6.Killers.

大都市のど真ん中にある都内屈指の高級ホテルにて、その会合は行われた。

細かな光の粒が輝く夜景を大パノラマで堪能できるバーは、艶やかな木調と大理石の黒が織りなすスタイリッシュな空間だった。たった数名の為にこの場を貸し切った男は、その日も上等のスーツを着て現れた。シックな間接照明に照らされて、ステファノリッチの芸が細かいプリーツタイが滑らかな輝きを見せる。十条とハルトが会場に入ると、その男――ミスター・アマデウスは、両手を広げて出迎えた。

「トオルー! ハルも来たのかい!」

親戚のおじさんのような態度でやって来ると、それぞれの両腕を強めに叩く。

「お久しぶりです、ミスター・アマデウス」

「本当だよ、トオル。たまにはアメリカに来てくれればいいのに」

にこにこと微笑む十条に対し、アマデウスは相好を崩して笑うと、二人を席に伴った。

そこには既に先客が居た。黒いレース地に銀の刺繍が施された、華麗なイヴニングドレスを纏った美女である。真っ白な肌に、はっきりとした目鼻立ち、纏めた黒髪から覗く耳には大きな一粒ダイヤが輝く。引かれた真紅のルージュといい、細く長い指先にフルート・グラスを持つ格好さえ堂に入って、勇ましい程の貫録だった。その傍らには、執事のように起立した千間せんまが、仲の良い友人にするようにこちらに手を上げていた。

――やっぱり同伴者はコイツだったか、とハルトは笑顔を見せつつ、内心毒づく。

「どうも、ひじりさん。ご無沙汰してます」

「クレイジー・ボーイ、相変わらず野暮ったい格好ね」

唐突にご挨拶な女は、十条をあだ名で呼ぶと、くつろいだ姿勢で唇を歪めた。

そうは言われたが、今夜の十条は何処に出しても恥ずかしくない黒スーツを着込み、ぼさぼさの髪もきちんと整えていた。ハルトも同様にスーツ姿だったが、こちらが若手ビジネスマン風なのに対し、十条はこうした格好をすると、芸能人のような華やかさがある。

それでも尚、嘲る口調のこの女こそ、センター・コア支部の代表、聖茉莉花ひじり まりかだった。

本物は初めて見るが、十条同様、四十代に入っているらしい顔には皺も見られず、薄暗い照明の中では何歳なのか見当もつかない。立場上、TOP13である十条よりも格下の筈が、立ち上がることもなく、頭を垂れる気配すらなかった。十条は不遜な態度を気にする様子も無く、いつものにこにこ笑顔のまま、傍らの男に振り返った。

「千間くんも久しぶりだね。こないだウチに来たんだって?」

親しげに笑い掛ける十条に、千間も社交的な笑顔を浮かべた。本性を知った人間からすれば、これほど厭味な笑顔もない。

「声掛けてくれれば挨拶したのに」

「お忙しいと思いまして」

「そうでもないさ。カンタレラの好みのお花くらいは教えてあげるよ?」

――カンタレラ。

如何にも親切そうに持ち掛けられた言葉に、千間の殺気がざわついた。

話の流れから察するに「カンタレラ」――イタリア貴族が暗殺に用いたと伝えられる毒薬の名が、誰を指すのかは言うまでもない。無神経な笑顔を浮かべる十条に対し、千間は怒りこそ匂わせたが、プロはプロだ。二人きりならば刺し殺したかもしれない殺意はするりと納められ、涼しい顔で苦笑した。

「十条さんのお手を煩わせるまでもありません」

フラれ続けているわりに、自信さえ露に言ってのける。回答が面白かったのか、十条は尚もつつきそうな顔をしたが、突くならば殺人蜂の方が早かった。傍らの殺人鬼に空のグラスを傾げ、無言でリフィルを指示して黙らせる。

「十条、いつもの可愛い坊やはどうしたの?」

殺人蜂キラービーよりも魔女か女帝の方がよく似合う女は、ハルトを値踏みするように黒い切れ長の目を細めた。

「可愛い甥っ子はお留守番です。今日はアマデウスさんがお見えになるので、顔馴染みの彼を連れてきました。アメリカでは有名な凄腕です」

「ああ、この子がそうなの――貴方もお噂より、随分可愛いわ」

失礼極まりない賛辞にハルトが会釈のみ返すと、アマデウスも腰かけ、しずしずとやってきたウェイターの手前、十条に向き直った。

「トオル、何にする?」

「アマデウスさんの奢りですか?」

「勿論だとも」

「じゃ、ひびきの三十年をください」

「Oh、しっかりしてるなあ、トオルは」

一杯が万単位のジャパニーズ・ウイスキーの名にアマデウスはにやにや笑った。

「ハルも何か飲むかい?」

無意味な一言に青年が笑ってかぶりを振ると、深くも艶やかな琥珀色を満たしたクリスタル・グラスがふたつ、恭しく置かれた。アマデウスがグラスを掲げたのを皮切りに、悪党の会合は始まった。

