4.Hit.

ごうごう流れる国道の車のように、あっという間に時が過ぎる。

秋晴れが爽やかな土曜の午前中、客が途切れた為、ハルトは午前が非番の未春に倣って表の掃除をしていた。ヤシばかりの街路樹だというのに、何処からともなくやってくる広葉樹やらカエデらしき枯葉を掃いていると、猫のスズがやって来た。ペット用出口があるとはいえ、この猫は体の重さで引き戸やレバー式の扉は難なく開けてしまう器用な猫だった。

店の表までのしのしと歩いてくると、コンクリートの日だまりにごろりと横になる。

地響きのような国道と、耳の奥を刺激する飛行機音が騒がしい中、スズは餅を返すように日向ぼっこをし始めた。猫一匹がそこに居るだけで、土日は多い通行人が立ち止まり、さざめき合ったり、写真を撮ったり、カフェに入って行くことも多かった。

「お前、良い看板娘だな」

声を掛けると、スズは薄緑に見える目をゆっくり瞬かせ、笑っているような顔をすると、振れもしない丸い尾をもこもこと動かした。

「ハルちゃん、スズ様と仲良しなんだね」

呟いた声にハルトが振り返ると、害獣保護 JKの倉子が、感心した顔で立っていた。彼女がしゃがみこんで鼻の頭を撫でると、スズは地鳴りのような音を立てた。

スズさんに、おスズ、お嬢にスズ様……色々な呼ばれ方をしているようだが、猫はいつも自分のことだとわかっているようだった。

「……嫌われてはいないな、たぶん」

自分のベッドがあるにも関わらず、初日からずっと、スズはハルトの部屋――もとい、朝方は腹の上で寝る習慣になっていた。

「好かれてるよ。動物は、嫌いな人の近くには行かないもん」

「ラッコちゃんも好かれてるね」

おとなしく撫でられる猫は、気持ちが良さそうだった。倉子は年頃の女の子らしく嬉しそうにはにかんだ。

「そうだといいな。あたし、人間より動物のが好きだから」

疑う余地のない発言をして、倉子は立ち上がった。

「ねえ、ハルちゃん。今日の午後空いてたでしょ。ヒマ?」

「今のところは」

「十条さんと出掛けるの。一緒に行かない?」

「……いいけど、何処行くの?」

「行ってのお楽しみー!」

そう言うと、倉子は人の増えてきた店内に身を翻していった。

「何処だか知ってるか?」

ほうき片手に見下ろす青年を、猫はじいっと見つめてから、しゃがれた声でニャッと短く鳴いた。

午後になると、へろへろの体で起きてきた十条は、待ちかねた様子の女子高生にせがまれるまま、食事も突っ込まれるようにして車へと連行された。

店の裏手に回った先の駐車場には、数日前に免許切り替えに付き合ってくれたさららのアイボリーの軽自動車が有る。その隣に停めてある車が、十条のものだった。

艶のある黒いボディがスマートな印象のハッチバック・セダンだ。スポーツカー寄りのスタイリッシュな車で、先日からなかなか良い車だと思っていたが、当の運転手は日差しによろけつつ、ようやくジーンズから鍵を引っ張り出していた。

「……そんなフラフラで運転できます?」

不安になったハルトが尋ねると、十条はハッと顔を上げた。

「そっか、ハルちゃん免許切り替えてたよね?」

しまった。墓穴を掘ったか。事故っても知りませんよ!というこちらを運転席に押し込むと、意気揚々、女子高生と一緒に後ろに乗り込む上司である。

「どうせなら左ハンドル見たかったなあー」

後部座席でのたまう呑気な上司に呆れつつ、ハルトは後ろを振り返った。

「ところで、何処行くんですか?」

「あ、そうだね、カーナビ入れよう」

無茶な姿勢で入力するそれを、物珍しそうにハルトは眺めた。

「俺、カーナビ初なんですけど」

「おっと、そうか……アメリカってあんまり使わないんだっけ?」

「まあ、スマホあれば十分ですから」

「十条さん、何か音楽も入れてー」

「おっけー」

〈目的地まで案内を開始します〉

何処かで聞いた気がする洋楽ポップスを背景に、にわかに喋り始める車はバットマンの映画を思い出した。勝手に動きそうな車を発進させると、初めて侵入する国道に滑り込む。狭いことは狭いが、住宅街よりも米国育ちをほっとさせた。まずまずの出だしだったのか、十条は快適だとにこにこ笑っていた。

