9.Two persons.

――未春……!未春……!――


誰かが呼んでる。

真っ赤な闇を見つめながら、未春は我に返った。血溜まりに伏した穂積と実乃里に手を伸ばそうとすると、誰かは声を張り上げた。


――未春……!目を覚まして!


悲痛な声に、未春は振り向いた。この声、知ってる。目を覚ませと言っている。

起きなくては。起きなくては、起きなくては……起きろ。起きろ。起きろ。


「未春……!」

深い闇から目を覚ましたとき、真っ先に飛び込んできたのは、痩せているのに浮腫んだ顔のさららだった。病院のベッドの上に身を乗りだしたその目は、赤く滲み、瞼は腫れ、目尻や唇は急に老け込んでしまったようにくすんでいる。しばらくぶりに感じる光や音に慣れず、朦朧とした視界の中で、未春は返事の代わりに眉を寄せた。ひどく眩しく感じたが、そうでもないことに気付くまで数分を要した。

目が慣れてくると、ようやく体の節々が痛んだり痺れていることに気が付き、部屋の空気が生暖かいと思った。

「未春……私がわかる?」

不安を満面に覗き込んでくるさららに、まずは返事をしなければと未春は小さく頷いた。顎が1㎝程度動いたかどうかのものだったが、さららは胸を撫で下ろして微笑んでくれた。

「ああ……ああ……良かった……未春だけでも……」

言い掛けた言葉をえづくように呑み込み、さららはぐしょ濡れのハンカチで涙目を拭いながら椅子に腰を下ろした。未春は起き上がりたかったが、あちこちに繋がった点滴のチューブは元より、片足が鋭く痛み、動かすのは躊躇われた。

「安心して。傷は縫合が済んでいるし、感染症も無かったそうよ。大人しくしていれば、ちゃんと良くなるって」

さららは本当の弟に話し掛けるように言うと、布団を直しながら、穏やかな目で微笑んだ。

「……さらら、さん……」

局所麻酔の筈だが、唇の感覚は鈍く、声は掠れた。小さな声を聞き逃すまいと、さららが身を乗り出す。

「どうしたの? 何か欲しい?」

「……いえ……、ふたりは……穂積さ、と……実乃里ちゃ、は……」

「…………」

仰いだ顔が瞬時に悲痛に歪むのを見て、未春は理解した。

そうか。

やはり、二人は死んだのか。自分だけ……生き残ったのか。

さららによると、あれから丸三日眠っていたらしい。二人の葬儀も既に済んだという。

「十条さんは……?」

緩やかに戻ってくる感覚で尋ねると、さららの表情は再び揺れた。別の切なさに俯いて、肩をすぼめるように着席する。

「トオルさんは……無事よ。怪我もしていないわ……」

そうだろうと思っていた為、未春は驚かなかった。

血溜りに立っていた十条の背は、夢ではなかったようだ。しかし、その前後は黒く塗り潰されたように何も思い出せない。穂積や実乃里に危害が加えられる瞬間も見ていない気がする。何故自分は脚に傷を負い、どうした経緯で実乃里がその上に倒れていたのかも、全く思い出せなかった。

「……未春、自分を責めちゃ駄目よ。貴方はなんにも悪くない……!」

気遣うさららの声に、未春は心が波打つ気がした。悪くない、という響きの中に、ざわざわするものが蠢いているが、正体がわからない。代わりに、あの背中を思い出していた。

――……何て言うかな。

此処に居ないことに、何となくほっとしていた。あの人懐こい顔で笑われるのも、笑っていない目を向けられるのも、なんだか嫌だった。

「未春……穂積さんのお店……壊しちゃうんだって……」

思い詰めていたらしく、さららが喉を詰まらせるのに、未春は顔を上げた。その悲しい顔を見ていると手や胸がじくじくと痛む気がしたが、何と声を掛ければいいのかわからなかった。

「十条さんが、壊すことにしたんですか?」

唐突にはっきり喋りだした少年に、さららは少し驚いた顔になってから頷いた。

「ごめん、未春……無理しないで。今は休まなくちゃ」

「平気です。それなら、さららさんの方が、休んだ方がいい顔です」

「私は……平気。あなたと話していた方が落ち着くから……」

「それなら、話して下さい。家も壊してるんですか?」

「うん……お店と二世帯だったでしょう? お葬式の前から、解体工事してるの……」

急に自宅の解体を聞かされたが、未春は動揺しなかった。まるで、証拠隠滅だ。

あの人は、何もかも無かったことにする気だろうか?

