3.Each.
翌日からは、ハッピータウン支部はその名の通りの顔だった。
あの夜、顔馴染みの焼き鳥屋で、お望みのレバーにルートビアという最高にヤバいドリンクを合わせた未春は、翌朝も変わらずによく働く。
意地悪く眺めても、殺人鬼には見えない。
それなのに、キリング・ショックが無いとは――見た目以上に感情がすっからかんなのだろうか?
ハルトはといえば、同居人の不穏な性格を思って憂鬱に目覚めた後、机に、
『ハルちゃん歓迎会☆』と書かれた派手な用紙を見つけてげんなりし、さららのドーナッツがやたらと美味いことに気付き、倉子にちょくちょく噛み付かれ、リッキーに武勇伝を期待されて本気で困る――至って平穏な日々だった。喜ばしいのだろうが、そっちの仕事も無い。
“平和”に悪酔いしそうになりながら、これがこの支部のセオリーなのだと言い聞かせ、ジャズの軽やかなリズムに乗って、陽は昇って沈む。
「――これがチェスターフィールドソファ、ハーマンミラーのイームズシェルチェア、こっちがウォルターノルのクラシック、カール・ハンセン&サンのCH24、天童木工のバタフライスツール……」
その日の夕方、十条が読み上げる横文字の羅列を聞きながら、ハルトはDOUBLE・CROSSの店内を歩いていた。売り物として並んでいる椅子やソファを一点一点、愛犬か愛猫のように紹介するのに、真面目に頷く。
無理に売り込まなくても良いと言われた椅子たちだが、知らないのはまずいと告げた部下に、上司は喜び勇んで説明に応じていた。
「結構、種類あるんですね」
店のものは展示の体で通販が主体らしいが、それでも店内には様々な椅子が並んでいた。素材だけでも、革、布、木製、金属製、プラスチックなど、バラエティ豊かなラインナップだ。大抵は面白いラインのものが多く、中には人間が呑み込まれそうなほど、ふっくらした椅子もある。
「ほぼ、僕の趣味だから偏っているけどねえ」
「ほぼ、ですか?」
「数点だけ、他の人の好みなんだ。例えばそこの、シーヴのハング・ダイニングチェアは、さらちゃんのお気に入り。カワイイでしょ?」
ベージュやモスグリーンの布張りにナチュラルな木材の四本足をした椅子にはハルトも見覚えがあった。十条宅のダイニングに置いてある椅子だ。
テーブルを囲んでいた四脚はバラバラのデザインだった為、そういう趣味なのかと思っていたのだが。――つまり、あの席は彼女のものということか。
四角がベースのデザインでありながら、どことなく優しい丸みを感じる椅子は、彼女のイメージに合っている。
専用の椅子を用意してあるのに、何故一緒に暮らしていないのだろう?
「これ、俺が座ってるのですよね?」
思案を遮ったのは、見慣れた椅子に提示された十万を越える価格だった。部屋のものとは木や座面のデザインが異なる木製チェアを、些か辟易しつつ眺める。
「そうそう、カイ・クリスチャン・センの№42。僕のが隣のハンス・J・ウェグナーのザ・チェア」
「怖い値段が付いてるんですが……」
「それでもかなり破格だと思うな。どっちもいい椅子でしょ? 木材やクッションを何にするかで、また雰囲気が変わっていいよねえ」
高級な家具ならアマデウスのオフィスに山と有ったが、自分が使うとなると頷くほかない。今日からはもう少し気を遣おう――などと思いつつ、ハルトは首を傾げた。
「未春の椅子は……見当たりませんね?」
「ああ、ポール・M・ヴォルタのFDB・モブラーのJ46……あれはね、特殊イケメン詐欺の椅子だから、しょっちゅう売り切れちゃうんだよ」
「……というと、人気商品だから、じゃあなく?」
「イヤイヤ、椅子自体も良いものなんだ。北欧ブームが長いでしょ? 僕らのもだけど、デンマークのデザイナーさんのものでさ、未春の椅子は無垢の木だけど、青や白のラッカーで塗られた奴も、ちょっとオモチャっぽくて可愛いんだよ」
確か、背もたれが六本の棒で透かしになったのを、楕円のアーチでまとめた、四本足のシンプルな椅子だ。
「値段も手ごろで揃えやすいし、男女選ばないし、色違い置いても楽しいし……」
「買いやすさに作為を感じます」
「そ、そんなつもりはないよ?……ただ、まあ、うん……買うのは殆ど若いお嬢さんだね……」
未春は聞かれれば、自分が使っているものを素直に自己申告する為、お揃いを使いたい女性のオーダーに事欠かないらしい。
「店は趣味って聞きましたけど……椅子は以前からお好きなんですか?」
「きっかけは、いま座ってる椅子だね。青山のインテリアショップで見て、座ったらもう即お買い上げ。その頃はお店をするなんて思いもよらなかったけど、縁なのかなあ……此処を造るとき、他に思いつかなくて」
「あ、カフェより椅子が優先だったんですね」
意外だった。確かにスペース的には椅子売り場の方が広いが、お客の大半はカフェに用事がある。
「椅子がまあまあ高級でしょう? 気軽に試してもらいたくて。あとはほら、さらちゃんのドーナッツとコーヒーが絶品だからさ」
つられるようにハルトはカフェの方を見た。片手間にこちらを眺めていたらしく、視線に気付いたさららがにこっと笑って手を振るのに、なんだか面映ゆい笑顔を返した。穏やかなジャズ、明るい店、こだわりの椅子に、美味しいドーナッツと温かいコーヒー。よくわかった。此処はどう考えても、殺し屋のアジトではない。
アマデウスも一見、関与の無い音楽会社のCEOなんぞしているが、彼の系列ホテルやバー、豪華客船などは皆、BGMの活動に利用されている。
ところが十条の店は何の関与も無いばかりか、一般人にオープンな店という真逆の方向へ突っ走っている。本当に単なる趣味なのか。此処まで公私の境が振り切れているTOP13は他に居るまい。
「じゃあ、そろそろ僕は雑用を片付けに戻るよ」
二階に消えた十条を見送った後、ハルトは改めて店を見渡した。
趣向云々はともかく、落ち着いた良い店だと思う。クセやアクの強さはともかく、感じの良いスタッフが集まるのは、そういう理由なのだろう。
そんなことを考えていた時、店内に場違いな金切り声が響いた。
「ちょっと! このコート、プラダよ!」
何事かと目を向けると、四、五十代と思しき女が、椅子に掛けた黒いコートを指して喚いている。店内に居た客は彼女のみで、さららもカウンター向こうから出てきたところだ。
「どうなさいましたか?」
気遣う調子で声を掛けたさららを、女はじろりと睨んだ。
「コートに蛾がとまったのよ!」
蛾?――腹に復唱して、ハルトはあまりのセリフにくらくらした。ぱっと見たところ、件の蛾とやらはもはや何処かに行ってしまっているし、コートが著しく汚れた様子も無い。ところが女は薬物中毒者かと思う様な剣幕でさららに怒鳴った。
「飲食店でしょ! 一体、衛生管理どうなってんの!?」
「……申し訳ありません」
謝るような事案でもないが、さららは殊勝に頭を下げた。行儀本に載せても良いくらいの姿勢と丁寧な声だったが、目元を吊り上げた女はいよいよ調子を上げてまくしたてる。
「謝れば済むと思うの? 責任者出しなさいよ!」
「……申し訳ありません、店長は只今、席を外していますので」
「そんなら、あんたが土下座して謝りなさい」
飛び出たセリフにハルトはぎょっとした。土下座って……地べたに座って頭を下げる、あの土下座か?
