ハルトさん、ネグレクトってご存知ですか」

「? 職務怠慢とかのこと?」

「あ、そうか……アメリカで暮らしてたんですよね。仰る通り、怠たることが元の意味ですが、日本では主に育児放棄のことを指します」

言わんとする部分がぞろりと覗いて、胸がつかえた。

そういえば、来日してから見た新聞には、子育てに関する情報が多い一方、乳幼児への虐待事件が目立つ。しかし、メディアが反応する割に、日本人は他人の子供にあまり関心を示さないと感じた。以前、スーパーで子供に怒鳴る親や、電車内で泣く子供を叱りつけ、時にはひっぱたく親を見たが、誰も声を掛ける様子はなく、むしろ迷惑そうにしている人間が多かった。ところが事件沙汰になると、急に気の毒がる声や、憐れむコメントが寄せられる。また、楽しそうにはしゃぐ子供や、赤ん坊の泣き声もうるさそうにする為、日本では子供は厄介者扱いなのでは?と感じざるを得なかった。

「十条さんとは、何処で?」

「俺、児童養護施設でミー君と一緒だったことがあるんです。トオルさんはもともと施設に出資してくれていたそうですが、ミー君に会ってからは度々訪れるようになったと聞きました。俺もその時に」

「殺したい奴は居るかって聞いてきたのか?」

「それ、アメリカン・ジョーク?」

我ながら情けない顔で首を振ると、明香は親切なことに笑ってくれた。育児放棄の被害者には見えない笑顔だった。

「困ったことがあったら連絡して、と名刺を頂いただけです。他にも貰った子はいましたよ。勿論、その時は彼が“そういう”顔を持っているなんて知りません。連絡を取った後も、しばらく気付きませんでした」

明香は児童養護施設を出たり入ったりし、苦労が続いたという。理由は両親がドラッグ中毒者だった為。明香はすらすら話したが、ひとつひとつが凄惨な記憶なのは間違いない。いつも薄暗く、じめじめした室内にはゴミが溢れて蝿が群れ、カビた流しに腐乱した麺類がこびりつき、借金取りの怒鳴り声とドアを壊さんばかりに蹴飛ばす音がする。もはや明香の依頼対象者は聞くまでもなかった。

「俺がトオルさんに連絡したとき、彼はすぐに来てくれましたが、その頃はまだ只の親切なお兄さんでした。一緒に児童相談所に行ってくれて、両親とも話し合う一般的な手順を踏みました――結局、トオルさんの誠意はヤクチュウの親には通じなかったわけですが」

「……ご両親を嵌めた奴等がいるだろ。そっちの方が問題なんじゃないか?」

「フフ……殺し屋っぽくない意見だ。トオルさんもそう言って、俺から相談された時点で、両親に接触していた売人を“何らかの方法”で遠ざけたそうです。もともと邪魔だったようですが。俺には内緒でルートを潰し、借金取りと交渉して、両親には病院を紹介してくれました。治ったら働き口を探そうねって。親切過ぎるでしょ? でもね、薬で完全にラリった人間にはわからないんです。父は周囲を手当たり次第蹴飛ばして意味不明なこと怒鳴り始めるし、母はヒステリー起こして泣き叫ぶし。俺もう情けなくって。中学生の俺に泣きつくんですよ、ママのために薬持ってきてくれるわね、お金でもいいのよって。出生届も遅れて、俺の名前も空欄にしてた親がさ。奴隷でも産んだ気なのかなって、笑っちゃいますよ、全く」

お気の毒に、なんて言えやしない。ソフィアの父親の血走った目が脳裏に浮かぶ。彼だけではない。ドラッグは泥沼どころか底なし沼だ。薬を手に入れようともがき、辺りのものを掴み、引き千切り、或いは何かを引きずり込み、わめきながら落ちていく。引っ張りあげられる段階で手を伸べてくれる者がいれば良いが、中毒になるような者はそうした相手が居ないことが多い。タチバナ氏のように攻撃的になり、銃やナイフを掴む者も居れば、げっそり痩せてガタガタ震えながらあらぬものを見ていた者も居た。もはや自分が何者かもわからず、ヘラヘラ笑いながら死んだ者も居た。