「前の上司の運転もしてたのかい?」

「いいえ。あの人の運転手は格別上手い奴と決まってるんですよ。自動車を輸送船に“積み付け”できるぐらいの神業ドライバー限定です」

「それは凄い。やっぱり物騒だからかな?」

「いいえ、ご自慢の高級車に傷を付けたくないだけです」

日本のハイブリッド車は、放っておいても運転してくれそうな滑らかな走行だった。そういえばアマデウスは悔しそうだったが、日本車は出来が良いと言っていたのを思い出す。

「ねね、ハルちゃん、映画みたいなカーチェイスしたことある?」

子供のように前のめりになる倉子に、ハルトは苦笑いを浮かべた。

「無いよ。窃盗犯や警察じゃないんだから」

「えー。ギャング同士の抗争とか無いの?」

「十条さん、女子高生に抗争なんて言葉教えないで下さいよ」

「ええー……僕じゃないよ。リッキーじゃないの?」

「銃撃戦みたいなのも無いの?」

「ラッコちゃん、ギャングも居るけど、アメリカのカーチェイスや銃撃戦は、ほぼ犯人対警察だよ」

アメリカ人ほどカーチェイスが好きな人類は居ない――などと言われても仕方ないほど、まあまあ起こるし、映画はわりと本当のことだ。逃げ切ろうと突っ走る犯人も犯人だが、何より警察車両が凶暴で、場所によっては何十発もバカスカ撃ちまくりながら追い掛けてくるのだから、あれでは追われる方も停車する気にはなるまい。

「ふーん……それじゃ、警察見るとドキッとしたりする?」

「あんまり。そんな顔して声掛けられたくないから」

「こらこら、物騒なことばっか聞くんじゃないの。ハルちゃん、次の信号を左ね」

などとやっている内に、辿り着いたのは大型商業施設だった。といっても、連れられたのは中ではなく、屋根のある屋外だ。人工芝がちょっとしたスペースを確保したそこには、会議室で使うような台が設置され、上には正面以外に布を被せられたケージがいくつも並べられていた。多くの人が、スタッフに従ってそっとケージを覗き込み、そうっと笑みを浮かべたり、同伴者と何事か話し合ったりしている。すぐ近くには何人かのスタッフが様々な種類の犬を連れていて、やはり色々な世代の人々が屈んで話し掛けて行く。

「保護された犬や猫の譲渡会なの」

倉子の説明に、ハルトは合点がいったように頷いた。

「ラッコちゃん、何か飼うの?」

「ううん、ウチのマンションはペット禁止」

害獣を保護するほど動物好きなのに飼えないのか。それは気の毒だなと思いつつ、ハルトは首を傾げた。

「それじゃ、何しに?」

「お手伝い。ボランティアよ」

「ああ……そういうこと。十条さんもですか?」

体よく連れて来られたが、逃げ出すほどのことでもない。十条は十条で、気楽に頷いた。

「そう。前にも何度かね。ラッコちゃんが何かしら保護する度に、この主催者さんたち……保護施設にお願いしてたら、なんだか悪い気がしてきちゃってさ」

「スズも、こういうところで?」

「あ、おスズは違うんだ。あれは店に勝手にやって来たんだよ。飼ってくれって感じで」

不思議でしょう、と十条は笑うと、顔見知りのスタッフと挨拶をした。

新入りのイケメン連れてきました、などと笑っていたが、どうやら彼自身、人気があるようだった。背が高いだけでも人目を引くが、あの目尻が少し下がる大らかな笑顔は、好感を持たれるのだろう。倉子も動物の扱いに慣れていて、接客業をしているだけに愛想もよく、いつもよりしっかり者に見えた。

「ハルちゃんには、この子達の近くに居てあげてほしいの」

ぼんやりした青年を、リードに繋がれた犬たちの前に引っ張って倉子は言った。

「譲渡会デビューの子が多いの。緊張してるから、時々休憩してほしくて。ハルちゃんはスズ様と仲良しだから、この子たちも安心できるんじゃないかなーと思ったんだ」

「犬飼ったこともないけどなあ……」

ぼやいたものの、犬たちは存外、傍に座っておとなしくしていた。

拳銃片手に人殺ししまくってる男の一体何が良いのか、彼らは触られるのを嫌がらず、あまつさえ、ぴったりくっついて寝に入る者も居た。その様子を満足そうに見て、倉子は他の動物の方へ向かっていった。眺めてみると、犬も猫も、表情には随分差がある。

種類がどうという話ではなく、未だ人に怯えているような顔のものもいれば、連れ帰ってほしいと多くの人に尾を振る犬や、まだ何もわからなさそうな仔猫も居た。

人間と変わらないな、と思いながら、初めて見る光景を眺めた。

譲渡会というものは一度で決まることよりも、何度も足を運ぶパターンが多いという。

しかも、飼うと決まっても、一定のお試し期間を設け、その家庭に馴染めるか審査する。飼うに当たっての講習や面接めいたことも行われ、避妊も義務付けられており、二度と捨てられたり、虐待されることの無いように指導を徹底するのだ。

行き場の無くなった者を保護して、育てる、か。

BGMの教育施設に似ているなと思ってしまってから、そんなわけあるかとハルトは自嘲気味に笑った。

あれは、人間の残虐性を合法化する魔の施設だ。一緒にされては犬や猫も迷惑だろう。

倉子は見るからに真剣で、譲渡の決まった飼い主には、深々と頭を下げていた。

「今日で皆、お家が決まればいいのに」

休憩がてら、ミルクティーのペットボトルを両手に倉子は呟いた。最初から同じ位置に座り続けただけのハルトも、同じようにアイスコーヒーのボトルを片手で呷る。

「ラッコちゃん、この子達の親みたいだな」

「最初からそうなら、良かったのになあ……」

こんなかわいそうな目に絶対遭わせないのに、と、倉子は隣に居た、凛々しくも怯えた目の犬をそっと撫でた。犬は嫌がらなかったが、黒い瞳は微かな緊張を漂わせ、ともすれば涙を零しそうだった。