さららが口を開く寸前、思わずハルトは割って入っていた。
「あの、そこまで仰ることないと思いますが……」
口を挟んだ青年を、女は妙に刮目した瞳でじろりと見た。睨んでいるわけではないが、正気の人間にしては、飛び出そうな目だ。値踏みする視線でハルトを見回すと、見た目よりも高慢な唇が割れた。
「バイトの分際で、お客様に口答えするの?これだから最近の若い人はなってないのよ。すごく気になるわ。スマホばっか見てるからそうなるのよ」
ペラペラと、一言、二言目にはズレていく論点にハルトは唖然とした。
おいおい、若いとかスマホは関係ないだろ、と内心呟きながら、できるだけ冷静に言葉を選ぶ。
「……いえ、只、彼女に土下座させる必要は無いと思います」
「そういうのが口答えって言うのよ! 揃いも揃って失礼ね!」
一体何処の女王様なのだろう。高飛車も此処までいくとキチガイだ。不思議なのは、女王の風格など微塵もないありふれたオバサンが、己が最上位であるかのように、キイキイ言っている辺りだ。
――はて? この非常識な事態は日本では普通なのか?
「ハルちゃん、此処は私が――」
さららが、そっとハルトの袖を引いた時だった。
「お待たせしましたあー、僕が責任者ですー」
唐突に、去った筈の階段の上から間延びした声で十条はやって来た。虚を突かれたのか、ぴりぴりしていたにわか女王も驚いた様子でそちらを振り返った。
先程と全く変わらず、とても責任者には見えないラフな格好に、いつものヘロヘロよりは幾らかマシな歩調で歩いてくると、十条は女の前にやって来た。にこにこと微笑んで会釈する長躯を、遥かに低い位置から女はねめつけた。
「お……遅いわよ! 何ぼさっとしてたの? 何分待たせて――」
「はい! 申し訳ありません、事情は概ね伺いました。立ち話も何ですからこちらにどうぞー。二人は仕事に戻ってね」
女の口上を笑顔で遮ると、十条はこちらに目配せして、端の席に伴った。座席を引いてやる仕草は意外なほど紳士的で、高級レストランのウェイターを思わせる。思いの外、静かに着席した女の向かいに腰掛け、十条はにこやかに何かを切り出し始めた。
「……ハルちゃん、戻りましょう。あとはトオルちゃんが上手くやってくれるわ」
「あ、はい」
彼が何を話すのか聞いてみたかったが、ハルトはさららに続いてカウンターの方へと引き返した。
「あれ、クレーマーってやつですよね? 俺、口出したのまずかったですか?」
「ううん、ハルちゃんは何も悪くないわ。庇ってくれてありがとう」
優しく微笑むと、さららは作業をしながら殊更小さな声で囁いた。
「ああいう人はね、クレーマーとは呼ばないの。クレーマーは本来、お客様目線の意見を伝えてくれる有難い人達のこと。けれど、『お客様はどんな無理を言っても許される』って勘違いしてるワガママな人や、『勝手な難癖付ける人』もクレーマーって呼んでしまうことがあるから、紛らわしいよね」
さららによれば、いくらサービス大国の日本でも、店側に過失や不行届きが有ることは決して少なくないという。礼節を欠いた会社の対応に傷ついたり、不良品を掴まされて泣き寝入りするしかない事態は、消費者保護法が施行されて尚存在する。
しかし一方で、心無い客の言動がサービスを低下させている面も有るらしい。
ひどいときは、従業員が客に言い返せないのを良いことに、怒鳴り散らしたり、セクハラ紛いの発言をしたり、自らのミスを押し付け、先程のような土下座を迫る他、罰金を求めるケースもある。故に、店側もたかが数名の奇怪な客を警戒し、『お客様を図に乗らせないサービス』になってしまうこともある。昨今はSNSの普及が災いし、たった一つの投稿が店ひとつ潰す事もある為、企業側も自分勝手な客は頭の痛い存在だった。
「まだ揉めてますね」
「心配しないで。トオルちゃんに任せれば大丈夫だから」
全幅の信頼が寄せられるだけに、十条は本当に上手いこと話を進めているようだった。
よくまあ、あれだけ騒がれて笑顔が崩れないものである。目を瞠るのは、彼の笑みが嘘臭くないところだ。仲の良い友人の前に座っていると言われても難がない。程無くして、女はぐちゃぐちゃと何かを呟きながら席を立つと、自慢のコートを乱暴に引っ掛け、十条が丁寧に開けたガラス戸からつかつかと出ていった。
「店長、おつかれさま」
長いお辞儀で女を見送った男を、さららは苦笑いで迎えた。
おつかれーと言いながら、どっかとカウンターに座ったところにコーヒーが差し出されると、今度こそ彼は嬉しそうに笑った。
――あ、こっちが本当の笑顔か。
気付いたハルトが感心していると、十条は美味そうにコーヒーを飲んでから口を開いた。
「罰金断ったら、ネットに晒してやるーだって。常習犯だねえ、あの人。更年期かな?やらずにはいられないってカンジ」
「大丈夫ですか? 俺はいいですけど、さららさんが書かれたりしたら……」
十条は大丈夫、大丈夫とひらひらと手を振って気楽に笑った。
「ネットの書き込みなんて気にしない気にしない。酷いのは端から削除してやるさ。それにね、今此処で起きたことはネット上の話じゃないんだから、現実がちゃんとしていればいいんだよ」
なるほど、真相に不手際が無い以上、ネット上の作為など知ったことではないわけか。虚偽や何気無い一言で企業が潰れるご時勢に、焦らない様子は頼もしい。