ドラッグを憎むほど嫌うアマデウスが、なるべく接触させないよう努めなければ、更に大勢殺めたに違いない。

「十条さんは、いつ正体を明かしたんだ?」

「俺が二人を殺そうと思うって話したときです」

単刀直入だな、とハルトは背筋が冷えた。思わず、テーブルでさりげなく交差する明香の手に視線がいく。格別大きくもなく、節榑立ったり傷が多いわけでもない、むしろ綺麗な若者の手だ。初めは、今より小さなそれでやるつもりだったのか。

「トオルさんは、それだけはやめなさいって言いました。ハルトさん、トオルさんが怒るとこ、見たことあります?」

「いや……それらしいのは少しあるが」

思い当たるのは、倉子が悪徳ブリーダーの男と対峙したときだ。“ヤボ用”に中座していたハルトはつぶさに見ていないが、男が倉子を罵ったときの十条の目は普通ではなかった。

怒りと呼ぶには静かだが、触れれば切れそうな凄味があった。もし、倉子が少しでも危害を加えられそうになったら、男の命は無かったかもしれない。

そういえば……似ているな。未春の怒り方と。

「俺もこの時しかありません。トオルさんは優しいから怒ったってわかりますけど、あの目、凄いんですよね。何もされていないのに、がっしり掴まれてる感じで」

「その説得で、踏み留まったのか?」

「そうこうしている内に、どっちも事故って死にました」

典型的、衝突事故。それが良かったとは言わないが、誰も巻き込まなくて良かったと恐らく本心で明香は言った。

「実は殺しの依頼もあったらしいですけど、トオルさんは受けなかったんです。後から聞いたら、何件も入っていたって。喧嘩で怪我させられたとか、叫び声がうるさいとか、まあそんな具合の理由ばかりだったみたいですけど」

まったく、殺しに関わる全てはなんだって幼稚で陳腐なのか。文句は出ても知恵は出ないのか?

ハルトが呆れていると、明香は壮絶体験など感じさせない顔でポンと手を打った。

「俺のハナシはこれでオシマイ。ほら、さっきの話に戻りますよ。トオルさんが、良い人を集める意味。ハルトさん、何だと思います?」

「さあな……あの人、只でさえ聖人みたいなお人好しだろ……良い人じゃなくても困ってたら引っ張ってくるんじゃないか?」

「フフ……そうでもありませんよ。トオルさんはあれでも用心深い。十年前の事件はご存知でしょう? 生半な気持ちで、あの店にスタッフは招き入れません」

「それなら店やってる方が変じゃないか? 嫌でも他人が入る」

「それも大事なんですよ。ミー君が、より多くの人間と関わるためにね」

なんだって?

耳を疑う発言に戸惑うハルトに、明香は唇だけでにこりと笑った。

「あの店は、さららさんの為でもあります。半分以上を椅子で埋めているのは、カフェを切り盛りする彼女の負担を減らす為ですし、内装もさららさん好みです。でも、トオルさんが何より優先しているのは、ミー君なんですよ」

「……未春の為……なのか? でも、あの人は……」

「表と裏を知る人間から見ると、トオルさんのミー君への言動は、いつだってイヤーな感じですよね。でも、全部ミー君の為なんです。信じ難いって思うのは、貴方が優しいから。さららさんと同じです」

「優しいかはともかく、確かに俺はさららさんと同意見だ。未春は十年前の事件の責任を引き摺ってるし、十条さんはそのフォローどころか、あいつの人間性をヤバい言葉で否定してるだろ? それの何があいつの為になるんだ?」

「ハルトさんは、ミー君が普通じゃないのはわかりますか?」

「それは――あいつの育ちが原因なんじゃ……」

その環境を与えてきたのも、そういう教育をしてきたのも十条ではないのか。

明香は微笑して首を振った。

「ハルトさんは、ミー君から『殺し屋』の一面を除くと、良い人だと思うんでしょ? だから庇ってあげたくなる。けれど、果たしてそうですかね? あの店に居るなら、ミー君が一般人をぶん殴るの見たことあるんじゃないですか」