何気ない会話から始まり、近況報告から方針、ビジネス的な打ち合わせが行われる。

そして話題は、例の狙撃事件に移って行った。

「十条のエリアでは、普通の事ではないかしら」

気品よりも妖艶さが勝る魔女の発言に、十条は困ったように頭を掻いた。

「聖さん、うちはそんな無法地帯じゃありませんよ」

「そうかしら? 少し前にも集団自殺があったでしょう?」

「あれは麻薬の密売組織でしたから、ノーカンにして下さい」

「では、もっと以前――28年前の報復ではなくて?」

――28年前? あまりにも前の話に、ハルトは少しだけ眉をひそめた。

ちょうど、ハルトや未春が生まれた年のことだ。まだBGMなど知る由も無い頃の話は三人には馴染みの話らしい。アマデウスが娘を諫める様にこれこれと首を振った。

「マリカ、それは言いっこナシだよ。あの件を治めたのが私だと知っているだろう?」

アマデウスは笑顔だったが、ハルトはそのセリフに一抹の苛立ちを感じていた。それに気付いているのかいないのか、美女は長い爪をした指先を顎に当てて、くすりと笑った。

「ええ、ミスター・アマデウスの手筈は完璧です。疑う余地はありません」

「そうとも。君の支部はどうだね? どこかで流出や持ち込みは起きていないか?」

あくまで穏便に尋ねるアマデウスに、美女は音も無く首を振った。

「わたくし、仕事柄、教育は得意ですから。端々、隅々まで、丁寧にやっています」

自身の美貌の話でもするように述べると、黒いハイヒールを履いた長い足を組み替えて、魔女は含み笑いを浮かべた。

「――ただ、大きな仕事の予感が致しますが」

妖しい笑みに、ハルトの正面に居る千間が口許だけ不敵に笑った。殺人蜂を名乗る女に、千枚通しの殺人鬼――セットにすると尚不気味な二人は、含むところがあるらしい。

「大きな仕事ねえ……」

とぼけた様子でアマデウスは呟くと、手元のグラスに入った美しい色を揺らした。

「私は大きな儲け話は好きだけどね……TOP13は日本が騒がしくなるのを望んでいない。器を零れる程の話は御免だよ、マリカ」

「わかっています。わたくしの部下は阿呆ではありません」

――よく言う。

内心に呟きながら、ハルトは魔女の様子に首を捻っていた。殺しをビジネス、もとい金儲けと捉えているアマデウスを前に、何故この女は挑発的なセリフを吐くのだろう。

「トオルも、それでいいね?」

「はい。何かあればお知らせします」

平和主義者よろしくのほっこりした笑顔を、目の前の聖は鼻で笑ったようだった。

「とぼけるのが上手いわね、十条。10年前のお前は悪くなかったのに」

今度は10年前。どうやら十条には、人生で二度ほど大きな出来事があったらしい。彼は何の反論もせずに、只にこにこ笑っているだけだった。格下の女に何を言われても気にならないといった様子は、大物なのか、気負った小物なのか判別し難い。

少なくとも――倉子が激昂した時と同様に、相手にしないところは頼もしさを感じるが。

それからは他愛ない会話に戻った。他愛ないといっても、日本を取り巻く世界情勢や政治、暴力団の動向、株価や為替レート、仮想通貨などの経済的な話等々、単なる悪党にしては高度なビジネストークが続けられた。

「それじゃ、私はもうしばし滞在の後にアメリカに帰るからね。トオルもマリカも仲良くやりなさい」

父親か祖父のようなアマデウスの一言で、小一時間程度の悪党の会は締め括られた。

「――では、失礼致します。またお会いしましょう」

聖がそう言うと、隣の殺人鬼は恭しく手を差し出した。その手を取って立ち上がると、恐らく日本で最もイカれた美女は、レースの裾を翻し、何処の女王のように去って行った。

「殺人蜂の女王クイーンは恐ろしいね」

アマデウスはそう言ってウイスキーを嗜んだ。十条も微苦笑のまま、魔女が去った方を眺めやる。

「さてと、せっかくの夜景だ。飲み直さないかね? ハルも座りなさい」

おとなしく着席した青年にウェイターを呼びつけながら、アマデウスは尋ねた。

「久々に奢ってあげよう。何がいい?」

「じゃ、お二人と同じもので」

ニヤニヤ笑っての発言に、十条が声を立てて笑い、天を仰いでNoー!と叫んだ羽振りのいい男は、しっかり同じものを注文した。



 「……優一、少し落ち着きなさいな」

廊下を渡りながら、聖は唇を歪めて言った。指摘された男は、むしろ傍目には逆だった。高級ホテルを闊歩する足取りや顔つきは、自分の庭を歩くようで、何の動揺も高揚も見えない。

「わかりますか?」

肩をすくめての含み笑いに、聖は顎を反らして鼻で笑った。

「隠しているつもりなの?」

「申し訳ありません」

涼しい顔で答えると、千間はその目に微かな獰猛さを揺らめかせて頷いた。

「久方ぶりに姿を見まして、つい……どうもあのボンクラな顔には殺意を掻き立てられます」

「あらあ、殺意? 嫉妬ジェラシ―ではなくて?」

傍らを覗き見る聖の目は高笑いでもしそうに歪んでいる。

「愛しい女が、ボンクラに抱かれているのが気に入りませんと素直に仰い。私は見え透いた嘘は嫌いよ」

「聖さん……ご勘弁を。否定は致しませんが、今夜は珍しい連れに煽られただけのことです」

「ああ、あの子――元はアマデウス子飼いと云うから、もっとつまらない男かと思いきや」

こちらは舌舐めずりする蛇のように呟くと、聖は流し目で己の連れを見た。

「ギムレットの目から見て、あの坊やは邪魔になる程のものなの?」

「噂通りなら。日本では扱いづらいようですが」

「なら、放っておきなさい」

ぴしゃりと言うと、聖は厳かに開けられたドアから車に乗り込んだ。

滑らかに走り出した後部座席で、女はゆったりとシートに背を預けて微笑した。車外のライトに照らされる美貌の中、その瞳は妖しく輝き、意味有り気に車内をゆったりと見渡した。

「計画が最優先よ――ボンクラの首狩りはそれからで十分。かわいそうに、カンタレラはピン留めされて標本にでもなるのかしら?」

「虫ピン程度で泣き言を漏らす女に興味はありません」

「あら、そう――『あの雪のように白く、快いほど甘美な粉薬』……フフ……ヤーコプ・ブルクハルトは実にハイセンスね。貴方も女の趣味は悪くない」

「恐れ入ります――トゥインク・ナイフの方は如何致しますか?」

生真面目な問い掛けに、魔女は首を傾げてニタニタ笑った。

「まあ、優一……貴方、あの子もお気に入りなの? 要海が怒るわよ」

「ご冗談を。要海さんにも失礼です」

「わかっているわよ。あなた、私が思う以上に根に持つタイプのようね」

「ええ――奴に付けられた傷の噂が不愉快なもので」

聖は意地の悪い笑みを浮かべて、男の首筋を無遠慮に眺めた。シャツの襟に隠れているが、そこには薄く残った傷痕が見える。その傷が、隙を見せたか、逃げたのではと物笑いのネタにされているのを聖は知っていた。無論、人一倍プライドの高い千間が逃げを打つ事は無いだろうが、後ろを取られたことは元より、相手は自分より若い――さぞや屈辱だったに違いない。実際、傷を負った直後の千間は怒り狂い、仕事に復帰するや否や、気の毒な標的が蜂の巣になるほどメッタ刺しにしたという噂だ。

