2.Up down.

翌朝。目を覚ましたハルトは、腹が重かった。

――なんだ……? 昨日ふるまわれた日本酒のせい……?

「……?……」

などと思いながら目を開くと、目の前に丸まるとした何かが乗っていた。

猫だ。カーテンの隙間から差すわずかな光に、透き通るような薄緑色の目玉がじっと見つめている。

目が慣れてくると、ようやく顔が見えてきた。

典型的な焦げ茶トラのようだが、眉間から下の顔は白く、腹も白い。よく見ると、白い手足の中で右手だけがトラ模様をしていた。警戒心が薄いのか、それとも警戒しているのか、胃の真上にどっかと座っている。赤いリボンの首輪からしてメスだろうか。顔つきはふっくらとしていて、なかなか豪気だが。

「飼い猫……だよな。十条さんの猫か?」

引っ搔かれるのは勘弁したいが、起きられないのも困る。

試しに身を起こそうとすると、猫はすっくと起き上がり、猫にしては重そうな、ぼてっという音で床に飛び降りた。

「……」

いつの間にか開いていたドアへのっしのっしと去っていく背をつい見送ってしまったのは、寝ぼけていたからではない。猫に有る筈の長い尾がなく、ウサギのような丸いしっぽがついた尻が面白かったからだ。

「あれ、スズさん。ハルちゃんの部屋に居たんだ」

未春の声だ。人間を差し置いて『さん』付けで呼ばれた猫はニャッと短い返事をすると、首輪の鈴をチリチリ鳴らして歩いて行ったようだった。

「ハルちゃん、起きてる?」

「……起きてる。今の猫、誰のペットだ?」

「スズさんは一応、十条さんが拾った猫」

「野良出身か……」

“一応”が何か気になるが、この支部代表は野良猫も拾うのか。

もう何だか驚かなくなってきた。

「ハルちゃんは朝食うよね?」

「……食べる」

時計を確認すると、午前七時。ドアの隙間からコーヒーの良い香りが漂ってきた。

『殺し屋ほぼ辞めました』の二日目は、ぽってり丸い猫と、芳しい飲み物と、ほのぼのと良い天気でスタートしたものらしい。

男所帯にしては小綺麗な洗面所で顔を洗ってみて、鏡に映る顔を眺めやる。

少し前――依頼人の頭を至近距離でぶち抜いたときの顔とは違う、はず。

日本で暮らす“普通”にならなければ。普通ってこんなもんかな、などと思い、伸びてきた前髪に意味も無く触れた。滴が垂れ落ちる、面白くも無い顔、集団に紛れそうな普通の黒髪の短髪というだけのヘアスタイル、やや座った目ばかりはどうにもならないが、日本の一般人でひとまず通りそうだった。

こじんまりとしたリビング&ダイニングキッチンに顔を出すと、ゆったりと朝食の準備をし、猫に餌をやる未春が居た。昨夜遅くまで上司の飲みに付き合ったというのに、顔色はなんら変わらず、なにやら感心してしまう。

十条宅のリビングは、奥にペニンシュラ型――片面が壁に寄った対面キッチンが備えられ、ダイニングとリビングが一体化している。稼働しているペーパーフィルター式のコーヒーマシーンや、すぐ傍らのライムグリーンのポトスに目をやってから、昨日も気になったダイニングテーブルに引き寄せられた。