「有るにはあるが……あれは、さららさんに無礼を働いたとか何とか……」

「そうです。ミー君は自分の事では絶対に腹を立てない。さららさん、リッキー、ラッコちゃん……今は貴方にも反応しそうですね――つまり、大事な人が傷付けられたら、自分の保身や体裁なんかガン無視して手が出るんですよ。一般人が躊躇ったりキレたりするのとは決定的に違うんです。自分が非難されるのは素通りなのに、自分ではない誰かの為に戦うんだ。字面だけ見ると――これって、リッキーが大好きな何かに似てませんか」

ヒーロー。いや、まさか……――

「おい……すると何だ、十条さんは未春をヒーローにする為に辛く当たるのか?」

そんなバカなというハルトに対し、明香はニッと笑った。

「ミー君は逸材なんですよ。他の人にはできない。トオルさんにもね。ただ、めっちゃ苦労するみたいですねえ……ヒーローを作るってのは」

「……俺には理解不能だ。ヒーロー作りに殺しの技術や男娼経験が要るなら、十条さんは正真正銘の変人にしか思えない」

「そこは否定しないけど、貴方にはその内わかりますよ。だからトオルさんを嫌いにならないであげて下さい。あの人ね、結構寂しがり屋なんです。トオルさんこそ、殺し屋の部分を引いたら家族を何より愛する寂しがり屋なんですよ」

この煙に巻く感じ――コイツこそ、十条の粒選りといった雰囲気がしてきた。

「トオルさんはね、ほんと嫁煩悩で子煩悩なんです。あの人は神様みたいな博愛主義者っぽいけど、家族が一番大事っていう普通の人でもある。だから10年前の事件後は、墓守して暮らすんじゃないかなって思うぐらい萎れちゃいました。今はあのお店の関係者全員が、家族だと思って元気にしてるみたいです」

「……非常勤のわりに詳しいみたいだな。同業者じゃないと言ったが、清掃員クリーナーでもないのか?」

「立場は清掃員ですが、協力者の方が正しいと思います。俺は遺体を片付けたことはありませんから」

ハルトは改めて明香を観察し直した。体格は、痩身に見えるが筋肉質。顔は整っていてユニセックスな印象。話し方や仕草はどことなく優雅だ。この感じの協力者には覚えがある。

「一応聞くけど、協力って、何を?」

「トオルさんが指示する事を」

にっこり笑ってのとぼけ面は、当の上司にそっくりだ。なるほど、こいつはなかなかの曲者らしい。アマデウスの手元に、このタイプの清掃員が存在する。明香が言う通り、「清掃には一切関わらない」彼らを、アマデウスは「ブロードウェイ」と呼んでいる。言うまでもなくニューヨークの南北に走る目抜通りのことだが、タイムズスクエア周辺に劇場が多いため、ミュージカルの代名詞でもある。「ブロードウェイ」の役目は、演技。悪く言えば詐欺。

大抵は一般人に成りすまし、偽装工作や嘘の証言、扇動などをする。稀に有名人に化けて活動することも有り、某ハリウッドスターの影武者や政府要人を務めたプロフェッショナルも居たらしいが――真偽は定かではない。なにせ、それほど本物と区別がつかないからだ。