「それじゃ、十条さんは何処に?」

「トオルさんは……私と同じアパートの別の部屋。お店の裏だから便利だって……あ、安心して。あなたの私物は私が持ってるわ」

……ということは、もろとも捨てる気だったのか。

尤も、未春も持ち物には執着していない。私物らしいもの自体、さららが短期間に持ち帰れる程度しか無いし、当面、必要なものもない。

「十条さん、これからどうするか言ってましたか?」

「……建て直すって言っていたけど、他には何も……その準備や手配で忙しそうで……」

もともと赤の他人であるさららには聞きづらいのだろう。未春からすれば、穂積と実乃里が去った今、さららほど十条を理解している人物は居ないと思えるが、周囲にどう映るかは考えものだ。さららによれば、十条は葬儀でもさららを親族並に扱い、穂積の縁戚を驚かせたという。未春の想像の範疇では具体的なことは浮かばなかったが、十条自身が孤児であるため、珍奇な目で見られたことは理解できた。尤も、十条は完璧に喪主を務め、涙ながらの挨拶は親族は勿論、参列者さえも泣けて仕方なかったらしい。

「この後、訪ねてみるつもり……何か伝えることはある?」

「いいえ。必要なことは連絡してくる筈なので」

大怪我をしている少年にしては素っ気ない回答に、さららは寂しそうに笑って頷いた。

「……あ、そういえば……先生に断ったら、調子が良ければ食べてもいいって言われたんだけど……」

言いながら、さららは自信無さげに傍らに置いていた袋から、覗き窓のついた小さな紙袋を取り出した。透明フィルムの向こうに見えるのは、二つのリング状のお菓子――糖衣とチョコにくるまれたドーナッツだ。

「一人で居ると手持無沙汰で……沢山作っちゃったのを持ってきちゃった。よく考えたら、怪我人に勧めるものじゃないわね」

今気付いたと恥ずかしそうに苦笑いを浮かべたさららの早口は、陽気な声に反して寂しく聴こえた。にこりともせずに、ドーナッツとさららの顔をじいっと見ていた未春は、口を開いた。

「下さい」

「え、でも……無理しなくていいわよ? 明日でも大丈夫だし……」

「無理じゃありません。下さい」

有無を言わさぬ声音に、さららは迷いつつ、几帳面に除菌シートで手を拭ってからドーナッツを摘まんだ。

「……どっちにする?」

「どっちでもいいです。両方食べます」

もはや、未春の声は完全に通常運転に戻っていた。躊躇いながらも、さららが小さく千切ってくれる甘い菓子を食べて、少年は無表情に頷いた。イースト生地タイプのドーナッツは、油脂と砂糖を纏うだけで懐かしい香りがした。

「美味しいです」

少し笑ったように見えた少年の顔を見て、寂しそうなパティシエは顔を赤くして笑った。

「穂積さんみたいに、できればいいんだけど……」

「ドーナッツはさららさんの方が美味しいです」

「……気を遣わなくてもいいのに」

「いいえ、俺は嘘は吐きません」

吐けません、の方が正しかったが、生真面目な回答にさららはくすぐったそうに笑った。ペットか幼子に食べさせるようにゆっくりと、全て口に入れた後、口許を丁寧にナプキンで拭いたさららに未春は礼を述べた。