「惜しい才能だけれど……大人しく、かしずくとは思えないわね」

「ええ、確実に処理しなければ、東京支部の二の舞に成りかねません」

「……ま、いいでしょう。せいぜい女を楽しむ指や腕を取られぬよう気を付けなさい」

善処致します、と言う部下に聖は鋭い眼差しを向けた。

「でも、準備が整うまでは手出し無用よ。あの男に悟られて、面倒が増えるのは御免だわ」

「――仰せのままに」

弦月に割れた唇が答えた。



 日本の殺し屋なんて、気楽なもんだ。

そう思ってしまったのは、それから数日経った今でも、何も起きなかったからに違いない。

その日、店が暇だったハルトは、からのカウンターで、十条が方々から引き受けてくる町会のポスターや貼紙、回覧物に印鑑を押す作業をしていた。

掲示するポスター全てに町会の許可を示す印鑑を押し、回覧板で回す紙面にも「回覧」の印鑑を押す。この回覧の数が馬鹿にならない。他はどうだか知らないが、ひとつの町会につき、回覧板ひとつを回す組は十以上あるのだ。お知らせが一枚ならばわけもないが、二枚、三枚と嵩む度におぞましいほど枚数は増える。

「IT化って何処で起きてんだよ……紙ばっかじゃねえか……」

ぶつぶつ言いながら印鑑を押すハルトの隣で、バカスカと叩くように印鑑を打ち鳴らしていくのはリッキーこと、力也りきやである。

「センパイ、IT化はオフィスで起きてんスよ。うちのガッコも紙ばっかッス」

「げー、まだそうなのか? でも……リッキーの世代はパソコン普通世代だろ?」

「はい。ほぼ皆持ってます。パソコン無いとレポートもできないし、勉強にならないッス」

「世知辛いよなー……」

たった数年の違いといえど、大きな世代差デジタルデバイドを感じるようになったのは、スマートフォンが普及し始めた頃だ。アマデウスは何事も一歩早い性質で、スマートフォンもさっさと配給されたが、余計な機能も山と増え、只の携帯電話の方が使いやすかったのを思い出す。

「ITは良いことばっかじゃないですよ、センパイ。イジメ、すごいんで。俺の学校でも、今やばいんです」

「あー……SNSとかって話か?」

無論、殺し屋には関係ないツールなので、ハルトにはあまりピンと来ない。力也は大まじめに頷いた。

「SNSと、写真や動画ッスね。恥ずかしいことやらせて撮ったり、犯罪になるようなことやらせて晒したり。アップしてる奴がわかんないこともあって、簡単に解決できないこともあるんです。再生回数なんかの為に、いつも誰かをからかおうとしてる奴も居て……」

「アメリカでも、バカな動画撮る奴居たけど……それとはどうも違うみたいだな」

「だと思うッス。海外のみたく、自分たちがやばいことして笑いを取るものじゃなくて……誰か他の奴を笑い者にするために撮ってる感じで」

「大半は真面目な学生なんだろ?俺は普通の高校や大学行ってないからわからんけど」

「あ、そっか。センパイはBGMの元・エリートだっけ」

「未だに“元 ”付けんのか。教育行き届き過ぎだろ、この支部」

先輩に言うことじゃないぞと笑ってやると、力也はくすぐったそうにへらへら笑った。

「やっぱ殺しなんてやるからには、そういう施設ってイジメも凄いんスか?」

「いーや、俺が知ってる上ではほぼ無いよ。士官学校とか軍隊はヤバいらしいが」

「ええー! 意外ッス! なんでなんで?」

「単に、初期の実習で全員ヘバってゲロって、それどころじゃないだけ。学校と違って金払って入ってるわけじゃないし、使えない奴は野に放り出されるから必死なんだ。BGMはビジネス主体だから……友達作らない社員研修みたいだな」

「へー……友達作らないんスかー……」

「そりゃ、な。BGM内で争わないようになってるけど、正式に殺し屋になる前に全員残るとは限らないし、抜ける奴や裏切る奴も出るかもしれないだろ?」

ふむふむ、と頷いてはいるが、脳筋扱いの青年は本当にわかっているのか怪しい顔だった。

難しい顔で頷くと、トン、と印鑑をひとつ押して、再び顔を上げた。

「それじゃあ、センパイ、今は友達は?」

友達。

その単語に、ほんの僅かにハルトは喉が詰まる感じがしたが、緩く首を振った。

「……居ないな。せいぜい知り合い止まり」

「はっきり言いますねー。辛かったことないスか?」

「無いよ。困ることもないし、比べる相手も居なかったから」

「あ、ソレはちょっとわかるッス。俺もイジメでしんどかったことあるけど、十条サンに比べるのやめなよって言われたら楽になったッス」

「え、リッキー、イジメ受けてたのか?」

意外な一言に驚いた。以前、保土ヶ谷が言っていた「色々」とやらだろうか。力也は恥ずかしそうに笑った。

「実は、中学は登校拒否してたんです」

人は見かけによらないものだ。しかし、その概要はハルトが想像したものとはやや異なる。

中学時代の力也は、明るい性格も正義感もそのままで、頑是ない幼稚園の時から友達は沢山居たらしい。

ところが、苛められていたクラスメイトを庇ったことで、状況は一変した。

「そいつ、別に悪い奴じゃ無かったんです。ちょっと変わってて……俺が言うのも何ですけど、勉強も苦手で、馬鹿にする奴とか、避ける女子とか、そんなんばっかで」

どうやら軽度の知的障害があったクラスメイトは、その後別の学校に転校してしまったのだが、問題はその後だった。

「ヒーロー気取り」と称され、いじめの矛先は力也に集中した。発端から数週間、数カ月を過ぎても攻撃は止まらず、私物をゴミ箱に捨てられる幼稚な手から始まり、知りもしない上級生や他校生にいきなり突き飛ばされたり、大声でからかわれたり、思わず怒ってしまった写真をネットに晒されるなど、枚挙に暇が無い程だったという。当初は負けてなるかと頑張っていたらしいが、徐々に登校するのが苦痛となり、ついには校舎を見るだけで吐きそうになって断念したそうだ。

「……寄ってたかって、か。ハエ以下の奴らだな」

忌々し気な口調のハルトに、力也は苦笑した。

「たぶん、怖かったんスよ、みんな。やめたら、自分がやられると思って」

「リッキーは良い奴だなあ……俺は無理。首謀者ねじって、片っ端から黙らせる」

「あはは、未春サンも同じようなこと言ってたッス」

あいつは多分、何か言う前に全員病院送りだろ。自分を棚に上げるハルトに対し、センパイが居たら良かったかもなあ、などと笑う力也は大人に見えた。

「いや、リッキーはエライよ。非暴力は簡単にはできない」

「……そんなこと。俺、全然偉くなくて……無駄だなって諦めちゃったんスよ」

イジメの対象になって初めて、声を上げても、手を上げても、誰かに相談しても、止まるものではないと気付いたという。静かにしていれば収まるだろう――そう思い、実家の自室で座ったまま、他人事みたいにネットを渡り歩く日々を過ごしていたら、騒ぎが静まってきた頃には、腰が上がらなくなってしまったらしい。

