13.Exchange.

 警察訪問から一夜明け、ハルトの周囲には暗色と透明に輝く水と、淡い光がゆらめく水槽があった。

――何してんだか。

そう思いながら立ち尽くすのは、20メートルに渡るトンネル状の水槽の中だ。

天窓から降り注ぐ光の下、マンタ――オニイトマキエイを中心に、エイとサメが泳ぎ回る人工の海は、宇宙空間のように静かだった。クリアパネルの向こう側を、1メートル以上はある魚が、無音でゆったりと身を翻して滑っていく姿は、手狭にも見えたし、優雅にも見えた。カップルや家族連れが占める中、三十路手前の男二人は珍妙な客だったが、水のきらめきや魚のなめらかな泳ぎは奇妙な落ち着きをもたらす。

美術館やコンサートとは異なり、例えばはしゃぐ子供の金切声や、スマートフォンをかざすカップルの笑い声、行き交う細かなお喋りもそれほど気にならない。あらかじめ声音を控えねばならない場所とは異なり、なんの遠慮もなく静けさと向かい合える感覚だった。尤も、互いに無遠慮な雑談などしない仲だ。ありがちな感想さえ話すこともなくトンネルを抜け出ると、小さな魚が泳ぎ回る水槽の前で未春はごく自然に立ち止まった。静かな水槽の中身は忙しない銀色のさざめきで、何千何万の鱗が閃く。何を考えているかわからない魚群とそこらを徘徊する人間が似ているように思えてきて、ハルトは目を逸らした。未春は隣に立ったまま、目の前の青みがかった風景を眺めていた。いつもの無表情から汲める感情は無かったが、魚群さながらの人々から浮いて見えるのは、知り合いだからなのか、とりわけハンサムだからなのか、ともかく奇妙に抜きん出ている。たぶん、グラフィックやビジュアルを手掛けるデザイナーが見ていたら、水槽と、この横顔を切り取って広告塔にするだろう。

「アメリカって、水族館あんの?」

ゆらゆらした水の輝きを見つめたまま、唐突に未春は言った。

「そりゃ……あるだろ。確か、ニューヨークにもあった」

「行ったことある?」

「あると思うか?」

笑ってやると、未春はほんの少し小首を傾げた。

「ハルちゃんて、アメリカでは休みの日、何してたの?」

「今とあんまり変わらない。向こうの仕事は移動距離が長くて、よく家空けたから……溜まった洗濯と掃除。日用品買ったり、商売道具のメンテ、読書……たまに、ミスター・アマデウスの使い走り」

「使い走り? 何頼まれるの?」

「アイスクリームとか、ドーナッツ。流行りのスイーツ」

甘いものばっか、と未春はちょっと面白そうに言った。その鼻先でタイミングを合わせたように、小さな熱帯魚が黄色の尾ビレをピンッと弾いて方向転換していく。

「アマデウスさん、いい人だね」

「バカ言え。あれは正真正銘の姑息な大悪党だ」

「そうだろうけど」

ハルトとて、表向きは一流企業のCEOが、アイスクリームやドーナッツの買い付けに殺し屋を使う無意味さがわからない子供ではない。とはいえ、彼が関わった死の数は、目の前の魚よりも遥かに多いのだ。それこそ、アマデウスにとっての世界は展示水槽だ。眺めて、吟味し、必要な石や流木を設置し、魚を加え、不要と見れば取り出し、別の水槽に移したり、処分する。

「ハルちゃん、俺さ」

未春の呟きは、空調のダクトに吸い込まれるようだった。言い掛けた言葉は、何処かへ呑み込まれ、なかなか先は出てこなかった。ハルトは促そうかと思ったが、水槽を見詰める横顔を見て、やめた。細かな気泡が昇る様を見ながら待っていると、間と言うには長い沈黙を経て、未春は言った。

「知りたいことがあるんだ」

静かだが、強い語調にハルトは振り向いた。初めてこの男の肉声を聞いた気がした。未春は水槽に向けていたアンバーをハルトにずらし、確と目線を合わせた。

「手伝ってほしい」

宣言するように未春は言った。お願いと呼ぶには強く、頼むというには弱い、漠然とした不安と決意が潜む声だった。その真剣な顔付きを見て、ハルトは眉間がじんと痛む気がした。あらかじめ、こちらが得ている知識を教えて欲しいという意味ではないのは、すぐに察知した。

何か、するつもりだ。それはきっと、叔父の目を盗んで。

叔父に知られるとまずいことを。

「何を」

端的に訊ねると、未春は極細の緊張をどんどん張りつめていくような顔をした。

一見、いつも通りに見えるが、目付きが違う。不安と、焦りと、幾何かの期待を束ねて縒り合わせた目。斜に見つめながら、ハルトはふと、昔見た顔を思い出した。


――ハル、僕はこの国を変えたいと思っている。


そう呟いた男の目に似ていた。

何かの為に、危ない橋を渡ろうとする目。生半可な説得は聞き入れない目。未春はおもむろに解答した。

「10年前の事件について調べたい」

目は依然、水槽の中身と同じくゆらゆらしていたが、決意らしきものが時折、光のように射し込んだ。犯人が死んだ事件の、今更なにを調べるというのか。

「……理由はなんだ?」

「さららさんが、心配だから」

「さららさん? ……待て、どういうことだ?」

話が見えない。何故そこで、事件当事者ではないさららの名前が出る?

ハルトが巡りの悪い顔をしたからか、未春は水槽に向き直ると、他の客には届かないほど小さな声で、一から話す、と珍しく饒舌に説明を加えた。無造作にトイレットペーパーでものんびり転がすような口調だった。

「事件は、10年前の四月。国道16号沿いのケーキ屋『little』での殺人殺傷事件。十条穂積と十条実乃里が殺されて、俺が重傷者。犯人は過激派右翼だった男・尾田龍二。事件後に横田基地の壁にレンタカーで衝突して炎上・死亡した。被害者及び被害者関係者と犯人との面識・接点はなし。犯人は基地に対し、過激な反対運動を展開していた為、基地とうまく付き合っていた被害者を一方的に憎悪した可能性もあるが、薬物依存による精神異常状態から衝動的且つ無差別に犯行を起こしたと推察され、はっきりした動機は現在も不明――これが、世間に公開された事件概要」

何度も読んだ内容なのだろう、すらすらとそらんじて、未春は改めて口を開いた。

「BGM側では、東京支部を潰した十条さんに、その生き残りの殺し屋が報復しようとしたことになってる。正体不明の生き残りだから、あだ名は『亡霊ファントム』。尾田はその身代わりに仕立てられただけのストックされた死者。俺は亡霊を見た筈だけど、殆ど覚えてない。奴は外にいた穂積さんを襲った気がするんだけど、俺はそこから意識が飛んで、気付いたらナイフ持ったまま足にケガして床に座ってた。その足の上に実乃里ちゃんが背中を斬られてうつ伏せてて、犯人の亡霊は店の奥で血まみれで床に倒れてた。その前に十条さんがナイフ両手に立って、亡霊の頭を踏み潰すのを見ながら、俺は気を失った。知っているのはこれだけ」