「君は……俺が此処に来るよう指示された意味、知ってるのか?」

「八割がた、俺に会わせたかっただけでしょう」

「そうか? 君は十条さんに傾倒しているタイプの人間だろ? 俺が彼に不信感を持っているのは薄々知っている様だしな。個人的に会って、互いに利益になるとも思えない」

「きっと、利益はありますよ」

その内にね、と明香は微笑んだ。

「『果報は寝て待て』と言うでしょう?」

「生憎、アメリカ育ちなもんで」

精一杯の皮肉に、明香はくすりと笑うと、羨ましいですと付け加えた。

「いいなあ。俺もいつか行きたいです。ハリウッドやブロードウェイ――本場に触れて勉強したい。そのときはハルトさん、案内してくれませんか?」

「……上司次第だな。旨い店くらいはいつでも教えてやる」

やった、と明香は嬉しそうに言うと、ちらりと時計を確認した。

「そろそろ練習に行きます。今日はありがとうございました」

こちらこそ、などと言えたものではない。立って綺麗なお辞儀をした明香を見送り、溜息を吐いた。



 ハルトが頼まれた菓子を手渡すと、未春はにこりともせずに礼を言った。

「あっくん、元気だった?」

「……ああ、多分な」

「たぶん?」

未春は相変わらず白けた顔だが、こちらはなんとなく気重になる。

「いや、若いのに苦労してるなって……こういう国で親殺しを決意するとか――俺が気遣うことじゃないけど」

「は?」

「『は?』ってなんだよ……まあ、お前らしいか……」

未春は瞬きしてから、す、と目を細めた。

「ハルちゃん、あっくんに何聞いた?」

会談の内容をかいつまんで話すと、未春はぼそりと言った。

「それ、ウソ」

「……………………は?」

「親殺し依頼したってのは、ウソ。ネグレクトとか、ドラッグ中毒なんかは本当だけど、ちょっとオーバーだよ、それ」

アホみたいに固まったハルトに、未春は明香の脚色を省いた生い立ちを説明した。

まず、明香の両親は確かにジャンキーだったが、ミュージシャンの夢が捨てられずにしがみつく父と、不倫で別居になった元モデルの母。

どちらも仲の良い頃から、何度も補導・逮捕された後、明香が高校生の時に殆んど同時期、仲良く別の交通事故で死亡したという。

ドラッグも、嵌められたというよりは当人らによる一種のポーズであったらしく、退廃的だの反社会精神だの言いつつ、薬と煙草と酒に浸かるというわけのわからない哲学をクールだと信じていたらしい。両者共々、早々に一人で生きられる能力を欠いているが、その妖しい魅力に誘われた仲間が常に存在し、毎日がパーティー感覚のヒッピーめいた暮らしが続いていた。

幸いか否か、明香は幼い頃から達観しており、早くから両親を見限った珍しいタイプだった為、家では見ざる聞かざるを貫き、外ではかわいそうな少年をめいっぱい演じていた。両親が息子に関心を示さぬ分、暴力は免れたものの、明香は何もかも自分で調べて自分で解決しなければならず、普通なら親にやってもらうことを殆ど手探りでやっていたという。

そこを苦労といえば全くその通りだが、明香は図太く逞しく、常に飄々とし、キャンプ感覚で外で寝たり、一日中電車を乗り継いで景色を楽しんだり、キャバ嬢や年配者と仲良くなって自宅に転がり込むなど、児童相談所が真っ青になってしまいそうなことも平気でやった。小学生になって間もなく、教師やケースワーカーの力を借りて年間スケジュールを立て、授業や行事に必要なものの準備と資金調達を検討するなど、少々並外れた生活を順調に送ったというから大した少年である。

両親が亡くなった時には、既にアルバイトをしながら生計を立てており、親同士が互いにかけていた保険金をその借金に当て、コツコツ貯めた貯金と十条の援助で役者を目指して進学、今度は劇場の借金を抱えつつも、身辺はすっかり落ち着いて今に至る。

「壮絶と言えば壮絶、か……?」

波瀾万丈なのは間違いないが、未春は首を捻り、曖昧に頷いた。

「あっくんは苦労してるけど、昔から落ち込まない方だよ。周りに好かれるし、要領良いから色んな人の助けを上手く借りて、生活やお金に困ってる雰囲気は全然なかった。なんか自由な血筋って感じ」

つい、歯軋りしてしまった。

……確かに……確かに人間は騙されやすいし、キリが無い……!

「……お……お前と児童養護施設で一緒ってのは……?」

「出たり入ったりは、してた。泊まりに来るみたいな感覚で。距離あるのに自転車こいできて、大雪の前とかは誰かに送ってもらったり。お母さんじゃない綺麗な人が送り迎えに来ることもあったな。ふらっと来るから施設は大変だったろうけど、顔が良くて話が上手いって、スタッフさんやボランティアの人達にも人気だったよ」