「あの頃、いっつも体が重いんス。昼はいくらでも眠れるのに、夜は目が冴えちゃって。だらけちゃったり、急に焦って怖くなったり、親に悪いなって思って泣けてきたり、これからどうなんのかなって不安になったり……」

明日こそ、明日こそ……そう思えば思うほど、決意は揺らぎ、膝を抱えることになる。

同世代で流行っていたポップスなどを懐メロとして流されるのは、今でも気分が悪いと呟く。

「ああいう時って、元気出せ! みたいな歌詞の音楽ほど落ち込むんスよ。他の同世代のヤツが、その曲超好きとか盛り上がると、今でも沈むっていうか……そいつらの気持ちがわかんなくて、わかんない俺って変なんだなって思ってまたブルーになるっていう……」

「でも、切り替えて高校行けたんだ。えらいな」

「へへ、ありがとうございます」

にっと歯を見せた素直な笑顔は、彼に良く似合っていた。

「十条サンやさら姉もそう言ってくれたんスよね。ていうか……高校行く気になったのも、十条サンに会ったからなんです……声掛けてくれて、勉強教えてくれたりして」

国道16号沿いのやかましい道路は、当時の力也にとって気楽な道だったらしい。

同級生が来るような場所ではないし、日本ではない異国の感や、ただ真っ直ぐ進めばいいストリートは、何者が歩いていようとも見咎められない雰囲気が良かった。

十条はガラス戸の向こう側から、学校に居る筈の時間帯に一人、とことこと通り過ぎる少年に気付いていた。ある日のほのぼのとした午後、彼は入口の前にスズと座っていて、歩いてきた力也を待ちかねた様子で迎え、遊びにおいでと誘ったという。

「怪しいオッサンだと思わなかったのか?」

苦笑混じりのハルトに、意外にも力也は透き通るような目で首を振った。

「俺が言うと、気持ち悪いかもですけど……神様に会ったっぽい気がしました」

「神様……か」

どうもあの男は、悪党の親玉を務めるのに違和感が有る。町会活動に、ボランティアに、寄付、迷える未成年の悩み相談室などなど、殺しとはとことんかけ離れた支部だ。倉子もそうだが、楽しそうに笑う青年が出入りする支部なんて、見たことも無い。アマデウスのオフィスは、それこそ大手企業ばりにピカピカだったが、歩いている人間はバリバリのビジネスマン風の殺し屋なのだから、それはそれで異端だが。

一般的には、他人と群れることもなく、仮に集まっても、スモークの香りが立ち込める男臭い現場で、数人が黙々と行き交い、時折、支離滅裂なことを喚いている奴が居る。昨日すれ違った人間が、何かのミスで死んだり、警察にしょっぴかれても誰も気にしないような人間の集まりが、殺し屋というものだ。

「大学もたまに折れそうになることあるけど、此処来ると元気になるっつうか……やっぱ楽しいッスよ」

何しててもね、と仕事には関与の無い町会資料を前に笑う。そもそもこの手伝いとやらも、力也や倉子がやると言い出して始めたことだという。

「リッキーには、大事なとこなんだな」

力也は頷いて、一通り判を押したものを一枚ずつ取ってはまとめながら、しみじみと言った。

「大学行くか迷った時も、十条サンに『勉強はダメでもやらないより良い』って言われたからなんです。『行かせてもらえるなら、有難く行きなさい』って。その方が親孝行になるよって」

「そのリッキーの夢が殺し屋ってのはどういうことなんだよ?」

どう見ても好青年の彼が、おかしな方向に教育させられていまいかと思ってしまう。やめろと言われているだけマシだが、力也のその気が揺らがないのはどうしたわけか。

「んー……やっぱ、カッコいいって思っちゃったからかなあ。十条サンも、さら姉も優しいし、未春サンは俺のヒーローだし。あ、センパイも」

「……そんな支部ここだけだぞ。ほとんどは一般人ヅラした人でなしの集まりなんだからな。俺も未春もその一部だ」

「そうッスよね」

意外にも、力也はあっさり頷いた。

「……たまに、ちょっと怖えなって思います」

被せられる意外な言葉に、ハルトは首を捻った。

「どこら辺が?」

「わかんないッス」

それがわからんから、彼は此処に居座るのか――頭を抱えそうになるハルトに、力也はがしがしと頭を掻いて、懸命に筋肉で鎧われた頭脳を動かしているようだった。

「俺……うまく言えないッスけど、ラッコちゃん以外のみんな、違うとこで生きてる感じです」

「同じ世の中に居るから怖いんじゃないのか?」

苦笑したハルトに、力也はプリントの束を持ったまま、首を捻っていた。

「そういえばそッスね。でも、未春サンが殺すとこ目の前で見ても、なんか……違うとこで起きてる気がしました」

「うーむ。そこら辺だけ、リッキーはマトモだと思うが」

「センパイは違うんスか?」

「まともなワケないだろ。バンバン倒してたって自分で言っただろうが」

千間のような殺人鬼と同一視されたくはないが、自分がまともであるなどと偉そうに言えた義理ではない。今、ごく普通の社会貢献とやらに尽力していることの方が、どう考えてもお門違いだった。

「銃って……どんな感じなんスか?」

「便利な殺人飛び道具」

「へえ……十条サンは、えーと……『持ったらお終いの覚醒剤と同じ』って言ってました」

「上手いな。言いたいことはわかる」

一度持つと、無いこともストレスになり、有ることもストレスになるのは、確かに同じだ。持ってしまうのは容易いのに、手放すには相当な苦労を要するところも似ている。

「センパイ、百発百中って聞きましたけど、マジっすか?」

百発百中はいくらなんでも言い過ぎだが、遠隔射撃はともかく、中距離以下の狙撃や拳銃にはまあまあ自信がある。戦歴を説明しても良かったが、自慢することでもないのでやめにした。