「いやあ、それにしても未春が居なくて良かったよ。居たらあのオバサン、前歯くらいは折られただろうからねえ」
「あいつ……女性相手でも手が出るんですか?」
男でもどうかと思うが、女性の前歯を折るとは穏やかではない。十条はカップ片手に頷いた。
「自分や僕が罵られるのは右から左なんだけどね。さらちゃんや店のスタッフが攻撃されると、すぐ手が出るんだよ。ほら、ガヤちゃんの友達を病院送りにした話あったでしょ? あの時はいきなり蹴飛ばして足の骨ぼっきりだからシャレにならなくて――あ、勿論……基本的には、相手が行き過ぎた時だけど」
どうやら骨折させられた男は、倉子の胸倉を掴むか否かのところで向う脛を蹴られたらしい。ハルトは他人事ながら微かな寒気を感じた。その状況で、手よりも足が出るのは普通ではない。倉子を守るためと言えば聞こえはいいが、それなら真っ先に伸ばすべきは手だ。有無を言わさず足を骨折するほどのキック力で蹴飛ばす――明らかに相手を倒すつもりでやっている証拠だ。
「口より足が出るのは攻撃的ですね」
正直な感想に、十条は困り顔で微笑んだ。
「手、塞がってたんだってさ」
「はあ?」
「両手に買物袋持ってたんだ。卵が入ってたから咄嗟に置けなかったとか……まあ、結果だけ言えばそういうことさ」
捕捉は捕捉だが、仰る通り“そういうこと”だった。人間の足が砕けるより、卵が割れるのを弄った精神状態はどう見繕ってもまともではない。
「ハルちゃんは冷静で良かったわ。いくら失礼な相手でも、暴力はダメよ」
「暴力のレベルなんですね……」
そんなものを店頭に置いているのは大丈夫なのかと思うが、先程のように、さらら、或いは倉子が土下座を迫られるのも考え物だ。
「……未春はね、怒りっぽいわけじゃないの」
何か振り返るような目で、さららは微笑んだ。
「条件反射みたいなものよ。困ってると、すぐに気付いてくれるの。ただ、相手が乱暴だと、極端に見えてしまうだけで――……」
「警備ロボみたいだよねえ」
のほほんと言った十条を、ちらりと見たさららが眉を潜めた。
「……トオルちゃん、未春を機械に例えるのはやめて」
微かに硬い声音が告げるが、十条の様子は変わらない。あまつさえ、穏やかな笑顔で頬杖をついた。
「だって、わかりやすいじゃない。敵と味方を識別して、攻撃と警護を使い分けるんだから」
「……違う。未春は人間よ。私たちのことを大事に考えてくれてるから手が出てしまうの」
「そうかなあ……無言で顎潰された人も居たろ? なーんも喋れず動けない人を、平然と路上に捨ててくるのは人間らしいかな?」
「あれは薬物中毒のヤクザだったでしょ――いきなり怒鳴って絡んできた人だったわ」
「そうそう、見て判断して、何も聞かずに殴ったんだ。君たちが指一本触れられる前に、危険と見なしてね」
十条が言うように、行動の引き金が感情ではなく識別によるものなら、未春は直情的というよりも機械的な性格だ。普通は、何らかの被害を被ってから起こす反応が、相手を見ただけで起こるなら、場合によっては未春が加害者になってしまう。
大人しく静聴していたハルトに対し、さららは非難がましい目で笑顔の上司を見てから、ぷいとそっぽを向いた。
「……ご褒美のおやつ、やめるわ」
「ええっ! なんでえ!? 頑張ったのに!」
悲鳴を上げる十条だが、カフェ取締役の機嫌はすっかり斜めに折れ曲がっていた。抗議の間も与えずに、靴音も険しくキッチンの奥へ引っ込んでしまう。
「……十条さん、聞いていいですか?」
さららを見送る視線のまま、ハルトは項垂れる男に尋ねた。十条はカウンターにべったりとうつ伏せた顔を上げると、胡乱げに首を捻った。
「さららさんは、どうしていつも未春を庇うんです? 血縁関係でもないのに、未春も彼女を特別視している感じがします」
まだ短い付き合いだが、未春が最も礼儀正しく接しているのはさららだし、さららも未春のことにはサッと前に出る感がある。
「んー……」
ぼさぼさの髪を尚も掻き回し、十条はキッチンで作業をするさららを眺めた。
「二人の関係を一言で言うのは難しいなあ……なんていうか……血は繋ってなくても『姉弟』なんだよ、あの二人は。血縁関係じゃないことが、余計に絆を深めてるんじゃないかなあ……」
「……繋りが無いのに余計に、ですか?」
「うん。僕もその原因の一つなんだけどさ――……」
間延びした溜息――というよりあくびを吐き出して、十条はようやっと席を立った。
「さあ、仕事に戻らなくちゃ……ハルちゃん、不機嫌なお嬢さんを宜しく頼むよ」
「そんな役回り困ります」
「はは、君は向いてるさ。思っていたよりずっと」
あくびを追加しながら去っていく上司に頷いてから、ハルトは急にがらんとした店内を見渡した。今頃になって、店内に響いていたジャズの音色が実体化した気がした。不揃いの椅子たちが夕映えに鎮座する様は、無言の他人が大勢居るようだった。見上げれば、言葉もなく羽を回すシーリングライトが見下ろしている。
滑らかな回転、滑らかな音楽、滑らかに落ちてくる暮れ――しかし、何かが心に引っ掛かる。
――絆。
違和感のある言葉を内に呟いて、ハルトはキッチンを振り返った。
さららの動作は落ち着いていて、ジャズのメロディに重なる。機嫌を損ねているようには見えず、リラックスして見えるくらいだった。
この店も、さららも、一見――殺しとは無関係。普通で、正常であるもの。
――“正常に見えているだけ”のもの……?