「ありがとうございます」

「……ううん、お礼を言うのは私……」

微笑んでいたが、紙袋をそっと折り畳むさららの目は潤み、声はくぐもった。

「……ありがと。未春は、優しいね……」

「俺は……優しくはありません」

「そんなことない……未春が居てくれて、ほんと良かった……」

ふと、未春は胸がきつくなった。何かが喉元の奥で膨らみ、心の臓を圧迫するようだった。自然と――口を突いた言葉に、ここ最近の何よりも動揺した。

「……俺も、さららさんが居て良かったと思います……」

「……本当?」

さららも、驚いたようだった。

だからなのか、少年は逃げるように目を逸らした。言い訳のように、“どうしてかは、わかりませんが”と小さく付け加えた少年の手を、細い手が包んだ。

「とっても嬉しい……ありがとう、未春」

今日見た中で一番嬉しそうな顔を見て、また息苦しく思えたが、嫌な感じではなかった。少年が面映ゆそうに頷くのを機に、さららは腰を上げた。

「……それじゃ、そろそろ行くね」

「……はい」

手早く身支度をする彼女を見つめて、ふと……未春はまたしても、思ってもみないことを呟いていた。

「さららさん」

「ん? なあに?」

「十条さんと――離れるのは辛いですか?」

さららが傍目にもわかるほど、ぎくりとした顔で息を呑んだ。

「今日の未春、ちょっと違う」

はぐらかそうとする気なのか、話を逸らして小首を傾げる彼女を、未春は透明感のあるアンバーの目で見上げた。

「……あの人から、離れた方がいいと思います。できれば、今すぐ」

「どうして……?」

「ただ、そんな気がするだけです……」

きっとこれは、並外れた直感による胸騒ぎだった。

この忠告を、さららが聞き入れるのが難しいことも知っていたが――脳裏に甦るのは、血濡れたナイフを両手に、殺し屋の頭を踏み砕いた十条の背だ。あの時、彼がどんな顔をしていたのか――もし、想像通りの表情だとしたら、これ以上、さららは関わるべきではないと思った。

「変な未春……私は大丈夫よ」

穏和な笑顔だけ残して、さららは答えを述べずに出口へと歩き出した。

「また来るね。早く元気になって」

手を振る彼女に返事をしようと思ったが、手は振ろうにも引き留めようにも力無く、未春はただ頷いた。

「……はい。さららさんも」

そう呟いた刹那――殺風景な室内で、未春は目を覚ました。

まだ、外は青い闇に包まれていた。眠らない国道の音が遠く聴こえるが、生き物の気配はしなかった。半身を起こすと、十年前の夢を見ていたことに静かに動揺した。

どうして今、あの頃のことを思い出すのだろう?

昨夜、ハルトに身の上話をしたからだろうか?

それとも……さららに何か有ったのだろうか?

落ち着かない頭で、そっと電話を手に取ってみたが、未春は連絡を躊躇った。

彼女の傍には、十条がぴたり傍に居る筈。それならさららは大丈夫だ。……その筈だ。

しかし、頭で理解しても、心はどうにも安堵に着地できなかった。静かにベッドを抜け出ると、カーテンをゆっくり払い、青に沈む街を見た。

あらゆるものが静止したような街並みは、国道の重低音だけが響いている。



 未春が窓の外を眺めている頃、ちょうどさららもベッドに腰掛け、窓から外を見ていた。

裏通りの家々しか見えない景色は淡いブルーに染まっている。車一台、人ひとり通らぬ青を見ていると、体ごとその色に呑まれる気がした。現に、素肌にガウンを羽織っただけの格好は少しずつ体温が奪われ、外気の冷たさをほのかに感じたが、気怠い体を動かす気にはなれなかった。

黙っていると、そろりそろりと……頭の奥で、何かが囁く。何かが頭の奥に住んでいるように、さわさわと……言葉にならない何かを囁く。

不安に動かされるように緩く振り向いたベッドには、十条が死体のように眠っている。

――あの人から、離れた方がいいと思います。

愛しい寝顔を見つめる度に、いつも未春の声を思い出した。

あの日もチャイムを鳴らす手前、さららはその言葉を思い出して、指を宙に止めていた。

スイッチを押さぬまま手を下ろしたのに、未春の忠告がチャイムのように反芻する。

……今さら……離れるなんて。

気を取り直して、ドアに向き直った。一階のみの素っ気ないマンションは人の気配がなく、無機質な鉄扉の向こうには、知り合いはおろか人が居る気がしなかった。もう一度、何度めかの住所確認をしてから、意を決してチャイムを押した。ピンポーン、と、ありがちな軽い音が中で響いたが、他に物音はしなかった。

周囲は物寂しいコンクリートに囲まれ、やかましい国道が傍にあるとは思えぬほどひっそりしていたが、あの店を取り壊す音だけが妙にはっきり聴こえた。

――留守だろうか。それとも……

嫌な想像に身震いし、重機の音に耳を澄まして、そんな筈はないと言い聞かせる。工事を頼んでから失踪するなど有り得ない。葬儀でも十条は何かを始めようとする素振りだったし、居なくなるつもりなら、近所に部屋を借りる意味はない。