「脱落エリートの俺でも、飛ぶ鳥を落とすのは超得意だったよ」

半ば冗談だったが、力也は案の定、目を輝かせてしまった。

「えーすげえ! 超見たいッス!」

「……いいけど、リッキー、銃刀法違反て知ってる?」

「ちょ、センパイー知ってますよーそのぐらい!」

日本の平和を守っておられる法律を笑い飛ばすと、力也は作業に戻っていった。

そこへちょうど、さららがマグカップ二つを持ってキッチンからやって来た。

「今日は暇ねえ……二人とも、トオルちゃんの雑用おつかれさま」

湯気を立てるコーヒーと、余ってしまうからと、アーモンドスライスとチョコレートがたっぷり乗ったドーナッツを出してくれる。

「やったー! ありがとうございまーす!」

ちびっ子のように喜ぶ、でっかい大学生が面白くて、さららと顔を見合わせて笑ってしまう。

「ハルちゃん、悪いんだけど、トオルちゃんに持っていってもらえる?」

「いいですよ」

気軽に応じて、ドーナッツとコーヒーが乗った盆を受け取った。十条のオフィスは、彼の寝室兼用で、八畳間ほどのごく普通の部屋だ。

「十条さん、さららさんからおやつもらいましたよ」

ノックすると、間延びした返事が返って来た。

扉を開いて覗くと、寝室を兼ねたその部屋は、窓以外を天井まで届く本棚が占め、申し訳程度のクローゼット、セミダブルのベッド、最も地獄と化している机が有った。何処までが机なのかわからない程、パソコンを中心に本やファイルが山積みになり、収まりきらないものが紙袋に突っ込まれてそこ此処に置かれている。

部屋の各所では紙束や新聞の山崩れが発生し、仮に床が道路であるならば数日は復旧不能に思われた。

彼はパソコンの前に置かれた椅子に腰かけ、掛けていた眼鏡を外して振り向いた。

「わーい、嬉しいーありがと、ハルちゃん」

近付きがたいので空中に腕を伸ばして手渡すと、彼は嬉しそうに両手で受け取った。

“菓子は何でも食う”と未春が言っていた通り、彼は甘いお菓子は何でも好きだったが、この店に出ているものは格別愛しているようだった。

「凄いですね、この部屋」

アマデウスが見たら気絶してしまいそうな部屋を眺めると、彼はドーナッツを齧りながら気恥ずかしそうに笑った。

「たまに未春が掃除してくれるんだけど、すぐにこうなっちゃうんだよねえ」

「通販もやってるって言いましたよね。顧客情報とか大丈夫ですか、これ?」

自分が顧客でも不安になる状態に苦笑すると、十条は頭を掻いて頷いた。

「そっちはデータ管理だから大丈夫。BGMの方もぽいぽい捨てられるからいいんだけどさ、問題は町会とかの方面なんだよねー……ずっと同じ人が役職やるわけじゃないから、昔の資料とかファイリングして、どんどん溜まっていくわけ」

なるほどな、と青色の分厚いファイルがいくつもあるのを眺め、そうした事と無縁だったハルトは何度か頷いた。引き継いでいくものは、なかなか廃棄できないものらしい。

「こんなに忙しくして、体は平気なんですか?」

「君たちが手伝ってくれるからね」

にっこり笑われると、もう何も言う気が無くなる。常に仕事を抱えていないと落ち着かない人間は、少なくないが。

店に戻ると、さららが礼を述べてから、ちょうど見えていた回覧のプリントを指さした。

「ね、ハルちゃん、バス旅行行かないの?」

「あー……初日に言ってましたね……」

あの未春が、「しんどい」と表現していた町会の日帰りバス旅行の話に、ハルトは苦笑いを浮かべる。さららが示すプリントも、案内の用紙だ。丸ゴシックの文字に、ポップなバスのイラストのそれは、若者の気は引かないが、年配者は読みやすかろう。

「何処行くんでしたっけ?」

「今回は鎌倉。なんと三千円!破格でしょ?」

参加層の九割を占めるご年配の皆さんと話が合うように見えないが、さららは楽しみにしているらしい。

考えておきます、と曖昧に答えて、ハルトは不思議そうに首を捻った。

「鎌倉、好きなんですか?」

「ううん……何処でもいいの。トオルちゃんが企画した旅に行きたいだけ」

テーブルに頬杖ついてやんわり微笑んだ顔は、やっぱりどこか寂しそうだった。

――どうしてこの人は、十条の話をするときにいつも悲しそうにするのだろう?

普段のやり取りや、未春の話からして男女の関係なのは間違いないのだが、見た目より上手くいっていないのだろうか?

聞いていないと思っていた力也が、うまそうにドーナッツを頬張りながら口を開いた。

「十条サンの企画って、楽しいッスよね」

「え、リッキーも行ったことあんの?」

「あ、俺は此処の町会じゃないんでバス旅行は無いッス。でも、此処の皆で旅行行ったことはありますよ。十条サンはイベント企画とか、市の祭りに出店したりとか、そういうのめっちゃ上手いんです」

「昔からそうなのよ。ハルちゃんの歓迎会みたいなものから、旅行企画まで、なんでも計画するの。趣味みたいなものよ」

「一人居ると助かるタイプですね」

「そうね……あっちこっち引き受けてくるから、いつも机がごっちゃごちゃだけど」

「本当にごっちゃごちゃでしたよ。IT化は、十条さんのオフィスに即刻必要だな」

「そんなにひどいんスかあ?」

上司を肴に笑い声を立てていると、カラカラと入口が開いた。

未春だった。非番だった彼は何処に行っていたのか、薄いファイル片手にいつもと変わらぬ様子ですたすた歩いてくると、ごく当たり前のように隣に腰かけた。

「おかえり未春。何か飲む?」

「いえ――それより、さららさん、仕事なんですけど」

その言葉に、目に見えて彼女の表情は強張った。片腕をもう片方の手でぎゅっと掴むと、さららは尋ねた。

「……いつ?」

「明日です」

無機質な声に、さららは夢遊病患者のようにふわふわと頷いた。

「……わかったわ。リッキー、ハルちゃん。ごめんね、明日からお休みもらうから」

ごめん、ともう一度謝るさららに、二人の若者はそれぞれに首を振った。

彼女の顔は喋っている間にもどんどん蒼白になり、何やら不安になる。

「大丈夫ですか? 何なら俺がやりますけど……」

「ううん、いいの。私に来るときは、私にしかできない時なの」

どうあっても、毒殺でなくてはならない依頼か。残念ながら、ハルトもそちらの知識は疎い。標的にこの毒を飲ませて来い、などと言うならできるだろうが、例えば行き先が男子禁制の場所だったり、数回に分ける必要があると、少々難しい話になってくる。

また、この毒殺や薬殺の場合、依頼主が正真正銘の一般人であることが多く、BGMの名前すら知らぬ依頼人から受諾することさえあった。

「たぶん……一週間くらい空けちゃうわ。カフェ休んじゃって悪いけど」

「いいッスよ、さら姉。ゆっくり休んで下さいッス!」

わかって言っているのか知らないが、ともかく誠心誠意、心配している様子の力也に対し、ハルトは訝し気にさららを見た。

「もしかして、現場が遠いんですか?」

「ううん……それはあまり関係ないの。私ね、回復がすごく遅くて。お恥ずかしながら」

腕を掴んだまま、さららはあの寂しげな微苦笑を浮かべた。

……と、いうことは、キリング・ショック解消法に難があるのだろうか?

