8.Encounter.
ハルトと未春から、「毛は無事だ」という連絡を貰った翌朝、力也はなんとなく落ち着かずに目覚めた。
何でもなくて良かったと思う一方、自分には関係のない出来事が、通っている店にすら有る現実は、なんだか胸がざわざわする。階下から響く母親のモーニングコールに応え、いつも通り仕度をして、朝食を食べて家を出た。知っている場所で銃撃があったことなど、嘘のようにすっきり晴れた良い天気だ。ちょうど顔を合わせたご近所さんに挨拶すると、「今日は良い天気ね。いってらっしゃい」と優しく言われた。
いつも通りだ。
電車に乗り、揺られるのも同じ。タタン、タタン、と同じリズムで進んでいく。
大学が楽しいか聞かれると、今は「楽しい」って答えられる。
勉強も、――まあまあだ。苦手と楽しいかはイコールじゃないって十条サンは言ったから、苦手だけど、楽しいことにしておく。
でも、楽しい中にも……気になることはある。
力也は、同じ電車から降りた学生の波に乗り、大学の門を通り抜けたところだった。
「はよーリッキー」
気怠くも笑顔で肩を叩いた友人に、力也も挨拶と笑顔を返した。進むにつれて、挨拶する相手は少しずつ増え、五人ほど揃った辺りでワイワイし始めた。レポート終わった?とか、あの動画見た?とか、他愛ない会話が続く。
その視界の端――本当に端……木々の隙間に、それは見えた。
――あ、またやってる。
「リッキー? どしたー?」
気付いた一人が声を掛けてくれる。良い奴だ。具合が悪い時も彼はすぐに気付いてくれる。
「あー……うん、なんでもな……」
言いつつ、ちらちら見てしまう。すると今度は別の友人が同じ方を見ながら言った。
「なあ、リッキー気になんの、もしかしてアレ?」
他の友人も見た先には、木の隙間からようやく見える位置に居る数名の男子だ。派手な金髪の男と、その取巻きらしい男が、明らかに雰囲気が異なる一人の男子学生と話している。
「あいつら三年のパリピじゃん……」
「何? いじめ? 誰か呼んでくる?」
ざわつきながらも、行き過ぎる。怒鳴っていたり、乱闘しているわけではないからだ。
力也は後ろに遠ざかるそこへ不安な眼差しを向けながら、くらくらした。昔を思い出して、胃の中がねじまがる。無視すれば、痛い目を見ないのを、自分は知っている。無視しなかったから、立ち向かったから、あの頃の自分は痛い目を見た。
ただ、立ち上がって外を歩くだけのことに、数年を要した痛い目。
周囲の声を殆ど聞かぬまま、力也は俯きがちに校舎に辿り着き、階段を上がり始めた。
階段。短い階段。そう、短い階段だった。その上で、あの人は優しく笑っていた。
――ねえ、君。良かったら遊びにおいでよ。
唐突に力也はがばりと顔を上げた。
「ご、ごめん! 俺、ちょっと行ってくる!」
友人らが何事かと驚いて引き留めるような声を上げたが、もう力也は聞いていない。脱兎の如く階段を飛び降り、人波を逆走し、大急ぎで先ほどの場所に向かう。
「……っ!」
舗装された道にスニーカーの裏を擦りながら滑り込むと、力也はぎくりと身を強張らせた。一足違いだったのか、金髪の学生らはもう居なかった。しかし、男子学生は地面に落ちた眼鏡を拾い上げたところだった。やや乱れた前髪の下、驚いた顔をした学生に、力也はすぐに言葉が出ず、口をぱくぱくした。見た目には怪我をしていなかったが、よく見ると、彼の物らしい黒のデイパックが地面に転がり、開いたチャックから中身がこぼれている。力也は今しがた落とした物を拾うように飛び付くと、焦った様子で砂や埃を払い、中身を戻してチャックを閉め、唖然としている学生に突き出した。
「……す、すいません……」
男子学生は気後れした様子で受け取ると、自身の服の埃を叩いて肩に担いだ。
「え、と……何処かで会いましたか……?」
おずおずと尋ねられ、力也は慌てて首を振った。名前はおろか、顔見知りですらないのに、突然飛び込んできたら驚かれるに決まっている。
「そ、その……お、俺……二年の葉月力也って言って――その……貴方……?じゃないな、えっと君? ……うう、なんか変だけど……、君がなんか……囲まれてるの見て、それで……――」
間に合っていない負い目もあり、力也は恥ずかしさにどもったが、相手はじっと力也の言葉に耳を傾けた。
「そっか……、僕も……二年で、
「へ、へえ……!そうだったんだあ……」
なんとか相槌は打ったものの、後が続かず、力也は冷や汗混じりの愛想笑いで、落ち着かずに首もとを掻いたりした。
なぜ、飛び込んできたか言った方がいいのだろうか?
さっきの奴らに何をされたのか聞いた方がいいのだろうか?