改めてチャイムを押してみるが、やはり反応は無かった。

帰ろうかなと思った時、がたん、どたん、と何かが壁にぶつかる音の後、すぐ向こう側で鍵が回る音がした。はっとしたさららが、急にそわそわと髪を撫でつけると、重く軋んだ音を立てて扉が開いた。

「……あ、さらちゃん?」

現れたのは、紛れもなく目的の人物だったが、さららは一瞬、部屋を間違えたかと目を瞬かせた。

十条は、想定外の格好だった。

初対面から、ハンサムなことは元より、彼が好むシンプルでラフな服装はどれも良い生地や仕立てのもので、余裕のある大人という印象だった。ところが目の前の男ときたら、自分丸ごと洗濯に失敗したかのように、伸び放題の黒髪は癖っ毛が跳び跳ね、しわくちゃのシャツは襟が曲がり、ジーンズはくたくたに疲れて見えた。見たこともないうっすら生えた無精髭に、もはやさららは挨拶すら出ない。

「どうしたの?」

ふわふわと笑った十条に、さららはひきつった顔のままお辞儀をした。

「こ……こんにちは、トオルさん……!み……未春のお見舞いの帰りで……その……差し入れを、と思って……」

言い訳がましいセリフで紙袋を突き出したさららに、十条はにこにこと笑った。

「お見舞い行ってくれたんだ……気を遣わなくていいのに。ありがとう。何だろ?嬉しいなあ」

本当に嬉しそうに言うので、さららは紅潮する頬をどうにもできずに俯いた。十条は袋を受け取りながら、苦笑を浮かべて頭を掻いた。

「どうぞ上がって、と言いたいところだけど……そのう……散らかってて……女の子を上げるのはどうなのかな……?」

何かを隠すような口調だったが、既に言葉通りの現実がさららの目に飛び込んでいた為、疑う気も起きない。手狭な廊下の先、おそらくバスルームと思われるところから、衣服の雪崩が起きている。更に目を凝らす奥は、書類の束や新聞が廊下のそこ此処に積まれ、前の家では全く感じなかった仄かな男臭さが鼻先をつく。

「トオルさん……これは、ええと……」

「あはは……引くよねえ、やっぱり……」

お恥ずかしい、とボサボサの頭を尚も掻いて、十条は朗らかに笑った。

「穂積にもよく叱られたんだ。『トオルはなーんにもできない!』ってよく言ってたでしょ?」

確かに穂積の口癖だったが、せいぜい自炊できない程度だと思っていたさららは緩慢に頷いた。料理ができない人間など男女共に大勢居るし、母親になっても仕事第一の女性が増えてきた社会では珍しくないため、気にしていなかったのだが。どうやら十条の家事スキルは、介助が必要なレベルのようだ。

「まあ……立ち話もナンだから、どうぞ。見ての通り汚いけど」

「お……お邪魔します……」

急に別の緊張が心臓をガンガン叩き始めた。一人暮らしの男の部屋に入ったことなどない。まして、相手は好意を抱き続けた男。

ギクシャクと行き過ぎる廊下の狭さと暗さに圧迫感を感じつつ、小さなリビング&キッチンに入った瞬間、さららの甘酸っぱい緊張は無惨に吹き飛んだ。

入居から、幾らも経っていないキッチンは、早々に使用不能と化していた。無造作に重ねられたインスタント品や弁当の安っぽいトレイ、ビールや酎ハイの空き缶、洗い桶も無いシンクに置かれた染みだらけのコーヒーカップに、さすがは甘党――いつ捨てるつもりなのか、空のジャム瓶や蜂蜜の瓶が、べたついた中身を沈殿させて放置されている。何かのソースとコーヒー、甘い匂い、ひょっとすると男臭さとやらが混じり合い、こもった異臭は微かに酸っぱくて、さららは思わず顔をしかめた。惨事はそれに留まらず、かつての家でも見掛けたこだわりの椅子以外は、小娘ひとり座れそうな場所さえ皆無だ。厚みのあるソファーには脱ぎ捨てられた衣服が散乱し、数社の新聞が積み上げられ、ずり落ちた下着と思しきものの上にもクラフト紙の封筒が折り重なる。

よくまあ、あの綺麗好きの穂積を射止めたものだ。

「トオルさん……、あのう……」

「あ、うん……」

よくそうしていたのか、十条はきまり悪そうに笑った。明らかな誤魔化しを前に、さららが好意の上に乗っかって来た困惑と幻滅の重石にぐらぐらしていると、家主はひょこひょこと手近な新聞に手を掛けた。

「と、とりあえず……今、この辺のもの退かすから――」

一体何処に?