「……!」
不意に足元に何かが触れてハルトは驚いた。ズボンを掠めていったのはスズだ。夕陽に染まる毛を煌めかせながら、すぐ傍に横たわる。
思考を止めて、ハルトは苦笑いを浮かべた。
「……さっすが、気配無いなあ、お前も」
猫はまるで言葉がわかるように、ゆっくり瞬きをした。自由な生き物だ。良くも悪くも、固められた空間を安易く破ってくる。場の空気に乗らない……否、呑まれず、馴染む。
「馴染むのは困るんだが……まずは、お前を見習うか」
夕焼けが霞む店内で、ハルトは猫にのみ聞き取れるほどの声で呟いた。
ある日の午後、ハルトは倉子に「英語を教えて」とせがまれて已む無く応じていた。
当初向けられた謎の対抗心はなりを潜めていたが、この少女からはどことなくちりちりした火の粉が飛んで来る感じがする。一方で、仕事になると教え方も上手く、きちんとしていて、ひょっとしたらこの店で一番まともな人間なのでは――と、考えたところでドブネズミ入りのスクールバッグを思い出す始末だった。そういえば、彼女の脇に置かれたスクールバッグは、例のスクールバッグなのだろうか。不審物に見えるバッグの横で、スズがどっしりしたボディを丸めて寝入っているのは、単に倉子に馴れているから……と思うことにした。
「ハルちゃん、なに変な顔してんの?」
「なんでもない」
さららが勧めてくれたコーヒーと、砂糖入りのカフェラテを挟んで向かい合って小一時間。訝しげな倉子の発音は、なかなか上手い、という感想に至っていた。
当初、害獣保護JKという最高にヤバいイメージから入ったものの、ハルトが思う以上に勤勉で真面目な少女らしく、教科書には各所に動物を模した付箋がくっついていた。
また、ティーンエイジャー独特の言語と生意気さをクルクル回すように喋るが、はっきりした意志と柔らかいブレーンは欧米向だ。率直に褒めると、倉子は「褒めて伸ばすタイプ?」などとひねくれたことを言いつつも、照れ臭そうにはにかんだ。
「お世辞じゃない。英語好きなら留学したら?」
「ンー、アメリカ案内してくれる?」
「ニューヨークとシアトルはまあまあできると思う」
「大都会じゃん! いくら掛かるのー」
明るく物怖じしない性格も、海外では好まれそうだ。これが素なら、謙遜や遠慮を美徳とする日本では窮屈に違いない。何故、こんな明るい少女が、殺し屋なぞに興味を抱くのかさっぱりだ。
「悪党退治ってヤツかな」
問い掛けに、倉子は言葉よりも重めの調子で言った。ライオンらしきものが描かれたシャーペンで顎をつつきながら言うのは、力也の動機に似ていた。
「悪党退治ねえ……そんなら警察にでも入ればいいのに」
「当たり前のコト言わないで。あたしが思ってること、警察じゃあできないの」
「そりゃあ……物騒なこった。テロ活動でもする気か?」
「違うよお。デリカシー無いなあ」
害獣保護と殺し屋志望の娘に言われたくはないが、現役殺し屋に返す言葉は無い。ハルトが慣れてきた忍耐に身を委ねて苦笑すると、倉子はやや気難しい目を向けてきた。
「あたし、真面目なハナシしてるんだけど?」
しゃんとせねば言わない、という調子に、はいはいとハルトは居住まいを正した。聞き出すことも清聴することもないのだが、変にヘソを曲げられて日ごと噛み付かれては困る。
「あたしが思う悪い奴を取り締まれるなら、とっくに警察目指すと思わない?弁護士とか、検察も同じ。この国のルールに乗っかると全然ダメ。犯罪に優しいもん」
倉子のセリフは痛烈だった。恐らく、挙げられた職に就こうとした、或いは現にそこで働く人々は、彼女が感じる同様の問題に挟まれながら、それでも正義の方向へ邁進しようとしている筈だ。この発言には、ハルトにも一抹の責任を感じた。誰それと把握していないが、今挙げられた職業に従事しているBGM関係者は存在する。これらの仕事に就く殺し屋はそう居るものではないが、BGMにとって都合の良いように工作する人間は確かに居るのだ。正義が機能しない理由の全てが身内とは限らないが、影を落としているのは間違いない。
「……司法は、徐々に改正されるんじゃないか?」
「日本は法改正がトロいからダメ。時間が無いの。人間は八十年近く生きても、動物はそうはいかない。今この瞬間も、次から次に殺されてるの」
呟く眼差しは真剣だった。やはり害獣まで保護する娘だけに、動物に関わることらしい。
「ジャーナリストとかはどう?」
「ダーメ。それなら何かで有名にならないとでしょ。時間が足りないよ」
時間か。まだ十代の少女が、何をそんなに切羽詰まっているのだろう。シャーペンの端を顎に当て、若き殺し屋志望は難しい顔で言った。その視線の先には、微動だにせず体を丸めて寝息を立てるスズが居る。
「……あたし、ペット売買と殺処分のシステムを整備したいの」
「ペット?」
もっと大きな話をするかと思っていたハルトは少々面食らった。てっきり絶滅危惧種を救うために密猟者を殺すなどと言うかと思っていたが、よもやペットとはどういうことなのか。
「ブリーダーってわかる? 血統書付きの犬や猫を育てて、主にその赤ちゃんを販売するの。あ、勘違いしないでね。ブリーダーがイコール悪い人なんじゃなくて……稀に居るの。動物の命を何とも思わない、屑みたいなヤツが」
屑というセリフを吐くとき、倉子の目つきは異様に鋭くなった。――憎しみだ。痛みを伴う怒りを孕んだ目。ハルトも幾度か見たことのある目。
どうやら、システムとやらの第一段階を、悪い業者を一掃することだと考えているらしい。