「施設のスタッフさんが、ハルちゃんに驚いてたよ。特にそのずっとくっついてる子、施設の人でも殆ど触らせてくれない子なんだから」

隣に座っているふわふわした毛の白い犬は、確かに悲しい目をしていた。誰かを見ようとするよりも、視線を避けているようだ。

「なんも考えてないからじゃないの?」

苦笑する青年に、倉子はにっこり笑った。

「みーちゃんみたいなこと言ってる」

未春と同じ、か。似てるかな、などと思っていると、不意に倉子の表情が硬くなった。

「……あいつ……!」

急に立ち上がった倉子の膝から、ペットボトルが転げ落ちた。ぐしゃっとした音に傍らの犬が身を震わすが、倉子は構わず走り出そうとしていた。――が、できなかった。どこからともなく差し出された手が、クッションのように静かに受け止めていたからだ。

十条だ。一体いつの間にそこに居たのか?どちらかというとその気配の無さにハルトは驚いたが、倉子はつんのめって尚、弾丸のように跳び出して行こうとして、静かに肩を掴まえられた。

「――駄目だよ、ラッコちゃん。犬たちがびっくりしてる」

「十条さん……! だってあの男……!ナナを殺した男よッ!!」

倉子の轟然と響いた金切り声に人々が振り向き、指差された男も振り向いた。

一見、五十代かそこらの普通の男だが、よく見ると目つきがきょろきょろと落ち着かず、嘘が上手そうな顔をしていた。

「だめ。此処で騒いだら、あの子たちの為に頑張ってる人たちと、せっかく集まってくれた人たちに悪いでしょう?」

「……わかってる……けど……!」

「――なんだい、またそのお嬢ちゃんか」

仇を見るような少女の視線をせせら笑って、男は話し掛けてきた。

「何しに来たのよ! あんたなんかに渡す子なんて居ないんだから!!」

掴み掛っていきそうに吠えた倉子だが、全く身動きが取れないらしい。十条はそっと押さえているようにしか見えないが、人間のどこを押さえれば動けないのか、知り尽くしているようだった。

「すみません、ちょっと興奮しているみたいで。お気になさらず」

やんわりと応じる十条を、男は値踏みするような顔で睨みつけた。

「まあったく、野獣のような子だなあ。どういう教育してるんだ?犬猫の前に、その子をちゃんと躾けたらどうだ?え?」

「何よ偉そうに! 悪徳ブリーダーのくせしてッ! ナナを返してよ!! クソジジイ!!」

少女の全身から発せられる剣幕に、男は急に顔を真っ赤にした。

「このガキ……! あんまり生意気抜かすと訴えるぞ!」

「ああ、申し訳ありません……もう静かにさせますから」

温厚そうな顔を困ったように微笑ませる十条と、猛獣にも劣らぬ形相の倉子を男は忌々しそうに見ていたが、ざわつく周囲に気付いて踵を返した。

「いいか、今度騒いだら絶対に訴えてやるからな!」

まんま捨て台詞の怒号を響かせると、男は駐車場の方へ去って行った。

騒然とした周囲は徐々に落ち着きを取り戻したが、倉子は動悸が治まらないようだった。顔を赤くして、ドクドク鳴る心臓を押さえながら、悔しげに唇を噛む。

「……駄目でしょ、ラッコちゃん。あいつを見ても騒がないって約束したから、連れてきたんだよ?」

俯く少女の双肩に手を置いて、十条は静かに言った。

「……ごめんなさい……でも……――」

「わかるよ。ナナを思い出すんだよね? でも、君が怒って叫んでもナナは戻らない。だから、いま困ってる子たちを助けてあげようって、僕と約束したじゃないか」

優しい声に諭されて、倉子は泣きそうな顔になりながら、小さく頷いた。

そこへ、すたすたと近付いてきた影がある。

「ハルちゃん……どこ行ってたの?」

気付くと居なかった青年を、わずかに咎める口調の倉子に、ハルトは肩をすくめた。

「ちょっとトイレに」

未春のような硬質の声音で答えた青年を、少女はこいつも憎らしいとばかりに睨みつけたが、自身の両頬をパン!と叩くと、譲渡会の方へ戻って行った。心配そうなスタッフと笑顔で言葉を交わすところを見る限り、大丈夫そうだ。

溜息を吐いた十条は、青年の傍に立って少女に目を細めた。

「――ホントは何処行ってたのさ、ハルちゃん」

「すぐそこの駐車場です」

とぼけた様子の青年は、後ろ手に空っぽのコーラのペットボトルを二本も持っていた。

十条は肩をすくめて笑った。

「君はなかなか、人間味のあるヒットマンだねえ。誰だか知らないのに」

「ヒットした人間に知り合いなんていませんよ」

「君は少し、未春に似てる」

そうかなという青年に笑い掛けて、十条は軽く目元を伏せた。

「さっきの男は悪質なブリーダーでね。愛護法に引っ掛かった事もあるし、保護施設や愛護団体にもマークされている。どうせ認可は下りないけれど、市場を探るみたいに見に来るのさ……一種の病気だね。嫌な男だ」