さぞや現場が血塗れだったろう惨殺事件という以外、何も言うことは無さそうだったが、ハルトは水槽のぼこぼこと噴き上がる酸素を眺めて眉を寄せた。

――変だ。

「……辻褄が合わないな」

ハルトの呟きに、未春は頷いた。

「そう、変なんだ。最初から」

「そうか……東京支部の生き残り……ってとこからもうおかしいのか……!」

拍子抜けするほど簡単な話に、ハルトはガラスを殴る代わりに己の髪を掴んだ。

「東京支部殲滅は、十条さんの一存だよな? あの人が一人でやった、で、正しいのか?」

「俺はそう聞いた。十条さんが十代の時の話」

「それは俺もアマデウスさんに聞いたが……じゃあ、約30年前の出来事か」

「正確には、28年前。俺たちが生まれた年」

「その当時殺し屋だった人間が、10年以上経ってから報復に来る……そんなの不自然だ。怪我をしたとしても、二、三年の筈だし――第一、十条さんがお前をのすような奴を取りこぼすとは思えない」

当時、十代の子供だとしても、十条が普通ではなかったのは東京支部の壊滅が起きているだけで充分わかる。仇討ちのつもりで後から出た人間にしては、出自が不明なのは異様だ。

「いや、待て……千間は? 奴の家は一族ぐるみの殺し屋だろ? あいつの身内ってことは……」

「千間さんの身内は、東京支部壊滅時に二人死んだって聞いたけど、それ以上は知らない。でも……千間さんの身内ではないと思う」

「根拠は」

「似てない」

あっけらかんと出た一言に、少々頭が痛くなった。未春の記憶が曖昧だとしても、亡霊が大男という印象ははっきりしているらしい。

「ハルちゃんも、千間さんの技は見ただろ。俺もよく知らないけど、ああいう家って、受け継がれる技には決まりがあるんだって。少なくとも、亡霊は針は使っていないよ。俺の足の傷は、厚みのある刃物で強く切りつけたものだって聞いた」

「千間もだいぶ馬鹿力だったと思うけどな……」

車体に鉤と針を突き刺すアクションは力任せでは?と思ったが、言及しても仕方ないのでやめにした。第一、千間家がこの件の当事者なら、とっくに処分されて然るべきだ。

「まあ、いい。十条さんが東京支部を殲滅したのは、私怨もあるのか?」

「たぶん。十条さんの親と姉夫婦は、東京支部のオーバー・キルの被害者だから」

……俺と同じか。

それなら、元より潰す気でBGMに加入した筈だ。そして、いくら天才的でも、まだ少年からようやく大人になろうという時期に、殺し屋などという危険人物を十単位で殺すのはそう容易くはない。それをやり遂げた結果からして、計画は綿密且つ周到であったと推測できる。事前の調査も、計画も、結果も完璧なのに、何故取りこぼしが起きていたのか?

いくら少年期とはいえ、未春がてこずる相手を見落とすなど有り得ない。実際、十条は10歳或いはそれ以前の未春に才能を見出している。

ガラス面に映る顔が、爪でも噛むようだと思ってからハルトは首を振った。

「復讐が加味されているなら、絶対に誰も残さない筈だ。俺だって、同じことをするなら殺し屋だけは徹底する」

「うん。十条さんが“残した”と思っていなかったのは、変なんだ。もし、東京支部の殺し屋を全滅させていなかったら、穂積さんと実乃里ちゃん、さららさんの身辺も、もっと警戒したと思う。結婚自体、しなかったかもしれない」

「……お前にも、注意ぐらいはする筈だな」

未春は「そうかな」という顔をしたが、注意を促しておけば、全員は無理でも子供のボディーガードぐらいにはなる、と説得するように付け加えると、腑に落ちない顔つきで頷いた。

「それから、亡霊の処理が変だ。どうして遺体を燃やしたんだろ」

「それは俺も気になってた」

BGMの殺し屋が死ぬということは、表の顔で死ぬということだ。

それは殺害されようと、事故死だろうと病死だろうと一般人と何ら変わりない。葬儀をし、荼毘に伏されて墓に入る。むしろ、死の商売人だけに非常にスムーズに行われ、不自然ではない程度にさっさと処理される。これは末端に限らず、TOP13とて例外ではない。

ハルトも以前、TOP13の一人が病死した際、アマデウスと葬儀に参列したが、当の死者がTOP13だと知ったのは後の話であり、参列者の九割以上は至って普通の人々だった。それもその筈、死亡したステファニー・レッドフィールドは、筋ジストロフィーを患っていた二十代女性で、その短い生涯の殆どを車椅子とベッドで過ごしていたからだ。彼女は一人ではまともに動くこともできない肉体と戦いつつ、異常に高い知能をフルに働かせ、片手の指一本だけでPC操作を行い、ヨーロッパの株式市場を支配した天才だった。アマデウスや十条もそうだが、TOP13に共通している特徴は『人を異様に惹きつける才能』で、実際にステファニーがPC操作をするのは一日のほんの数分で、ずっと市場を見つめていられない彼女に代わって数名のスタッフが一人六台のディスプレイの前に詰めていたらしい。ステファニーは自身の病以外にも、難病に苦しむ人々への支援を惜しまず、自らの儲けやポケットマネーを次々に寄付した。この点は十条にも通ずるものがあるが、自身が当事者である分、彼女の姿勢は強固で説得力があった。そして彼女の裏の顔は、いわばBGMに置ける障害者代表で、リスキーを抱える人間を排他しようとする者の撲滅と、支援できる立場にありながら渋ったり、反故にした者を排除する冷血さを持っていた。

彼女の死後、正体を知り、且つ親交の有ったアマデウスは、BGMに繋がる物品の回収と不備が無いかのチェックをするために、自身とステファニーの清掃員にくまなく調べさせた。彼女は亡くなる前に自らの後任を選んでいて、アマデウスは証人であり、後見人でもあるが、この事実はあくまでも裏の事情であり、表には出てこない。粛々と次の者に引き継ぎ、BGMでの出来事は全て抹消される。亡くなったのは、難病に苦しみながらも立派に働き、世界中に支援を続けた才女以外の何者でもない。

だから、BGM。

全て、背景にて事を成す。

「でも、亡霊は表の顔が無かった。だから十条さんは行方不明者や死者のストックから、過激派右翼の男だった尾田を使った。でも、遺体損傷を理由に燃やしたのはおかしいんだ……処理としてはストックを使ったことで十分なんだから。清掃員や山岸さんが亡霊が斬り殺されたのを知っているから、組織内の隠蔽でもない」

「損傷が激しくても、献体に回すような抜け道があるしな……車一台潰して、米軍基地に要らん賠償するのは割に合わないってことか。聖が亡霊を知っていたんだから、BGM内部に亡霊の存在自体を隠したわけでもない。……むしろ、処理方法を――いや、亡霊の存在を裏側に大公開した感じだな」

BGM内のミス隠蔽ならば、アマデウスや聖が認知していてもおかしくないが、千間も知っていた為、秘匿された情報ではない。第一、TOP13の身内が殺される事件が組織内で話題にならない筈はなく、名の知れていた未春が負傷したことも、隠しておきたい事態として余り有る。

「大体、亡霊は……なんで十条さんを直接狙わなかったんだ?」

「わからない」

未春は首を振り、水槽を見つめる目を少し細めた。

「俺は覚えていないけど、亡霊は意志疎通ができる相手じゃなくて、俺みたいな機械っぽい相手だったらしいよ」

「そういう言い方はやめろ。お前はこうして自分の意見も言えるし、意志疎通もできてるだろ」

ハルトの叱るような口調に、未春はちょっと肩をすぼめて頷いた。ほれみろ。人間らしい面がガラスに映ってるぞと小突いてやると、今度はちょっと俯いた。

「……ハルちゃんは時々、さららさんみたいだ」

「はあ? 何処が? 本人に言うなよ。失礼だ」

「喜ぶと思う」

「そんなわけあるか。俺とさららさんじゃあ、人間の格が違う」

まだ何か言いたそうな顔から目を逸らし、ハルトは話を戻した。

何故、亡霊の最初の標的が十条ではなかったのか?