あながち間違ってはいないが、それにはどうしても大きな問題が浮上する。
「……どうやって悪を見分けるつもりなんだ?」
「悪い奴は悪い奴でしょ。ちょっと調べればわかっちゃうんだから」
「言いたいことはわかるけど」
向き合う女子高生の眼差しが剣呑であることに臆しつつ、ハルトは言葉を続けた。
「正しいのもわかる。ただ……俺は色んなとこで、色んな“悪い奴”を見てきたから……一概に、全員くたばっちまえとは言いづらい」
俺も悪党だし、とハルトが不器用に笑うと、倉子は目を瞬かせてから、微量に表情を和らげた。
「色んな悪い奴って……あたしにはわかんないや。漫画の悪役が憎めないみたいな感じ?」
「どうかな。そっちは俺が詳しくない。小説なんかの悪党は近いと思ったことあるけど――人間臭いって言うか、不運とも言うかもしれないな」
実際、コミックにしろ書籍にしろ映画にしろ、 物語の登場人物は、大なり小なり気を遣われて生まれているのは間違いない。作者の都合で転落人生を歩むことになるキャラクターと、現実に理不尽な状況下に生まれて悪に染まらざるを得ない者とは、少なくともハルトの目線では比べようがない二者だった。『こんな奴居そう』とか『居る居る』と思う人物は、文面によく見かけるが、フィクションであることは大きな差だ。
「そうだな……母親の医療費の為に高い金で殺しを受ける奴とか、人種差別で仕事が出来なくて悪党にならざるを得なかった奴、心から自分の国を良くしたいと思ってテロリストになった奴とか……」
答えたハルトの視線は机の隅に向けながらも遠い。此処ではない場所に、或いはその悪党とやらに想いを馳せるのか、若い殺し屋の横顔は憂いに満ちていた。
「自分から……悪いことしたかったわけじゃなかったってこと?」
「まあ……結局はワルだから、言い訳だけど。悪いと思ってないこともあるし……」
頷いたものの、ハルトは机を見たままだった。
「……そいつらも、子供の頃は夢を見て、或いは自分の境遇が好転することを祈ってた。生きている過程で、こいつらを責め、武器を握らせ、どうするのか理不尽に迫った奴が居たから、悪党になったんだ」
「……あたしは、何言われたって悪いことはしたくないし、誰かの言いなりにはならないよ」
「家族を酷い目に遭わせるって言われても? ラッコちゃんの場合、動物のが効くかな」
明瞭に、倉子の表情が変わった。黒い瞳にチリリと火花が散った様に見えた。
「卑怯だね」
「ああ。悪党は、抵抗されることなんか前以て理解してるんだ。誘い込む以上、逃げられない状態を作り、裏切られないようにコントロールする。もし、そうなった場合の対処もする。その悪党だって、誰かの影に脅えたり、ひれ伏して生きてるんだ。個人、大衆、過去、権力、利害、信仰……とにかく色々だ」
「悪を作るのは……悪だけじゃないってこと?」
「そうだよ。悪を擁護するわけじゃないけど、ごく一般人が悪を育てることは多いと俺は思う。子供の頃から駄目な奴だってバカにされてた男が、突然、一族全員を殺した話もある。復讐や逆恨みも似たようなもんだな。言い出したらキリがない」
「ハルちゃんと喋ってると……悪い人が誰なのかわかんなくなっちゃいそう」
「ごめん」
倉子の苦笑いに、ハルトも同じような笑みを返した。
「これだけは言えるよ。自分の欲望の為だけに行動する奴は悪だ。障害も無いのに抑えが利かない奴は変態だな。それは間違いない」
恐らく、倉子が憎むブリーダーもそのクチだろう。刺激するだろうから伏せておくが。
「……そだねー。それはあたしにもわかる」
頷いてから、倉子は疲れた様子で手足を伸ばした。
「ハルちゃん、あたし……もいっこ考えてることがあってね」
今どき、構想の多い娘だ。何やら感心しつつ促してやると、少々ハネているボブをいじりながら倉子は答えた。
「友達のこと」
「……友達?」
ハルトの声に微量の緊張が絡むが、倉子は気付かず続けた。
「話聞いてたら、もうちょっと頑張ってみる気になった」
「友達の……何を?」
両拳を軽く掲げて伸びをし、倉子はふっと息を吐いた。
「イジメで困ってる子が居るの。前から解決しようとしてたんだけどさ、上手くいかなくて――最近は、本人が諦めモードでウジウジするばっかで、あたしもイラッとしちゃって、なんだか疎遠だったんだけどさ……」
ああ、イジメか。そういえばアマデウスが、日本のイジメに関して理解不能を示していたのを思い出す。少年期を特殊環境とはいえ、アメリカで過ごしたハルトも同様だ。
アメリカでもイジメは当然のようにあるが、それは所謂『強いものが弱いものを虐げる』というスタイルで、だから良いとは言わないが――日本のように、陰で集団が一人を疎外し、無視するようなやり方は珍奇だ。かいつまんで話した倉子によると、イジメの当事者は幼馴染の目立つ容姿の女の子で、本人もそれを理解している為、少々図に乗っていたらしい。それを快く思わない女子グループの陰口がSNS上に広まり、彼女のあらぬ噂が立つまでエスカレートしてしまったという。援助交際、万引き云々の根も葉もない話が尾ひれを引き、全く関与の無い変質者から厭らしいメールが来たり、校門前で他校生のグループに待ち伏せされるなど、生活に支障が出ている。ところが、現時点で危険は免れている為か、今なお裏で『いい気味だ』とクスクス笑っている同級生が居るらしい。
「ハルちゃんの話聞いたら、不安になってきた。たぶん……プライド高いから、あれ以上つつかれたら何するかわかんないよ。あたし、やっぱどうにかしなくちゃ。あの子を悪にしたくない」