四人で囲むのがギリギリの丸テーブルはよく有る無垢の木だが、据えられた四脚の椅子が全て別々のデザインというのが変わった趣味だ。

『ハルちゃんはこれ』などと言われて宛がわれた椅子は、飴色の木製で、エッジの効いたハーフアームが美しく、朝の方が似合っているようだった。

昨夜、酒盛りしたテーブルは綺麗に片付けられ、未春はキッチンでIHヒーターにフライパンを載せていた。

「……なんか手伝うか?」

尋ねると、未春は持っていたフライ返しで出口の方を指した。

「新聞、持ってきてくれる? 沢山あるから」

沢山? 胡乱気に出口――二階も外に通じる玄関があるのだが――を見に行くと、ポストには旅行にでも行っていたように、ぎっしりと新聞が詰め込まれていた。

「すごいな。これ、全部読むのか?」

数えてみると、六部もある。経済紙に、英字新聞、地方紙らしいものまで混じっている。

「俺は読まない。全部、十条さんの」

初日の印象が印象だったが、どうやら十条という男は怠惰な寝坊助ではないらしい。

いや……実はこの日も起きてきたのは昼を回っていたので、寝坊助であるという点は全く否めないのだが。

「そういや、此処って給料どうなってんだ?」

朝からお見事と言わざるを得ないふわふわのオムレツにフォークを入れて尋ねると、未春はコーヒーに口を付けてから言った。

「店の方は、月給20万前後。BGMの方は仕事によりけりだけど、ひと仕事で一般人のボーナス平均くらい。たまに十条さんも臨時ボーナスって呼んでる」

「フーン……意外と安定供給……」

「ハルちゃんは日本にも口座作れって。社会保険の手続きとか、他のも早めにってさ」

「わかった。……“そっち ”の仕事はどのくらいある?」

「不定期。たまに連日」

「連日? ……思ったより多いんだな。日本て平和じゃないのか」

「どういう意味?」

未春の問いに、空気が止まった。ハルトもコーヒーを飲み下して、答えに詰まる。

「人が死なないのが平和なら、日本はあまり平和じゃないよ」

「それは……違うだろ、金出しても人殺しを考えてる奴が多いかどうか……――」

言い掛けて、口をつぐんだ。案の定、未春はトースト片手にわかりきった答えを言った。

「多いよ。それに、俺たちが殺さなくても、人は殺される」

金を出すのか、自分でやるのか。

……じゃあ、平和ってなんだ?

口に、喉に、腹に染み込む液体が唐突に苦く感じた。

穏やかな朝日が差すところで、旨い朝メシを食って、猫の頭を撫でてやることか?

そのぐらい――時折、街角が爆風で吹っ飛ぶ国でもやっていた。



「おはよう、ハルちゃん。眠れた?」

制服に着替えて階下に降りて行くと、さららが陽気に手を振った。

「おはようございます。早いですね」

「うん、私は主にカフェ担当だから。仕込みをしなくちゃいけないの」

「手伝います?」

「ありがとう。……あら、お嬢が付いて来てる」

「お嬢?」

言われて、足元に丸まるとした猫――スズが居ると気付いた。さすがは猫だ。ふっくら体型でも、気配を消せば人間など足元にも及ばない。

「お嬢に好かれるなんて、やるうー」

「今朝、ハルちゃんの部屋で寝てましたよ」

猫並に静かにやって来て要らぬことを報告する未春に、さららはどこか満足そうに頷いた。

「良識っぷりがわかるわね。ご飯くれるイケメンよりイイなんて、さすがお嬢。見る目あるわ」

さららに撫でられると、猫は顔をくしゃっとさせてゴロゴロと喉を鳴らした。現役殺し屋に『良識』のレッテルを貼りやがって、と苦笑いが浮かぶ。

「ハルちゃん、さららさん手伝うんなら、手洗い消毒して」

「りょーかい」

「あ、未春ー、今日はリッキーが来るから、来たらハルちゃん紹介してね。午後にラッコちゃんも来てくれるから」

未春は頷くと、専用と思しき布巾でテーブルなどを拭き始める。のっそり動いているように見えるのだが、この男は実にてきぱきしている。カフェの椅子は全て異なるデザインが置かれている為、一脚ごとに手入れも違うらしい。未春が流れる様に細かな掃除をしていくのをぼんやり見ていると、さららがトンと肩を叩いた。

「じゃ、ハルちゃんには仕込みを手伝ってもらいましょうか。そういえば、普通のお仕事って経験あるの?」

「正式には無いです。潜入ってていなら色んなとこ行きましたけど……アマデウスさんの関係先って、バーとか会員制クラブとか、芸能系が多いんで、普通じゃあないですね」

「わ、面白い。でも、そう……接客経験あるから、昨日もスムーズだったわけね」

「まさか。昨日から違和感ばっかりですよ」

「そんなことないわ。リラックスして楽しんで」

さららは優しい声で言うと、にっこり微笑んだ。

「此処はそういう場所だから」

伴われたキッチンは、表のシックな木製とは異なる、ステンレスに鎧われた空間だった。一般家庭のキッチンとさほど変わらない広さは、ようやくすれ違える程度の幅を置いて、引き出しのついた銀色の台、冷蔵庫、コンロやフライヤー、大きなオーブン、食器棚などが並んでいる。

「コーヒーなんかは表の小さいスペースで作るけど、ランチとスイーツはここでやるの。あ、マスクしてね」

さららも手際が良く、指示も的確なので、ある意味頼もしい。言われるままに野菜を切り、仕込みにラップを掛け、彼女が生地を準備してきたドーナッツを成形、発酵の合間に一服し、揚げ上がりにはハニーグレーズをかけ、粉砂糖やナッツを振り、チョコレートに浸す。