東京支部を潰された報復ならば、殺害すべき対象は十条本人が最上位なのに。

仮に亡霊が残忍な性格で、家族もろとも、と考えていた可能性はあるが、それなら人質や盾、或いは目の前、という方が効果的だろう。何といっても、十条は何十人の同業者を始末した男なのだから、少しでも勝率が上がるやり方を選ぶ筈。ところが亡霊は真っ向から家族を斬殺する無謀な方法に出ている。先に家族を殺されれば、警戒心は勿論、怒りも増す。怒らせて冷静さを欠くなどという策もあるが、十条は無能な暴れ牛ではないし、結果的にその怒りは未春を倒した亡霊を一太刀も浴びずに斬り殺した。亡霊が自身の力を過信し、万にひとつも敗れると思わなかったのならわからなくもないが、そんな安易な算段もできない低脳だったのだろうか?

だとしたら、殺し屋としては二流以下――ド素人だ。

戦乱が常である昔やテロリストならばともかく、BGMの殺し屋は多種多様な適応力、複雑な状況に臨機応変に行動し、自らが裏の顔で表舞台に現れてはならない。

他の組織では敢えて目立とうとする殺し屋も居るようだが、BGMでは御法度だ。実際、ハルトや未春も武器を用いるが、事故や病死に「できる」方が好まれる。表向きで事件になるほど派手にやるのは、失笑或いは冷笑されるだけだ。

「亡霊は、何者だったんだろうな……?」

「わからない。……わからないのは、おかしいと思う」

未春の独り言めいた言葉に、ハルトは水槽に映る己の渋面と向き合いながら頷いた。

「あの事件が亡霊の最初の仕事だとしたら、それまで出てこなかった理由になるが……報復の話は振り出しに戻るし、無名なら遺体を隠す理由は尚更無くなるな」

何処の誰かもわからない正体不明の殺し屋。それなら、BGMの殺し屋として秘密にする理由もなければ、別の顔として葬る理由もない。被害者に当たる十条が、何故わざわざ手間を掛けて無意味な工作を行ったのか?

亡霊の正体に理由があるのか、それとも別の意味があるのか。

「俺がわかるのは、十条さんが何か隠してるってことだけ。手伝ってくれる?」

「……興味はある。ただ、さっきの理由の意味を聞かせてくれ」

「さららさんのこと?」

「そうだ。この件と、どういう関係なんだ」

「さららさんは、事件の後から……変な時があるんだ」

間髪入れず答えた声は硬かった。

「……独自に調べてる、とか?」

「事件に関して何かしているのかはわからない。たまに……無かったことを有ったみたいに話したり、急に知らない人の話をしたりすることがある。それは俺が忘れていることなのか、さららさんが何かおかしいのか……確かめられる人が居ないんだ」

水槽の揺れる光が映る双眸を見て、ハルトは頷いた。

「――わかった。腑に落ちないとこはおいおい聞かせてもらう。それと、俺はタダ働きはしないからそのつもりで」

「ありがとう」

ふと、未春は口端をほんの少しもたげた気がした。妙にこそばゆく感じて、ハルトは思わず目を逸らした。

「あー……それで? 何から始める気だ?」

水槽の端っこなぞ無意味に見ながら問い掛けると、未春は泳いでいる魚みたいに瞬かぬ目で言った。

「千間さんのお見舞い」



 まさか、殺人鬼のお見舞いに行く日が来ようとは。

つくづく、この生活は異常事態と難儀が続く……

水族館を出た後、ハルトがうんざりしながら入った病院は、都心の駅から近い大きな施設だった。どこかで聞いたような大学付属のそれは、患者も見舞客もスタッフも大勢が忙しなく行き交っている。所狭しと様々な案内と部屋が交錯するダンジョンのようなフロアを抜け、入院患者の病棟に入ると、辺りはようやく静かになった。

件の危険人物は、個室のベッドの上で文庫本を開いていた。吊ったと聞いた足は両方ともベッドに放っていたが、背筋はぴんと伸び、身なりはきちんとしていて、入院患者特有のひなびた印象は皆無だった。入室するや否やぎょっとしてから恐ろしい睨み方に変わり、吹き消すように不機嫌そうな表情に落ち着いた。

近付いたハルトと、こじれるから来るなと言うのについてきた未春を見上げ、開口一番、「さすがに狂っているな」と怒りよりも呆れ口調で言った。

ハルトは仰る通りです、と思いつつ、狂人の度合いならそっちも大層だと言いたくなったが、大人しくへらへらと頭を下げた。ついつい、長袖の両手に視線が吸われる。

「……どうも、千間さん。何て言うか……療養中にすみません」

「どうも、フライクーゲル。君の腕前でこのザマだ」

朗らかな嫌味を口にして脚へと顎をしゃくった男に、ハルトは苦笑を返した。思ったより軽傷なのか、医師の腕が良かったのか、はたまた単なる化け物なのか――動かすことには不自由しない様子だ。痩せ我慢なら面白いが、未春を連れてきて良かったかもしれない。当の加害者は悪怯れる様子も無く、ついと紙袋を突き出した。

「お見舞いです」

怪我を負わせた犯人が言うには随分な一言だ。

この期に及んで何をお見舞いする気なのかと指摘されそうだが、中身は一応、さららに教えてもらったという菓子である。無論、さららには送り先を知らせていない。単に、日本の風習に疎いハルトと、贈り物の概念に乏しい未春がアドバイスを求めただけの話だ。途中で買っただけなので毒は仕込まれていないが、愛想程度の厚意も無いという、もはや嫌がらせなのかブラックジョークなのか不明の見舞いを、千間は片手で“丁重に”受け取った。そのままサイドテーブルに据えると、文庫本を閉じて面倒臭そうな顔を寄越した。

「用向きはなんだ」

「さすが、話が早くて助かります」

「畏まらなくてもいい。僕は君の上司ではない」

圧倒的に不利な立場に居る筈だが、堂々と千間は言った。やんわり釘を刺した相手に、平常心が糠同然の未春はぼそっと言った。

「東京支部壊滅と、亡霊のことで知ってることを教えて下さい」

「悪いが、日記なぞ付けていない」

取り付く島もなさそうだ。眉間に嫌悪を示し、千間はハルトに視線を移す。

「こいつを黙らせて説明してくれないか」

ハルトは事情をかいつまんで話した。十条が東京支部を壊滅させた経緯、亡霊に関する情報を知りたい。理由を伏せたが、千間は黙って聞いた後、大人しく清聴している未春をちらと見てからハルトに戻した。

「ふたつ訊ねよう。僕の所に来たのは、君の判断か」

短い躊躇の後、ハルトは未春に視線をやった。千間は鋭い目付きを再び未春に向けたが、やはりすぐに逸らした。

「いいだろう。僕が知る範囲で話しても構わない」

「え、ありがとうございます」

代わりにさららを嫁にくれなどと言われたらどうしようかと思っていたのだが。ハルトが安堵したとき、もうひとつの質問を思い出す。何を聞かれるのか嫌な予感がしたが、千間が口を開くより早く、背後から「失礼します」と滑らかな声が響いた。