そうこうする間に、仲間たちが心配そうに走ってくるのが見えた。国見もそれに気付いたらしい。彼は冴えない眼鏡を掛け直すと、デイパックを両肩に背負い、力也を改めてじっと見た。
「葉月くん、どうして此処に走ってきたか……聞いてもいいかな?」
力也は少し身動いだ。お節介だと思われたかな、と考えながらたどたどしく答えた。
「あ、いや、さ……、さっきの奴らに……い、いじめられてんのかと……思って……」
「それで急いで……? 知り合いでもないのに」
「あ、ああ……違ってたらごめん……! つい、気になって……」
おおーい、リッキー、と呼ぶ声が響いてきて、力也はそちらに大きく腕を振った。国見はその様子を眺めていたが、力也に小さく微笑んだ。
「ありがとう、葉月くん。また、良かったら“声掛けてやって”」
「えっ……」
まさか礼を言われるとは思わず、どぎまぎした力也に、国見は小さく会釈し、校舎の方へ去っていった。入れ違いにやって来た仲間たちに気遣われ、力也はようやくいつもの調子になってきたが、国見が去った方を見て首を捻った。
「……ありがとう、ってことは……やっぱ、イジメだったのかな……?」
ぼやきつつ、仲間と校舎に戻る力也をよそに、先ほどの国見は校舎を逸れ、誰もいない非常階段の下に居た。片手にはスマートフォン。
「どうも。はい――ええ、確認取れました。次の予定に移りましょ――ハイ? ああ、ちょっとアクシデントがあったんです。大丈夫」
アクシデントという割に、国見は電話の向こうに嬉しそうに喋った。
不思議と、その声色は力也の前で喋った大人しい印象ではない。若々しい自信に満ち、いっそ軽薄なくらいに余裕のある声だった。
「いやあ、危なかったです。本当いい奴ですよ、リッキーは」
力也に毛は無事だったと連絡した翌日から、ハルトと未春は手持無沙汰になった。
店は閉められ、ガラス戸の一階はどう見ても完全に沈黙していたが、表はかつてないほどカメラと記者の満員御礼だった。一歩外に出ればマイクがずいと向けられるのは致し方ないにしても、しょっちゅう玄関チャイムと店の電話が鳴らされるのには閉口した。さすがの未春も我慢が切れたのか、何度目かのチャイムで無言で電話線を引き抜き、町会関係者には携帯電話対応を連絡し、宅配業者は不在表でのやり取りに決めた。こういうところは実にてきぱきしていて感心する。
十条も基本的にさららの自宅に引っ込み、無いのか断っているのかBGMの仕事も入らず、二人はもっぱら掃除に精を出すしかなかった。家電までもが新品かと思うほどピカピカになった頃、ついにやることが無くなり、ハルトは十条に断ってからアマデウスに電話を掛けた。
彼はまだ日本に居て『I’m crazy busy!!』を連発した後、情報漏えいは無いことを示し、頼みには快く応じてくれた。
そうして今、ストーカーのようなマスコミが付いて来られない場所で、ハルトの手には違法の塊である拳銃が握られていた。
轟音を上げて吹き飛んだ弾丸は、十五発すべてが、ほぼ的の中心を射抜いている。
「ハルちゃん、ほんとに上手い」
防音用のイヤーマフを外すと、未春が無表情ながらも仄かに感心した様子で眺めていた。
そこは基地内の、極秘射撃場である。
基地に入るのをマスコミが騒ぐ可能性もあったが、ハルトは来日の際に知り合いに挨拶に訪れていたし、未春も仕事で出入りしたことがある為、怪しいという程でもなかったようだ。
アマデウスの口利きで練習の為に入れてもらったそこは、コンクリートに覆われた素っ気なくて無機質な空間だった。日本の地下にあるためか、なんとなく湿っぽく寒々しい。
「拳銃って、地下で撃つと凄い音だね」
同じイヤーマフを付けていたが、未春はかなり耳に来ると言った。無理もない。たとえ小さな拳銃でも、撃てば戦闘機ばりの騒音だし、彼は常人より耳が良い。
「そうだな。外なら多少は拡散するけど……」
言いながら、ハルトは未春が撃っていた的を眺めた。それは虫食いのように様々な場所を穿たれており、彼に撃たれる人間は相当苦しむ羽目になるのを物語る。
「お前は、かなり下手くそだな……」
此処まで外されると違う意味で器用な気がしてしまう。未春は恥じる様子も無く頷いた。
「十条さんにも才能無いって言われた」
「だからナイフなのか……何が悪いんだろうな。的ちゃんと見てるか?」
「見てる」
本人が言う通り、目は良いはず。両手にグロックを構える姿勢も悪くない。少なくとも、重心を前に、腕も若干曲げた姿は、先日の少女よりは遥かにきちんとしている。
「一発撃ってみろよ」
応じた未春が引き金を引くが、それは見事に左に逸れ、もう一度撃たせると、今度は右に逸れた。姿勢は崩れていないのを確認すると、ハルトはマフを外して、もしやと近付いた。
「お前もしかして……関節でトリガー引いてないか?」
きょとんとした青年の指は長く、しつこく構えさせると、見事に指の第一関節が引っ掛かっていた。間接で引いてしまうと、銃口は動いてしまい、左右にぶれる。
「いいか、指の腹でまっすぐ後ろに引かないと――――」
「――彼には、そのグロックが合わないんじゃないか?」
流暢な日本語に振り向くと、色素は薄いが厳つい容姿の男が立っていた。
アマデウスの旧友というかビジネスパートナーであり、ハルトの知り合いでもある。
ディック・ローガンというこの男は、金髪に灰の瞳をした白人系だが、40歳にして伝説の傭兵みたいな体型をしている。屈強なボディをラフなTシャツとジーンズに包んだ彼は、軍人ではなく、表向きはパン屋だというから、全く恐れ入る。
「ハルが教えても当たらないなら、相性の問題だね」