なるほど、明香の演技は生きるために身に付けたものか。あの好青年も演技なら、なかなか油断ならない人物ではある。

「アイツがBGM関係者……ってのは?」

「それも本当。でも、BGMの件をばらしたのは十条さんじゃない。いくらあの人がクソ野郎でも、いきなり子供には言わないよ」

いきなり殺し屋やらされてるお前はどうなんだと思ったが、上司がクソ野郎というのは同意見なので指摘しないことにした。

「……じゃあ、誰が?」

「リッキー」

予想はしていたが、思わず項垂れた。ユルすぎやしないか、この支部。しかし、未春は付け加えた。

「リッキーに聞いたのは確認だけだと思う。あっくんは観察力あるし、十条さんも最初から目を付けてたって言ってた。あの劇場に出資し始めたのも彼が関わってからだから、気が合うんじゃないの」

「ああ……似た系統かもな……くそー……あのヤロー……!」

もはや悔しがるのも悔しい。まんまと“良い人”にされてしまったわけか。

「本人は協力者だって言ってたな。十条さんが目を付けたのは、あいつの演技力か?」

表向きも演劇をしている「ブロードウェイ」と会ったことはない。彼らの多くは目立つことを避けるからだ。顔を売る役者とは正反対の、顔を覚えられにくい仕事に従事し、同じ制服のスタッフが沢山居る大型店や、帽子やマスクで顔が隠れる生産業や工場、或いは主婦や学生、定年退職した人間なども居る。ある意味、殺し屋よりもBGMらしい存在だ。

「あっくんが十条さんと何をしてるのかは知らない。さっきも言ったけど、話し上手。スイッチ入れば、全部ウソ言ってても慣れない人はわかんないと思う」

悪人目線で捉えるなら、話術や演技は詐欺師にもってこいの素質だが――十条が振り込め詐欺の削減に積極的なだけに、そちらの方面ではなさそうだ。悪党相手に詐欺を働くのは有りそうなものだが、明香は実業家や富豪を真似るには些か若すぎるし、何よりも目を引く容姿だ。

さては、最後の方の話もウソか?

「なあ……未春、お前、十条さんにヒーローになれとか言われたことないよな……?」

「はあ?」

まんま、「何言ってんのお前」の反応に、ハルトは思わず恥ずかしくなって目を逸らした。

「……なんでもない。忘れてくれ」

「ハルちゃん、大丈夫?」

気遣いというよりは脳の心配をする調子の未春に、ハルトは顔も向けずに頷いた。

さすがに、死者まで嘘の引き合いには出さないだろうが、これでは十条の家族煩悩とやらも何処まで真実か疑わしい。

「あの明香って……まさか、単なるチャリティーイベント要員じゃないだろうな?」

「さあ。あの二人がコソコソやってることには興味ない」

「コソコソ、か」

怪しい。未春に“サプライズ“を仕掛けるならともかく、気付く範囲で密かに行動しているのが引っ掛かる。

「俺と引き合わせたのは、十条さんの趣味だと思うか?」

「さあ。考えない方がいいんじゃないの」

ぶっきらぼうに言うと、未春はマフィンの箱を丁寧に持ち上げ、首を捻った。

「ハルちゃん、これ、さららさんに届けてくれない?」

「ん? 何でだよ。お前が行けばいいだろ」

「俺が行くと気を遣われるから」

俺は遣われないってか。

「店出て、最初の角曲がって二つ目の角を左に。この店のま裏辺りにある白っぽいマンション。部屋は101号室だからすぐわかる」

「お、おい――……」

夕刻に女性の部屋を訪ねるのは――云々言おうとしたが、未春は箱をこちらに押し戻すと、夕飯作るから、とすたすた行ってしまった。

「……」

ああでもない、こうでもないとだらだら言うにも言えず、全部が溜息に押し流された。

……考えない方がいい、か。

この店に感じる違和感は、単に趣向や偶然が重なっただけのもので、作為的ではないのだろうか。いや、作為的と考える方がおかしいのか?確かに悲しい出来事があっても、死の匂いがしない家はあるだろうし、それを怪しむのは殺し屋なんぞの常識に捉われているからか?十条や明香が秘密にしていることが危険とは限らず、未春が真実を言っているかも確かめようがない。

ハッピータウンってのは、何処から何処までの話なんだ?

