12.Vicissitudes.
口を開けたら、うっかり魂が出てしまいそうな気がするハルトをよそに、先に魂が出そうになっている人物が他に居た。
倉子である。
銃撃事件後、相変わらず世間は騒いでいたが、代わりにDOUBLE・CROSSの周囲はうろつく報道陣も減り、倉子は開店を控えた店に遊びに来ていた。遊びに――といっても、いつものように元気ではない。用事があるのか無いのか、しばし猫と戯れた後、カウンターに座ってぼんやりし始めた。
その表情は、悩みというほど深刻そうではなく、恋わずらいというほどふうわり浮いていない。17歳の知能をフル回転させて、しきりに何かを考えている顔だった。
店内を整理していたハルトと未春がそれぞれ声を掛けたが、倉子は「ごめん、へーきだから」と答えるだけで要領を得ない。女子高生の扱いなんぞ知る由もない男二人にはどうにもならず、互いに視界の端に置いている。
倉子は、気のない顔つきでビビの相手をしていた。片手にはピンクのリボンがひらひらする猫じゃらし、もう片手には“十条さんはこれで元気になる”と何か勘違いしている未春が作ったココア・フロートがある。香りだけでも甘く濃厚なアイスココアに芳醇なバニラアイスクリームがプカプカ浮き、とどめにココアパウダーとチョコレートソースがどっさり掛けられたそれは、ハルトが正気かと思うカロリー爆弾だ。倉子はそれを難しい顔でずるずる啜っていたが、ふと猫じゃらしを振っていた手を止めた。
「……ね、ハルちゃん。ちょっと相談していい?」
カウンターの向こうで食器を拭いていたハルトは、手を止めて顔を上げた。倉子は猫じゃらしを置き、長いスプーンでアイスをつつきながら、返事を待たずに続けた。
「瑠々子がさあ……学校来ないの」
瑠々子と聞いて、未春が差し出したナイフを真っ先に思い出す。倉子の同級生。自身に対するいじめの加害者を殺してほしいと未春を頼って断られ、自分でやるならどうぞと出されたナイフを受けとれず、短すぎるスカートを翻していった少女。
「いじめの加害者が、死んだ後なのに?」
「げー、ストレートすぎぃー!」
倉子は非難がましい目付きで、ココアとチョコレートが絡まるアイスクリームを突き刺しては掻き混ぜた。刺さったストローが不安定に揺れ、グラスのカチャカチャ鳴る音を、床のビビが不思議そうに見上げた。いつもの倉子らしくなったのも束の間、アイスを二、三回ぱくついたところで、ふう、と溜息を吐く。
「ストレートだけど、そーいうこと。いじめの中心だった子が“亡くなった”報道の後、二、三回来たんだけどさ……」
以降、ぱったり来なくなり、音信不通になったという。
「理由は――心当たりがある顔だな」
「うん。ありまくり」
「アリマクリ?」
「とっても有るってこと。……やっぱさあ、参っちゃったんだと思う。同級生とか、周りの反応に」
グラスを気だるそうに混ぜながら倉子は続けた。倉子曰く、同級生らはいじめられていた頃よりも瑠々子を避け、できるだけ関わらないようにしたという。それはそうだろう。
いじめを黙殺していた傍観者が、更に悪化した事態に首を突っ込む筈がない。教員側は亡くなった生徒側の対応に追われ、瑠々子のケアには至らず、警察も瑠々子を犯人扱いしたわけではないが、“疑われている”、“怪しい”などという噂はSNS内にて囁かれているらしい。倉子はぐっと声量を落とし、未春のぼそぼそにも似た調子で言った。
「……いじめっ子が居なくなったんだからさ、瑠々子的には学校に来やすくなった筈でしょ? それが超真逆。クラス以外の生徒や後輩とかにも白い目で見られて、PTAにも睨まれるし……外では警察なのかマスコミなのかわかんない人が見てたり、最悪、声掛けてくるし、SNSは炎上気にしてアップできないみたい……これじゃ前よりひどいよ」
「なるほどな。ところでPTAって何?」
「え? あ、そっか……ええと、保護者の代表……っていうか親の生徒会みたいな感じ?」
「ふーん」
保護者というと、PはParentか。AはAssociationだとして――Tって何だ? 余計なことを考えていると、倉子が不正を見つけた鬼教官のような目でこちらを見ていた。
「ハルちゃんの“そーゆートコ”って、殺し屋だからなの?」
「そういうとこ、とは」
「時々、無神経になるトコ」
う。……言葉に詰まったが、女子高生の諸事情を大人しく清聴しているのにそれはないと思う。内心の文句が聴こえたように、倉子は煙草の煙でも吐き出すように息を吐いた。
「……俺が無神経かはともかく、ラッコちゃんは異様に真剣だよな。よっぽど仲良いってことか」
そうよ、と言うか、“騙されんぞ”と睨んでくるかと思いきや、倉子は手元のぐるぐるをやめてきょとんとした。
「瑠々子とあたし? ううん、別に仲良くないよ」
何だって? 今度はこっちが唖然とした。
「ちょっと待った……特別な友達だから、心配してるんじゃないのか?」
倉子は目をぱちくりした後、再び――時折止まりながら、既に混ざりきったグラスの中身をぐるぐるし始めた。
「あたし達は――友達じゃないとは言わないけど、特別な友達ってわけじゃないの。瑠々子からしても、あたしからしても」
「なんだそりゃ? 俺はてっきり……」
「うん、そうじゃないの。友達って表現しかわかりやすいのがないからそう言うんだけどさ、あたしと瑠々子は……ンー……友達って言うより、“ご近所さん”みたいなものなの。ハルちゃん、こういうニュアンスわかんないかなあ……」
「全くわからん。家が近い、ではないよな?」
「当然。んーとさ、身長順に並ばされたことある? 朝礼とか集会とか、学校でよくある並び方」
学校のそれとは違う為、あまり良い思い出ではないが、有るには有るので頷いた。
「瑠々子は小学生の頃にこの辺りに引っ越してきて、その頃……あたし達は今より身長差がなかったの。並ぶときは殆ど前後か、一人挟むか。たまたま、中学も高校も同じとこ行って、クラスもずっと一緒。するとね、なんとなーく近しくなるの。親しくなる、じゃなくて、近しく。同じパターンで親しくなる子たちも居るけど、あたし達の場合は、大体いつも隣に居る子ってぐらいの仲。これって、気が合わなくてもあんまり悪い仲にはならないんだ。お互いはしょっちゅう目線に入るし、体育とかイベントとか、ちょっとした時にペアやチームになったりするから、気まずいのは嫌だからかな。色々話し始めたのは、瑠々子がみーちゃんにぞっこんになってから」
「じゃあ、その心配はラッコちゃんの正義感なのか?」
「セイギかぁん?」
裏返り気味の反復後、倉子はぷっと吹き出して手を振った。
「あたし、そんなに立派じゃないよ。……ほら、あたしが動物好きなのと、殺処分の仕組みを変えたいのはもう知ってるでしょ。それと同じ」
犬猫と人間が? 殺処分が? どっちが無神経だと思ったが、早口で倉子は付け加えた。
「保護された動物は、大抵が人間にいじめられた子達なのは、ハルちゃんも見たよね。あたしは、単純に動物が好きで、あの子達は人間並かそれ以上に大事。だから、“鳴き声がうるさい”とか、“粗相したから”とか、“言うこと聞かないから”とか、叩いたりしなくても、勝手な都合で捨てたり放置した人間は許せないし、許さない。瑠々子のことも同じ。別にあの子が暴力振るったり意地悪したわけじゃないのに、いじめられるのは理不尽だと思うわけ。ヒソヒソ悪口も、キモいとかいう書き込みも、あのくそブリーダー見てるみたいで胸がムカムカするんだ」
理不尽、か。
前にも聞いた言葉だ。倉子は正義に燃えるというよりは、理不尽を激しく嫌うらしい。
「双方に言い分がある喧嘩なら、とことんやり合えばいいじゃん、って思う。でも、関わる気がないのを掴まえて、急にどついたらひどいでしょ? 通り魔と変わんないよ」
「異論はない。ただ、ラッコちゃんは標的にされないのか? 皆それが嫌だから傍観者なんだろ?」
「今んとこ無いよ」
リッキーとは違うんだな。内に呟いた筈だが、倉子は答えるように言った。
「あたしはリッキーみたく、目立ったりしないから。こういうの、上手い人と下手な人がいると思う」
野生の勘に戦いていると、倉子はもういくら混ぜても茶色にしかならない液体をずるずると啜った。