「ラッコちゃんが殺し屋志望の原因はあの男ですか……ナナというのは、動物ですよね?」

「うん。ナナは猫。保護猫では珍しいアメリカン・ショートヘアでね、ラッコちゃんも居た譲渡会で奴に渡った。義務付けられた避妊処置を偽装されて、ひたすら子供を増やすことをさせられたんだ。産めなくなったら放置されて、あの子は衰弱死した……許せないことだよ」

静かにそう言ったが、その目には軽蔑と憤怒が滲む。よくあの場で怒鳴り返さなかったと感心する程度には、十条は怒っているようだった。

「人間味なら、貴方の方がそうですよ。なかなかできません、ああいう対応は」

殺し屋には特に――付け加えない一言を察してか、十条は首を振った。

「そんなことないさ……僕はあの未春を育てた叔父だよ」

一生懸命活動する倉子を眺めながら微笑むと、面白そうに空のペットボトルを見た。

「アメリカではそういうの、よくやるの?」

「まさか。アマデウスさんに見つかれば、間違いなく素行不良で禁固刑に遭いますね」

――そう、車の給油口からコーラをぶち込む破壊工作など、叱られるでは済まない。

「怖いねえ。よく、どの車かわかったね」

「そこでぼーっとしてる時、降りるとこ見てましたから」

「わあ。給油口だって車のカギ開けないと開かないでしょ。どうやるの?」

「企業秘密で。ベンツだったからわかりやすかったです」

「恐ろしい。パンクなら可愛いものだけどねえ……」

「日本はカメラ多すぎなので、そっちの方が恐ろしいですね。映ってないと思いますけど」

「君がそう言うなら大丈夫だろう。いやあ、違うカメラを取り付けたいね……どのくらい走行して、どんな具合に壊れるのか見てみたい」

自身がイタズラを仕掛けた様な男に苦笑を返して、ハルトはペットボトルをゴミ箱に証拠隠滅した。暗闇に消えて行くペットボトルは、スコン、スコン、と何やら痛快な音がした。

「ラッコちゃんには言わないで下さいね」

「言わないさ。真似されたら困る」

確かに、と答えた青年に、十条はあの目尻の下がる人の良い笑顔を浮かべた。

「帰りは僕が運転するよ。皆にお土産買って帰ろう」



「ね、未春」

声を掛けたさららの声に、展示品のソファーの埃を払っていた未春は顔を上げた。

「お客さん来るまで、休憩しない?」

「はい」

青年は素直に頷くと、はたきを片付けて、カウンターにやって来る。土曜は比較的混む店内だが、夕飯時が近付くと店は静かになった。軽快に回るシーリングファンの下、陽気で滑らかなジャズピアノと、コーヒーの香りが浮かんでは漂う。

「未春さ……ハルちゃんのこと、どう思う?」

「どう?」

「気が合うんじゃない? 仲良くなりそうだなって思ってたの」

「さあ、わかりません」

いつもの無表情で答えると、呼吸しているかも怪しい顔で静かにコーヒーを飲んだ。

さららはその回答をつまらなそうな顔で聞くと、同じようにカップに口を付けた。

「ハルちゃん、家では何してるの?」

「部屋ではどうしてるか知りませんけど、文庫本は置いてありました。筋トレしたり、スズさんと遊んだり、パソコンできるから、十条さんに町会なんかの資料作り手伝わされてます。あとは自分の銃のメンテしてて……十条さんのベレッタとグロックもやらされてました」

「やらされてばっかりね」

光景が目に見えると、さららは笑った。

「あと、メシ作んの上手いです」

「あら、未春に言われるなら相当な腕前ね。何作ってくれるの?」

「名前忘れちゃいましたけど、牛肉とか玉ねぎ炒めたのとチーズをパンに挟んだやつとか……チーズどっさり乗ったマカロニグラタンみたいのと……海老と野菜煮たカレーっぽいやつとか……あと、スパムの炒飯がうまかったです」