「スゲーかっこいい。応援するよ」
賛辞を贈ると、倉子は会って初めてぱあっと満面に笑った。若さ溢れる、希望に満ちた笑顔だった。
――この少女の手は、武器を握るなんて勿体無い。漠然とハルトは思った。
もっと素晴らしいものを両手にも内にも持っている。多分、みんなそうなのだ。
そうやって生まれてくる筈なのに、何処かで誰かが無理やり握らせるのだ。或いは、握らねばならない状況を作る。巧妙に、この笑顔を奪って、別の下らない何かを成す為に画策する誰かが。
「頑張れ」
「Thank you!」
びしっとⅤサインをした倉子は、年下とは思えない頼もしさだった。
「ありがと、ハルちゃん」
「英語教えただけだよ」
「またまたあー。学校で講義すれば?先生に紹介しよっか?」
「御免被る。学校とか公務員とか苦手なんだ」
「なあにそれ。意味わかんない」
倉子が笑うと、この国の安泰と不安がごっちゃになる気がした。
きっと、可能性が未知数だからだ。倉子が信じる正義は真っ当過ぎて危ういが、社会に揉まれて濁ることも有り得る。そうなってほしくはないが、物事を中庸に見極められる大人に成長してほしいとも思う。
「ラッコちゃんさ、今みたいに笑ってれば上手くいくんじゃないか」
真摯に言ったつもりだったが、倉子は目をぱちくりさせてから、やおらゲラゲラ笑い始めた。爽やかさとは無縁の、アホ丸出しの笑い声を響かせてから、倉子は喉をひくつかせながら言った。
「それアメリカの口説き文句? ちょー笑える! ハルちゃんてばオッサンくっさあー!」
なんだかショックだが、倉子が元気になったなら良かったとハルトは思った。
――そう思わなければやりきれない程度に、ショックではあった。
「だいぶ慣れた?」
元気よく手を振って帰った倉子を見送った後。
テーブルを拭いていたさららに促され、客のはけたカウンターに招かれたハルトは、曖昧な苦笑いと共に頷いた。
「慣れましたけど、ボケそうです」
十歳程度しか変わらない少女に悪党の講義なんぞするとは、二十は老いた気分だった。
さららはくすくす笑って、以前と同じように「リラックスよ」と言った。
「私、ハルちゃんは此処に合ってると思うわ。ラッコちゃんもリッキーも楽しそうだもの」
「はあ……」
そう言われてしまうと、“バンバン撃ってた”時代が遠い過去に思える。
仕事とプライベートにONとOFFがあるのはわかるが、仕事と仕事で使い分ける日が来ようとは。
「あの……さららさんはどうしてBGMに?」
何気なく訊いたつもりだったが、テーブルに真っ白な布巾を滑らせていた細指が止まった。
「……私は、」
ほんの数秒、その答えはつっかえた。
「……復讐よ。その先で偶然、トオルちゃんに会っただけ」
「復讐……そうですか……」
彼女はいつも通り優しく微笑んでいたが、すっきりしない解答だ。
それ以上聞いてはいけない空気が否応にも漂う。さららの存在は聞いて尚、BGMには異質だ。ハルトが転がり込んでから、いまだにさらら向けの仕事は来ていない。本人は年に数回と言っていたが、毒殺及び薬殺の需要は決して低くはないし、銃規制のある日本ではむしろ歓迎されるスキルの筈だ。エリートを自負するわけではないが、中途半端な殺し屋をBGMは所持しない。しかも、仕事の痕跡を残さないように、戦歴は基本的に記録されない。今回、ハルトが異動の際に十条に渡ったデータは、アマデウスが秘匿しているデータから引っ張り出されたもので、普段から同業者さえ公開や検証をさせることは無い。
つまり、BGMの殺し屋で居続けるには、代表者の承認と、仕事をすることが必須条件なのだ。公開しないデータの改ざんなど無意味だし、いくら過去優れていても、直近が何も無ければ話にならない。徹底した進行形の実力社会なのだ。
彼女の発言が嘘ではないのなら、さららは誰かに復讐という殺意を抱き、誰かを追う内にBGMに――十条に出会うことになった。しかし、とハルトは内心首を捻る。
復讐の過程でBGMと接触したということは、さららの標的はBGM内の人間、或いはBGMが標的にしていた人間の可能性が高い。仮にもTOP13に名を連ねる十条と出会い、十八年も過ごしている以上、復讐が果たされていないとは思えない。
復讐が果たされたと仮定するなら、何故、彼女は好まない殺し屋として、今もBGMに在籍しているのか?
一般人の力也や倉子が居るのだから、この店に居る為ではない。月並みな発想だが、十条の近くに居る為だとしてもBGMは不要だ。彼は表の顔をきちんと持っているし、その性格からして、さららに殺しを強要するようにも見えない。
先日話していた、絆とやらか?
彼女をBGMに留めているのは、十条ではなく――未春とか?
「元エリートくんは、落ちこぼれの私が気になる?」
気付けば、新しいコーヒーを差し出して微笑む顔がいたずらっぽく見上げていた。
「えっ、……あ、いえ……そういうわけでは」
ぺこぺこしながら芳しいカップを受け取ると、さららは可笑しそうに含み笑いを浮かべた。
「私なんか気にしても、面白いことないわよ。心配しなくても、ハルちゃんと一緒にお仕事するのは、此処だけだもの」
「はあ……」
軽くかわされてしまったが、こちらも追及する程の理由は無い。それより、と身を乗り出したさららは、カウンターに頬杖ついて嬉しそうな顔をした。
「ハルちゃん。私より……未春のこと、どう思う?」
「はい?」
「未春よ。あの子、ハルちゃんが来てから楽しそうに見えるの」
はて、そうだろうか?