「下手だけど……正義感があるって、リッキーみたいな人のことだよ。リッキーはいじめられてた友達を助けて、自分もいじめられてたことがあるの。言ったっけ? ちょっと……っていうか、けっこう不器用で要領悪いけどさ、ホントに友達を守ろうと思って行動したんだから、超偉いよね」
「わかる。リッキーが隠れヒーローの話は俺も聞いた」
「そっか。いじめっこに『やめろよ!』って怒鳴って立ち向かったんだって。ほんとスゴい。あたしは瑠々子に話し掛けたり、授業で余ってたらペア組んだり、班とかお昼に誘うくらいだもん」
「どっちも偉いって。俺にはできない」
正直に言うと、倉子は少し脇を向いて恥ずかしそうに微笑した。バニラもココアも混ざり合う香りが、ふわりと舞った。
「でも、大変エラーいあたしも今はどうしたらいいかわかんない。そっとしておくのも、マズイかなあって気がしてるのに。……ハルちゃんなら、どうする?」
「殺し屋に、友達を助ける良い考えが浮かぶと思うか?」
茶化したつもりだったが、倉子は真面目な顔で首を振った。
「殺し屋じゃなくて、“ハルちゃん”の意見を聞きたいの」
――君は、みんなのハルちゃんだ。
倉子の声に重なった声が、ツンと胸を刺す。
「無理だ。俺は友達なんて居ないから」
「うそ。少なくとも、みーちゃんが居るじゃん」
さらっと示されるのは、何やら隅っこで静かに掃き掃除をしている男。いやいやいや、と大袈裟に手を振ってしまったのは遠慮ではない。最低限が、よりによって、だ。
「未春は只の同僚で同居人ってだけだ」
「そーかなあ。みーちゃんは、友達だと思ってるんじゃない? あたしやリッキーと居る時と違うもん」
「へえー、そう……」
つい、流そうとしてしまったのを野生の勘は見逃してくれなかった。
「……ハルちゃん、みーちゃんのこと嫌いなの?」
「は? いや、別に……」
「だったら友達になってあげてよ。あたしやリッキーは上手くいかないけど、ハルちゃんなら――」
「No,way……なあ、ラッコちゃん、無理だ。俺に“友達はできない”」
両手を挙げたが、倉子は目許と唇をきりりと尖らせた。
「理由は?」
当然の権利を求めるような口調に、一瞬、秘密にしようかと思ってやめた。
“こちら”との違いは線引きした方が、倉子の為になる。意味も無く咳払いしてから、言った。
「俺は、友達を殺したことがあるから」
ふと、視界の端で働いていた背が止まった。
が、正面の両眼は怯えもしなければ、驚きもしなかった。どこか猫に似た、丸みがあるのに鋭いアーモンド形の目は、グラスを滑る水滴よりも静かに瞬き、甘い香りの液体を眺めてから――こちらをじろりと睨んだ。
「あたし、『みーちゃんの友達になって』って言ったんだけど?」
鬼教官が不出来な生徒の間違いを指摘するように言った。思わずこっちが度肝を抜かれる。
「え……いや、だから、俺は昔――」
「もう! 理由にならないって言ってんの! その友達と、みーちゃんは関係ないんでしょ?」
「は……はあ、そりゃ……まあ……」
無い。強いて言えば彼はハンサムだったが、未春とは全く似ていない。人種もタイプも違うし、未春より数倍は愛想があったし、殺し屋ではなかった。
「あたし、人殺しはノープロブレムって言ってるんじゃないからね? とりあえず、その友達と、ハルちゃんがみーちゃんと仲良くなる話は別ってこと」
「はあ……」
「さららさんも言ってたよ。ハルちゃんなら、みーちゃんと仲良くできるかもって」
「うーむ……俺の希望は一旦置くとして、なんだってあいつは皆に交友関係を心配されてるんだ? 友達になりたがる奴は多そうなのに」
恐らく聴こえているだろう――が、振り向かない背を見て訊ねると、倉子は息を飲むように押し黙った。未春の方をちらと振り返り、ゆっくり……ココア・フロートへと戻った。混ざりあったそれの、小さな泡がぷつと弾けるように倉子は言った。
「……みーちゃんは、ホントに友達が居ないからよ」
まるで、禁忌を述べるような口調だった。
「あたしはハルちゃんの次に新入りだから……聞いた話ばかりだけど、みーちゃんは、一度も友達が居たことないの。あたしは十条さんやさららさんにも相談されて、リッキーと二人で色々やってみた。遊びにも行ったし、ゴハンも行ったよ。で……あたし達とみーちゃんの感覚が違うことと、いくら話したり遊んでみても、友達になれていないことがわかったの。最初は年齢差かな、って思ったけどそうじゃないのはすぐわかった。――あ、嫌われてるわけじゃないんだよ? みーちゃんは親切で優しいし、あたし達のことは大事に考えてくれてると思う」
「親切で優しい、か……」
わかる気がした。倉子が違うと称する未春の感覚は、瑠々子にナイフを差し出した面に垣間見える。未春の親切は、彼らの危機に牙を剥き、優しさは、彼らの敵を刺し殺す。
たとえその理由が、殺人に至るほどではなくても。それなら――同じ穴の狢同士では、友情を築けるのか。
わからない。それが友情ではないのは確かだが。
未春の親切と優しさは、俺の敵を殺すのか?
“友達”の敵ではなく、仲間を殺して、そして“友達”も殺した俺の?
不意に、ハルトは慌てて眉間を押さえて俯いた。にわかに沸々と騒ぎだす内側を、目許が疲れたふりで誤魔化す。氷が欲しい、と微かに思いながら、“変わる”という声を思い出し、溜息を吐いた。
「しかし、あいつも贅沢な奴だな……せっかくマトモな人間が友達になろうとしてんのに」
「たぶん、そういうことじゃないんだよ」
呟いた倉子は、もうこちらを見ていなかった。答えがそこに沈んでいるとでも云うように、薄くなってきたココアを見つめている。
「だって、友達は自然なものじゃん。多少は選ぶけどさ、背伸びしないと同じものが見えなかったり、精一杯走らないと隣に居られない人とは、疲れちゃうなって思うでしょ。みーちゃんは、ハルちゃんと居るとき、自然な感じがする」
この女子高生の説得力はなかなか手強い。倉子が「おかしい!」と叫べば、冷戦状態の国のトップが慌てて握手をするぐらいの奇跡は起きそうだ。
「……あいつと友達ねえ……まあ、考えておく。それよりラッコちゃん、瑠々子ちゃんの件は、連絡だけは取り続けた方がいいと思うが、無理に接触しない方がいいと思う」
「殺し屋の助言っぽいなあ」
せっかくのアドバイスに早くも難癖を付け、倉子は頷いた。
「つまり、ハルちゃんは瑠々子じゃなく、“あたしの為”に言ってくれてるんだよねー?」
おお……仰る通りのご明察なので頷いた。
「例の事件、モヤモヤするからでしょ。なんだか作り話みたいだもん」
その通りです、と頷くしか能のないハルトに、倉子はテーブルに肩肘ついて、ぷうと唇を尖らせた。
「ねー、ハルちゃん。さららさん、いつ戻って来るんだろ……こういう時、一番頼りになるのに」
「そりゃ同感だけど――俺にはわからないな。未春なら知ってそうだけど……第一、ラッコちゃんだって初めてじゃないだろ?」
「さららさんがこんなに居ないこと? ……あったかなあ……あった気もするけど……」
宙を睨む倉子に嘘は感じなかったが、ハルトは内心いぶかしんだ。
どういうことだ? さららのBGM活動が極端に少ないのはわかるが、少なくとも一、二年――いや、店に入る以前からスズの件で顔見知りの倉子が思い当たらないのは妙だ。
いつもは、こんなに休まないのか?
未春は――と姿を探すと、確かに居た筈の背はいつの間にやら消えている。
「……」
ふと、ハルトは押し黙って胃を押さえた。
――ああ、今、俺――あいつを何だと思って探した……?
……気持ちわる。
「わわっ!」
刹那、倉子が悲鳴を上げた。その足元から黒い塊が勢いよく飛び出している。仰天して捲れそうになるスカートを慌てて直して――ビビだと気付いた。何かに驚いたらしい。手近な展示ソファにひらりと飛び乗ると、首をすくめ、尾を下ろしてじっとこちらを窺う。どうしたのかな、と倉子は呟いてからハルトに視線を戻し、息を呑んだ。
ハルトは、黙って店の方を見ていた。傍目には、ぼうっとしているようにも見えたが――両眼は、“ある筈の何か”が抜け落ちたようだ。いつも穏やかな目の奥には、未春にも似た――ぽっかりと、空虚な穴があるようだった。
「 “友達”か……」
ほんの数秒後、何処か遠くから戻ったようにハルトは自嘲気味に呟いた。それはいつもの彼だったが 、“友達”という言葉にだけ不可解な毒が潜む。
……そういえば、と倉子は気付いた。
ハルトは、殺してしまったという友達以外の友達ができたことはあるのだろうか?