「なんだかアメリカっぽい。いいなあ……私も今度食べさせてもらおっと」

楽しそうに言うと、さららはコーヒーに口を付け、しばらく沈黙した。国道の音が遠く響き、その上をタップダンスを踊るように、ピアノの音が跳ねる。

不意に、さららが低く言った。

「……未春、殺しなんてやめちゃえば?」

コーヒーカップを眺めながら出たさりげない一言に、微かに青年は意外そうな声を発した。

「急にどうしたんです、さららさん?」

「前から思ってるわよ」

少し怒ったようにさららは答えた。

「だって……変よ、貴方たち。どっちも優しい子で、他の仕事で食べられるのに……なんでわざわざ人殺しなんかしなくちゃいけないのよ?」

「さららさんだって、そうです」

「……私は違うわ。一緒にしないで。貴方たちとは理由が違うの」

そう言ったさららの目は、人殺しでもなければ、一般女性でも無かった。

夜の暗いプールに似ている。湖でも海でもなく、透明な水を溜めて消毒した筈なのに、気付けば暗く濁った色。

彼女のこの目には見覚えがあるが、いつだったか、思い出せない。十年前――病院で目を覚ました自分を見ていた彼女の、泣き腫らした目と似ているけれど。

さららは額を覆い、呻くように呟いた。

「時々……すごく嫌になるの。このお店が楽しくて、みんなが笑ってる時ほど……私がおかしいのかしら? ……みんなが良い子で幸せそうな顔してると、たまらなくなる……」

美味しい筈のコーヒーが、ただ苦くて、酸っぱく感じるように。俯くさららを、未春は静かに見つめていた。

「未春……もういいと思う。“二人”はあなたのこと、恨んだりしてないわ」

「それは……――」

「……だって、貴方は何も悪くないんだもの。未春にひどいことをしたのは、……そう、“あの子”で……私も…………」

「……あの子? さららさん、誰のことですか?」

未春の問い掛けが言い終わらぬ内に、店の扉がカラカラと開いた。

「ただいまあー、お土産買ってきたよー」

長旅から帰ったように十条が入って来ると、さららの目はいつもの明るい様子に戻っていた。

未春も振り返ると、噂のハルトは何やら大荷物だった。見覚えのある大きなプラスチックケースのようなものと、園芸用の土袋らしきものが詰め込まれたビニールを持っている。

そして倉子が、プレゼントをもらった子供のように頬染めて笑いながら、抱える程のケージと、大きなクッションのようなものを持っていた。

「どうしたの?」

さららの問いに、倉子は踊り出したいとでもいうような顔で笑った。

「聞いてよーさららさん! ハルちゃんが飼ってくれるって!」

差し出されるケージの中には、一匹の猫がうずくまっていた。び猫と呼ばれる柄の猫は、黒と茶がまだらになった、一見気難しそうな猫だった。ところがよく見ると、見事な金目がくりくりとした、丸顔の愛らしい顔立ちだ。

「ついに、もう一匹増えちゃったのね」

「大人しい女の子だから、スズ様とも仲良くできると思うんだけど……」

「駄目だったら、ハルちゃんは別居かな」

心配そうな倉子に対し、まんざら冗談でもない十条のセリフだったが、当初からそれで構わないハルトは安易に応じている。

「ハルちゃん、猫好きだったの?」

感心と意外がい交ぜのさららの言葉に、青年は頭を掻いた。

「そういうわけじゃないんですけど……こいつ、臆病で二年経っても里親が見つからなかったそうで、二人があんまり心配するんで……面倒くさくなって」

「二人のお涙頂戴にまんまとしてやられたのね」

「はあ……この猫、日本では他に比べると不人気みたいですね。向こうで同じ柄の飼い猫に会ったことありますけど、べっ甲トーティシェルって呼ばれて人気でしたよ」

「光が当たった時の赤く光る毛がべっ甲に似てるからなんだって。あたし感動しちゃった。日本では錆猫とか雑巾猫とか表現するんだもん。こんなに可愛いのに!」

すっかり上機嫌の少女に微笑みつつ、さららはにこにこしていた上司を振り返った。

「トオルちゃん、世話代分、かさ増ししてあげなさいよ」

「そうだね」

「あ、あたしのお給料から出してもいいよ!」

などと言っていると、異変を嗅ぎ付けたのか、店のソファーに寝転んでいたスズがのしのしと現れた。一同が見守る中、ケージにまっすぐ向かっていくと、檻越しに匂いを嗅ぎ……何も言わずに戻って行った。

「スズさん、オッケーぽいですね」

冷静な未春の言葉に、さすがうちのおスズ!などと喜ぶ親バカと倉子は手を取り合い、ハルトは脇で苦笑いと共に件の猫を抱えた。

「名前は何ていうの?」

「施設でビビって呼ばれてたそうなんで、そのままにします。こいつもころころ変えられたら困るでしょう」

すらっとした尾の長い猫は青年におとなしく抱かれると、倉子からピンクのリボンが付いた首輪をはめられ、小さなあくびをした。

その様子を眺めながら、未春の隣でさららは空気に溶けるような声で言った。

「……やっぱり、おかしいわ」



――人殺し!

鋭い罵声が、響いた。

――信じてたのに……!殺してやる!

違うんだ。違う――そんなつもりじゃなかったんだ。君を殺したくない。やめてくれ。武器を降ろしてくれ。お願いだ――でないと、俺は、俺は、俺は――――


耳を、体を、心を――轟音が刺し貫く。


「……ッ!?」

階下から響いた音に、ハルトは飛び起きた。

傍に居たらしいビビが部屋からすっ飛んで行き、文庫本がベッドからばさりと落ちた。

――本を読んでいる内に、うたた寝していたものらしい。

「……なんだ?」

顔を撫でて呻く。寝覚めが悪いが、夢でも銃声でもない。何か重いものが叩き付けられたか、何処かにぶつかった音のようだ。胸騒ぎを感じて、身支度もそこそこに部屋を出た。

行きがけに確認した時計は午後三時。今日の交代は四時――まだ間はあるが、そんなことを言っている場合ではない。店内に繋がる扉を一呼吸置いて開け、階下を覗き見て――何があったのか、状況のみ把握した。