初対面から今日まで、あの青年は相変わらずにこりともしないし、仕事も家事も事務的に動き回る姿しかお目に掛かっていない。あれが“楽しそう”な状態ならば、むしろ楽しくない状態の方がどうなるのか気に掛かる。仕事の立ち回りはともかく、食事は文句なく旨いし、とやかく言わないところは気楽だ。まあ、先日、洗濯された布団がきちんとベッドメイキングされていた事態には、有難くも幾らか引いたが。
「敵意は持たれていないと思いますけど」
「敵意だなんて――ハルちゃんもどっこいどっこいねえ」
さららが可哀想に、という顔になるが、ハルトは“どっこいどっこい”の意味が呑めずに首を捻った。
「あいつが楽しそうだと、なんかあるんですか」
「ハルちゃんさえ良ければ……未春と友達になってあげてほしいの」
さららは自分のカップの持ち手を指でなぞりながら独り言のように呟いたが、ふと、指を止めた。
「友達……ですか?」
反芻したハルトの顔が、どこか普通ではなかったからだ。
一見、苦笑しているように見えた顔は、複雑だった。指に誤って針を刺してしまったようでもあり、唐突につねられたようでもある。この穏やかな青年の顔に走ったのは、何か鋭い痛み。
それは、さららが声を掛けるより早く消えてしまった。
「――お互い、そういうの苦手だと思いますけど……」
「……ええ、そうかもしれないわね」
困ったような笑顔に、先程の痛みはもう見えない。だから、だろうか。さららは躊躇いながらも更に一歩踏み込んだ。
「でも――二人は……気が合うと思うわ。本当よ。あの子もハルちゃんも優しい子だから」
「……殺し屋ですよ、俺は」
“優しい”なんて言われて、頷けない。さららは慈母のように微笑した。
「……それでいいの。そうでなくちゃ……“わからない”でしょう?」
「え?」
わからない?何が?
「あの、さららさ――」
「ハルちゃん」
声を発したのはさららではなかった。思わず身を引いてしまった先で、乾いた目が見下ろしていた。
「み……未春……」
全くこの叔父といい甥といい、気配を消して現れるのが趣味なのか?
今の話をどこまで聞いたのか――尋ねる言葉を探す前に、さららが声を掛けている。
「おかえり、未春。先に“ただいま”じゃない?」
「はい。ただいま戻りました。すみません」
さららに向かって変な挨拶を几帳面に喋ると、未春はファイルを取り出した。
「ハルちゃん、仕事」
「おー……」
来た来た、激坂アップダウンと急カーブ。
そう思いながらファイルを受け取ったハルトは、途端に怪訝な顔になった。中身は分厚いが、何かのキャラクターがポップに描かれたファイルは――どう見てもBGM関連ではない。
「おい……なんだよ、これ?」
「仕事」
未春はぼそりと言い放つと、何処からともなくハサミを二つ取り出す。
ナイフでも拳銃でもない、ごく普通の工作用のハサミである。ファイルからどっさり出てくる紙束は、オレンジや黒や紫で、どこかで見たことのあるような顔つきのカボチャの連続模様、黒い尖塔の街並み、コウモリに幽霊――ああ、もうわかるけれど、わかってたまるか。
「ハロウィンで使う飾り。十条さんが切ってくれって」
怪訝な顔のまま絶句したハルトにご丁寧に説明した未春は、隣に座ってシャキシャキと軽快に切り始める。思わず仰ぎ見た先では、さららが嬉しそうに笑っていた。
「リラックス、リラックス」
「ありがとうございましたあー!」
その大声は、カフェの挨拶よりも、居酒屋かガソリンスタンドが似合う。
見送られた二人連れの女性客が可笑しそうに笑っていたが、悪い気はしないようだ。
力也はとにかく、元気がいい。
その身には消化不良のエネルギーでも詰まっているのか、じっと立たせていると、妙に落ち着かない。かと言って、下手に何かやらせると金属ボウルを落っことして派手な音を立て、コップの水をぶちまけ、掃除をさせれば猫も逃げ出す。
どう考えても向いていないのだが、一生懸命ゆえか周囲にはこのドタバタを愛されているらしい。
「センパイ、ホントに手際良いッスね!」
数日前に何でも聞いて下さいと胸を叩いた男は、仕事の上でも後輩ポジションになってしまっていた。
「リッキーの方が“先輩”だろ?」
ハルトが致し方なく言ってやると、力也はへらへら笑って首を振った。
「そんなことないッスよお。いや、いいんですセンパイ、わかります!」
「殺し屋がみんな器用ってわけじゃないぞ?」
ダイナミックに遮る青年に念のため伝えると、案の定、目をぱちぱちさせて固まった。
「そーなんスか?」
「そーだよ。俺はともかく、あいつは特別だからな?」
非番のさららに代わってカウンターに立っている未春を指すと、当人はちらとこちらを見ただけで、再び手元に視線を戻した。
「未春サンは特別なんスねー」
「おいおい、一緒に仕事して二年目なんだろ?あんな奴は滅多に居ないぞ」
何やら必死に褒めている様になってしまうが、殺し屋事情が含まれるので、批判と感心がハーフ&ハーフだ。
「うんうん、居ませんよね、モデルか芸能人みたいッスから」
容姿の話ではないのだが、否定することでもないのでハルトは曖昧に頷いた。
「あ、でも、もう一人居るんですよ。モデルっぽいやつ!」
「ん? 此処、まだ他にスタッフが居るのか?」
「ハイ。忙しい奴なんで、滅多に来ないスけど」