一秒にも満たぬ自問の後、さららは叫んでいた。

「そ、そんなんじゃダメです! 掃除……私、掃除します!」

殆ど悲鳴のように宣言すると、十条は飛び上がるように了解した。許可が下りた為か、さららは自分でも意外なほど、ハキハキと動き始めた。

生娘ならではの緊張感などあっさり何処かに行ってしまい、完全に主導権を握ると、家主のケツを叩くように清掃に乗り出した。どうすればこうなるのか不思議なほど、あらゆる部屋に散らばった洗濯物をかき集め、洗剤が見当たらないことに気付いて、今度は適当な折り込みチラシの裏に必要な物のメモを取り始めた。洗濯洗剤、キッチン洗剤、スポンジに、雑巾、市の指定ゴミ袋――全くどういう神経だろう!

「これ、全部買ってきて下さい!」

メモを押し付けられた十条が、舎弟か使用人のように蹴躓きそうになりながら出ていくと、さららは腕まくりして溢れたゴミの分別に取り掛かった。

大掃除などという、ひどくパワーの要る仕事を前に、久方ぶりに体に力が湧く心地だった。

ふと、穂積に頼まれたような気がした。

そんなこと、生前に言われたことは一度も無い。しかし、急に静まり返った男の部屋に一人、纏めるものを待つ新聞を綺麗に重ね、手紙や通知を分けたりする中、頭を占めるのは穂積の声だった。

「もう! トオルったら! ホントだらしないんだから!」

穂積はいつも明るく、店頭でも外出先でも様々な人と楽しそうにお喋りするのだが、さららと二人きりになると、たまに深刻そうな顔をしていた。それは穂積自身、気付いていなかったかもしれない、とても自然に現れる心労に見えた。そういうときの穂積は窓辺を見つめたり、ダイニングテーブルの花瓶に生けられた花を見つめたりして、吐息に近い溜息をこぼすのだ。

「ねえ、さらちゃん。トオルは本当にしょうもない男なの」

穂積の第一声は、困った夫の話から始まる。初めの内、さららは女として牽制されているのかと深読みしたが、すぐにそうではないと気付いた。穂積にとって、さららは物言わぬ花かぬいぐるみ、或いはペットのように、気兼ねなく心情を吐露できる存在だったらしい。何処からか迷い込んだ小娘は、かえって穂積の心を楽にさせるのだと気付いたとき、さららは彼女に親近感も湧いたし、生の姿を見た気もしたし、友情にも似た好意も感じた。

十条に向き合う時、穂積は女としてライバルかもしれないが、さららは二人が夫婦として共に在ることが幸せだった。共に在る事が二人を際立たせ、輝かせる。二人が共に在る事によって生まれる呼吸、仕草、言葉、心のざわめき。夫婦であり、家族であること。

彼らが笑い合う。食卓を囲む。おはよう、ただいま、おかえり、おやすみなさい――その、全て。欲しい全てが、彼らの傍にある。

温かいコーヒーを手に、湯気の立つ緑茶と蜜柑を前に、またある日は甘いアイスカフェラテを前に、穂積の何気ない愚痴を聞くたび――さららはこの一部になれる幸せに心を和ませた。それもまた、おっとりと聞き役になる娘の態度に現れ、穂積の心を和ませることになっていたのだろう。