店内では、数名の客がざわついていた。その騒ぎから少し離れた場所に、未春が立っている。奥にはさららが膝を付いて、誰かはわからないが床に伸びた一人の男を介抱していた。

「……どうしました?」

声を掛けたハルトに、さららが真っ先に蒼白な顔を上げた。

「ハルちゃん……! 脳震盪起こしてるみたいなの! 救急車呼ぶからこの人お願い!」

おっと、今度は人命救助か? この支部どうかしてる――そう思いながらも、忙しなく電話を掛け始めるさららに代わり、ハルトはあくびを噛みながら見知らぬ男の前に膝を付いた。中年の割には派手な格好の男だった。アマデウスが見たら鼻で笑ってしまいそうな、目につくブランドを引っ掴んで着込んだ格好をしている。秋の半ばに白いパンツというのも凄まじいチョイスだが、金鎖のネックレスに金時計とくれば、もはや保土ヶ谷らなど比べ物にならないセンスだ。

「もしもーし? 大丈夫ですか?」

揺さぶらぬよう、手を握ってやるが、反応が無い。息はあるが、見事なまでに失神している。先日、保土ヶ谷を気絶させた時に似ているが、これは――……

ちら、と振り向いた先に仁王のように突っ立っているのは未春だ。両の拳を握ったまま、微動だにせずにこちらを見下ろしている。

その眼差しの冷徹さには、ハルトさえ、ひやりとした。

以前、さららと十条から聞いた“手が出た”らしい。

「……お前がやったのか?」

「うん」

いつもの無感動な返事が、より一層冷たく聞こえる。

「ま、そうだよな……何があった?」

「そいつが、さららさんに失礼な事言うから殴った」

「……そりゃ気の毒なこった……」

何処を殴ったかは一目瞭然だ。腫れ上がった頬が全てを教えてくれている。

さららの慌て様からして、ろくな反論もせぬまま鉄拳制裁だったに違いない。夢から叩き起こされた音は、カフェの椅子やテーブルを倒して柱に直撃したものらしい。一発KO。痩身のわりに、恐ろしい怪力だ。

「ところでこのオッサン、知り合いか?」

「違うけど、来るのは三回目」

三顧の礼でぶん殴られるとは、ますます気の毒な男だ。ハルトが他人事気分で形ばかりの心配をしていると、客の一人がそろりと進み出た。

「……あの、未春くんは悪くないですよ?」

おずおずと響いた声にハルトが振り向くと、二十代前半と見える女性だった。そっくりなメイクと格好をした連れの女性も、大きく頷く。

「私もそう思います。その人、あのお姉さんに厭らしいことばっかり言ってました」

怒って当然よ、と、女の敵とばかりに気絶している男を睨みつけた。名指しで呼んでいる辺り、どうやら未春のファンらしい。他の客も、男に味方する者は全く居ないようで、表に捨てちゃえばいい、などと囁く声さえ聴こえてくる。

――弱い悪党はすぐに淘汰されるな。

ハルトが浮かんでしまいそうになる皮肉な笑いを抑えていると、一人だけ忙しないさららが、氷嚢片手にパタパタと走って来た。

「病院近いから、すぐに来るわ。私、一緒に行くから――」

しゃがんで、患部に氷嚢を当てようとするさららに、すかさず未春が手を伸ばした。

「さららさんは店に居てください。俺が行きます」

「殴った子が何言ってるの?」

恐らく、未春にこんな叱責を飛ばせる女は彼女だけだろう。未春は未春で、睨み据えての厳しい声にも、頑として首を振った。

「駄目です。コイツが何するかわかりません」

「そうしてまた暴力を振るうつもり? 未春、あなた――」

「――さらちゃん、僕が行くよ」

ヒートアップしそうな言い合いに割って入った男に、ハルトはぎょっとした。

十条だ。またしても瞬間移動のように薄い気配で現れた男は、場違いなほどの笑顔だ。

「でも……トオルちゃん……」

「そんな顔しないで。僕は責任者なんだから」

くせっ毛が跳ねたままの髪を掻いて、十条は困った様に笑う。一見、頼もしい介入だったが、さららの顔はいっそう蒼白になっていた。

責任を感じるのだろうか?先日のクレーム女とは異なる反応だ。十条はそれ以上尋ねることなく、固唾を呑んで見守っていた客を見渡し、丁寧に頭を下げた。

「お騒がせして申し訳ありませんでした。よろしければ、改めてごゆっくりお過ごし下さい。何かございましたら、ご返金等も承りますので」

のんびり寝坊助が嘘のように、よく通る声で穏やかに告げると、客たちはめいめい、席に戻って行った。皆どこかほっとした顔つきで、怒り出す客や即座に帰る者も居なかった。

どちらかというと、いまだ床で伸びている男を迷惑そうに見ながら、あれこれと悪口に勤しんだ。先程の女の子たちに至っては、加害者の未春に歩み寄り、労わるような顔で話し掛けている。