在日歴の長い彼は、アマデウスよりも更に日本語が上手い。その上、単なる親日家ではなく、半分は日本人なのでは?と思う程、その文化にどっぷり浸かった男だ。
何より盲目的に愛しているのは外車なのだが、コーラの次に緑茶が好きだし、ハンバーガーの次に蕎麦が好き、日本のコミックスは分け隔てなく大好き、時代劇大好き、尊敬する日本人は武田信玄と渋沢栄一、車いじりの次に盆踊りが得意――もう何処から突っ込めばいいかわからない。
ハルトは未春が握ったグロックを見つめて首を捻った。
「相性か……十条さんも手でかいから、同じグロックでいいかと思ったけど」
「FN社のブローニングとかどうかな?握りやすいよ」
「ディック、すかさず売り込むのやめてくれ。日本じゃほぼ使わない」
先日の狙撃事件の調査もしてくれた男は、アマデウスの武器商に関わる人物だ。彼自身も売買をしている他、BGMとの関与が深い為、直接会うことは少ないが、ハルトとは長い付き合いだ。ディックは厳つい面構えを陽気な笑顔にすると、親指を後方に放った。
「ハル、休憩しないか。少し頼みたいことがあるんだ」
「やっぱりタダじゃなかったかー……」
射撃場を借りた手前、仕方ないと応じた青年にディックは嬉しそうに目を細めた。
「さすが、ハル。うまいハンバーガー用意するからさ!」
苦笑いで伴われたところは、彼がバンズを卸しているというハンバーガーショップだった。もろにアメリカを思わせる、ふっくらと丸みのあるバンズに分厚い牛肉のパテ、レタスにトマトを惜しげも無く挟み、脇にフレンチフライがどっさり乗ったそれを若者に押しやりつつ、ディックは瓶入りのコーラ片手に映画の悪党みたいに身を乗り出した。
「――ハル、この間、センター・コア支部の代表に会ったって?」
「ああ。
「実はさ、うちに注文をしてるんだ。ベレッタ92を百丁」
「百丁……!?」
ハルトは腰が浮きそうになるが、隣でもぐもぐやっている未春は動じない。
「驚くよなあ……日本で百丁は、だいぶ大がかりな戦備だからな」
ディックは濃いカラメル色の炭酸を呷って首を振った。
「……あそこ、いつもそんな注文してんのか?」
「いーや、こんなに多いのは初めて。俺もケタが違うんじゃないかって聞き返したよ。日本の支部にしちゃあ、でかい買物だしね」
センター・コア支部は日本で最も大きい支部だが、マフィアじゃあるまいし、そんなに大勢の殺し屋は居ない。
暴力団でもやらないような無茶な注文数に、ハルトも胡乱げな顔になる。
しかも、ベレッタ92といえば、ソフィアに送られた銃と同じモデルだ。
数ある拳銃の中でも非常にポピュラー且つ使い勝手の良いものだが、一人の殺し屋に二丁持たせても半分以上余る。まして、二丁拳銃を扱う殺し屋なぞフィクションだし、稀に名乗る奴も居るが、同時発砲は有り得ない。そんなに山ほど、どうするつもりなのだろう?
――大きな仕事の予感が致します――聖の妖しいセリフが胸に過る。
「もう納品したのか?」
「それがさあ、頼まれたのはミスター・アマデウスが来日した辺りなんだけど……あ、彼が来たのも、それが原因の一つでさ」
ということは、千間が店にやって来た日でもある。奴が立ち合いをしたか、此処で受け取って支部に運んだか。
「もともと急な注文でね、一度に納品は無理だったから、在庫の三十丁だけ先に入れたんだ。残りの納品が、明日なんだけど……」
言い辛そうにディックは言うと、周囲を
「――アマデウスが、これを阻止したいと言ってきた。残りを既に倍額で買い取ってもらっているから、アメリカに輸送し直したい」
青年は難しい顔で、両手でぎゅうと潰したハンバーガーを咀嚼していたが、飲み込んでから言った。
「……俺、下りる。ごちそうさま、ディック」
あっさり出た回答に、ディックはいつかのアマデウスのように、神よと天を仰いだ。
「頼むよーハルゥゥー!」
野太い声と腕にすがられて、本気で嫌そうにしながら青年は首を振った。隣で未だもぐもぐやっている未春が見つめる中、埒の無い言葉が飛び交う。
「アマデウスの無茶振りわかるのハルぐらいしか居ないんだよォ! 頼むー!」
「冗談やめろ! 俺はあんな気味悪い支部と戦争すんのは御免だ!」
「ノー!戦争じゃないって! 盗んでくれればいいのさ!」
「大声で言うことか! 断る!」
「じゃあ逃走の護衛だけ! タイヤをパンクさせるぐらい、ハルなら朝飯前だろ!」
「朝飯前なんて日本語よく覚えたな……! じゃなくて、頼むなら上を通してくれ!」
周囲がわかるのかわからないのか不明な日本語の応酬を続けた後、取りすがる大男を椅子ごと蹴っ飛ばしたハルトだったのだが。
「――はい。そういうわけで、未春とハルちゃんでお仕事でーす」
翌、午後三時。
おやつですよーとやって来た十条が運んできたのは、市内で人気のケーキ屋が提供する、サクサクした生地にカスタードがぎっしり詰まったシュークリームと、見慣れたファイルである。
いつものテーブルでがっくりと肩を落としたハルトは、本気で額に手をやって頭を抱えた。
「十条さん……マジでやるんですか。マスコミもうろついてるし、相手は聖さんですよ? 下手すると貴方も危ないんじゃ……」
「僕はハルちゃんの腕を超信じてる」
「付き合い短い癖に、小綺麗なこと言わんで下さい……!」
何が可笑しいのか、あっはっはっとばか笑いをした上司を睨むが、効果は無さそうだった。
「君たちの任務は、ベレッタを乗せた逃走車……もとい、アメリカに返すベレッタの護衛。この車が無事に、そこの滑走路から離陸できれば任務完了だ」
シュークリーム片手に簡単に言ってのけると、十条はクリームがこぼれるのも構わず、うまそうにかぶりついた。