「あら……ご歓談中、すみません」

振り向くと、白衣の女性が立っていた。白衣といっても看護士ではなく、黒のパンツスタイルに長裾の白衣を引っ掛けた医師だ。後ろにきゅっと纏めた髪をわずかに揺らし、きびきびと歩いてくるスレンダーな体躯は、ハイヒールを履いたらハルト達に並ぶ。薄化粧にマスクをして尚、美人とわかる医師は、ハルト達に軽く会釈してから千間を見下ろした。

「調子どう?」

知り合いなのだろうか。家族か同級生に話し掛ける感じは、BGM関係者にしては気さくな印象だ。千間は千間で、愛想笑いも程々に足を指した。

「悪くないから早く歩かせてくれ」

「優一はそればっかりね。しょうもない怪我しといて、よく言うわ」

医師はさばさばとした口調で言うと、肩をすくめた患者の足をチェックした。名前で呼ぶ辺り、かなり親しい仲か。こちらの疑問をよそに、医師は流れるように片方の袖を捲る。思わずハルトは注視してしまったが、針か錐の類いがバラバラ落ちる――ことはなかった。さほど屈強にも見えないが締まった筋肉を思わす腕に、真新しい包帯が短く巻かれているだけだ。

「うん、大人しくしていて宜しい。何かあったらすぐに言うのよ?」

「わかってる。顔を見に来ただけなら、さっさと仕事に戻れ」

フンと鼻を鳴らした美人女医に贅沢なセリフを放つと、追い払う仕草さえしてみせる。

さららさん以外、興味がないのかこの変態。ハルトが内心毒づいていると、邪険にされた医師がこちらをしげしげと見つめた。ふと、傍らの未春が、たまにやる“そわそわ”状態になっている。……なんだ? 知り合いか? それともタイプか?

「優一、こちらは?」

先に聞いたのは医師だった。千間は取り澄ました様子で言った。

「職場の後輩」

頬がひきつりそうになるが、あながち嘘ではない。不本意な後輩と化した二人が揃って会釈すると、医師はマスクを顎までずらしてニコッと笑った。その顔を見た瞬間、未春がはっとした。

――なんだよ、やっぱり知り合いか?

訊ねたかったが、未春は言葉は発さず、ハルトの方を見ることもなかった。しかし、“そわそわ”が“もじもじ”に変わった感覚に、ハルトが声を掛けようとした瞬間、先に反応したのは医師の方だった。

「あの、何処かでお会いしていませんか?」

ルージュを引いていない薄桃色の唇が口説き文句のように問い掛けた。未春はたじろぐようにちょっと身を引いたが、困った様子で頷いた。

途端に医師の目がきらめいた。

「やっぱり! 足を怪我して運ばれた子でしょう!」

嬉しそうに微笑むと、今度は遠慮なく未春を眺め回す。

「もう何年になるかな……すごいハンサムになっちゃってて、一瞬わからなかったわ」

足に怪我。運ばれた。医師との関係を察し、ハルトは訊ねるのをやめた。事件の概要を知らないのか、医師は旧友に再会したように楽しげだ。未春は殆ど無表情だったが、居心地悪そうに身を固くしていて、医師は照れているのだと思ったようだった。

「懐かしい。まだ私が新米で……研修に行っていた時ね。優一の知り合いだったなんて……あれから、足の調子は如何ですか?」

「……おかげさまで」

愛想笑いをしない分、未春の返事はぎこちなくて素っ気ない。医師も引き際は見えたようで、初めより愛想の良いお辞儀をした。

「ご挨拶が遅れてすみません――担当医と、優一の姉を勤めております、千間優里と申します」

今日はお見舞いに来て下さってありがとうございました、と頭を下げてから、爽やかな笑みと共に白衣を翻していった。さっぱりした雰囲気は、優秀さを物語るようだった。

「……御姉弟が居るとは知りませんでした」

思わず呟いたハルトに、千間は不敵に笑った。医師の姉に殺し屋の弟とは、フィクションだとしても作為的な悪趣味だ。

「まさか、あの人も?」

「残念ながら」

違うとあっさり答えてから、千間は何でもなさそうに付け加えた。

「だが、無関係ではないかもしれないな。あれは検死もする」

検死の解剖を担う医師か。と、すれば弟が殺した相手を検死するパターンもあるのだろうか。千間家が暗躍した歴史を知るならこの仕組みのえげつなさは折り紙つきだ。もし、メスを入れること自体に喜びがあるなら、弟に負けず劣らずの狂人かもしれない。

「関係者じゃないなら、銃創なんて怪しまれませんか」

「僕の表の顔は自由度が高くてね。海外出張で強盗に遭ったことになっている」

千間の表?――フリーズ中の未春を振り返ると、ぼんやりしていたが、ハルト専用辞書は口を開いた。

「……千間さんは、革製品の人気デザイナー」

ははあ、それで気取った格好なのか。未春がわざわざ気を遣って“人気”とは付けないだろうから、本当に売れているに違いない。口には出さずに納得すると、ご丁寧に名刺を出された。

〈株式会社ギムレット『ハンドレッド』チーフデザイナー・千間優一〉

ミリオンではなくハンドレッド? と思ったが、ハンドレッドと教えられて理解できた。赤の意味が何かは聞くまでもない、ダミー会社かと思うほどそのまんまのネーミングだが、後で調べたところ、『ハンドレッド』は革製品ブランドとして幅広い世代の支持を集め、一部は海外ブランドからも声が掛かっているらしい。

「ホルスターも請け負うよ」

意趣返しとも受け取れる笑みに、ハルトは曖昧な愛想笑いを返した。

ひょっとして、聖の部下が持っていたのはコイツの作品か?

「……ところで、もうひとつの聞きたいことは何ですか?」

話を逸らそうとした問いに、千間は皮肉な笑みを絶やさぬまま答えた。

「君らが僕の話を聞いて、どうするつもりなのかが気になる」

探るような千間の目付きに、にぶい銀色が閃いた気がした。答えを間違えたら喉元が串刺しになるのかもしれないが――先ほどまでそわそわしていた同伴者の気配が、今は透けるように薄い。アホ面下げても、心配は無さそうだった。

「……まだ、決めていません」

ほんの三秒程度、千間は黙してから成程、と軽く鼻で笑った。

「君は思っていたより慎重な男のようだ。前の上司のスタイルかい?」

苦笑いで応じると、千間は慣れた調子で話し始めた。

「東京支部壊滅の28年前、僕はまだ子供で“正式に”在籍していなかったから、見たままとはいかないが――うちの親族に二人居たから内容は知っている。どちらも十条さんに敵わず死んだが」

身内に対してハエでも死んだような口振りだ。死者は浮かばれまいが、噂通りの狂人一族なら、周囲はこの冷徹さに感激するかもしれない。

「ご親族は、十条さんと反目していたってことですか?」

「感情的な話までは知らないが、僕は仕事上の対峙と解釈している。二人が関わっていた仕事の中に、『The Rite of Spring・春の祭典』という計画書があった。十条さんが東京支部を潰す理由に上げた計画だ」

「春の祭典……? ストラヴィンスキーの?」

ハルトの質問に、千間は少々感心した様子で頷いた。

「さすがは芸術に造詣が深いミスター・アマデウスのご自慢か。君が言う通り、この計画名はロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーの最高傑作から名付けたと聞いた」

『春の祭典』は、タイトルだけなら華やかなイメージを抱くかもしれないが、内容は生贄になる乙女を描いたもので、発表当時に激しい賛否両論を巻き起こしたバレエ曲である。千間が言う通り、現在は最高傑作の呼び声高く、どこか陰鬱に漂う曲調と、激しく重厚な曲調が入り交じる壮大な楽曲だが……殺し屋が計画に名付けるには、些か不穏に感じるタイトルだ。

「計画の立案者は、かつての東京支部代表。名前はひじり 景三けいぞうだ」

「聖?」

「そうだ。うちの代表、ひじり茉莉花まりかの実の祖父だよ」

ハルトは眉を潜めた。東京支部代表ということは、十条にしてやられた側のトップ。

また、迷宮が深くなる。何故その孫娘が、センター・コアの代表者に納まっている?