「さらちゃん、後は僕がやるから、お客さんたちの飲み物淹れ直してあげて」

「……はい」

さららは蒼い顔のままだったが、キッチンに向かって行った。先程、未春に向けた顔が嘘のように大人しく従う。その細い背を見送ってから、十条はハルトへと振り返った。

「ハルちゃん、休憩中ごめんね。助かったよ」

「はあ……特に何もしていませんが」

不意の登場に度肝を抜かれた為、ハルトはぼやくように頷いた。十条は苦笑と共にひらひらと手を振り、近付いてきたサイレンの音に紛れる様に囁いた。

「――君が来なかったら、彼はこの場で殺されていたよ」

おっとりと被害者を見下ろして、十条は駆け込んできた救急隊に片手を挙げた。

「すみません、この人です。脳震盪起こしてるようなので、ゆっくりお願いします」

それはまるで、タクシーかウェイターを呼ぶようにあっさりしたセリフだった。そのまま手ぶらで同伴する軽快ぶりは、さては慣れているのか。

ハルトも一息吐いてから、静かに稼働するキッチンを覗いた。

「大丈夫ですか?」

声を掛けると、さららは片腕に片手を添え、疲れの見える顔で小さく頷いた。

「大丈夫。……ありがと、ハルちゃん」

ふう、と溜息を吐いて見つめる先は、先程とは別の女の子に囲まれた未春だ。受け答えこそしているようだが、相変わらずその表情は感情に乏しい。

「あいつ、本当に沸点低いんですね」

ハルトが可笑しそうに言ったからか、さららは少しだけ微笑んだ。

「……そうね。でも……未春が怒るのは、特定の人が危害を加えられる時だけ。このお店では、私、ラッコちゃん、リッキーね。ハルちゃんはどうかわからないけれど……未春自身や、トオルちゃんが何を言われてもしらっとしてるわ」

本当に警備システムみたいな奴だな、とハルトは胸に呟いた。さららは反発しているようだが、インプットされた人間を守り、敵と認識した人間を殺すことも厭わない。紛れも無く機械のような思考だが、それはむしろ、BGMには見掛けないタイプだ。

多くの殺し屋がそうだろうが、BGMの殺し屋は徹底した個人主義である。必要があれば誰かを守ることもあるが、それはどこぞに潜入する際の信用を得る為や、或いは違和感なく振る舞う行動が保護に繋がる等の話だ。左遷の認識がなければ、ハルトもわざわざ絡まれた倉子に声は掛けなかったろうし、給油口にコーラをぶち込むこともしない。

「自分以外を守るんなら……優しい性格ってことですかね?」

十二分に気を遣ったハルトの問い掛けに、さららは答えに詰まった。きゅ、と片手に力が籠もり、本当に喉元に何か閊えたような顔で、両の目だけが真っ直ぐに未春を見つめた。

「……そうよ。未春は、優しい子よ」

きっぱり言ったそれは、自分に言い聞かせるようにも聴こえた。彼女はほつれた髪を撫でつけて、ようやくいつもの笑顔に戻って来たが、顔色は青いままだった。

「ごめん、ハルちゃん……少し、上で休ませてもらってもいいかしら……?」

「ええ、どうぞ。代わりにやっておきます」

ありがとう、と言ってさららは階段を上がって行った。途中で店内を振り返ると、こちらを仰いでいる無表情なアンバーの瞳と目が合った。

――もう、怒ってないわ。

目元を和ませるだけで答えて、さららは扉の向こうに消えた。

鉄扉を隔てると、急にさっきまで居た場所が遠退く気がした。軽やかなジャズの響きや、国道のざわめきがノイズのように混じり合い、仄かなバックミュージックになって室内に流れた。

「……」

エプロンさえ外さずに、さららは玄関にうずくまった。微かに、呼吸が乱れる。

「…………ごめんなさい…………」

死に際の様な一言は、誰に向けたものだったのか。



 男が目を覚ますと、妙に寒かった。無機質なコンクリート壁に覆われたそこは薄暗く、倉庫のような場所だった。椅子に座らされていたが、両腕は肘掛けにきつく縛られて痺れている。何故か足元はシャカシャカと音がし、何だろうと思うと周囲にブルーシートが敷かれていた。首が冷たいと思ったら、自慢の金鎖のネックレスだと気付いて狼狽する。

「お目覚めですか?」

問い掛けにぎくりとすると、背後から場違いなにこにこ笑顔が覗いた。

「どうも、はじめまして。あ、初めてじゃなかったかもしれませんけど」

「あ、あんた誰だ……此処は何処だ!?」

「まあまあ。それは知らなくてもいいことですから」

おっとり微笑むと、男は前に立った。座った位置から仰がなくても、かなりの長躯だ。

ありふれたジーンズに柄のない黒いTシャツ、黒いロングの上着を引っかけた格好は、せいぜいコンビニに行く程度のラフなものだった。男はこの状況を生み出した人間とは思えない、穏やかな顔のままこちらを見下ろした。