「ナイショで送っちゃうと、いつまでも出せって言われるでしょ? だから強奪を演じる。確実にカーチェイスになるから、車はディックに用意してもらった。一応は防弾ガラスだけど、あんまり期待しないように」
録画してラッコちゃんに見せる? などと言って来る上司に罵詈雑言を吐きたくなるが、ひとまず首を振りながら、ハルトは資料に目を通した。
「俺が狙撃するのはいいですけど……未春は運転できるんですか?」
此処に来てから、彼が運転するのを見たことは一度もない。少し離れたスーパーまでの買物も、徒歩か自転車だった。十条は唐突に暗い顔になると、とても残念そうに首を振った。
「実をいうとさあ……この仕事で一番コワいのは、未春を運転手にしないといけないことなんだよねー……」
「え、こいつ運転も下手くそなんですか?」
「下手くそではないと思う」
当の本人は憮然と言い放つが、十条は腕組みして唸るような声を出した。
「運転はさらちゃんも上手いんだけど、生憎まだ投下できるほど回復していない。よって、決行時間が夜なので僕もパス。申し訳ないけど、ハルちゃんまじで頑張って」
――おい、ハッピータウン、仕事しろ……!
最近サボりがちに思える平和に文句を唱えてから、ハルトは不安そうに顔を上げた。
「前から思ってたんですけど、さららさんの体質無いにしても、この支部って人員少なすぎですよね? こういう時に回せる清掃員は居ないんですか?」
殺し屋ではなくとも、運転手や護衛、雑用係などは何人か雇われている筈なのだが。いくら十条が寄付マニアでも、スタッフに支払う金に逼迫しているとは思えない。
「ぶっちゃけ、居るには居るけど呼べないっていうか……」
「……ふざけてます?」
「ふ、ふざけてないよ……!ハルちゃん怒らないで!」
「――ハルちゃん、うちは他にメインの
「……あ、そう……」
そんなところだけハッピータウン調では困るのだが、と思いながら、ハルトは未春と十条を見比べた。
「……人の方はもういいです。で、下手って、どの程度なんですか?」
「未春の運転する車に乗って、吐かなかった人は居ない!」
堂々と言い放つ辺り、彼も吐いたのだろうか。
「そんなグラグラする車で狙撃できると思います……?」
「ハルちゃんならきっとできる! アマデウスさんにモーターボート戦の話聞いたことあるよ!」
――あのオッサンめ……!
大きな勘違いをされているようだが、モーターボートといっても、アクティビティで使うように、わざと激しく揺らしたりはしない。しかも、アマデウスお抱えの運転手が巧みに滑らせる船での話だと言ったが、正確に理解してもらえたかは怪しかった。
夜・八時。
まだ多くの人々が活動している時間帯だったが、米軍基地の滑走路は真っ暗闇に包まれていた。しかし、周囲はにわかに空振動を伴うエンジン音に晒されている。
住民にとっては億劫なことだが、この時間帯も飛行機が飛ぶことは珍しくない。
遠く離れた街外れでも、ひとたび飛行機が通過すれば、テレビの音は掻き消え、微振動が響く。ただし、日本国内の空港のように、煌々と明るいターミナルなどは無く、真っ暗闇の中に、滑走路を示す青いライトが点灯するばかりだ。むしろ隣した国道の方が、オレンジ色の外灯と車のライトが眩い為、更に基地内を暗く見せていた。
今もまた、飛び立とうとする飛行機がゆったりと滑走路を滑って来ていた。補給基地の顔を持つこの場所では、戦闘機などよりも一般的な小型輸送機だ。
それが、後部をぽっかり開いて停止するのを、やや離れた場所で見ていたハルトと未春である。乗っているのはアウディの黒い防弾車だ。見た目はそこらを走っていて何の違和感も無い車だが、手榴弾もイケるなどと噂の強力な装甲仕様車だった。
しかも、大の車好きのディックは各所を弄っているらしく、「スピードの出方が突発的で危ないけど、早くてカッコイイんだ!」などと意味不明な戯言を口走っていた。
そのディックが用意したもう一台が、文字通り逃げるように走行する音が響いてきた。
未春はエンジンを掛けると、ディックが言った通りのロケット噴射さながらのスピードで発進した。お先に始まっていたカーチェイスは、追われる側も大した車だが、追い掛ける側もなかなかのハンターだった。弱い光にちらっと見えたそれは、スマートな黒塗りの車だが、恐らく日本産の防弾車だ。防弾車は一見普通に見えても、履いているタイヤが並ではない。防弾車特有の、ガラス窓を含めた重い車体を支えて尚スムーズに走らせるため、頑丈さはハンパない。安易にパンクさせることはできず、穴が開いてもしばらくは余裕で走行できる筈だった。
意外と準備がいいなとハルトは小銃を手にほぞを噛んだ。
「未春! 追手の前に出せるか?」
「前に出ればいいの?」
「あのタイヤは撃っても無駄だ。フロントを狙う」
「わかった」
傍目には変わらぬ様子で彼はアクセルを踏んでいる。相手は並走してきたこちらに気付いたらしく、天窓から銃口を構えるのが見えた。それを見たのか、ディックご自慢のアウディ改造車は、激しいエンジン音を響かせて滑走路を爆走した。
そのハンドル操作やアクセルを踏み込むタイミングは、十条が言った通り、メチャクチャだった。コイツに運転を教えた奴は誰だと怒鳴りたくなるような動きで、両車両の間に割り込もうとするように走行する。大げさに言うと、サイドブレーキを握った手は、アーケードゲームを操作しているのかと見紛う手つきで、ハンドルはそんなにぐりぐり動かすことないだろと思うほど回している。ハイスピードに乗っかったまま、いきなりぐるん!と車体が一回転した時はハルトも仰天したが、撃ちこまれた筈の弾丸が、フレームの角に当たって弾いたことには驚かざるを得なかった。
――ある意味、おっかない程上手い!