「その……聖景三という方は、今は?」

「生きている。九十に近い高齢だが、いまだ聖グループの会長に居座っている」

「十条さんが生かした……ってことですよね」

「ああ。聖景三は殺し屋ではない。君は日本のBGMの前身を知っているか?」

ハルトが大人しく首を振ると、千間は順序立てて説明した。

「日本のBGMは、第二次世界対戦の遺物が元だ。遡れば我が家のように戦国時代からの血統もあるが、多くは戦後の民主化に乗り損ねた血気盛んな悪党だよ。軍人、役人、憲兵、スパイ崩れなどの特殊工作員、商人に政治家、ヤクザ者も混じる。聖家は軍人の家系で、本来なら第二次世界大戦後、A級戦犯として裁かれる筈だったが、どんな手を使ったか――奴らは免れ、リストにも載っていない。そのまま雲隠れし、BGMで荒稼ぎした後に現在の姿になった」

由緒があろうが無かろうがキナ臭い連中の集まりということか。ハルトは内心、違和感を覚えた。殺し屋がろくでもないことは確認するまでもないが、どうもアマデウスが提唱するBGMと、日本のBGMには思想に格差があったようだ。アメリカ支部の前身にも軍隊やギャングは関わるが、初めから当時のトップが手綱を締めて掛かった組織である。BGMにmilitaryの名を含めたのは、創立者らが抱く『世界を滞りなく回す』思想を遂行する律された組織を目指した所以であり、暴力主義の無法者はハナから除外されている。

第二次戦時の日本はお国、ひいては天皇の為に死するを名誉とした帝国だ。他国を蛮族や侵略者と捉え、平和を履き違えていた軍属の者に、世界を想う感覚はすぐに芽生えはしないだろう。これが徐々にBGMらしくシフトしたとしても、千間家のような狂人が居残る以上、あまりお行儀の宜しい組織ではなさそうだ。

「聖景三は殺し屋ではないと仰いましたね。じゃあ、彼は何で稼いでいたんです?まさか代表者が清掃員クリーナーということはないでしょう?」

「その“まさか”だよ、フライクーゲル。彼は人心と金を操る天才だった。先程上げた悪党らを掌握し、新政府にとって邪魔なものを秘密裏に“処理”することで裏社会を牛耳ったんだ。アメリカ支部の内、君が居た北米支部に尻尾を振り、彼らが日本で仕事をする手引きをしたのもこの男だと聞いている。日本にのみ傾倒していると、消されかねないと踏んだらしい」

なるほど。確かにBGMのTOPも、物理的な力を持たないタイプは居る。

「話を戻そうか。聖家が支配していた東京支部を潰したのが、当時はまだ一介の殺し屋――というより一般の少年に等しかった十条さんだ。BGMには入りたても同然だったし、今とさして変わらない人物だそうだから、古参の連中が目を吊り上げても仕方が無いが……」

何に対してか、千間の言葉には微量の嘲りが滲む。

「十条さんが東京支部を潰した時、“ちょうど”来日していた北米支部代表ミスター・アマデウスが介入している。彼が来たことで聖家は東京支部を追われるのみで済んだが、これが八百長だということぐらい、君にはわかるだろう?」

「八百長?」

「ハルちゃん、出来レースってこと」

「出来レース? fixed raceってことか?」

今度は未春が返事に詰まった。代わりに面白そうに答えたのは千間だ。

「そうだ。fixed matchと捉えてもらって構わない」

辞書と持ち主の応酬に言い添えると、千間は話を続けた。

「アマデウスにとっても、聖家が邪魔になったということだ。十条さんは、邪魔な身内を一掃した直後に理解ある有力者と手を組んだ――と見えるが、彼らはあらかじめ互いの利益の為に手を組んでいた。尤も、アマデウスが十条さんに接触したのは、彼が東京支部の殺し屋をあらかた片付けた辺りだったそうだが」

ということは、十条とアマデウスは、互いに一石二鳥どころではない――三羽も四羽も落とすつもりでやり取りしていたわけだ。たった一人の少年が殺し屋組織を壊滅させただけでも大した計画だが、アマデウスの来日も織り込み済みなら俄然、レベルが違ってくる。才能を実演した上で、普通なら叶わないトップとの会談に漕ぎ着け、あっさりその隣の座に着く。もし、アマデウスの来日自体も仕組んだのなら、寒気のする根回しだ。

アマデウスも十条の才能を見抜き、聖家の始末を付けさせた上で、さも恩人のような顔で聖家に恩赦を与える。傍から見れば単なる乗っ取りなのだが、聖家がこれを受け入れた点からして、聖家には十条と戦えるレベルの武装はなかったようだ。どうにも嫌な天才同士が手を組んだ事例にしか思えず、ハルトはもろに渋面を作った。

「東京支部壊滅には十条さんの私怨もあると伺っていますが、そんなに力の差があったのでしょうか?」

「さあね。僕は見聞きしたわけではないが、殆どの殺し屋は直接対峙せずに殺されている。僕の身内のように、直に戦闘した者は少ない。君らも知っているだろうが、あの人は並外れた人たらしだ。協力者は大勢居ただろうな」

「ああ、それはそうでしょうね……」

異論はない。しかし。

目の前の男に相槌を打つふりをして、ハルトは微かに眉根を寄せた。

幾度めかの違和感に、脳が重い。東京支部の計画だけ見ても、十条は、およそ完璧に等しい計画性を持ち、単独でも実行可能な人間だと証明できる。

それなのに……なぜ、この男は――千間は生かされている?

現に、千間家の人間は最低でも二人殺されている。先程の口振りからして身内の仇討ちは考えないようだが、十条のことは明らかに快く思っていない。さららの件では明快な敵だ。勿論、恋路で殺傷沙汰を起こしてはBGM失格だと思うが、理由のひとつくらいには十分成りうるし、十条が東京支部に手を出さなければ今よりも自由に行動できただろう。千間家には、この当時で十条を倒そうと動く殺し屋が、最低でも二人居た。つまり聖家と千間家は縦或いは横の繋がりがあったということだ。

聖家はBGMを追われ、茉莉花だけが台頭し、千間家はこの男が殺し屋として活動を許されている。両家が跡取りの恩赦を願い出たのか?……に、してはどちらも態度がでかい。誰かがアマデウスに口利きした? 無くもないが、それではアマデウスが十条に貸しを作る羽目になる。アマデウスの性格からして、対等以下の関係は作らない。

では、何らかの取引があったか? 有事に用いる為か? いや、一度は敵対した殺し屋が、そう都合よく手を貸すとは考えられないし、むしろ十条にとっての有事が起きれば、ここぞとばかりに裏切る危険性の方が高い。

十条も十条だ。経緯があろうと無かろうと、へらへら笑いながら「手が滑った」ぐらいの言い訳でやりそうなくせに、一から都合の良いコミュニティを作らず、せっせと手間を重ねて乗っ取った。適当な人物を据えて引っ込む気なら茉莉花よりも適任が居そうだし、蟄居を目論むぐらいなら殺し屋社会に踏み込むこと自体どうかしている。

……つまるところ、センター・コア支部は、容易に十条の手足にならない部下の寄せ集め支部、ということになってしまう。

「十条さんの直接的な強さって……どんなものなんですか」

ハルトは何気なく訊いたつもりだったが、千間は少し眉を寄せると、大人しく突っ立っていた未春に顎をしゃくった。

「そいつ三、四人分と言えば伝わるか?」

「げ……殆どバケモノじゃないですか……!」

正直、未春一人でも御免被る。ある意味、千間家は勇敢だ――まあ、戦いたくないという意味では、目の前の男も勘弁してほしい。まさか日本のBGMは、拳銃が使えない代わりに、こんな非常識な人間ばかり居るのか?