未春と同じ二十八歳で、正式に殺し屋になったのも未春と同じ十五歳だと力也は言っていた。しかし、未春とハルトの性格や雰囲気は似ていない。倉子からすると、殺し屋というものは、みな何かしら異質である。十条やさららは殺し屋の顔が全く見えないのが異質だ。社会に上手く溶け込み、週に何度も顔を合わせる倉子にも、いつも優しい二人が誰かを殺しているとは想像もつかない。そして、未春は初めから常人と異なる。良い言い方をすれば裏表がないが、その本性は常に殺し屋の顔が引っ込まない。倉子は力也と異なり、未春の仕事を見たことはないが、例えば掃除をしている顔、料理をしている顔、接客する顔、同僚と話す顔、近所の知り合いと挨拶する顔、誰かを殺す顔――きっと、いずれも変化しないと察している。未春は演技などする気もなく、隠そうという気概もないからだ。
怖くないのは、敵だと思われていないのがわかるというだけ。
ハルトはその辺、凡庸としていて親しみやすいのが不思議だった。殆ど初対面で力也がなついている上、未春も気を許しているように見えるし、倉子もハルトに対しては気後れするところがない。うっかりすると彼が殺し屋である事実を忘れそうになるくらいだが――今、倉子は思いだし、ひとつ理解した。ハルトは、殺し屋という裏の顔を隠しているが、“表の顔も”――巧みに隠している。
――皆に好かれる顔で、人を殺せるのが、ハルちゃん……?
「ラッコちゃん?」
「ひわっ!?」
「うおっ、何だよ、『ひわ』って」
「え、その……、ごめん、考え事してた……」
ああ、そう――と、ハルトは穏やかな苦笑いだ。いつもの、穏やかな顔で。
「あまり思い詰めないようにな」
優しいひと言に、その目を見ないように倉子は頷いた。
気付くと、眼前のグラスは水滴がすっかり垂れ落ち、甘過ぎた中身は茶と白の泡と化して氷水で薄まっていた。氷。ハルトががりがり噛み砕いていた氷。あれは、彼の中に溶けて、何を冷やし、薄めているのだろう。不意に足元に柔らかいものが触れた。見下ろすと、ビビが金目にまんまるの黒い瞳をきらきらさせて甘え声を上げた。
――うん、あたしもわかるよ。
倉子は猫に目で話し掛け、小さな頭を撫でてから、ちらとハルトを見た。皿を拭く作業に戻っている表情は、話し掛けたら返事をしてくれる。
――そうだよね、ビビ。
カウンターをとことこ回って、飼い主の足元に向かった猫に、倉子は心で話し掛ける。
“今”は、“あたし達が知ってるハルちゃん”だね。
今日も流れに流れる国道16号を目の前に、横田交番には珍客が訪れていた。
強風で丸ごと飛んでいきそうなほど小さな詰所は、大きな机が幅を利かせ、男二人が向かい合うだけでいっぱいになっていた。
「いやあ、十条さんが午前中に起きているのは珍しいですねえ」
軋む事務椅子に腰掛けた男に茶を勧め、椅子並に年季の入った警察官・山岸は微笑した。珍客は小日向のように笑うと、ひょろっとした体躯に乗ったぼさぼさ頭をぺこりと下げた。
「どうも、先日はお世話になりました」
「とんでもない。こっちも“本業”ですんで」
「山岸さんにはお世話になりっぱなしですね」
山岸は皺だらけの顔で笑ったが、そんなことはない、と胸中に固く述べていた。
警官と、殺し屋。フィクションにありがちな、ヤクザとの取引関係とも違う。少なくとも、この男以外に従うのは御免だ。平凡ににこにこ笑っているこの男に協力することを、山岸は高尚であるとさえ感じていた。この男に心酔したのはいま少し若い頃だが、若気の至りとも思っていない。出会えたのは、幸運だ。
「まだ、マスコミはうるさいですかな」
「そうですね。彼らもあれが仕事ですから」
十条はのんびり言うと、両手に抱いた茶碗の中を念入り過ぎるほど吹いた。昔から、日常生活は子供っぽい男を眺め、山岸は呟いた。
「……通報を受けた時、昔のことを思い出しましたよ」
ぴた、と十条は吹くのを止めた。ちらりともたげた目にじんわり浮かぶ色に、山岸ははたと気付いて首を振った。
「……これは失礼、気軽に話すことではありませんね」
「いいえ。僕も同じです。今回は何も無くて良かった」
やんわり微笑んだそこに有る、確かな傷み。
あの日の十条も同じ色の目で立っていた。
一般人にしてはかなり大人数が訪れた葬儀会場。黒を纏った見知らぬ男女でごった返している中、先程のようにぺこぺことお辞儀をする長躯が目に浮かぶ。
喪主も、亡くなった妻も両親を早くに亡くしているのもあり、親戚は数える程だったが、町会関係者や近隣住民、仕事仲間、仲の良かった常連客、実乃里の同級生の保護者、教員、友人知人――深くも浅くも大勢が、天井の高い広々としたホールに見劣りせぬ程度に押し寄せた。いざ始まってみると涙涙の式となり、山岸さえ熱いものが込み上げて仕方なかった。葬儀とは、誰しも深々と頭を下げ、気の毒そうな表情になるのは当たり前だが、喪主である十条が泣きながら歯を食い縛ったり、ぽろぽろ涙をこぼしながら挨拶したり、花を手向けて喉を詰まらせたりする度に、さして親しくもない参列者までハンカチを濡らす有様だった。
辣腕家の殺し屋が、妻子を一度に殺された事件だというのに。
真相を知っていれば涙より皮肉が零れそうだが、山岸は嗤う気にはなれなかった。
事件以降、十条が『
洒落たウォルナット製の床は半分以上にぬるりとした赤が染み込み、壁面にぶちまけられたそれや、扉にべたべたと擦られた痕が生々しい。可哀想に、現場検証に備えてか、妻子の遺体はそのままで、何か大きな刃物によって裂かれた体は山岸さえ胃の中身を吐き戻しそうになる無惨な死を晒していた。幼い実乃里は床にうつ伏せていて、小さな背は背骨が覗くのではと思うほどざっくり斬られており、戸口に伏せていた穂積に至っては赤黒く染まった衣服でどこをどう斬られたのかわからない。ちょうど担架で運ばれるところだったのは未春で、気を失っているらしく、目を閉じ、脱力した少年はほっそりした片足に縛られたタオルを真っ赤に染めたまま、遺体のように青白い顔で救急車に運ばれていった。
そういえば……凶器は鉈と聞いたが、何処にあるのだろう?