恐らく、未春の動体視力に追いつく車でなければ、彼のハンドル操作に付いて来られず、ただ左右にブレる、酔うこと必須の走行になるのだろう。……いや、現在も十分気持ち悪い運転なのだが、鉛弾を浴びるよりはマシだった。
むしろ、相手が撃ってくれれば、未春がどう動かすかのタイミングは計りやすい。よくまあ横目でちらちら見るだけで反応できるものだと感心していると、エンジンが火を噴かないかと思うような無茶な走行の末、アウディは敵車の前にガツン!と車体を差し込むように飛び出した。銃声が止む瞬間を見計らい、眩しいライトに目を細めた瞬間、アサルトカービンで狙うのはただ一点、運転手の位置だ。左右は防弾ガラスのようだが、車種は日本製――それなら、前面は防弾ではなく合わせガラスと決まっている。薄暗い車内のハンドルの辺りに向けて、鈍い金属音混じりの爆音で撃ち込まれたNATO弾が、数発でガラスを突き破り、目標を貫いた。車は不意に車体をぐらつかせ、そのまま走行を続けたが、徐々に減速していく。
「殺したの?」
後方で停止レベルまで遅れた車をミラーで見ながら、未春が何気なく尋ねた。ハルトは車内に戻ってくると、息を吐いてから首を振った。
「片手はイったかもしれないが、死にはしない……とりあえず、車は行ったな」
逃走していたアウディの運転手はミスター・アマデウスの関係者だろう。そんな動きでは激突すまいかと思うスピードでテールランプを閃かせると、機内に滑り込んだ。
じわじわと後部が閉まっていく中、離陸の準備に入った飛行機のエンジン音が空気を震わす。これで、オーダーはこなせた。相手の車は居残るが、運転手が動けぬ上、目当ての物はもはや手出しできない。無意味なカーチェイスはしない筈だし、フロントが壊れた状態で公道には出られない。あとは尾行されないように戻れば良いはずだったが――未春は唐突にアクセルを踏み切った。
「……ッ!?」
がっくんと前に後ろに振り回された後、耳障りなドリフト音を立ててスピンターンした車は逆方向に向かって疾走していた。
「おい、どうし……!?」
尋ねた瞬間、すぐ真横に、減速した筈の敵車が猛スピードで並走してきていた。下手をすれば直撃しかねない無茶な運転をしてきた車は、一体何をしたかったのか、そのまま滑走路の隅に行き過ぎる。
「ハルちゃん、やばい。乗られた」
「は……!?」
急ブレーキを踏み、ハンドルを手放した未春に目を見開くと、刹那、彼が身を反らせた場所に上から針が突き刺さった。中が見えているような一撃から、こちらも天井の向こうが見えているように逃れると、ずるっと引いた針を見ながら、未春は落ち着いた様子で言った。
「やっぱり
驚いていたハルトもその頃には気付いている。よく見ると、鉤爪のようなものがガラスをぐさりと貫いていた。さっきの針といい、防弾車に対してどんな馬鹿力だと舌を巻く。
「走行中の車に乗り移るなんて――ニンジャかあいつは?」
呆れたハルトだが、即座にあの運転でも振り落とせないことを判断した未春も未春である。戦闘ナイフを手に、無造作に車内から抜け出ると、真上から降って来る攻撃を弾いた。
車体から飛び降りた男はスーツこそ着ていたものの、あの優男ぶりはどこへやら、片手に長く太い針を所持し、怒りと狂喜に顔を歪めていた。
「やっぱりお前か……トゥインク・ナイフ」
――トゥインク?