手にはマフィンだけ。改めて、溜め息が出た。

――この支部、ホント疲れる……

アメリカに居た頃は、体はよほど疲れたが、こんなことでいちいち悩むことはなかった。ファイルを受け取り、書いてある内容に従って引き金を引いて、氷を齧る。ただそれだけ。……疲れるのは、疑うからだろうか。それとも、期待するからだろうか。

「まさか、疲れさせようとしてんじゃねえだろうな……」

呟いた一言に答えるように、とことこ歩いてきたビビが可愛い声で鳴いた。

「悪いなビビ、もう一回出掛けて――」

刹那、ポケットの内で電話が揺れた。出るなり、低い声が事務的に告げた。

〈ハル、頼まれた件の調べがついた。日時はお前に任せる〉

「……」

〈どうした? いつにも増して、でかい溜息だな〉

「……タイミング悪いんだよ、あんたも。また連絡する……」

秒で殺し屋に戻ってから、秒で無害な一般人に戻される身にもなってほしい。



 裏通りに入ると、国道のやかましさが嘘のように大人しくなった。

戸建てとマンションが入り混じる典型的な住宅街のようだが、人っ子一人居ない上、家々もひっそりしている。

101号室と言われた為、手前かと思っていたら最奥の部屋だった。変な構造だ。

他には誰も住人が居ないのでは?と思わせる静けさの中、チャイムを鳴らす。

「……」

どこか遠くで犬が吠えた。……留守、ということは無さそうだが、あまりげっそりしていたら、何と声を掛けたものか。ハルトが不慣れな待ち時間に気を揉んでいると、中から小さな声がした。

「……どなた?」

うっかり聞き逃してしまいそうな声に、慌ててハルトはドアに顔を近づけた。

「あ――ハルトです。お休みのとこ、すみません、未春に頼まれて――」

ハルちゃん、と小さな囁きの後、かちゃん、とドアが開いた。

出てきたのが間違いなくさららだったので、ハルトは何とはなしにほっとした。

ドアノブに手を掛けたまま、怯えたように覗かせた化粧っ気のない白い顔を、廊下の青白い電灯が更に弱々しく見せた。

「……どうしたの?」

声を出すのが憚られるような話し方で、さららはほんのりと微笑を浮かべた。

「これ……未春から、届ける様に預かって来ました。土産みたいなもんです」

女性という以前に病人を訪ねた気持ちでハルトが箱を差し出すと、ようやくさららはドアから半分だけ姿を現し、にこりと笑ってくれた。

「……ありがとう、ハルちゃん。良い匂い」

ゆったりしたベージュのワンピースに灰のパーカーを羽織ったさららは、本当に嬉しそうに箱を胸に抱いた。ひとまず良かった、これで退散しようと思ったハルトに、さららは思いがけない一言を放った。

「お茶でもいかが?」

「えっ……」

思わず焦ってしまったのは、他意有ってのことではない。

「いや、それはまずいでしょう……未春に殴られるのは御免です」

「やだ、ハルちゃんたら。トオルちゃん居るわよ。イビキかいてるけれど」

「え、あ――」

そうでした、ね。

「気にしないで上がって。ハルちゃんが嫌じゃなければ」

そんなことを言われたら上がる他ない。ハルトが舎弟のようにへこへこしながら靴を脱いだ部屋は、扉を閉めると異様に静かだった。シンプルで、飾り気ない。どことなく、温度の無い――清潔だが、無機質な印象だ。それほど女性の部屋を知っているわけではないが、芳香剤だとか香水だとか、そういう匂いも皆無だった。まだ生き物を入れたことのない、ま新しくて、空っぽの水槽に居るような侘しさが漂う。

伴われたのはこじんまりとしたLDKだった。左に見える扉の向こうが寝室なのだろうが、さすがにイビキは聴こえなかった。アイボリーのソファー、まっさらなカーテン、きちんと片付いている木製テーブルとキッチン。ショールームのように生活感の薄い空間で、唯一目を引くものにハルトの視線は吸い寄せられた。

壁に、沢山の写真が飾られていた。アメリカでも家族写真を所狭しと飾る家は多いが、その数倍は有りそうだ。直にピンで留めたりせず、大なり小なり地味な額に収め、壁一面を埋めるほど飾っている。