ともあれ、穂積の呟きは困った夫に尽きた。

「昨日ね、ちょっと揉めてたでしょ。あれ、ホントに下らないことなのよ。トオルったら、夜中にプリンが食べたくなったとか言って十個も買ってきたのよ! 十個! 信じられる?私、バッカじゃないのって言ったの。そしたらあの男、キョトーンってしちゃって、ひとり二個は食べるよね? とか言うわけ。もう嫌になっちゃうわよ。うん……そうよね、そりゃ私だってプリンは好きよ。でも、物には加減があるじゃない? なんでもトオルの尺度で決めてたら、確実に糖質オーバーでしょ。トオルはおっさんだからもういいけど……というかあいつ、昔から甘党の癖に体型変わんないのよねー……腹立つ! 糖尿病になったって知らないんだから!」

論点が逸れて行く穂積の声を思い出しながら、さららは洗面所で黒ずんできた手を洗った。水垢や歯磨き粉の散った鏡を見ると、不意に笑いが込み上げた。

――はい、穂積さん。

「しょうもない、ですね」

白い痕をなぞって、いつかのように呟いた。



「……綺麗になるもんだねえ……」

ありがとう、と礼を述べられたさららは、丸々二時間後、ようやく座れるようになったソファーの上で、コーヒーを飲んでいた。――コーヒーメーカーだけは、前の家でも彼が管理していたらしく、電子レンジの凄惨さに比べればかなりまともだった。人並みの清潔さが半ば戻ったところでドーナッツを開放すると、十条は小さな子供みたいに喜んだ。お菓子を前にきらきらする瞳が、ショーケースを背伸びして見ていた実乃里に似ていて、さららは少し苦しくなる。女の子は父親に似ると言うだけに、実乃里は笑うと下がる目尻や、利発そうな顔立ちが十条によく似ていた。

当の娘はおしゃまで、『パパに似るなんてイヤー!』と言い始めた頃だった。

「嬉しいな、さらちゃんのドーナッツ。よく穂積が褒めてたっけ」

「そんなこと……穂積さんみたいに、美味しくないと思います……」

「そう? 美味しそうだけどなあ」

遠慮がちに肩をすぼめる手前、綺麗なリングを眺めた男は躊躇いもなくかじりついた。

ふと、十条の顔つきが変わった。不思議そうに咀嚼するのを、さららは不安な面持ちで仰いだ。

「やっぱり……美味しくないですか?」

叱られているような顔で尋ねる娘を、十条はきょとんとした目で見た。

「まさか。美味しくてびっくりしてたんだよ」

「え……うそ、……だって……」

「ほんと、ほんと。穂積のより美味しいかも……そうか……だから僕、あんまり食べたことなかったのか。君が作ると売り切れちゃうから」

「そ、そんなことありません。残ると穂積さんと実乃里ちゃんが――……」

言い掛けて、さららは思わず口をつぐんだ。

――ママ! さらちゃんのドーナッツが残ってる!

――ホントだ! やったー! パパには内緒ね。これが美味しいってわかったら、全部つまみ食いされちゃうもん。

クスクス笑いながら人差し指を立て合う二人。初めは気遣われているのかと思ったが、母子がさららにさえ隠れて半分こしていると未春に聞き、本当に嬉しくなったのを思い出す。

……そうだった。

そうだったわ……

不意に熱い涙がこぼれて、さららは慌てて目許を拭った。

「さらちゃん? どうしたの? 大丈夫……?」

「……トオルさん、……」

涙に歪む声を、どうにか絞り出す。

「お願いです……お店……全部壊さないで下さい……」

唐突に、さららは言った。

部外者が言うことではないと知りながら、涙をこぼして訴える。

「お願いします……私、頑張りますから……せめて、少しだけでも残して頂けませんか……!」

ぽろぽろ泣いて頼む娘を、十条は黙って静かに見つめた。揺れる視界の中で、彼の視線はとても静かだった。何か、警戒するような静けさの中、十条はそっと口を開いた。

「……さらちゃん、あの店はね、穂積が滅茶苦茶な働き者だから持ってたんだ」

「……」

言われるまでもない。共に働いたさららには、よくわかっていた。仕込みから片付け、家事に至るまで、穂積の手まめなところは憧れて尚、真似できないと痛感し続けた。

――お菓子って、幸せの傍にあると思うの。

穂積は出来上がった菓子を眺めて、誇らしげに言っていた。彼女は実に多くの種類を、完璧に準備していた。キラキラした糖衣を着たハニーグレーズドーナッツ、しっとり焼かれたチョコブラウニー、ブルーベリーがたっぷり詰まったマフィン、洋酒漬けのフルーツが芳しいパウンドケーキ、ふわふわのメレンゲがこんもり乗ったレモンパイ、手のひらほど大きいチョコチップクッキー、その合間を彩る旬の焼き菓子。請われると、特別にグルテンフリーのものや、ローファットのものを作ることもあった。また、日替わりで子供でも買える価格のものを用意するのも、彼女のこだわりだった。