奴、という呼び方からして、力也と同格か下の男性か。害獣保護JK、ヒーローに憧れる学生、これ以上ヤバい人材は勘弁してほしい。それにしても、追加スタッフもモデルみたい、とは、やけに顔にこだわる店だ。ファンキーな力也とて、体格は良いし、顔はしゃんとしていれば悪くない。なんだか居づらい……とハルトが思い始めたところで、カラカラ、と緩く開いた扉から、ぬっと入ってきた男が居た。
一瞬、緊張感を持って見てしまった相手に、ハルトはおやという顔をした。
忘れもしない。ラッパーか薬物売人か見紛うパーカー姿の保土ヶ谷だ。目が合っただけで絡まれそうなワルに見えるが、真人間なのは既に知っている。
隣の力也が「ガヤちゃん、いらっしゃーい!」と嬉しそうに声を掛けただけでも、彼が見た目よりずっといい奴なのが窺えた。保土ヶ谷も保土ヶ谷で、力也に「元気そうだな、リッキー」と兄貴っぽく声を掛け、ハルトには「どうも」と金糸の刺繍入りの黒キャップを脱いで頭を下げた。
無論、ハルトは直角のお辞儀を返す他ない。
「そんな畏まらなくていいスよ」
「いや、つい……首、大丈夫?」
ハルトが問うと、保土ヶ谷は苦笑いで大きな手のひらで首を叩いた。
「この通り、付いてるんで」
そう言って頂ければ有難い。太く締まった首元を見るに、彼は見た目通り頑健なのかもしれない。
「ガヤちゃん、今日はどったの?」
十条さんなら居ないけど、と言う力也に、ハルトも頷いた。いつもはお昼寝タイムか仕事中の十条だが、今日は町会の打ち合わせだの、役所に届け出がどうとかで外出している。
「もしかして、またラッコちゃん絡みか?」
嫌な予感を顔に出すハルトに、保土ヶ谷は違う違うと片手を振った。
「今日は只の客。定期的にここのドーナッツ食いに来てんスよ」
「わかるわかる! さら姉の食べると、他の食べられなくなるよなー」
力也がうんうん頷きながら、仲良さげに保土ヶ谷とカウンター前に向かっていくと、再びカラカラと扉が開いた。
「こんちはー」
「リッキー居ますー?」
今度は一般人らしい格好の若者が二人連れで、振り返った力也が「おっ!」と声を上げる。
「なんだよー! 来るなら言えよなー」
文句を言う力也はこれまた嬉しそうだ。何となく見守ってしまったハルトに、力也はペコペコと頭を下げた。
「あ、センパイ、大学の友達なんです。ちょっと良いですか?」
責任者でも先輩でもないのだが、どうぞお好きにと促すと、友達という二人の若者を奥の席に座らせ、楽しそうに話し始めた。普段、未春目当ての女性が多い店だが、今日は男性客が多い日のようだ。
ハルトがカウンターの方に戻ると、未春の前に座った保土ヶ谷がこちらを振り返った。
「野々サン、だいぶ馴染んだみたいスね」
煙草の方が似合いそうな男は、慣れた手つきでドーナッツを齧って言った。
「ハルトでいいよ。馴染んでるかなあ……」
一般人らしく振舞えている意味なら良いが、この店の一部になるのはいまだに抵抗がある。
ハルトのぼやきを何と捉えたのか、保土ヶ谷はどこぞのボスみたいに笑った。
「俺は最初に殴られたクチだけど、あんたがいい人なのはわかるよ」
「海外の治安育ちだよ、俺」
苦笑を返すと、保土ヶ谷は笑い返してくれた。彼は“知っている人間”なのだろうか。
ハルトは問い掛けるように未春を見たが、彼はちらとこちらを見ただけで、アイコンタクトらしいものも、気の利いた返事もなかった。
「保土ヶ谷さんから見て、俺はどこら辺がいい人なんだ?」
「え? ガヤでいいって。リッキーが『センパイ』って呼んでたろ。間違いねえよ」
「リッキー基準か」
「そ。一番信頼できる。倉子も悪くねえけど、あいつは生き物に関しちゃ狂ってるし、価値観が偏ってるからさ」
「そこは普通、十条さんや、さららさんじゃないのか?」
「ダメダメ。あの二人は聖人の領域で、基準が広すぎ。リッキーの物差しが単純でいいよ。な?」
同意を求められた未春は、相変わらずの無表情だったが、こくりと頷いた。
確かに、自分も力也の反応で保土ヶ谷の人となりを判断したが。からかわれているのか判断がつかず、ハルトが曖昧に首を捻ると、保土ヶ谷はどっしりした様子でコーヒーを含み、カフェにバーカウンターのような空気を匂わせて口を開いた。
「色々あるんスよ、ここの連中。あんな具合のリッキーも」
「色々……?」
思わず振り向いた先の力也は、如何にも普通の気楽な大学生だ。傍目には下らなさそうな話題で友達と盛り上がっている。「色々ある」ようにはあまり見えない。それとも、また例のハッピータウン調で、こちらが想像するようなものではないのだろうか。
「ハルトさんもあるんだろ? 色々さ」
「無いとは言わないけど――俺は別に……」
言い掛けた時、こちらをじっと見る未春に気付いたが、先ほどと同様に目が合うなり、視線は逸れた。さららの言う「楽しそう」の片鱗も見えない。ふと、保土ヶ谷に未春に変化があるのか尋ねてみたくなるが、本人を前に言うことでもないのでやめにした。
「リッキーの色々って何?」
代わりに尋ねた一言に、保土ヶ谷は曰くありげに笑った。
「ハルトさんが好かれてんなら、本人が話すよ。そのうちに」
「そういうもんか」
そういうもんだよ、と保土ヶ谷は達観した口調で言うと、未春に会計を求めて席を立った。
ぶんぶんと手を振る力也に片手を上げて、立ち去っていく保土ヶ谷を眺めていると、つん、と背中を突かれた。
「……なんだよ?」
振り返ると、未春が人差し指を浮かせたまま、もう片手にはドーナッツが乗った皿を手に、ぼそりと言った。
「これ、リッキー達に持って行って」
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