「……十条さん」
山岸が声を掛けると、義理の甥が搬送されるのをぼんやり見ていた男はのそりと振り向いた。いつもの半分は遅いスピードで山岸を認識したらしい十条は、今から自殺でもしようかという人間に似た、前後不覚の危うい目で苦笑した。
「……どうも、お世話になります」と、か細い挨拶が紡がれた。
「世話なんて……一体何があったんです?」
「僕は……」と、呟いてから、十条は微かに口を開けたまま静止した。その隙間からふわりと魂が出てしまいそうな顔をして、小さく首を振った。
「僕は……駄目な男でした。そういうことなんです」
変な答えを返した十条を、山岸は胡乱げに見つめた。ショックのあまり、おかしくなってしまったかと思わせるに十分な反応だったが、男は綺麗に磨かれたガラスめいた眼に、得体の知れない怪しい色を滲ませながら、未春が運ばれた方を見て言った。
「事件概要は今日中にまとめてお知らせします。背景は『ストック』によって決めますが……薬物中毒者の猟奇殺人になるかと。犯人は所持していた刃物による自殺にして、車ごと燃やします」
「燃やす……ですか?」
ついぞ行うことのない派手な処分をおうむ返しにした山岸に、十条はとろりと笑った。
「ええ。申し訳ありませんが、損傷がひどくて――」
損傷。
反射的に山岸は十条から目を逸らし、奥の床のおびただしい血を見た。穂積と実乃里の遺体はむごすぎるものだが、いずれも入口に近く、穂積に至っては玄関ドアにもたれるような姿勢で殆ど動いていない。未春が生きていたことから見て、部屋の奥にべったり染みた血は少なくとも彼だけのものではない。
さては――ひと一人から搾れるだけ搾ったような、おぞましき赤の持ち主は。
山岸が様子を窺うように顔を上げたとき、十条が変わらぬ様子でこちらを見ていた。赤をバックに、静かな笑みさえ浮かべている。この男は穏和であればあるほど、血生臭いすべてと直結し、見えない筈の狂暴性は凄みを増す。
「……焼却の手筈はどうなさるので?」
動揺を隠そうと尋ねた山岸に、十条はゆったりと答えた。
「ディックに適当な車を用意してもらっています。基地反対運動の行き過ぎた活動家が、フェンスに突っ込んだ体で処分します」
「なるほど。極右のヤク中ならば突拍子がなくても違和感は少ないですね……」
一も二もなく山岸は同意した。
F市の不特定多数の市民が、市の大半を占める米軍基地との関係で度々ピリピリしているのは言うまでもない。日頃から昼夜問わず戦闘機が飛行するだけでも友好が磨り減るものを、各地で墜落事故を起こしている輸送機の配備は拍車を掛けていた。最近は日の丸を掲げた車両こそ見かけなくなったが、基地に対する憤懣と政府への非難を旗に、高齢の男女を中心にぞろぞろと道路を練り歩く集団は今も有る光景だ。尤も、彼らの主張は何かにつけて反対表明をする政党の延長線上のようなもので、一般市民は既に在るフェンスと壁を漠とした不安を抱きつつ、おっとり眺めるくらいだった。
そんな中から――非常に稀に、基地に何らかの攻撃を実行する過激思想家が数年に一度、ぽつりと現れる。
「『ストック』の情報は後程。検死はこちらでやらせて下さい」
山岸はしかつめらしく頷いた。『ストック』とは、要するに“死んでもらう”人間の素性だ。殆どの人間はあらかじめ別の件で死亡済みで、記録上は行方不明や蒸発となっている。例えば、裏切りがばれて内々に殺された暴力団員、行き過ぎた取材によって口を封じられたフリー・ジャーナリスト、借金苦に人知れず自殺した者、ホームレスを続けた末に野垂れ死んだ者――云々。
十条は用意周到に何人かの情報をストックし、今回のような場合に代替として利用する。時に死体検案書が偽装されることもあるが、これだけ白昼堂々の凄惨な事件となれば下手な改竄はできない上、死んだ男が稀有な大男だった為、遺体をなるべく残さない処置が取られるのだろう。今後の常人や上司との打ち合わせをうすらぼんやり考えながら、山岸は黙々と作業に勤しむ清掃員らを見た。全員が帽子を目深にかぶってマスクをし、ゆったりした作業着の為に個人の判別が難しい。彼らは私語を発することもなく、ただ静かに現場の写真を撮り、一般の警察に見つかるとまずいものが無いか見回っている。現場に来るのは山岸のようなBGMの息が掛かった警官に限られるが、万が一ということがあっては面倒だ。血溜まりを念入りに見るスタッフに、十条は「犯人のものは髪の毛一本残さないようにお願いね」と、やんわり指示した。
「未春くんは……大丈夫なんですか?」
ほのぼのとした陽気に、死臭がだんだんと腐敗に変わる臭いを感じ、何か胸の内に芋虫が這うような堪らなさを感じつつ山岸は訊ねた。十条は清掃員に向いていた顔をくるりと戻して、事も無げに頷いた。
「大丈夫です。あれは“そういうもの”なので」
さらりとした答えは、小型家電がちょっと故障したような響きだった。
寄付やボランティアなどの人道支援に精力的な十条は、どうしたわけか義理の甥には冷たく思える。
いや――熱も無ければ、冷たくすらないのかもしれない。確かに未春は同年代の子供に比べて落ち着き過ぎているし、コミュニケーションに置いて、常にどこか上の空である気風だが、悪い印象ではなかった。
それはなべて、十条が彼をそういう風に育てたことになる。児童養護施設に居た未春に会うため何度も足を運んだり、既に穂積が身籠っていたにも関わらず、甥として引き取ったのだから、愛情が無いとは思えない。
『殺し屋にするため』だとしたら家族にする必要は全く無く、現在は十条が指揮を執る東京支部にも居住スペースは在るのだから、同居する意味もない。
彼らの琴線に触れそうで、長いこと訊ねていない疑問を胸に、山岸は言葉を選んだ。
「病院に行かなくて宜しいんですか。まだ未成年です……あの怪我では、目が覚めたとき心細い」
「そうだとしても、僕はあれの心の支えにはなりませんから」
十条の言葉は、鋭い刃物をきちんと揃えて置くようだった。置いてみて角度が気になったように、軽く小首を捻って付け加えた。
「ご心配なさらずとも、未春はすぐに完治します。後遺症も無いでしょう。むしろ、精神面は成長した筈。あの子にとっては、悪い機会ではなかった……」
淡々と言われて、返す言葉はもはや無かった。周囲では清掃員が黙々と床を眺めてうろつき、十条はぼんやりしながらも涙も流さずに指示をし、現場監督のように作業を見ている。背後でごうごうと騒がしい国道の音が、この場をなんとか現実に繋いでいるようだった。
「十条さんは、大丈夫ですか……? 顔色が悪い。調書など人に任せて、早くご家族を……」
そう言わねば自分も変になりそうだと思った山岸を、振り返った十条は慈悲深い聖人のように微笑んで見下ろした。
「ありがとうございます。僕は大丈夫です……僕も……“そういうもの”なので」
そういうもの、とは一体何なのか?
山岸は未だにその答えを聞けていない。
十条が単なる殺し屋ではないのは殺害現場に出会したことのない山岸も知っているが、血も涙もない殺人鬼とは違うと言い切れる。
十条との付き合いは、彼がまだ十代の頃だ。
当時、日本警察の汚職や、政治家の金銭問題に暴力団との繋がり、不安と恐怖を顔に相談者を被害者にしてしまう陳腐な体制、正義を語る組織の実態に若い憤りと失望を感じていた山岸は、どこからか伸びたBGMのスカウトに応じて間もなかった。悪を憎むあまり別の悪に協力するのは暴力団と手を結ぶ連中と何が違うのか――そう思いながら、十条の仕事の処理を頼まれたとき、山岸の世界は一変した。応対した少年の、ひょろりと背が高く、小春日和めいた穏やかで落ち着いた物腰に、こんな子供がと絶句し、初対面から魅了された。彼は間違いないと、心が騒いだ。
十条は間もなく、日本のBGM組織内もまるごと洗い直し、大部分の悪党を排斥した上で実権を握る。山岸は眩しい気持ちで、以前の東京支部の崩壊を眺めた。いわば、年の離れた主君の台頭を喜ぶ臣下に等しく、この男ならば腐った日本をどうにかできるのではと期待した。
実際、十条はうまいこと社会にのさばってきた悪を次々に葬った。暴力団も、高利貸しも、権力に狂った閣僚も、法の目を掻い潜る悪党も、事故や自殺を装ってはさくさくと始末した。やれ体面だの、やれ個人情報だの、下らないバリケードに足踏みする警察に比べ、惚れ惚れする手際のよさだった。
山岸にとってのBGMは、知らぬ間に平和を作る一団だった。
おまけに、この代表ときたら、殺し屋が嘘のように人の良い性格なのだ。