「そうだ、東京支部は……いつから現在の二通りになったんですか?」

「はっきり別れたのは、10年前だよ」

気配の薄い未春から、ひり、と緊張を感じた。千間も勘づいているだろうが構わず続ける。

「『壊滅』といっても、十条さんが主だって潰したのは殺し屋だから、スタッフの殆どは無傷で傘下に入った。直すのが面倒だと、しばらくは名前も東京支部のままだった。施設も僕が正式に入った前後もさして変わらず、『春の祭典』に使われた区画や不必要な場所を閉鎖したり、異なる場に変更したぐらいだと聞いている。当時から、十条さんはあまり拠点のオフィスには居なかったが――」

ふと、千間は言葉を切り、ちらりと未春を見た。

「10年前、例の事件後は頻繁に訪れていたな。掃除が大変だと、誰かが愚痴をこぼしていた。……ハッピータウンなどと言い出したのは、こいつが“留学”から帰国した後だ」

一見、穏やかに話す千間だが、目が全く笑っていない。視線を受ける未春は憮然とした顔付きで立つばかり。大人しく沈黙しているだけかもしれないが、こんなところで一触即発はやめてほしい――余計な発言が出てはとハルトが口を開きかけたところで、そのミサイルはぼそっと放たれた。

「……千間さんがフラれたのも、その辺でしたね」

おい。

突如、ハルトは氷点下の部屋に放り込まれた気がした。たまらぬ沈黙に傍らの長い足を軽く蹴飛ばしてやると、胡乱げな目がこっちを見た。

――無視した。幸い、ベッドの自意識過剰野郎が鼻で笑うに留めてくれたので、病室が善からぬ色に染まるのは免れた、が。

「彼女の事になるとうるさい奴だ。年上好みなのか?」

おい、お前もか!

「あ――――…あのう、千間さん――」

思いきり下でに出たハルトに、千間は視線だけ応対した。

「その……『春の祭典』って……どんな計画だったんですか?」

「ドラッグ開発だよ。名前通りの」

“ドラッグ”の響きにぎくりとしたハルトに「悪趣味だろう」と千間は意外にも本当に嫌そうに言った。

「若い女性を利用した新薬開発。それが『春の祭典』だ」

思わず、No way?と言いそうになるのを呑み込んで、ハルトは唖然とした。何を馬鹿な。日本のBGMはSF映画かコミックス出身なのか?

「まさか……映画じゃあるまいし……」

「君の反応は正しいよ、フライクーゲル」

正しさを認められても全く嬉しくはないが、ともかくこの計画には千間も閉口したらしい。『春の祭典』計画は、十条が東京支部を壊滅させて初めて明るみに出たものだという。組織内でも九割が知らなかった内容を、なぜ末端だった十条が察知したのかは不明だが、その概要はハルトが想像したものとは少し異なる。

まず、作ろうとした新薬はいわゆる精神安定剤で、SFにありがちな、人間をモンスターにする薬や不老長寿の薬などではない。精神安定剤も効果の是非によっては危険なドラッグに成り得るが、目指した効果は鎮静剤に近く、健康を害するものでもない。中毒性を低くするのも課題だったらしく、それなら悪党組織がコソコソ作らなくても良さそうなものだが、一般企業が堂々と行えない理由が三つ。

若い女性――女児を何らかの方法で用いる必要性と、不明瞭な使用目的、そして何より――被験者に殺人欲求がある者を使う必要性があること。

「僕は医者ではないから、メカニズムまでは詳しくない。新薬はさしずめ、殺人衝動を抑える薬物といったところらしい。紛争地域での実験も検討したようだが、国家間トラブルに発展するのを恐れて諦めたそうだ。身内に用いて実験したようだが、誰に使われたのかは知らないな」

ハルトが眉をひそめたからだろう、千間は小さく笑った。

「おかしいだろう。殺し屋の組織が、殺し屋を不能にしかねない薬を開発するなんて」

全くその通りなので頷いた。

殺人衝動イコール千間らの抱く狂気なら、殺し屋稼業自体の脅威にはならない。

しかし、相手を殺すアクションに支障を来すなら、殺し屋は廃業する他なし。まさか自分たちに使うわけがないし、他の組織に使うつもりだった――としても、非効率的だ。邪魔な組織を排するのに、新薬開発なんぞするのは悪ふざけも同然で、金も時間もリスクさえ掛かる上、成功する確率は低い。奇跡的に作ってしまえば自らに使われる可能性は否めず、裏切りや買収の材料にうってつけだ。千間の親類が参加していた計画なら、何か殺し屋にとって得になる作用がありそうだが、そうだとしても妙な計画だ。

「開発理由はご存知ですか?」

「知らないな。効率が悪いのはわかるが」

真実かはさておき、身内に対して失笑するのはこの非効率が原因かもしれない。

確かに、殺し屋を不能にする薬のために殺された殺し屋など、そこだけ見れば十条の方がマトモな悪党だ。

「仰る通りのものなら……十条さんは賛同しそうに思いますが――女性の方に負担が大きいんですかね」

何をどの程度利用するのかは不明だが、臓器や血液を使うと言い出せば論外だ。首を捻るハルトに、真っ先に投与された方が良い男は、ちらりと苦笑いのようなものを浮かべた。

「さあな……しかし、君は十条さんの人柄を勘違いしていないか?」

「どういう意味ですか」

「あの人を、単なる平和主義者と思わない方がいい」

不気味なほど穏やかに千間は言った。

「TOPの一人ということは、日本で最もBGMに相応しい人間ということだ」

「……まあ、確かに」

ハルトは素直に頷いたが、BGMに相応しい人間が、危険な殺し屋の面に留まらないのは当事者の殆どが証明している。ハルトも全員は把握していないが、アマデウスは敏腕実業家にして、ドラッグ撲滅に勇む音楽プロデューサーだ。無論、表の顔も犯罪すれすれのTOPも居るし、アマデウスとて、ドラッグが絡めば残虐非道極まる。彼らに危険人物寄りの共通点があるなら、有り余る力を良し悪しに関わらず他者に使いたがる連中、というところか。

……十条も、何かを持て余しているのだろうが、その行き先が寄付やボランティアなら、目下のところ害はない。

「そういえば、ミスター・アマデウスが無類のドラッグ嫌いなのはご存知ですよね」

「ああ。僕が以前ラスベガスに呼ばれたのも、それが原因なんだろう?」

「はい。その新薬に中毒性や幻覚症状なんかの副作用はありませんでしたか?」

「いいや、知らない。君が気にする通り、アマデウスが関与したのはこの新薬が原因かもしれないが、これは東京支部壊滅の際に行方不明になったそうだ。十条さんも回収していないと聞いている。――嘘をついていなければね」

引っ掛かるセリフを付け加え、千間は少し鼻で笑った。

回収できなかった新薬か。……それが、十条が待っている“モノ”のことだろうか?