「いくつかお尋ねしたいことがありまして」

そこに来て、初めて気付いた。にこやかな男の黒い目が、全く笑っていないことに。

「彼女に手を出したのは何故ですか?」

「か……彼女? 何のこと――」

言い掛けた瞬間、不意に左の小指が熱くなった。湯でも掛かったのか――と思って見下ろした瞬間、男は悲鳴を上げていた。小指が根元から消え、どぼどぼと血を垂れ流している。初めからそこに無かったとでもいうようにすっぱり切られた指が、虚しくブルーシートの上に沈黙している。

「ぎゃあああ! 指が……! 血が……! 痛い!痛いぃぃぃ!」

ろれつの回らなくなった声で男はじたばたともがいた。無論、そんなことをしても血が吹き飛ぶばかりでどうにもならない。長躯の男は苦笑して首を振った。その片手には、包丁程はある鋭く薄い刃が握られていた。それを軽そうにヒュンと一回転させてから、男は改めて口を開いた。

「格好の割に堪え性が無い人だ。早く喋った方がいいですよ」

「た、助けて! お、俺は頼まれただけだ! あああ……指が……熱い、熱い! 死ぬ……死んじまう……!」

「大げさな。指一本で死んだりしませんよ。誰に頼まれたんです?」

「し、知らない!スーツを着た男だ……! あの女にちょっかいを出せと……」

加害者は片方の指で刃の面を撫でながら、相変わらず笑っている。

「若い男? それとも年寄り?」

「たた、たぶん、あ……あんたぐらいだよ! サングラスで顔はわからなかった!」

「頑張って思い出して。名刺は貰いませんでしたか?」

「め、名刺? ――あ、ああ、何とかって大手グループの――覚えてねえよ……!」

「聖? それとも小牧?」

「は……はあ? 知らねえッ! 知らねえよなんにも!」

「覚えてない、と、知らないは別の意味なんですけど」

薄い刃が、ほんの少しだけ反対側の指を圧迫した。男は電気が走った様に悲鳴を上げた。

「こ……小牧だ! 小さい牧って書いてあった! なああ、もういいだろおお! 早く助けてくれえッ――――」

絶叫し掛けた男は、やおら、ぴたりと沈黙した。もはやそちらには見向きもせず、長躯の男は白い布で丁寧に刃を拭いた。みるみるうちに朱に染まるそれを折り畳み、ふうと溜息を吐く。

「僕くらい、か」

ぼやいたとき、手に有った筈の刃は忽然と消えている。代わりに、椅子に固定された男の首が奇妙に傾ぎ、血という血が溢れ出していた。命乞いの顔のまま絶命しているそれを振り返り、男は場違いなほどにっこり笑った。

「いやあ、助けられなくて悪かったね。でも、貴方もそろそろいい歳だ。刑務所を出たり入ったりは大変でしょう? これで、レイプ魔の貴方に被害を被った女性達も、ほんの少しは安心して暮らせる」

物言わぬ死体に笑い掛けていると、何処からともなく灰色の作業着を身に着けた人間たちが現れた。大きめの上着と揃いの帽子を目深に被り、目元のギリギリまでマスクをした彼らは、年齢や性別も曖昧だった。皆、一言も喋らずに遺体を大きな袋に詰め込み、液体用の掃除機で血液を吸い出し、男から血濡れた布を受け取った。

「汚くてごめん。久しぶりで上手くいかなかったよ」

男が肩をすくめて謝ると、布をゴミ処理よろしく袋に入れていた作業員が首を振った。

「綺麗な方です。ギムレットの現場は飛沫の処理に苦労しますので」

「はは、そういう時の彼は後処理なんて気にしないからね。路上でやるときはあんなに綺麗なのにねえ」

「全くです」

ちらと見える目元は、微かに苦笑したようだった。長躯の男は苦笑いを返し、上着のポケットに手を突っ込んで、流れるような作業を眺めた。そうこうする間にも、既に灰色の作業員らはブルーシートを折り畳み、ライトを照らして辺りを調べ、何やらスプレーを噴射しながら、早い者は撤収し始めている。

「皆、おつかれさまー」

にこにこ笑う男に、作業員らは無言の会釈をしてその場を後にしていく。

静かだった。

数分前、血生臭い現場が有ったとは、もはや誰にもわからないだろう。落とした角砂糖を蟻が一粒残らず回収していくように、辺りは錆びた香りさえ残っていない。

「乗って行かれますか?」

一人の作業員の問い掛けに、男は微笑んだまま首を振った。

「ぶらぶら帰るよ。今夜は月が明るいでしょう?」

「ええ、そうだったと思います」

作業員は丁寧に一礼し、他の者に続いて去って行った。残った男はゆっくりと周囲を見回してから、散歩の体で歩き出した。大きな鉄扉を潜って出た先を、死んだ男が見たらどう思ったろう。

そこは、駅のすぐ傍だった。東京や新宿に比べればずっと小さいが、様々な路線が乗り入れる中継地である駅周辺は、静寂よりも雑踏にやかましい。開発事業の為に取り壊しが決まっている廃ビルから人知れず出てきた男は、寒々とした路地を何気なく通り抜け、思ったより雲に濁った空を見上げた。

朧な月は、素知らぬ顔で見下ろしている。

「これはこれで、悪くないかな」

電車の走行音に掻き消される程の声で呟くと、十条十は帰宅途中の人波に紛れた。



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