日常の揉め事はにこにこ笑って根気よく話して解決するし、プライベートはとんだ体たらくで、家事は壊滅的であり、洗濯機や炊飯器のひとつもまともに使えない。老若男女に惚れられる男だったが、初恋は二十代後半――国道16号沿いでケーキ屋を営む年上女性だった。この頃の十条も、よく切れる刃物の顔とは別に、若々しくて微笑ましく、好感が持てる雰囲気だった。彼女を射止めたくて抱えるほど買ったケーキを交番に持ってきては、茶を出してやった山岸の手前で恥ずかしそうに頬張っていた姿。プロポーズを受け入れてもらったと報告しに来たときの、紅潮してきらきらした目。娘が生まれたときの、笑い泣きしながら飛び上がって喜ぶ仕草。ボランティアや寄付を少しも傲らず、心から取り組む姿勢。
とても自然で、明け透けで、気取らず、眩しいほどの人間。
それが、十条十である筈だった。今も、そうであってほしい。そうでなくては、正義を盲信する余り、悪に魂を売った己もやりきれない。
「山岸さん」
十条は静かに微笑んだ。それは、出会った頃に惚れ惚れしたものとは異なるが、優しい顔だった。
「僕はこれから、大きな仕事をするつもりです。これまで通り、ご尽力頂ければ幸いなのですが……」
胸の内を読まれたような心地の山岸に、返す言葉はひとつしか無かった。
「勿論です」
そうだ。勿論やる。この男がやろうとする全てを、自分は信じ、進むと決めたのだ。
古い記憶から立ち返ると、十条はまだ茶を吹いていた。もう少しぬるくすれば良かったかな、と思いながら山岸はこっそり苦笑した。
ガラス越しの国道16号は、一般車も大型トラックもスピードに乗って疾走し、唸るような爆音高らかに突き抜けたバイクが、通りかかったカップルの会話を掻き消す。
この辺りも、色々と変わった。あまり変わらないように見える国道の激流が、様々なものを運んで来ては流していくように。ストリートのショップは閉店や空っぽの建物が目立つかと思えば、DOUBLE・CROSSのようにまるきり姿を変えた店、新たに出店した店も、古くから変わらない店も一列に並んでいる。
きっと、遊びに来ている人間の多くは、『F市通り魔殺人事件』などという、ひねりのないフレーズの事件をもう知るまい。仮に知っていても、静かなストリートの惨劇とか、ドラッグが母子を惨殺とか、炎に焼かれた悪魔などの安っぽい見出しで公表された事件の、ほんの触りしか知るまい。殺人事件や誘拐事件には箝口令や報道規制が付き物で、同じ警察でも管轄内で秘密裏に進められる。手柄云々のため、他所の身内が首を突っ込むのを嫌うというのもあるが、何よりも情報漏れを警戒していたからだ。地検に永田町、マスコミは敵に等しく、故意だろうが不手際だろうが、迂闊に漏らせば仲間内で殴り合いが生じるほどに厳しい。まともな人間は、殺人事件にごくシンプルな嫌悪感と憤りを覚え、行く宛のない虚しさや悲しみを抱くが、そこまでだ。殺しそのものに怒りと失望を感じ、『無差別』の響きに目眩のような落胆を覚え、恐怖して――そこまでだ。
ふと、十条が顔を上げた――瞬間、電話が鳴った。
「はい、横田交番――」
電話をとった山岸が、“声だけは”はきはきと応じて、丁寧に切った。
「聴こえましたか?」
甥同様、優れた聴覚を持つ男に尋ねると、茶を置いて頷いた。
「大体は。やれやれ……予想していましたけど、面倒ですね」
銃撃事件について詳しく話を聞きたい――本庁の警部からのお達しである。
「申し訳ありません。最近、頭角を現した猛者です――有能で、並の正義漢ではありません。今頃来るぐらいですから、本命は例の連続殺人の方でしょう」
「いえいえ、そういう警察が居るのは良いことじゃないですか。そういう人が多ければ、僕らの仕事も減りますから」
全くその通りなので、山岸は苦笑いを浮かべた。本来、警察組織は “そういう人”ばかりでなくてはおかしいのだが。
「私も同行致します。どうせアポイントなんぞ取らん連中です――すぐにやって来るでしょう。十条さんは店にお戻りください」
「はい。本庁の刑事さんですかあ……緊張しちゃうなあー。あっちの件に関しちゃ、僕は何も答えられませんけど、怒られませんよね?」
芸能人でもやって来るような口ぶりで笑いながら、十条はごちそうさま、と茶碗を置いた。
三時のおやつ、という時刻。
DOUBLE・CROSSのカフェに集まった顔触れは異様なものだった。
閉店中の手前、やや奥まった位置に二枚くっつけたテーブルを囲み、バラバラの椅子に男が五人。十条、ハルト、未春、山岸と、本庁の警部・
山岸も予想外だったようだが、警部は一人で現れた。
銃撃事件について話を聞きたい――用向きを伝えたすっきりした容貌の中、目だけが恐ろしく鋭い。同業者とは異なる鋭さだとハルトは思った。飾り気のないスーツやシャツは皺ひとつなく、背筋の伸びた姿勢は少しも崩れる気配がない。一筋縄ではいかないとわかる顔付きは決して若獅子ではない――百戦錬磨の強かな猛獣だ。この有り余るエネルギーのような男が正統派の正義に則るならば、悪党の身としては“厄介”という言葉に尽きる。
十条と末永が向かい合うように座り、その周囲にハルトと未春、山岸が鎮座した。
奇妙な会談の口火を切ったのは、十条のほのぼのとした声だった。
「本庁の警部さんて、もっと怖い顔の人かと思ってました」
鉄面皮に見えた末永は、思ったより穏やかに微笑した。
「いいえ、よく言われますよ。中身も含めて」
「じゃあ、僕も気を付けなくっちゃ」
お手柔らかに、と笑った十条は、こういう時は異様に頼もしい。倣うように一笑に伏した末永も同じ系統の人間のようだ。
「私は今日、私用で来ている身です。リラックスなさって下さい」
最初からリラックス全快の十条は、目尻を下げてにこりと笑った。
「そういうの、難しいって聞きますけど」
「と、仰有いますと」
「警部さんは、この事件の担当では無いのでしょう?私用で動くのは、色々あるんじゃないかな、と思って」
「ああ……シマのことですか?」
聞かれると思っていたのか、察しがいい末永に十条は笑顔のまま頷いた。
「警察は、管轄だの担当だのに敏感なものだと思っていました。小説だけですか?」
「いいえ。フィクションの表現は物によりますが、自分の庭に踏み込まれるのを嫌うのは何処でもあることです」
「では、警部さんはリスクを冒して、僕らに何を訊ねたいのでしょう?」
「私が気になるのは、十代の少女が銃撃という事件を起こすに至った経緯です」
――直球だな。
ハルトはそう思ったが、対峙している十条の顔付きは殆ど変わらない。
いや、居合わせた全員が、初めから何の変化も見せていない。綺麗な顔のわりに路傍の石のような未春は言うまでもなく、山岸は老獪な坊主のように素知らぬ顔で茶を啜り、ハルトは慣れた第三者面でぼんやり聞くふりをしていた。とてもじゃないが、銃撃事件などという日本では異質の話をしている光景ではなかった。そして、最も場違いな笑顔を絶やさない男は、鋭い眼光を前にちょっと首を捻った。
「それは、僕も知りたいですねえ」
至極まったりした返答に、末永はちらりと笑みを浮かべた。
「そうでしょうね」
「銃の入手経路はわかっていないんでしょう?」
十条の視線は、末永と山岸の両方にふんわりと注がれた。山岸は素か演技なのか、窺うような顔付きで末永を見てから首を縦に、末永も静かに頷いた。
「犯人のポストに投函されていたとしか。指紋は出ていませんし、靴痕の靴は特定できましたが、何万足と販売されているもので手掛かりにはなりません。暴力団とも基地とも無縁、全くノーマークの拳銃でした」
報道されているのと同じ内容をすらすら述べた末永に、十条は頷いた。
「日本もいよいよ物騒ですね」
言葉のわりに穏やかな十条に、末永は鋭い目付きのまま、全くです、と同意した。
「御社に、犯人から恨まれるような心当たりは無いですか?」
「ありませんね。……というか、犯人はウチを恨んでいたんですか?」
「……調書の上では」
やや苦い口調で末永は言った。
――引っ掛けか。ハルトは顔にも口にも出さずに思った。この警部、真面目一辺倒に見えてかなりの曲者かもしれない。ソフィア・タチバナの犯行は、未成年ゆえに名前を含め、正確な動機については報じられていない――のが、表向きだ。実際、ソフィアはハルトについて滅茶苦茶に供述しているが、述べた内容は遮断され、外部には漏れていないのが、真実。仮にBGMと無関係の警察の前で「あいつは殺し屋だ」とソフィアが叫んだところで、ハルトの経歴は完璧に隠蔽――別のものに上書きされているし、犯罪歴など海外にも日本にも存在しない為、疑っても引っ張りようがない。