「これ、すごいですね」

「趣味みたいなものなの」

やつれた印象に反して、てきぱきと湯を沸かしていたさららは嬉しそうに返事をした。

「ハルちゃんも居るわよ」

「げ、それは恥ずかしい……」

ぼやきながら見渡す写真は、DOUBLE・CROSSの面々が多かった。

今より若い十条が優しく笑っている。無表情だがモデルめいた横顔の未春。万歳したスズとアップで写る倉子。元気が良すぎたかピースサインがぶれている力也。ふざけた様子でVOGUEの表紙みたいなポーズを決める明香も居た。さららとツーショットで微笑む幼子は、実乃里だろうか。穂積と思われる女性に肩を抱かれて姉妹のように微笑むさららも居たし、テーマパークらしき場所で十条や未春を含めた五人で楽しそうにジャンプしている写真もある。

――幸せそうだ。本物の家族だと言われても頷ける。

中にはさららが若い頃の写真も有り、見知らぬ女子高生と二人で写っていた。互いの制服が違うが、同級生だろうか。何やら古めかしい店の前で微笑んでいる姿や、アンティークショップのような所でお茶を挟んで笑い合っている姿が見られた。

何となく既視感のある顔だが、誰だかわからないのはその女子高生ぐらいのもので、あとは見慣れた連中が馬鹿騒ぎしている感じだ。端の方で、未春と倉子に両側から押さえられるようにして引きつった笑いの自分を見つけて顔をしかめたとき、さららはお茶を運んできてくれた。