「その新薬、なんて名前なんです?」

「スプリング」

Spring――『春の祭典』が計画名なら、『バネ』や『泉』の意味ではなく『春』の意味で付いた名かもしれない。

春、ねえ……――ちらと未春を見ると、いつもの静かな眼差しで千間の方を見ている。何を考えているかわからない横顔を数秒見るに留め、ハルトは千間に向き直った。

「十条さんが新薬開発を阻止したのはわかりましたが……彼の動機は、自分の家族の死に対する復讐もあったんですよね?」

「本人に聞けと言いたいところだが……その筈だ。ただ、僕は当時在籍していないから、どの殺し屋によるミスかは知らない。十条さんが目的を果たしたのかどうかも含めて」

まあ、言われてみればその通りだ。それこそ、千間が十条の観察日記でも逐一認めていればわかるだろうが、有る筈がない。……有ったら怖すぎる。

「では最後に、『亡霊』のことをお聞きしたいです」

「『亡霊』か……幽霊のことじゃないんだろうな……」

疲れた調子で呟くと、千間は未春をちらりと見た。

「こいつは覚えていないのか」

「覚えていないそうです」

「使えん脳みそだ」

すかさず降って来る罵りにも、涼しいほど無反応の未春だ。

「残念だが、亡霊が何処の何者だったのかは、僕は知らない。知っているのは、この殺し屋が日本在住ではなかったということくらいだ」

「外国人だったんですか……?」

声に異物が混じる気配に、未春はちらとハルトを見た。その表情に明快な変化が見えた。何か嫌なものを呑み込んだように青ざめている。気付いているのかいないのか、千間はハルトの問いに首を振った。

「日本人離れした体格と、事件前に目撃した何人かが外国語を呟くのを聞いている点から、外国人では、というのが組織の見解だ。君のような帰国子女という可能性は無くも無いが」

「……いつ頃、そいつは日本に?」

「そこまでは知らない。亡霊に表の顔がなかったのはそいつも知っているな? 原則、表が無い人間は日本のBGMでは扱わない。不慮の事故で死んだりされると、面倒なことになるからな。仮に出生届けがなかった無戸籍の人間でも、活動前には必ず偽の素性が用意される。亡霊にそれが無いなら、日本出身ではないと見ていいだろう」

「海外BGMには、戸籍なしの人もいるの?」

未春の問い掛けは千間ではなくハルトに向いている。難しい顔をしていたハルトは、やや間を置いて頷いた。

「滅多に居ないが、居るには居る。派手に戦闘が起きる場所に行く奴だな……軍隊やゲリラ組織なんかに捕まった時、国家間の交渉材料にされたら困るから、敢えて無い状態を保つ」

未春が納得した顔になったところで、ハルトは千間に向き直った。

「千間さん……亡霊の正体が外国人なら、10年前の事件は“誰か”が亡霊を呼び寄せて、十条さんにけし掛けたことになるんじゃないですか?亡霊自体の私怨ではなく――」

「可能性は有るが、それは十条さんが、知らぬ間に海外で恨みを買っていなければの話だ」

どちらでも良さそうな千間に対し、ハルトは厳しい目つきで俯いた。

「他に……思い当ることはありませんか」

「特には」

「……そうですか」

目に見えて落胆したからか、思い出したら連絡しよう、と意外にも親切な対応の千間に、ハルトはお願いしますと頭を下げた。

「君が何を思い付いたのかはわからないが、どうするかは決まったようだな」

「ええ、そうですね……具体的には決まってませんけど……」

急に思案顔になったハルトは、帰ろうと未春に声を掛け、その長躯が割合きちんとお辞儀するのを見届けてから病室を出た。

「――そうだ、フライクーゲル。ひとつ忠告しておこう」

ハルトが振り向くと、千間は穏やかな口調とは裏腹の鋭い目で言った。いつの間にか、その片手にぞっとするほど細い銀色が弄ばれている。

「聖景三には手を出すな。そこの機械人形もだ――いいな?」



 病院を出ると、身にまとわりついた消毒薬の香る生暖かさが溶けるように涼しく感じた。日差しはほのぼのと良い具合の秋晴れ。街路樹の落とす乾いた葉を踏みながら、肩を並べて間もなく、空気のように静かだった未春がぼそりと口を開いた。

「ハルちゃん、どうしたの?」

「……」

何でもない、と言おうと思ったが、ハルトは未春の目を見て観念した。絶対に見逃してくれそうにないアンバーから、せめて視線だけ逃れようと前を向く。

「……亡霊に関して、嫌な予感を一つ思い付いた」

「正体がわかったってこと?」

「急がないでくれ。俺としては予感が外れた方がありがたいんだが……得意な奴に調べさせておく。はっきりしたらお前にも話すよ」

未春は無表情の中に不満を漂わせていたが、大人しく頷いた。

「千間さんに会って良かったと思う?」

「まあな。最初はどうなることかと思ったが、意外と情報通で助かった。嘘でもあれだけ喋ってくれれば、煙に巻く連中よりは役に立つ」

「……千間さんだけど、なんか変じゃなかった?」

元より変態だろ、と怪訝な顔をしたハルトに、未春は無言で眉をひそめた。

「そうじゃなくて」

軽くかぶりを振り、難題に挑むような表情でしばし黙すと、やはりぼそりと言った。

「穏やかだった、と思う」

「穏やか……?」

わからん、と首を捻る。何せ、普段の千間をよく知らない。顔を合わせたのは四度目だが、内一回はさららの手前、一回は上司と同伴、一回は敵同士だ。

「もっとキレやすいんだよ、あの人」

ははあ。さては、とハルトもぴんときた。

「お前の挑発はわざとか」

そう、と未春は頷いて、また腑に落ちない顔をした。

「でも、乗ってこなかった。ハルちゃんが居たからかな?」

「どうだか。病院で“何か“あれば不利なのは俺たちだが……キレるってのは状況判断も何もないだろうからな。お前の言う通りなら、奴は良いことでもあったか――あ、そうだ」

「なに」

「お前こそ、あの女医にそわそわしてたのはどういうことだよ。ほんとに年上趣味ってわけじゃないだろ?」

「ああ、あの人……」

千間優里。千間の姉と名乗った女に、落ち着かない態度を見せた未春は、ぼやくように答えた。

「変だったんだよ、あの人。十年前に会ったとき」

「あの女医も変って……どういう方向にだよ?」

「上手く説明できない。俺が治る様子を見て、驚いて……それから凄く喜んだ」

それは、医者なら普通なのでは……?とハルトは思ったが、いち患者が回復する度に小躍りしていたとしたら、ある意味まともではない。

「じゃあ、お前のそわそわは、その喜び方に怯えてたのか?」

「怖くはないけど、そんなとこ。『治ってくれてありがとう』って、変なことを言われた」

はて? 確かに少々おかしなセリフだ。

BGMではないと言っていたし、本当に只の酔狂な医者なのだろうか。単に未春の容姿が良かったから……なんてことも有り得るか?