そもそも、ソフィア自身が圧倒的に不利なのだ。事件後、ハルトに明かされた父の事実を母に確認したところ、麻薬中毒だったことや、夫婦仲が絶望的だったこと、それらを母が娘の為を思って伏せていたことを直に知らされている。また、父親の方は不倫に始まり、麻薬所持に重度の使用歴と密売、職場や公共の場での暴力沙汰、事故、公務執行妨害等々、警察の世話になること幾数回――調べるほど垢のように出た粗が、父親の為に復讐を考えた娘にどう映ったかは想像に難くない。少なくとも、父親が麻薬に狂っていたと知らなかった少女の戦意が、狭い取調室でどれだけ保ったろう。想像するだけ気の毒だと思っていたハルトは、ソフィアが早々と更生施設たる “学園”に送られてほっとしたくらいだった。
つまり、「ソフィアがDOUBLE・CROSSを恨んでいる」という調書は存在のしようがない。無論、マスコミはお得意の“民衆を代弁”と言わんばかりの下品な妄想は山ほど吐いているが、DOUBLE・CROSSにとって不利な報道はほぼ皆無だ。
何より、代表である十条が人並み以上の人徳者であること、地域の評判も良いこと、十年前に妻子を理不尽に殺されていること云々、同情こそあれ、非難される様子は全く無かった。尚、ソフィアの来店が初めてであったことも含め、「恨まれる」などという表現は出る筈がなく、ネット上のトラブルまで洗ったところでまっさらだろう。
末永の挑発を十条はどう思ったのか。
まるで窺い知ることのできない笑顔で首を捻った。
「僕らは調書とやらの中身は存じ上げませんが――恨まれるような商売はしていませんから、どうにも心当たりがありません。あ……勿論、お客様とのトラブルが無いとは言えませんよ。ですが、発砲をされるほどのことはさすがに……唐突な凶行に、皆で困惑しているところです」
それ以上言うこともないだろう当たり障りのない解答に、若い警部は生真面目な顔で頷いた。
「日本の一般的な生活で、発砲される心当たりはまず有りませんからね。従業員の――野々さんと未春さんは、さぞ驚かれたでしょう」
ふわりと話を振られて、ハルトは曖昧な苦笑を浮かべ、十条が居るためか名前で呼ばれた未春は無言で頷いた。既にそっくり調べられている為に同席したものの、この手の警察官とはなるべく関わりたくはない。
「お二人は何かスポーツでもやっていらっしゃるのですか?」
スポーツ?意外な問い掛けにハルトは虚を突かれて一瞬遅れたが、先に未春が首を振っていた。
「たまに走るくらいです」
「同じく」
「そうですか。犯人が合計5発撃っているのにお怪我も無かったので、何かなさっているのかと思いました」
腑に落ちない顔付きをしてから、末永は場を繕うように微笑んだ。
「きっとお若いからでしょう。うちの部下にも見習わせたいです。拳銃を持った相手に対して、高校生のスタッフさんを庇い、怪我もなく制圧できるのは簡単なことではありませんから」
――どうやら、見掛けよりも大胆な男のようだ。5発というのも、ソフィアが基地内でハルトを狙った際の2発が含まれており、店で撃ったのは3発しかない。つまり、先の2発は公的には使途不明の弾丸であり、ソフィアがハルトを狙ったことを吐いていたとしても、世間には知られていない出来事だ。切り込み方がいちいち鋭く、嫌なところを突いてくる。ハルトは困ったような笑みに切り替え、肩をすくめた。
「驚いて、勝手に動いたようなものですよ。相手の恰好が女子高生でしたから、少し冷静になれたのかもしれません」
「なるほど。確かに年下の女性なら、武器を除けば成人男性二人の方が優位ですからね。拳銃は怖いと思いませんでしたか?」
ちらり、未春と見交わすと、ハルトは首を振った。
「正直言うと、あんまり……」
ぼやいた隣で、未春が無言で首を縦に振る。末永は不謹慎を咎める教師のようにちょっと眉をひそめた。
「何故と伺っても?」
「怖くなかったとは言いませんけど、まあ……なんというか……実感が湧かないというか。俺たちにとって拳銃なんてものは、映画とかゲームの世界のものですから」
「野々さんは、最近までアメリカに滞在していたと伺っていますが、拳銃は非日常的だったのですか?」
――よく調べてるな。ハルトは軽く首を傾げた。
「銃犯罪はよく報道されますけど、あまり近くはなかったです。知り合いが撃たれたことはありませんし、皆が皆、持って歩いてるわけじゃないですし。やっぱり日常的に所持しているのは警察官とゴロツキくらいですよ。護身用に家に置いてるとか、狩りの季節だけ使う猟銃なんかを飾ってるのは見ましたけど」
真実プラス嘘八百のハルトの述懐に末永は合意するように頷いて、未春に向き直った。
「未春さんは如何ですか?」
「俺は、怖さがよくわかっていないだけです」
未春が迷いなく端的に述べると、何事も嘘偽り無いように聴こえる。十条とは異なる意味で真意が読み取れないアンバーの瞳を、末永は静かに見つめた。
「撃たれたら死ぬ、とは思いませんでしたか」
「それはわかりますが、どのくらい痛いのかとか、そういうことはわかりません」
ばか正直な解答に、ハルトは吹き出してしまいそうになるのを堪えた。撃たれた経験無くしては全くその通りだが、痛い云々の問題ではない。イメージだけでも、ほぼ全ての一般人は致死率の高さを理解している筈だ。一発で死ぬ場合もあるが、死ななくても肉を穿ち、骨は砕かれ、当たった場所によっては目玉が吹き飛び、指や耳は削げる。内臓ならばぐしゃぐしゃに潰れるし、半身不随になることも、脳に影響することもある。単に血が出る程度で済むのはフィクションだけ。無論、大げさな表現もあるが、末永がしているのは現実の恐怖の話だ。
「想像の範囲外だったから、恐怖に至らずに対処できたということでしょうか」
「そう思います」
深く考えない単細胞だと自認するも同然だが、あっさり頷いた未春に、末永が返す言葉は無かったようだ。なるほど、と宇宙人の意見でも聞いたような思案顔になる。
ハルトは一般ピープルを装い、未春は思慮の浅さをそのまま表明したわけだが、どちらもまあまあ難のない出来映えだった。怪しいと思う方がどうかしている程度には、並の反応だろう。
「頼りになるスタッフさん達ですね」
末永の切り替えに、十条は優しいオーナーの顔を崩さない。
「ええ、ガードマンじゃあありませんが、どちらも頼りになる良い子ですよ。走るくらい、と謙遜してますが、二人とも運動神経は良い方です。甥っ子は10年前の事件後に、基地の知り合いから近接格闘術を習ったことがありますし、ハルちゃんはよく筋トレしてます」
捕捉はいいが、“ハルちゃん”はやめろ。幸い、末永はあだ名には頓着せずに頷いた。
「だいぶ合点がいきました。こちらのお二人にも、恨まれる心当たりは無さそうですね」
「ええ。僕が思うに、本当に恨みがあるとしたら……脅迫文なんかが先なんじゃないかなあと思います。それとも、最近の若い人はいきなり発砲するくらいのことは普通でしょうか?」
「仰有る通り、犯罪に順序があるならば、警告や兆候を見せてから強行策に出ると私も思います。しかし、昨今、このプロセスを飛び越える犯罪が増加傾向にあるのも事実です。突発的に犯行に及ぶこともありますし、誰の目にも触れずに計画を企てることも、他者への関心が低いが為に周囲が気付かないこともあります。理解に苦しみますが……被害者との接点がまるで無いこと、たった一度すれ違ったのみや、SNS上にしか無いこともあるのが現状です」
明朗とした末永の解説に、演技か本心か、十条は物悲しげに俯いた。
「僕の家族も、突然の凶行で命を落としました。……こういうことは、未然に防ぎ難いとわかりますが……防げたらと願ってやみません」
「心から同意致します」
思慮深そうに頭を垂れた警部は、傍目には嘘を吐いているようには見えなかった。
誠実。実直。清廉――それらしい言葉を幾つか思い浮かべて、ハルトは凡庸な顔つきを装いながら、末永を観察した。警察官という職務はその性質上、人を疑いの目で見なければならず、どうしても何処かに歪みが生じる筈だが、この男にはそれが無い。同じ警察官でも、強行犯係の刑事は扱う事案が血生臭く、ひとたび事件となれば昼夜問わず働き、逮捕したらしたで気違い或いはだんまりを決め込む貝と幾度となく対峙せねばならなくなる。