「夕飯前だから、この大きいマフィンは半分こしましょう。ハルちゃん、ブルーチーズ大丈夫?」

頷くと、このお店はこれが一番おすすめなの、と微笑みながら、パールシュガーが散りばめられたマフィンをカットし、綺麗な色の紅茶と一緒に出してくれた。

「最初にイチジクとブルーチーズ合わせた人って、天才だと思うわ」

「確かに、うまいですね」

でしょう? と答えるさららが、思った以上に元気そうなので安堵した。

「怖い事件があったけど……皆は、どうしてる?」

就寝中の十条に遠慮してか、さららの細い問い掛けに、ハルトは首を捻った。

「元気だと思います。未春は相変わらず……リッキーはテストに苦しんでるみたいですが、ラッコちゃんはさららさんに会いたがっていました」

「そう……私も早く会いたいわ」

壁の写真を眺めてから、両手の中の紅茶にさららは呟いた。

「落ち着いて見えますが、もう少し掛かりそうですか」

「部屋に居ると落ち着くの。外は、まだ少し――駄目ね。いつまでも慣れなくて」

「……慣れる方がおかしいんです。気にすることないですよ」

「ありがとう。ハルちゃんが優しくて泣いてしまいそう」

「それは……困りますね。十条さんにねちねち文句を言われない内に帰ります」

「ふふ……寝起きのトオルちゃんはぼーっとしてるから大丈夫。それよりも、お夕飯に遅れた時の未春の方がねちねちするわね」

さららは可笑しそうに言うと、玄関先まで見送ってくれた。

お邪魔しました、と告げると、さららは片腕をもう片手で掴み、寂しそうに微笑んだ。

「来てくれてありがとう。未春にも、ありがとうって伝えて」

頷いて、扉を閉じた。

ガチャン、という音の後、辺りは誰も居なかったような無音が落ちた。

何故か置き去りにするような気持ちになりながら、ハルトはやかましい方へと歩き出した。



〈やあ。どうだった?〉

電話の向こうから、相手は楽しそうに尋ねた。

〈ハルちゃんは、“気付いた”かい?〉

「いーえ、まあーったく」

後部座席のシートにもたれて、明香はくすくす笑った。相手も同じように笑った。

「でも、おかげさまでネズミを始末できました。なんでああいうことはわかるんでしょうねえ……感心しちゃった」

〈それは良かった。だから今日は砕けて喋ってるんだね〉

「ええ、そーです。盗聴器も処分できたし、もうホント、大助かり。あの喋りに慣れて、危うくオネエになるとこでしたよ」

〈似合ってるもんね〉

ええ~……と笑いつつ、明香は女のようにしなやかな耳元に冷たく輝くダイヤのピアスを付けた。

「そおそお、言われた通りミー君のコト喋りましたけど、良かったんですか? 彼、けっこう本気でミー君の味方っぽいですが」

〈その為に呼んだんだから、そうでなくちゃ〉

「程々にしないと、マジで殴り掛かって来そーですよ、あの人」

〈そうなったら、僕は超嬉しいね〉

「うっわ、堂々と変態発言……あのヤバい射撃で死なないで下さいね」

まだまだやる事があるんですから、と明香はケラケラ笑った。その頬に、笑いすぎたと呟いて、ふっくらした化粧筆を当てる。片手には鏡だ。スマートフォンはシートに放り、車内に響く音声に向かって話し掛ける。

〈そっちはどうだい?〉

「こっちの経過は順調ですよ。まあまあ大人しくお遊戯会してます」

〈そうかい。君のスパルタ教育に泣いてるんじゃないの?〉

「フフ……初日はビビらせたんで、けっこーベソベソやってました。放置してたら反抗的になったんで、改めて “ちょっと”ひねりました。今はイイ子ちゃん達です」

〈不平言ってたわりに楽しそうじゃない。優秀な子達とどっちが楽しい?〉

「ンン? どっちも俺はキライですからねー。今なんで自分が息してるかわかっとらんガキはキライなんですよ。あ、前に行った病院の子たちはスゲー可愛かったな。去年、人形劇やりに行ったときの。あの一生懸命な拍手~っもう、超かわいい」

相手は苦笑したようだった。

〈程々に頼むよ。“女王様”はどっちの子も好きなんだからさ〉

「知ってますって。――あ、そうそう、ギムレットがそろそろご出勤ですよ。あの人も凄いですねえ……ウーパールーパーかっつうの」

〈彼も “そういうもの”だからね。わかった。経過は悪くないが注意して進めよう。最後に一つ、聞いてもいいかい?〉

「なんざんしょ」

〈君から見て、ハルちゃんはどんな印象だった?〉

明香は長い付け睫毛を摘まんだまま、しばし黙した。機械のモーター音のように低音の唸りを上げた後、腹を決めたように言った。

「良い人、ですね」

言葉のわりに、それは些か懐疑的に響いた。

「だから、俺は怖い人だと思いました。リッキーも気付いてんじゃないの。意味まではわかってなさそうだけど」

〈うん、そうだね。ラッコちゃんも勘づいてると思う〉

「なんていうか、あの人、貴方に似てますよ。だからかな? 個人的にはあの素直なカンジ、けっこう好き。敵対すんのは絶対イヤですけどね~寿命が縮んじゃうよ」

〈君、そんなにデリケートだっけ? ……まあいいや。約束の報酬はもう振り込んだから、戻ったら確認しといて〉

「ヤッター。お金大好きー」

〈じゃ、体に気を付けて。引き続き頼むよ〉

「アイアイサー」

おどけて通話を切った明香は、ふうー、と口元をすぼめて溜息を吐いた。その唇には、艶めいた発色のルージュが引かれている。

「ね、むろちゃん。バッチリかな?」

それまで全く気配の無かった運転手に問い掛けると、相手は振り向いて頷いた。

「何処から見ても女だ」

「女? ってちょっとお……室ちゃんは朴念仁なんだから~。そういうことじゃないんですけどおー……」

不平を唱えながら、ウィッグや目許、顎などを念入りに確かめ、明香は車を降りた。

その格好を見た人間が、彼を明香と呼ぶことはないだろう。

カン!と地を突くハイヒールを履き、強い風が吹く波止場にワンピースの裾が揺れた。夕闇迫る空にはちらちらと星が瞬く。

眼前に広がるのは、紺の波がざわめく海だ。

「さあ、帰りましょうか。私の可愛い生徒の所へ」

妖しい唇から出る声は、先程のものとは全く異なる。

女と評するだけでは足りない妖艶な笑みを浮かべながら、待っていたジェットボートに身軽に乗り込んだ。


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