ハルトは氷食いという、負担はあれども手軽だが、稀に奇怪なタイプも居るには居る。過去会った殺し屋で印象に残っているのは、必ず山に登りたがるヤツだ。無論、ハイキングレベルの山ではなく、フル装備で行く標高の高い山である。登る内に消化されるらしく、面白いのは仕事の内容に応じて標高が変わる点だ。故にいつも仕事と別に登山の準備をして挑んでいた。

「さららさんの代わりは無理ですけど……いいんじゃないですか、たまに休んでも」

「……ふふ、ありがと。リッキーもハルちゃんも優しい」

さららが笑顔を見せたので少しほっとした。殺しの仕事に気後れはあるようだが、十年以上の経歴持ちはBGMの中ではベテランだ。強いて言えば、今日のファイルが先日のハロウィンのお飾りのファイルならば言うことなしなのだが。

その夜、夕飯の席で、十条も出掛けてくると言い出した。

「未春、ハルちゃん――僕、今日から一週間くらい、こっち帰らないから宜しくね」

「はい」

「十条さんもどこか行くんですか?」

「いや、夜に此処に帰らないだけ。基本的に仕事には戻るよ」

「……?」

不思議そうに見ていたからだろうか、後で食器を洗っていると、そっと近付いてきた未春が小声で言った。

「ハルちゃん、十条さんはさららさんとこに泊まるから」

「は……!?」

持っていた皿を滑り落としそうになりながら、ハルトは驚愕を露わにした。足元で八の字を描いていたビビが驚いてダッシュする。

「千間の時も思ったけど……やっぱあの二人ってそういうアレなのか……!?」

思わず十条の部屋の方を見る。未春は二、三度瞬いたが、そこには触れずに答えた。

「さららさんは、キリング・ショックを解消できないんだよ」

「できない? ……できないって――どういう……?」

さららが、千間のような快楽殺人者である筈がない。そう伝える目に気付いているのか、未春は機械的に首を振った。

「一人で殺しのストレスを解消できないってこと。夜は十条さんが居ないと寝られないし、どうしても十条さんが居られなかった時は、半狂乱になって大変だった」

昼間は憔悴しているだけなのでまだ良いのだが、夜になると「トオルちゃん」と叫び声を繰り返し、睡眠薬でもどうにもならない興奮状態に陥る。いつか、仕方なく轡を噛まされた彼女は、涙と涎を垂らしながら十条のベッドを引っ掻き続け、シーツと爪先をぼろぼろにしたという。

「じゃあ、こないだは……何も無かったってことか?」

廊下を隔てているとはいえ、十条の部屋は遠くはない。さららが宿泊した日、覚悟していたような音はしてこなかった。殺人後でなければ一緒に寝ても何もないなど、そんな妙な男女関係聞いたことも無い。

「静かにやったのかもしれないよ」

「静かにって、お前な……」

「仕事の後は結構スゴイよ。十条さんの声は殆ど聴こえないけど、さららさんは叫びっぱなし。だからうちに来るのは、台風や大雪の時とか……どうしようもない時だけ。俺は気にしないけど、ハルちゃん気まずいだろ?」

「…………」

なあーにが、壁薄くないからね、だ。

「……なんでお前、気まずくないの?」

「さあ」

感情のすべてが息絶えたような目で言う為、嘘だろうと詰(なじ)る気にもならない。

「そんなにヤバいなら……やめさせりゃいいのに」

吐き捨てる青年に、テーブルを拭きながら未春も頷いた。

「俺もそう思う。でも、さららさんがやめないんだと思うよ」

「……十条さんが足洗って、結婚すればいいだろ」

「ハルちゃん、頭いいね」

少々感心した様子の未春だったが、小さく首を振った。

「けど、十条さんはBGMをやめないよ」

「なんでだよ」

「……やめないよ。あの人は、そういう人だから」

あの人こそ、辞めた方がいいのにと、こぼすハルトに未春は何も答えなかった。



 カフェが休みになると、仕事はいっそう暇になった。

そもそも、椅子やソファがそんなにどんどん売れる筈もなく、ベースサイド・ストリート自体が閑散としているのだから無理も無い。未春目当ての女性客がやって来たり、町会関係者や役所の人間がやって来たり、スズとデビューし立てのビビの友達……人間だったり猫だったりがやって来たり、まあそんなものだった。

その日は、雨が降っていた。

秋雨らしい、穏やかだが、寂しい色の空から降る雨だった。

外を掃くこともできず、未春と店内清掃に明け暮れていたハルトは、久方ぶりのカラカラという入口の音に顔を上げた。ビニール傘をはたいて傘立てに立てていた制服姿は、明らかに女子高校生だった。制服などどれも似ているが、倉子の制服と同じだと気付いて、友達だろうかと首を捻る。

いらっしゃいませ、と告げると、少女はきょろっと周囲を見て、遠慮がちに尋ねた。

「……あの……未春さん、居ます?」

「うん? 居るよ。ちょっと待ってて」

キッチンの台を鏡面のように磨いていた青年を呼ぶと、未春は塩素の香りを纏ったまま、すたすたとやって来た。

瑠々子るるこちゃん」

未春の姿を認めた少女は、急に背筋を伸ばし、しっかりメイクをした目をぱちぱちさせると、ばっちりブローされたロングヘアを撫でた。

――ははあ、そういうことかとハルトも気付く。

「ハルちゃん、ラッコちゃんの同級生の瑠々子ちゃん。こっち、うちの新人のハルちゃん」

「……どーも」

紹介するときに“ハルちゃん”はやめろと思いつつ、ハルトは板に付いてきた愛想笑いを浮かべた。瑠々子と呼ばれた女子高生は、慌てた様子でぺこっと頭を下げた。拍子に浮いた短いスカートが気になったが、幸い、彼女の後ろに通行人は居なかった。

「こ……こんにちは。湖口瑠々子こぐち るるこです」

かなり挑発的なスカート丈のわりに、少女は引っ込み思案にすら映る仕草で、もじもじと髪をいじった。少女の邪魔をしては悪いと思い、挨拶もそこそこにハルトが掃除に戻っていくと、彼女は手の甲を落ち着かない様子でさすりながら、口を開いた。

「……未春さん、その……あのこと、やっぱりお願いしたくて……」

――あのこと?