正義感のみで走れる時期などたかが知れているし、同じ司法の下にあるといっても、体面や権威の琴線に触れれば内部で揉め、地検やら弁護士やらとの摩擦で互いに擦りきれるのだから、何かしら捻れなければむしろどうかしている。ところがこの末永という男は、歪みとは無縁の杉のように真っ直ぐ伸びた人間らしい。まるで、子供の頃から迷うことなく正道に向かって成長し続けたような面構えで、締まった容貌に、アルコールや煙草の煙ひと筋さえ見えないのがかえって不気味な気もした。
リッキーのヒーローはこういう奴なんじゃないかな、と思った。
ハルトからすれば、日本の正義に行き詰まりを感じ、BGMに協力している山岸などは遥かに人間らしく、いっそ真っ当に見える。不気味といえば、その末永と対面している十条も同様で、ある筈の警戒心がちらとも覗かない。いま引き金を引いたらあっさり殺せるのではと思えるほど隙だらけなのだが、気付いたら喉元裂かれる予感もする。刃など無くても切れそうな男と、隠した刃が見えない男。
得体の知れないもの同士。
「……そういえば、警部さんは10年前の事件をご存じなんですね」
思い出したように、十条はやんわり言った。
「はい。私はまだ新米で、何もできませんでしたが……弔問に伺いました」
10年前に? ――引っ掛けか真実か――ハルトは十条を見たが、その表情には何の変化もなかった。
「それはそれは、ありがとうございました」
彼は「ほんのお悔やみのつもりで」と言ったが、十条はどこまでが本気かわからない、しかし、どう見ても人の好い笑顔で受け止めた。
「弔問にお名前は無かったと思っていましたが、警察としていらして下さった方のお一人でしたか」
「ええ……いえ、事件を防ぐことができない身の上の、言い訳のようなものです」
警備が仕事ではない警察にしては、なかなか手厳しい持論だ。特に、事前に兆候の無い事件は防衛策の立てようがなく、周囲にそれと気付かれずに突発的な犯行に及ぶケースは責任を感じるだけ無為と言える。担当も違えば、そもそも首を突っ込むこともできまい。
「貴方のような方が警察にいらっしゃるのは心強いですね」
殺し屋から見れば世辞か嫌味かわからないセリフを穏やかに言うと、十条はちょっと腕時計を確認した。
「さて……まだ少し時間があります。大したお話もできずに恐縮ですが……他に何かございますか」
十条の取り成しに、では最後にと末永は温度の低そうな唇を開いた。
「10年前の事件の話ですが、宜しいですか」
今回の件ではないことに違和感のある問いだったが、十条は「どうぞ」と穏やかに促した。
「当時……未春さんは現場に居合わせ、重傷を負われたと聞いています」
急に話を振られた未春は、特に驚いた様子もなく頷いた。
「貴方の怪我は、犯人と正面から対峙したのを示していますが、どうやって助かったのか、気になっていました。ぜひ、お聞きしたい」
「覚えていません」
未春の声は、前もって録音したような響きだった。
「それは、ショックで忘れてしまったということですか?」
「いいえ」
落ち着き払った様子で首を振る。
「あの時から、記憶にないです。正直、犯人と向かい合ったのかもよくわかりません」
「貴方が犯人から受けた傷は、脚に向けて、正面から深く斬り付けられた物と記録されています。亡くなられたお二人を守ろうとなさったのでは?」
「……わかりません。覚えていません」
最後の声だけ、ほんの少し頼りなげに響いたが、それを指摘する者はなかった。末永も深入りせず「そうですか」と軽く頷くと、立ち上がって規律正しい礼をした。
「ありがとうございました。無理な申し出にお時間を取って頂き、感謝します」
「いえいえ。あまり参考にならなくてすみません」
十条も立って頭を下げると、末永の表情はふっと和らいだ。
――ひどく鋭い視線を覗いて。
「とんでもない。非常に有意義なお話をして頂きました。失礼致します」
「どう思う?」
警察二人を見送って、十条は言った。
未春がさっさと茶器を片付けに行ってしまった為、ハルトは末永と山岸が去った方を振り返って答えた。
「完璧、マークされてますね」
「だよね」
「俺の不手際は謝りますが……あれ、10年前から気にし続けてるやつですか」
「そのとおり。ハルちゃんが責任感じることはないよ。僕は10年前の参列者は皆チェックしているから、彼が弔問に来たのは知っていた。直接話したのは初めてだけど、思った以上に頭も良いし、勘も鋭いね。出世したのも頷ける」
「てことは、訪問を予想していたんですか?」
「五分五分。10年経っても全然変わってないから驚いたってカンジ。未だに浮いた話も無しで、職務一本、正義一筋だそうだ。ばりばりのエリートだけど気取ってなくて、剣道は五段の腕前。正統派の武士みたいだよね。見た目も良いし、人当たりも悪くない。意外とああいうオールマイティーな人は警察に居ないから、個人的には好きなタイプなんだけど」
「余裕ですね……たぶん、結構調べてますよ。ジョンに俺の記録のセキュリティ、見直してもらった方がいいんじゃないですか」
「大丈夫だよ。紙媒体は処分済みだし、データは厳重ロックの上、“ある記録”と一緒になってるから。閲覧しようとすれば彼が不正アクセスで捕まるから、まず不可能だ。やるなら彼は警察という職務を放棄しなければならないけど、それじゃ本末転倒でしょ?」
「じゃあ……注意が要るのは仕事の方ですね。警察の尾行付きでやるのは嫌ですよ」
「その辺りは山岸さんが手を回すと思うけど、未春もハルちゃんも程々に行動しよう。あの警部さんは泳がせるのも上手そうだし、全く動かないのも目につくから。……ま、焦らずいこうよ。実直な警察を減らしたくはないからさ」
不穏な一言を洩らして、十条はあくびをしながら二階に消えた。ハルトはテーブルを拭いてから、茶器を洗っている未春に近付いて苦笑いを浮かべた。
「お前がアホなこと言うから笑いそうになったぞ」
「アホなこと?」
「撃たれたらどんだけ痛いかわからんてヤツ」
ああ、と未春はステンレス籠に濡れた茶碗を置いて、どこか上の空で頷いた。
「本当にわからない」
「お前、脚ざっくり斬られたんだろ」
「よく覚えてない」
どうやら末永に言ったことは本当らしい。
「それに、刃物と拳銃は違うと思う。ハルちゃんはあるの?」
「9ミリパラを防弾チョッキの上から貰ったことはある」
「どんな感じ?」
「そう言われてもな……撃たれる以外になんか表現あんのか――……レスラーに尖ったハンマーで勢いよくぶん殴られたら……とか? そっちをされたことないからわからんが、俺は後ろに飛んで、暫く息止まった」
「痛そうだね」
「そりゃあ、防弾チョッキなんて弾の貫通防ぐだけだからな。衝撃吸収なんかしないから、悪けりゃ骨折するし、隙間から弾丸入って死ぬこともある」
「隙間……ああ、そういえば防弾チョッキってなんで上だけなの?」
「ああー……下は有るには有るが、あのパンツが最悪だからじゃないか。蒸れるし、動き辛いし……どっかの軍隊が装備してから、不快になって脱いだ話も聞いたことある。基本的に致命傷になるのは上半身だから、下狙う奴ってのもあんまり居ないしな。ほら、銃相手に『伏せろ』ってよく言うだろ?あれは下に撃ちづらいからだ」
へえ、と未春は気の無い相槌を打つと、茶托を乾拭きしてから、静かに片付けた。その一連を眺めて、初めてハルトは未春の動作が遅いことに気付いた。いつものてきぱきした様子はなく、ひとつひとつ確認しながら行っている感じだった。
「どうかしたか?」
戸棚の前で立ち尽くした横顔に訊ねると、未春は振り向いたが、すぐに言葉は出なかった。国道を走るエンジン音が鈍く唸り、重トラックが空気と路面を轟かせる。
「ハルちゃん」
「なんだ」
「明日、遊びに行かない?」
ハルトは目を瞬かせ、今日一番の間抜けな声を発した。
「…………は?」
ハルトらが警察の訪問を受けていた頃。
倉子は「湖口」と表札の掛かった家の前に居た。瑠々子の自宅である。
深入りしないように、という殺し屋のアドバイスに、電話やメール、SNSで呼び掛けた倉子だったが、未だに反応のない瑠々子は学校にも来ていない。
返事がないことに業を煮やしたといえばそうなのだが、相談した担任教師の態度が何より倉子の癪に障った。
「ああ、湖口……欠席長いな。あまり休むと卒業に響くからなあ。空井が行ってくれるなら、課題のプリントと……補習の日程教えてやってくれ」
――あんたは様子見に行かないわけ?