――些細でいいのよ。このお菓子を食べて、少し良い気分になってもらえたら嬉しいわ。

儲けることよりも、まず、足を運んでくれる誰かに喜んでもらうために。

実乃里を身籠っているときから、体を壊さないかとはらはらするような働き方だった。

十条は恥じ入るように微笑んだ。

「家族経営ならではのブラック企業だよね。君は真面目で優しい子だから、きっと無理をするし、僕は穂積ほどお菓子のノウハウはわからない。だから、あそこは閉めたんだ。別のお店にするつもりで」

「……別の……?」

「うん、インテリアショップの椅子に特化した店にするつもりだったけど……ちょっと気が変わった。このドーナッツ、お蔵入りにするのは勿体無い」

「……それじゃ……!」

「ケーキ屋さんは無理だけど、少し休めるくらいのカフェを併設しよう。ああ、椅子を試してもらうのにも丁度良いな」

譲るつもりで、キッチンなど設備の幾つかは外して取ってあるという。さららは飛び上がりたくなる気持ちを抑えて、頷いた。

「私、やります。やらせて下さい!」

叫ぶように言ってから、未春の言葉が胸の内にひやりと落ちた。


――十条さんと――離れるのは辛いですか?


――辛いわ。

もう一度、同じことを問われたら、迷わずそう答える。

離れないのは、私だもの。

彼の行き先が、暗い森でも、冷たい穴蔵でも構わない。いつだって、寂しい隙間に溢れんばかりの幸せをくれるのはこの人なのだ。

「さらちゃん、カフェはもちろん君にお願いするけど、ひとつだけ約束してくれる?」

「……は、はい……何でしょう?」

「絶対に無理しないこと。君は穂積じゃないし、穂積になる必要もない。君は君らしく、楽しくやってくれればいいんだ」

「……はい……」

何やら初めて見つめられているような気がして、さららは顔を赤くして俯いた。十条は甘い味になっているだろう指を楽しそうに繰って笑った。

「コーヒーに合うものが三、四つあれば十分だよ。君の負担も少なくて済むね。バイトも雇いやすい」

「バイト……」

あまり考えていなかった雇用に、さららは呟いた。

「バイトを雇うなら、未春にもお願いして良いでしょうか?」

「あ、未春?」

二つ返事かと思った十条は、頭を掻いて首を振った。

「ええとね……未春はしばらく無理かな」

「ど、どうしてですか?」

まさか怪我の具合が悪いのか?

急速に不安な顔になるさららに、十条はそうじゃなくてと苦笑した。

「未春は少し、海外留学させるつもりなんだ」

「海外に……?」

「うん。前から考えてはいたんだけど、ちょうどよさそうなツテが見つかったから。退院したらすぐにね」

「そう……ですか……」

確かに、大学に行かずにどうするのかと思っていた為、良い話ではある。実弟が旅に出てしまう気分だが、彼の実質的な保護者は十条だ。発言権を持たない自分に切なくなりながら、さららは頷いた。

「帰ってきたら手伝わせるよ。それでいい?」

「はい……未春に無理が無ければ。いつ頃……始められるご予定ですか?」

「そうだなあ……予定通り工事が進めば、冬までには形になるんじゃないかな? さらちゃんには色々相談させてもらうから宜しく。メニューに、内装に、制服も選ばなくちゃ」

未春のことは少し気掛かりだったが、沈んでいた気持ちが踊り出すのを感じた。

初めて穂積に会ったときのようだ。笑顔さえおぼつかない少女の肩を叩き、太陽みたいに笑ってくれた穂積。

もう一つ、此処に私の光がある。どんな暗闇に居ても、照らしてくれる光。

無防備な寝顔を見つめて、さららは思った。

この人は、私を照らす優しい光。そして――……

「……あなたは……私の…………」

囁いた言葉は、彼方から伸びた本物の光に掻き消えた。


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