商売柄、聞き耳を立ててしまうハルトはできるだけ距離を取ったものの、少女の高い声は店に響いてどうしようもなかった。

「瑠々子ちゃん、そのお願いは、大人になってからって言わなかったっけ?」

未春は咎めるでもなく、本当に『言ってなかったっけ?』の口調で尋ねた。少女はきゅっと唇を噛んで頷いたが、すぐに首を振った。

「今……今じゃないと困るんです。私……こんな辛いの、もう嫌なの!」

――おいおい、まさか告白?

この支部はそんな甘酸っぱいことまで起きるのかと思いつつ、見えない所に居た方がいいかなとハルトが背を向けたとき、少女の口から出たのは信じ難い一言だった。

「あの女たち、みんな殺してほしいの……!」

聞き間違いを祈りたくなるが、その声は掠れつつも強く響いた。

女子高校生が、殺しの依頼?ハルトは耳を疑った。いやいや、この支部のことだ。もしかしたらゲームの話かも、などと思ってみるが、未春がのっそり首を振った為、望みは絶たれた。

「悪いけど、俺は君の依頼を直接受けられない。十条さんを通してくれる?」

「そんな……じゃあ、そっちの人は?」

いっそ隠れてしまった方が都合が良かったが、指を指されてしまってはどうにもならない。仕方なく近付いたハルトは、無表情の未春に文句を言うような顔をした。

「一体どういうことだ? なんでこの子は“知ってる ”?」

「リッキーが口滑らせた。普通は本気にしないけど、この子は駄目だった」

あいつ、良い奴だけどクビにした方がいいのでは?がっくり肩を落とす青年に、少女は真剣な目を向けた。

「お兄さんも殺し屋なの? お金払えばやってくれる?」

「あー……一応聞くけど、誰を殺したいの?」

少女は一瞬怯んだような顔をしたが、苦虫でも噛むような顔で言った。

「……クラスの女、四人」

「ふーん……でもさ、瑠々子ちゃん、だっけ。人殺しは犯罪だよ」

「そ、そんなのわかってます……!」

何を、と聞いてやりたかったが、ハルトは腕組みして、あくまで静かに問い掛けた。

「じゃ、俺に犯罪行為させといて、君は知らん顔ってこと?」

「……そ、それは……! で、でも、あんな子たち、最低だもの……人のこと……馬鹿にしてばっかりで……居ない方がいいわよ!」

なるほど――さては、この子か。以前、倉子が話していたイジメの被害者とやらは。

「殺したいほど、馬鹿にされたのか。気の毒だけど、それなら……殺す前にやれることが他にあると俺は思う。ラッコちゃんは、君のこと心配してたぞ」

「知った風なこと言わないで! 自分でどうにかできるならやってるわよ! 仕事なんでしょ? お金払えばやるんでしょ? やってよ!」

だいぶ追い詰められているらしい。大人しそうな口調から急にヒステリックに叫び始めた少女に、つとめて冷静に首を振った。

「『金さえ払えば』って言われるの、あんまり好きじゃないんだ。悪いけど、俺もお断り」

「な、何よ……プロのくせに……!」

そう言った瑠々子に、横からすっと差し出されたものがあった。それを見たハルトが、咄嗟に未春を睨みつける。

「おい! そんなもの出すな!」

掴み掛らんばかりに怒鳴った声に驚いたらしく、瑠々子の方がびくっと身を震わせる。

未春が凡庸に差し出していたのは、柄に納まったナイフだ。果物ナイフなんて、可愛いものではない。すぐ傍の基地にはありそうな、刃渡り10センチはある鈍色の太いグリップをした、戦闘用の両刃ナイフ。

「ハルちゃん、何怒ってんの?」

「当たり前だろ! さっさとしまえ!」

「でも、瑠々子ちゃん困ってる」

「未春、お前……!」

胸倉掴み掛るハルトに全く動揺せず、未春はきょとんと瞬いた。

「だから、なに怒ってんの? ハルちゃん?」

壊れたテープレコーダーのような男を殴らんばかりに睨みつけ、ハルトは吐き捨てた。

「この……性格破綻者が……!」

ハルトが突き飛ばすようにシャツを離すと、未春は何事もなかったように襟を正し、目を丸くしている少女を振り返った。

「瑠々子ちゃん、自分でやるなら貸すよ。終わったら洗って返してくれればいいから」

少女の目はすっかり怯えていた。初めて見るに決まっている戦闘用ナイフを前に、身じろいで首を振った。

「……こ、こんなの……借りたって、私……!」

「殺したいって言ってなかった?」

わざとではない。素で「聞き違い?」などと言ってのける青年を、青い顔で少女が見上げる。不思議なことに、その問い掛けにハルトは十条が重なっていた。もし、未春があの男のように笑っていたなら、間違いなく同類だと思っただろう。

殺しの話をしているとは思えない語調で、凶器を持ってすんなり話す様。

未春が微笑んでいたら――どうだ。神に見えるか、悪魔に見えるか?