出そうになる言葉を胸の煮え立つ釜に放り込み、倉子はどさっと置かれたプリントを持ち上げて早々に職員室を失敬した。教師が忙しいのは百も承知だ。先程も視界の端で、別の教員が鳴りやまぬ電話の対応に追われていた。どの机にもプリントがどっさり乗っているし、パソコンは全て稼働中。普段の業務だけでも手一杯なのに、生徒が銃殺される事件なぞ起きては、猫の手も借りたいほど忙しいに違いない。校舎周りには今もマスコミと思しき連中がうろうろしているし、しつこい取材で生徒とトラブルになったことも何度かある。
――でも、それでも、ひと言ぐらい……――
ふうっと、溜息にしては勢いのある息を吐いて、倉子は瑠々子の自宅までやって来た。
夕方の住宅地に妙なところはなかった。時折、自転車が通ったり、犬の散歩に行く人とすれ違いながら様子を伺い、一度は家の前を通り過ぎた。
瑠々子の両親とは顔見知りではない。ハルトに言った通り、それほど親しい友達でもない。知らない家を訪ねる緊張感を胸に、チャイムを押す。誰も出なかったら……プリントはポストに入れておけばいいが、それでは訪ねた意味がない気もした。
〈はい〉
インターフォンからくぐもって聞こえた女性の声に、倉子は見えぬ相手に大急ぎでしゃちほこばった。
「あ、あの……あた、私、瑠々子……さんの同級生で、空井っていいます。先生から預かったプリントを、持ってきたんですけど……」
〈あら! はい、ちょっと待ってくださいね〉
かたかた、と何かが動く音がした後、割合すぐにドアが開いた。出てきた人物は、言うまでもなく瑠々子の母だろうが、倉子は少々面食らった。顔は少し似た印象があるが、ぽちゃっと小柄な体型は、すらっとした瑠々子とは似ていない。
「あら、あら……ありがとう。あなたが倉子ちゃん……さ、どうぞどうぞ」
思わぬ歓待ぶりに挙動不審になりながら、手招かれるドアの先に倉子は踏み入った。玄関を見ただけで、きちんとしている家だと思った。ほのぼのとした明るい光を受ける白い壁とメープル色のフローリング。同じメープル色の靴箱の上には、束ねたドライフラワーを挿した花瓶、倉子の母も置いていた洒落たパッケージの消臭剤がある。瑠々子の母は玄関先に膝を折り、人の良さそうな眉を下げ気味に微笑んだ。
「ごめんなさいね、家まで来てもらっちゃって」
「あの……あ、私のこと、知ってるんですか?」
プリントを差し出すのも忘れて倉子が尋ねると、瑠々子の母は当然とでもいうように頷いた。
「ええ。あの子が名前を出す、数少ないお友達だもの」
友達……。
その言葉に、倉子は少し気後れした。――あたし、ちゃんとした友達でもないし、最近は無視されてるんですけど、などとは言えない。
「瑠々子……さん、どうしてますか?」
「それがねえ……あの子、例の事件の辺りから、部屋に引っ込んじゃってるのよ。何かまた嫌な事があったみたいなんだけど、話してくれなくって」
「そうですか……」
この穏やかだが呑気そうな母親は、どのくらい瑠々子を知っているのだろう。自分よりは知っていてもらわねば困るのだが、瑠々子が喋らないのでは難しいかもしれない。
「……声を掛けに行ってみてもいいですか?」
倉子の申し出に、母親は一瞬きょとんとしたが、一も二も無く頷いた。すかさず揃えられたスリッパを履いて、小さな背に伴われるままに二階へ上がった。
「瑠々子、起きてる? 倉子ちゃんが来てくれたわよ」
決して高圧的ではない声で母親が声を掛けるが、扉の向こうに気配は無かった。何度か呼び掛けたところで、母親は申し訳なさそうに様子を見ていた倉子に振り向いた。
「ごめんなさいねえ……寝てるのかも」
「……少し、待ってみていいですか。ご迷惑じゃなければ、此処で」
廊下で待たせるなんて悪いわ、と本当にそう思っているだけらしい母親を何とか言い含め、それならお茶を準備するからと母親が階下に降りたところで、倉子は溜息を吐いた。
「瑠々子、あんたホントに寝てんの?」
無反応のドアに鼻を鳴らし、倉子は「失礼するわね」と廊下に座り込み、スカートの裾を直してからドアの真横にもたれた。
「寝てたら夢で聞いてくんない? 瑠々子、あたしね――今でもあんたのこと、面倒臭いヤツって思ってんの」
その一言を、瑠々子は聞いていた。ベッドに潜り込んだまま、布団をぎゅっと押さえて縮こまった。……なんでママは家に上げたんだろう。さっさと追っ払ってほしい――そうだ、イヤホンでもしてしまえば……そう思って手を伸ばすと、倉子の声がまた響く。
「どうせ、あたしからも逃げようとして耳塞ぐか音楽聴いてんでしょ。もーちょい聞きなさいよ」
勘の鋭い倉子は、思わず硬直した瑠々子に尚も話し掛けた。
「あたしはあんたのパンツ見えそうなスカートも、キラキラしたコスメも、読んでる雑誌も、ウジウジした感じもソリが合わないと思ってるし、SNSの盛りすぎ写真も、絵具かけたみたいなパンケーキ写真も超ニガテ。でもね、あんたがいじめられるのは嫌なの」
瑠々子は胸がちくりとした。傷ついたからではない。倉子は更に続けた。
「あんたが学校に出てこないのも嫌なの。あんたがそうやって殻に篭るのも嫌。矛盾するけど、あんたがこだわってること、全部やめられるのは嫌なの。……ねえ、瑠々子。あんたの好きって気持ちはそんなもんなの? あたしね、ニガテだけど感心はしてんのよ。あんたが上手にメイクすんのも、どっかから可愛いもの集めてくるとこも。陰口なんかでやめていいの?」
やめてよ。ほっといてよ。瑠々子はいっそう、ぎゅっと身を縮めた。消えてしまいたい。
私は倉子とは違うの。そんなふうに強くなれない。頑張れって言われたって無理よ。大体、なんで私は頑張らなくちゃいけないの?他の子は良くて、なんで私ばっかり目の敵にされなくちゃいけないのよ。
「瑠々子、負けたらダメよ。本気出しなさいよ。――あたしが、あんたが追っ払えないものを何とかしてあげるから」
え?
今、倉子――なんて……
「友達になろうよ」
倉子の声がはっきり聴こえて、瑠々子は布団の中から顔を上げた。
「……あたし、これまでさ、なんていうのかな、どっかで線引きしてたんだと思う。安全ラインみたいにギリギリ茅の外に居て、イイ人面してただけだった。それじゃ、あたしが嫌いな連中と変わんないよね」
だからって、面倒って思ってる倉子が無理することはないでしょ?瑠々子は思った。
皆そうだもの。私が面倒臭くて“イタイ子”だから嫌いなんでしょ?
なんでわざわざ友達になるのよ?
「なんであたしがこんなこと言うか、変に思ってんでしょ……これはさあ、仕方ないのよ。だって、あたしが気付いちゃったんだもん。あんたが辛くて、寂しがってること。まあ……ハルちゃん見ててイラッとしたのもあるんだけど……」
ハルちゃん?――どこかで聞いた気がする名前だが、瑠々子は咄嗟に思い出せなかった。
倉子は構わず続けた。
「高校の友達なんて、一生仲良いとは限んないじゃん。あんた、あと一年ちょっとぐらい、諦めてあたしの友達になんなさいよ。あたしホントに、あんたが好きなもの……今んとこ全然キョーミないけど――」
「私だって無いよおっ……!」
バン!と扉を開けて、瑠々子は叫んだ。その格好は、いつもの彼女なら絶対に見せないだろう――灰色のスウェットの上下に、髪は巻かずにぼさぼさ、いつものばっちりメイクからは想像もつかない、クマと涙も滲んだすっぴんだ。
「る、瑠々子……」
さすがに気圧されて、座り込んだまま目を丸くしている倉子に、瑠々子は尚も畳みかけた。
「私だって、倉子の趣味なんてぜんっぜんキョーミない! 倉子が可愛い可愛い言うトカゲなんて超ブキミだし……! 動物くっついてるポーチもペンもお子様みたいだし……! ツバメの巣とか野良猫見つけて興奮するのとか、意味わかんないし……!」
久しぶりの大声と共に、涙がぽろぽろ出てきた。倉子は立ち上がった。しゃくり上げる瑠々子の頬にハンカチを押し当てる。
「言ってくれんじゃん。あたしの高尚な趣味にケチつけるなんて」
にまにま笑いながら涙を拭ってやると、瑠々子は同じような笑みを浮かべ、赤い目で灰色の動物が満面に描かれたハンカチをじろりと見た。
「……そーよ、自覚ないの? コレもだっさい……何よこれ」
「サイよ。知らないの? 生物で最高レベルの天然鎧の持ち主よ。肉食獣の牙だって簡単に通んない――」
「やめてよ、聞きたくない! もう高校生でしょ、そんな小学生みたいなのやめて、ポール&ジョーの猫とかにしなさいよ」
「うっわ出た出た、あんたねえ、そんなこと言うとそのカッコ、写真撮ってみーちゃんに見せちゃうよ!」
「ちょ、ちょっと! 絶対やめて! 卑怯もの!」
慌てて部屋に引っ込んだ瑠々子に、倉子がスマートフォンをかざしてニヤニヤしていると、階段からそろりと声がした。
「ねえ、二人とも……大丈夫? お茶淹れたわよ。お菓子と一緒にいかが?」
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