「なんかその……変なとこ触られてないよな?」

俗な質問をしたと思ったが、未春は「はあ?」と胡乱げに首を捻った。

「触ってないよ」

「……そりゃ、そうか。変な事聞いたな」

ふと、鈍い騒音が辺りを揺らし、高架の上を電車が走って行った。鉄の塊が轟音を撒き散らしていくのを見送って、ハルトは口を開いた。

「千間が穏やかだって言ってた話だが」

言い終わらぬうちに、反対の線路から腹の内側まで揺らす重低音が響いてきた。

「例の薬、とっくに処方されてたりしてな」

ジョークのつもりだったが、未春は考え込むような顔で黙っていた。その頭の上を、地鳴りを抱えた車体が瞬く間に行き過ぎた。



「優一は――凄いわね」

姉の気怠い声に、弟は何も答えなかった。

視線を文庫の紙面に据え置いたまま、バーのカウンターでうなだれるような顔つきの女に片腕と片足を放り出している。痕は見えたが、そこには七針縫った傷も、弾丸が掠めたズタズタの裂傷はすっかり無い。女は患部だった場所を擦りながら、うすらぼんやり呟いた。

「どうして肉芽組織がこんなに早く出現するのかしら……? 骨に到ってもこうなるの?」

「興味本位で切るなよ。病院は沢山だ」

「もう帰るのね……つまんない。珍しくケガしたと思ったのに」

医師とは思えない言葉に口を尖らせ、患者である弟の首筋――後頭部の辺りに残った傷痕を、静かな目で見つめる。

「ねえ、優一……あのお見舞いに来た子たち、ホントに後輩なの?」

「優里、いつも言っているが、僕の人間関係に口を出すな」

「フン、そんなのお互い様でしょ。ああ、嫌だ。ウチの家系は何でも女に秘密にして指図するんだから」

一族の中では、一歳違いの弟の立場さえ、姉の自分より上だ。母はきっと、自分が男児ではなかったから弟を生んだのだ。決してないがしろに育てられたわけではないが、幼い優里がちらと聞いた、親戚の「女の子は何も気にせず可愛がれるからいい」という言葉の裏には、弟が何らかの期待を寄せられる証だった。

実家が伝統的に妙な商売をしているのを、早くから優里は察している。

一族の多くが、弟を、「先祖返り」と称賛しているのも知っている。それが後ろ暗い稼業だということは、家に関わる情報や家系図の閲覧を禁じられている優里も、祖父と別の方面から調べ上げた。

弟は、表社会では犯罪者だ。時代錯誤の家系が育てた異端児。

だから、優里は医師を志した。大好きな祖父の職業だったこともあるが、何かと偉そうな弟への対抗心もあるし、怪我をしたとき大きな顔をしてやる為でもある。

それなのに、この弟の怪我はすぐに治ってしまって面白くない。昔は一族の大人に会いに行っては生傷をこさえていたものだが、いつからか、翌日にはけろりとするようになった。人間にも再生能力は備わっているが、それは例えば切り落とされた指が生えるような再生はせず、傷を塞ごうとする自然治癒のレベルに留まる。

常識は全て、あの薬が覆す。祖父が作り、あの男が弟に与えた薬。

あれがあるから、弟は今回のようにたった二日で治った傷をカムフラージュするため、病院のベッドに居る。――今は、首に残る傷痕は消えないけれど。

「まさか、ウチの家系は“あの薬”以外に、不老不死の研究なんかしていないわよね」

優里の呟きに、弟は鼻で笑った。

「それなら、優里の方が重宝されるだろう」

「当て擦り言う口は縫っちゃおうかしら」

「なんでも悪く受け取るなよ。不老不死があるなら、爺さんが早死にすることも、叔父連中が殺されることもない」

「知ってるわよ。あんたの不気味な治癒力がいけないの。あの薬の効果なんて消えちゃえばいいのに」

言い返してやると、弟は肩をすくめて苦笑した。いつだって、口喧嘩からはさっさと退くのが弟のやり方だった。

「……あんた、なんで革のデザイナーになったんだっけ」

襟元からわずかに覗く傷痕を眺めながら、優里は言った。

「何だ、急に」

「いいから言いなさいよ。ぶっとい針持ち歩く為じゃないのは知ってるわよ」

“知ってるわよ”は優里の口癖だった。知っていることを否定されるのを嫌う女に、弟は溜息混じりに文庫を閉じた。

「別に。唯一無二のものが好きなだけだ」

「フン。このカッコつけ」

相変わらずにやついているだけの弟ににべもない言葉をぶつけてやると、優里は白衣のポケットから小さなメモを取り出した。突きつけられたのを弟が受け取り、静かに開く。

「例のもの、出来たわ」

優里へと向いた弟の目の色が変わった。早く言え、という真剣な眼差しになり、メモを見つめる。わずかに、メモを持つ手が震えた気がした。

「……爺さんが喜ぶな」

「あら……あんたがおじいちゃんのこと気にするなんて、意外ね」

生前の祖父と殆ど交流の無かった弟をなじると、彼は珍しく苦笑いを浮かべなかった。

食い入るようにメモを見つめ、頷いた。

「僕も意外だ」

「そうよ……あんたは、“さらら”の為になればそれでいいんでしょ?」

「それは――お前も同じだろう」

「もちろんよ。私は友達だもの。横恋慕の人と一緒にしないでちょうだい」

言ってしまってから、優里は少し後悔した。弟が笑いもせず、怒りもしなかったからだ。

「……とにかく、報せたから。退院したらトオルさんに伝えて」

早口で言うと、弟が露骨に嫌な顔を向けたのでほっとした。

「電話すればいいだろ?」

「 “あいつ”に聞かれたら困るわ。私の周り、旦那や向こうの両親まで見張られてるのよ。いつも人相悪いのがうろちょろして……皆は気付いてないけど、鬱陶しいったらない」

「それは近日中に何とかしてやる。十条には――」

「お断り。あんたがそんなに嫌そうにするのに、私がやってあげると思う?」

「……」

苦虫を噛んだような顔で黙ってしまう弟に、優里は少し気持ちが落ち着いてきた。

そうよ、優一、わかったような澄まし顔なんて、もうやめなさい。これから、嫌なときは、もっと嫌そうな顔をすればいい。

「じゃあ、頼んだわよ」

言い放つや否や、出て行こうとした優里に、静かな声が掛かった。

「――ありがとう、姉さん」

立ち止まった優里の背を、とん、と優しく叩くような声だった。

優里は振り向こうとして――やめた。間髪入れずに響いた声が、先ほどと全く異なる、怜悧な声だったからだ。

「爺さんの仇は、僕に任せろ」

優里は返事をせず、そのまま、病室をつかつか出て行った。

わけもなく涙が出そうで、優里は唇を噛んだ。面会時間を過ぎた入院病棟は静かだが、できれば誰ともすれ違いたくないと思いながら、人けのない廊下を歩いた。

――安心なさい、優一。私はあの家を放置しない。

熱くなる胸に、撫でた腹部に唱える。

――安心してね。あなたの叔父さんの代から、変わるのよ。

デスクに戻って行く途中、掲示板の前で優里は立ち止まった。ベースサイドストリートで行われるハロウィンのイベントを告知するポスターが貼られていた。

主催者の欄にある名前を見つめた。――DOUBLE・CROSSの文字。

優里は電話を手に取った。かけようとして、なんとなく人の気配を感じてやめた。

代わりに短くメールを打った。


〈今度、お店に行くわ。久しぶりに会いましょう〉


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