「包丁より楽だよ。ここ刺すだけ」

示されるのは未春のしなやかな首筋だ。瑠々子は狼狽えた顔で首を振った。

「……む、無理です。お金なら何とかするから、未春さんが、やってくれない……?」

「何度も言うけど、俺に頼むなら十条さんの許可とって。それと、俺の値段は高校生に払える額じゃないから――」

つらつらと述べられる温度のない声を聞いていた瑠々子は、徐々に歯を食いしばると、急に踵を返した。逃げるように店を出ると、扉も半開きのまま、片手に持った傘も差さずに走っていってしまった。

「お前……その狂った対応どうにかなんねえのか?」

未だ怒鳴り声に等しいハルトの声に、未春はハンサムな顔立ちの眉間を少しばかり寄せた。

「ハルちゃんは、さっきから何を怒ってんの?」

胡乱げに問い掛ける声に溜息を吐きつつ、ハルトは唾でも吐きたい気分だった。

「……ホントのとこ、どうなんだよ。十条さんが許可したら引き受けんのか」

「うん」

「何処の誰かも知らない、女子高生のいじめっ子を殺すってか。変態かよ」

「変なのは、ハルちゃんだと思うけどな」

特に怒った様子も無く、未春は首を傾げた。

「俺は殺した人で、知ってる人なんて誰も居なかったよ」

ハルトは言い返せなかった。同じことを、自分も十条に言ったことがある。

――ヒットした人間に知り合いなんていませんよ――

重いものを呑み込んだ気がした。開いたままの入り口から、水を弾けさせながら爆走する車の音と、騒ぎ立てる雨音が響き渡った。

嫌な雨だ。何かとても、嫌なものを運んでくる気がした。



「おかえり」

そう言って小さな玄関で迎えた男に、泥酔した人間のようにさららはよろめいた。

崩れ落ちるように倒れ込むと、その両腕は優しくもしっかり抱きしめてくれた。すがるように背に手を当て、彼の香りに頬を埋めると、初めてさららは呼吸ができる気がした。さっきまでは香水に煙草に整髪料――キツイものが混じり合う、酷い匂いしかしなかった。

「……トオル“さん”……」

「うん。上手くいったかい?」

十条の穏やかな問い掛けに、胸に顔を埋めたまま、さららは頷いた。息絶える人間を見つめてきた目で愛しい人を仰いだが、玄関ライトの逆光でよくわからなかった。

優しい声だけが、耳に届く。

「いい子だ、さらら。もう終わったんだから、安心して」

「……トオルさん……、トオルさん……――」

胸に頬摺り寄せて、うわ言のように繰り返す女の髪を、筋張った大きな手が撫でた。抱えるようにして玄関から廊下を渡り、まっすぐバスルームに向かった。

暖かい色の照明に、さららが眩しそうに目を細める中、まるで、幼い我が子の世話をするように、十条は彼女の服を脱がせていった。途中から自分も脱ぎ始め、惜しげも無く肌を晒すと、湯にくるまったそこに伴った。シャワーを浴び、さららがいつもより濃い化粧を落とすのを、のんびりと湯船で待つ。

「……トオル“ちゃん”、……もう嫌なんじゃない?」

「……ん? 何が?」

濡れた前髪からぽたぽたと水滴を垂らし、素顔の眉をひそめて、さららは小さく言った。

「……私、もう……あんまり若くないから……」

恥じ入るようなセリフに、十条はポカンとしてから小さく吹き出した。ふわふわ浮かぶ蒸気にチカチカした光みたいな笑いが響く。不安そうな顔をする女に、男は困ったように微笑んだ。

「笑ってごめんね、うーん……でも、ねえ……それは君じゃなくて、僕が気にしないといけないことだと思うな」

「そんなこと――」

言い掛けた言葉は、呼気を吐いて途切れた。湯船からそっと身を乗り出した男は、彼女が気にするよりもずっと可憐な唇に口付けて、朗らかに笑った。

「君の方が、いい加減……こんなオジサンは嫌じゃない?」

湯気をしっとり含んだ髪を掻き上げ、笑い皺を寄せる顔を仰ぎ見て、さららは首を振った。

「……嫌じゃない……トオル“ちゃん”がいいの……そんなこと言わないで……」

「……ごめんよ、そんなつもりじゃない」

悲しく潤んだ瞳に謝ると、彼女はもう一度首を振った。

出会ってから十八年間、見つめ続けた瞳を仰ぐ。やはり暖色の光は眩しく、温かくも冷たい蒸気は、男の目の色を曖昧にぼかした。

白いローブを羽織ってバスルームから抜け出る頃、とっくに陽の落ちた廊下は真っ暗で、手を取ってくれる人に従うと、暗い森を歩いているようだった。

きっと、いつもそうだった。

私は未だに、暗い森を歩いている。連れて行こうとする、優しい手を愛したまま。

あっという間に冷えた足で行き着くそこは、女性の部屋だということを差し引いても、寂しいぐらい片付いていて、シンプルな部屋だった。

一つくらいは置いていそうなキャラクターグッズも、可愛らしい雑貨や小物も無い。

素っ気ないカーテンに、壁は小さな穴の開いた防音パネルで覆われ、ごく単純な表記のカレンダーが貼ってある。備え付けのクローゼットと、小さな机、一人暮らしの女性にしては大きなダブルベッドがあるぐらいで、他に目立った家具は何もなかった。

強いて言えば、壁には様々な形の額に納まった写真が飾ってあった。いずれも埃が払われ、綺麗に保たれている。その殆どにDOUBLE・CROSSの面々が写っていて、つい先日、ハルトの歓迎会で撮られた写真もある。

唯一、ベッドのヘッドボードに付いた棚に、立て掛けられている写真が一つあった。高校生のさららと、若い頃の十条、少年である未春、明るい笑顔の女性と、小さな女の子が写っていた。その手前に錠剤が半分ほど入った瓶が一つ置いてあるのを見て、十条は悪戯を見つけた親の様な目をした。

「……やっぱり、薬はやめられない?」

早くも冷たくなりだした体をベッドに横たえて、十条はそっと尋ねた。

さららは返事をしなかったが、目を逸らす。静かな部屋に、雨音と、川のような国道の音が聴こえた。

「これを飲むくらいなら、呼んでくれればいいのに」

「……トオル“さん”、忙しいもの……」

「昼間寝るから平気だよ」

「それじゃあ、私はいつ寝ればいいの……?」

ようやく少しだけ微笑んだ唇に笑い掛けて、男はそっと口付けた。熱に赤らむ耳元を、仰け反る喉元を、豊かな胸元を、慈しむように――或いは蝕むように、食んでいく。

「トオル“さん”……、お願い……」

徐々に荒くなる吐息に、さららは言葉を乗せて呻いた。

「……離さないで――……私、何でもいいから……、ずっと、ずっと傍に置いていて……」

髪や背にすがる細腕にされるがまま、十条は温かくなっていく肌に触れ、宥めるように這わし、抱き締め、言葉を失っていくさららの耳に囁いた。

「……安心して、さらら」

その声は、涙をこぼして、背に爪立てる彼女の耳に届いただろうか。

「僕たちは、ずっと一緒だ……“家族 ”なんだから」

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