どこかで聞いたような言葉だったが、どうやら未春のことらしい。マスクで顔を隠し、返事もしなかったが、千間は誰だかわかっているようだった。まあ、あんな攻撃をかわして尚、対峙してくる相手など、日本では未春くらいのものか。
「どういうつもりだ? 十条の指示か?」
未春は黙ったまま、静かな姿勢でナイフを構えている。
「この機械野郎……だんまりか?」
だったら喋らせてやる――と、千間の足が地面をジリ、と擦った。
耳を突き抜ける音と共に、飛行機が飛び立った刹那――――二人は動いていた。
暗闇に、飛行機音に混じって金属音のぶつかる音が微かに響き、人間とは思えない動きでナイフと針が交錯する。ハルトは運転席で拳銃を携えていたが、おいそれと撃てない。
一対一にしてやることはないのだが、ほんの一瞬出遅れれば未春に当たりかねない程、両者の動きは早く、複雑だった。互いに四肢が長く、暗闇であるのも手伝って、かわしたのか、攻撃したのか区別がつかない。千間の戦いを見るのは初めてだったが、アメリカ育ちのハルトには、本当に忍者なのでは?と思わせた。後で知ったことだが、千間の一族は確かに乱世で暗殺を生業にしていたことがあるらしい。無論、今では何の関与も無いが、この男は幼少期から「先祖返り」と恐れられているという。
未春がナイフ一本であるのに対し、千間は一体どこにそんなに隠し持っているのかというほど、大小様々な針を繰り出しては、魔法のように消す。未春も一番最初に見た時の動きとは別人だ。普通、攻撃は空を薙ぐ度に失速するものだが、速度が落ちない。あんなものが掠ったら、指くらいは軽く千切れそうだった。
決着がつくのかと思っていると、不意に未春がバランスを崩した。足元の凹みか何かに引っかかったものらしく、微かに後ろによろめく。
それを見逃す千間ではない。獰猛な笑みを浮かべた男が、毒牙を剥き出すように未春の喉元向けて突き刺す。が――響いたのは、ガチンッという音だった。
寸出のところでナイフに軌道を逸らされ――男はむしろ、引き込まれたように青年の射程に踏み込んでいた。弾く衝撃に合わせて、手首の中で回転したように見えたその刃は、空を裂く勢いで振り抜かれていた。
「……ッ!!」
スーツの袖ごと、腕に沿って長い裂傷が走るが、ところどころ妙な金属音がした。恐らく袖の中にも針があったに違いない――それでも、だらん、と落ちた千間の右腕からは、ぼた、ぼたと暗い色の液体が落ちた。飛び退いてぎろりと目を剥くものの、そこはBGMで恐れられる殺し屋だ――未春の肩口にも、5ミリ径はありそうな針が突き立っている。
――頃合いか。
両者の動きが鈍ったのを見計らって、ハルトは千間の片足に向けて発砲した。
狙い違わずふくらはぎをかすめたところで、エンジンを掛ける。車のライトが点灯し、素早くバックした後、カーブを曲がるように前方に向けて走行する。声こそ掛けなかったが、未春はもたくさしていなかった。横に跳ぶように空いた車内に飛び込むと、防弾車ゆえの重いドアを素早く閉めた。
足を撃たれて尚、不気味なことに千間は直立していたが、追ってくることはなかった。
「……おつかれさん」
声を掛けて握り拳を差し出すと、針を抜いた未春はしばし不思議そうに見ていたが、同じ拳をトン、と当てた。
自宅に戻ると、何も知らない猫たちの襲撃に遭った。
疲れてるんです、などと訴えたところで理解してもらえる筈も無い。
何よりも先に我々をと鳴きまくる二匹に食事を与えると、仲良く揃ってガツガツ貪った。その元気な咀嚼音を聴きながら、こちらも揃ってリビングの椅子にどっかと腰を下ろす。
「……肩、大丈夫か?」
「うん。毒は無いみたいだ」
未春は器用に消毒すると、さっさと自分で絆創膏を貼っている。それを貼られてしまうと、大怪我も大したことが無いように見えてしまうから可笑しい。
「貫通しなかったんだな」
「一歩下がれたから」
「大したもんだ。真似できない」
「俺もハルちゃんの真似はできないよ」
「……そんなとこあったか?」
「今日、誰も殺さないで仕事したから」
あと、運転上手いと言われて、ハルトは苦笑いを浮かべた。
「それはお前も同じだろ」
「……そうかな」
未春は何やらぼんやりしていて、腑に落ちぬ顔をしていた。
「千間さん、此処に来ると思う?」
「どうだろうな……そこまで阿呆だと困るんだが、一応警戒するか?」
「あの人の性格からして、他の皆の方が心配だけど……」
ふと、ハルトは不思議なものを見るような目で、床を眺めている未春を見た。常々思っていた、無感動な印象を感じないセリフに聞こえたからだ。
「……お前、十条さんが言うほど、マシーンじゃないよな」
未春が顔を上げた。その表情はいつも通りだったが、そこには『無』以外がきちんと備わっているように思えた。
「こないだのこと、謝る。撤回するよ」
「なんのこと?」
「
悪かった、と言うのを、未春はゆっくり瞬きしながら見ていた。
何か言おうとしたとき、その膝に――ビビが飛び乗った。
猫はその場でのそのそと回ったあと、やはり男の膝は不都合だったのか、未春の顔を見上げて不服申し立てるように鳴いた。
「なんだ、お前の膝にも乗るんだな」
「……そうだね。スズさんは乗ったことないから驚いた」
そう言う横顔は、やはり驚いているようには見えなかったが……驚いているんだと、ハルトには実感できる気がした。ふと、スズを見ると、彼女は人間のように対岸の椅子に座り、老獪な婆さんか占い師のように目を細めていた。なにやら可笑しくなりながら、ハルトは重そうに立ち上がった。
「さて、と……腹減った……なんか作るか」
「手伝う?」
「いい。ビビ頼むわ」
「ハルちゃん、あれ作ってよ。スパム炒飯」
「いいけど、米あるのか?」
「昨日の冷凍してある」
米をレンジで温める間、フライパンで溶き卵が良い音を立て、一旦取り出されたところにダイスカットのスパムと刻んだ長ネギ、適当に千切ったレタスが放られる。米と卵が合わせられ、塩コショウと巧みに呷られると、室内には芳ばしく良い香りが広がった。
「『トゥインク・ナイフ』って、お前のことか?」
自分の前にも置けと言いそうなスズから、炒飯をやんわり避けつつ、ハルトは尋ねた。
「うん」
鼻先を寄せてくるビビから皿を持ち上げながら、未春は頷いた。
「トゥインクって……どっかで聞いたことある気がするんだけど……なんだっけ……」
「ハルちゃん、『トゥインキー』ってお菓子知ってる?」
「トゥインキー?」
「たぶん、アメリカのだよ。細長いケーキに白いクリームが沢山入ってるやつ」
「わからん……見たことあるような、無いような……」
スプーンを手渡しながら、それとこれとどんな関係が?と言う青年に、未春は静かな口調で言った。
「『トゥインク』っていうのは、そのお菓子に例えた、ゲイ・スラングのこと」
予想だにしない発言に炒飯を吹き出しそうになりながら、ハルトは慌てて口を押えた。
「……はあ!?」
「痩せてる若い男のことらしいよ」
「そ……そうじゃなく! な……なに……まさかお前“そっち”なのか……!?」
だから十条とさららの件が気にならないのかと動揺する青年に対し、未春は何でも無さそうに炒飯を口にしながら首を振った。
「違うけど」
「 “けど ”って何だよ! するならしっかり否定してくれ!」
悲鳴に近い声を上げるハルトに、二口目をもぐもぐやっていた青年はぼそりと言った。
「そんなにビビる?」
錆猫が可愛く鳴いた。ごめん、違うよと猫に話し掛ける男に、ハルトは口元を拭ってから顔をしかめた。
「……少々、ヤバい目に遭いそうになったことがあるもんで」
「ああ、ハルちゃん、好かれそうだもんね」
そういうのがわかるってことは――と、睨むハルトに未春は首を振った。
「俺は違うよ。でも、やったことならあるから」
「……」
ハルトは驚愕はそのままに押し黙る。聞いてはいけない方の話だったか。
あの変態殺人鬼……余計なことを――などと思っていると、未春は自ら口を開いた。
「俺、『赤ちゃんポスト』ってやつの出身なんだ」
「……赤ちゃんポスト?」
「捨て子ってこと」
ハルトに馴染みはなかったが、赤ちゃんポストとは、何らかの事情で育てられない親が、赤ん坊を預ける医療機関、及び養子縁組をするシステムの総称だ。海外ではドイツをはじめとするヨーロッパや、アジア、アフリカ、北米などにも存在する。日本では現在、『赤ちゃんポスト』と正式に銘打っているのは熊本県のある病院のみで、未春は当院ではなく、新宿区の病院で保護されたという。
赤ちゃんポストと言うだけに、屋外と屋内の双方に扉が設置され、バスケット入りの赤ん坊が入れる程度の適温空間が用意されている。そこに赤ん坊が入れられると、すぐに宿直員等がブザーで気付ける仕組みだ。ちょうど、東京に赤ちゃんポストを設置しようとする運動の試験運用が行われており、混乱を避けるためにあまり公にされなかった中での保護となったらしい。
「親の顔は今も知らない。児童養護施設で育って、十歳のとき十条さんの甥になった。先にBGMが目を付けたらしいけど、十条さんが欲しがったから、こういう形になったんだって」
有りそうな話ではある。ハルトが収容されたBGMの教育施設にも、戦争孤児や捨て子は居たし、何らかの才能を見出されてスカウトされたパターンも少数派ながら存在する。
「お前が欲しがられるのはわからんでもないが……なんで甥?……息子じゃ、年齢的に不自然だからかな……?――え、まさか十条さんは“違う”よな……?」
青くなる青年を、ちょっと面白そうな顔で見上げて、未春は首を振った。
「違うよ。俺を引き取る前に十条さんは結婚していて、子供も生まれる頃だった」
「ああ……だよな……良かった……驚かさないでくれ……」
椅子にぐったり倒れ込み、あれ? とハルトは顔を上げた。
「……十条さん、家族いんの?」
「本当の家族は居たけど、もう居ない」
即座に答えた未春の声は、いつもより乾いて冷たく聞こえた。
「10年前、殺されたんだ」
10年前。それが、
「俺が、トゥインク・ナイフって呼ばれるようになったのは、その少し後」
「……誰だよ、そんなあだ名広めたのは……」
「言い出したのは十条さん」
「……どうもあの人は、お前にだけ歪んだ発言するよなー……」
「さららさんも、よくそう言ってる」
仕方ないんだ、と未春は無感動に答えた。
「……俺は、
呟いた一言は、消えそうな声だった。
「……それが、あの人の奥さんと子供か?」
未春は頷いた。彼の皿は綺麗に空っぽになっていたが、その瞳も綺麗だが空っぽに見えた。
「どっちも、死んじゃいけない人たちだった」
過去、現在の「DOUBLE・CROSS」がある場所には、別の店があったという。
二世帯住宅のように黒い建物が横並びに建ち、片方は十条家、もう片方は奥に細長いスペースを持つケーキ屋で、この店を経営していたのが十条の妻である穂積だった。
十条より少し年上の姉さん女房だった彼女は、働き者のカラッとした明るい人柄で、特に笑った顔がとても素敵な人だったという。
ベースサイド・ストリートにぴったりな、ドーナッツやマフィン、ベーグル、パイ、ブラウニー、チョコチップクッキーなどのアメリカらしいお菓子の達人で、十条は彼女の作るお菓子に惚れ込み、足しげく通う内に射止めた。
「穂積さんは、さららさんのお菓子の師匠なんだよ」
「さららさん……十条さんとは18年の付き合いって言ってたな。それじゃ……」
「そう。俺があの家に住むことになった時は、もう店で働いてた。さららさんは妹さんを殺されてて、ほんとの家族と上手くいってないからって殆ど店に居る感じだったし、泊まることも多かった」
「じゃあ……さららさんが殺し屋なんかやってんのは……」
「最初は復讐だったって聞いた。独学で毒殺を研究し続けたけど、十条さんに偶然会って……あの人が犯人をとっくに殺した後なのを知ったんだって。さららさんは、自分のストーカーで毒殺を試したらしいから、かなり追い詰められてたと思う」
未春の述懐に、ハルトはようやく合点がいった。
さららが辛くても殺しを辞めないのは……十条との関係が切れるのを恐れるだけではない。
家族なのだ。恐らく、本物の家族よりも。
「その奥さんてのは……旦那が何してるか知ってたのか?」
「知ってた。……でも、結婚する前に言わないなんて狡いって一晩中怒られたって聞いたよ」
仰る通りだとハルトも苦笑した。
「俺に家事を叩き込んだのも、穂積さん。お腹大きい時も、よく働く人だった」
未春が住むようになってすぐ、娘の実乃里が誕生した。彼女も母親譲りの明るい性格で、おしゃまなところがある可愛いらしい子に成長した。さららは妹を思い出すのか、この少女をとても可愛がり、実乃里も彼女に懐いていた。未春の目から見ても、二人は本当に、年の離れた姉妹のように見えたという。
「何もかも上手くいってるって……ああいう時のことを言うんだと思う」
それがあっけなく壊れてしまったのが、10年前。
何事も起きそうにない、暖かい春の日曜日。
開店前に、当時18歳の未春は今のように店内の掃除をしていた。さららは午後からの出勤で、代わりをしているつもりなのか、隣で7歳の実乃里も小さなほうきを動かしていた。どん!と何かが店の壁にぶつかる衝撃がして、カララン、とドアベルの音が響いた。ドアベルにつられた実乃里が、入り口から何かを見上げて、ぴくりとも動かなくなった。
未春は外を掃いていた穂積が戻って来たと思った――が、外から飛び込んできたのは、穂積の叫び声だった。
「実乃里……だめ! 中に戻って!」
ドアを開けたのが穂積ではないと気付くや否や、未春は飛び出していたが、そこから先はぽっかりと記憶がない。
常に腰に佩いていたナイフを抜いていたことは覚えている。しかし、何をどうしたのか、何を見たのか、まるきり覚えていない。気が付いたとき……未春は壁に背を預け、壊れた人形のように座っていた。片足には大きな裂傷が血溜まりを作っており、その膝には背からざっくりと斬られた実乃里が倒れていて、ドアにもつれ込むように血まみれの穂積――そして。
店内の中ほどには、いつやって来たのか――十条が背を向けて立っていた。
ジーンズに黒のロンTという、いつものラフな格好だったが、両手には見ただけで斬れそうな細く鋭い刀身の包丁のようなナイフを握っていた。刃からは血が滴り、目の前には、おぞましいほどの赤を垂れ流した黒いロングコートの男が倒れている。
ぴくりとも動かない十条の顔は見えなかったが――不意に音も無く動くと、ロングコートのフードがかぶさった頭に向けて持ち上げた靴底を振り下ろした。何かを踏み砕き、生肉を潰す音が響いて尚、彼は踏み付けるのをやめなかった。
凄惨な現場に座ったまま――未春も失血によってか、意識が遠のいた。
「……俺が目を覚ましたのは、それから三日後。さららさんが付き添ってくれてた」
憔悴し切ったさららに事情を聞いて、襲ってきたのがBGMの殺し屋であり、どうやら28年前に十条が行った仕事の報復だったことがわかった。
不気味なのは、殺し屋の出所はかつての東京支部となっていたが、名前を含めた情報が皆無だったこと。
「十条さんは、“
「亡霊……」
確か、聖もそう言っていた。――28年前の亡霊……正体不明の殺し屋か。
思えばそれは、BGMに殺される側の心理と同じだろう。自分を殺しにやって来た、知りもしない、何処かの誰か。ふと、ソフィアの憎悪に満ちた目を思い出す。
「……事件の後、十条さんは二人のお葬式の後、すぐに家も全部壊して、今の店にしたんだ。俺は足が治った後、すぐに海外に行くように言われた。あのあだ名は、香港の男娼クラブで仕事してた時のやつ」
「……」
黙って聞いていたハルトは、静かに息を吐いた。
「DOUBLE・CROSS、か……」
てっきり、十条十という名前のアナグラムだと思っていたが、何のことは無い。
二つの十字架――墓標のことだったのだ。
――何がハッピータウンだ。バカバカしい。
たかが名前程度にほだされていた自分を、椅子もろとも蹴飛ばしてやりたい気分だ。
気付けば、空っぽの食器の表面が乾いてパリパリになっていた。
「……お前、殺しを辞めたいと思ったことないのか」
「……よくわからない。さららさんにも、言われるけど」
「俺はある」
静かな目が、同じように静かな目を見た。似た色の目が、ほんの少し、見交わした。
「……寝るか。あの変態が来ないのを祈って」
ハルトは伸びをすると、二人分の食器を洗い桶に放り込んで水を流すと、あくびをしながら部屋に戻って行った。
申し合わせたように、スズとビビがその後ろに付いていく。
未春はしばらく座ったままだった。急に、暗い窓から国道の音が聴こえてくる。
……ポタ、と、蛇口から水が一滴落ちた。
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