「ハルちゃん、優秀。丁寧でスピーディー」

ぱちぱち手を叩きながら一通り終わる頃、表のケースにドーナッツや焼き菓子を並べて、さららは満足そうに腰に手をやった。

「ひょっとして、自炊してた?」

「それなりにしてましたけど、先生が優秀なんですよ」

「お上手ね。海外仕込みかしら」

さららはマスクを外してくすくす笑った。

「……さららさんも、BGMの仕事をやるんですよね?」

全くそう見えないのが演技ならば恐れ入るが、彼女は仕草も素朴で、作られた雰囲気ではなかった。現に、BGMの名を聞いたさららの表情は曇った。

「……私はあんまり。年に何回あるかな……ってぐらいよ」

「一応聞きますけど、何を使うんです?」

「聞いたら、私のまかない食べられなくなっちゃうわよ?」

悪戯っぽく笑われるが、その一言で十分わかる。つい、ケースの中で艶やかな砂糖にくるまれたドーナッツを振り返ってしまう。

「毒ですか」

「そう。強いのは使わないの。目立たないものを使う……なんて言うと悪どいカンジだけど、その辺は企業秘密よ」

「でしょうね。日本じゃ薬殺刑も無いですし」

「使わないに越したことはないもの。最近じゃ、治す為の物を飲み過ぎた人が亡くなるんだから、本末転倒よね……」

おっとりとさららは言ったが、彼女をこの現場に据えている上司の神経は凄まじいものがある。よほどの信頼関係が無ければ、これほど楽にトップを殺せるポジションもあるまい。

「さららさんは、十条さんと長いんですか?」

「……うん。私が高校生のときからだから……18年ね」

「聞いても、殺し屋には見えないんですが……」

「演技じゃないわよ」

優しい笑顔でさららは答えた。笑顔に嘘は感じないが、笑って人殺しをするキチガイにも見えなかった。

「それに私、所属しておいてナンだけど、BGM自体は好きじゃないの。トオルちゃん以外の上司もお断り。お菓子作って、コーヒー淹れる方がいいわ」

「そっちのが合ってますよ」

ハルトは思わずそう言っていた。世辞ではない。わざわざこの女性が殺しをせねばならないほど、この場所に切羽詰まったものは感じないからだ。

「ありがと」

さららが軽やかに笑った時だった。昨日のようにほうきとちりとりを持って、未春が店内に戻って来た。隣に、初対面の若い男が立っている。

「ハルちゃん、リッキー来たよ。挨拶してやって」

リッキーと呼ばれた青年は、明らかに年下と思しき若さだった。純朴そうな浅黒い顔立ちにスポーツマン風の短いウルフカットの濃い黒髪がよく似合う。人懐っこそうな笑みと共に、片手を掲げて明るく大きな声を発した。

「はよーっス! はじめまして! 脱落サン!」

――なるほど……これがこの店の礼儀か?

「誰かの悪意を感じるな……」

頬をひくつかせながら、最初に言い出したのは誰だと思っていると、さららが青年にぴしゃりと言った。

「リッキー、初対面なんだから、ちゃんと名前を名乗りなさい!」

――Oh……そっちか。溜息が出そうになるハルトを余所に、青年はばつが悪そうに頭を掻いた。

「はーい、すんません、さら姉」

神妙に頭を下げると、青年は渋面を脱することができないハルトに向き直った。

葉月力也はづきりきやです。あだ名はリッキーっす。宜しく、センパイ!」

「……野々ハルトです、宜しく」

この“悪気はありません ”の態度にいい加減慣れねばならない……憂鬱を顔に描きつつ、ふと『先輩』と呼ばれたことに眉を寄せた。その表情に気付いたらしい未春が傍らを指さして口を開く。

「ハルちゃん、リッキーは現役大学生で、BGM歴は二年生の超新米」

「は? その歳で二年? 教育はどこで……?」

「あ、俺はそーゆーの無くて、独特な奴です。殺し屋じゃないッス」

「独特……殺し屋じゃないのに所属って……清掃員クリーナーでもなく?」

「リッキーは、たまたま“見ちゃった ”子なのよ」

さららは腕組みすると、とても残念なことを話すように言った。

「もともと……高校生になる前にトオルちゃんと知り合ってて……此処に遊びに来てたんだけど、二年前に彼のおばあちゃんが、振り込め詐欺の被害に遭ってね。犯人捕まえてやるーって意気込んで、犯人グループ関係者に逆に殺されそうになっちゃったの」

「へへ、マジで死んだと思いました」

死にかけたわりに、力也はへらへらと笑った。

非常に腹の据わった男だ。……それとも、只の馬鹿か?

「路地裏で捕まって、他の仲間いんのかコラって怒鳴られてどつかれて。そのとき、未春サンが急に歩いて来て、ばっさりやっちゃったんです」

時代劇の辻斬りのような表現に、未春は小さく片手を上げている。

「リッキー、俺、ばっさりはやってない。ぐさり」

その訂正が果たして要るのかはともかく、だ。

「……通報しなかったのか?」

「しませんよおー。未春サンは、ばあちゃんの貯金の仇取ってくれたヒーローみたいなもんだから!」

「ヒーロー、ね……」

たまに居る、BGMを勧善懲悪の英雄だと勘違いする奴か。未春を見やると、視線の意図がわかるように頷いた。

「幸い、脳筋だったんだよ」

通常トーンで失礼なことを言ってのけるが、本当に脳みそ筋肉であるらしいリッキーには伝わらなかったようだ。ヒーロー番組に熱中する小学生男児のようにハルトを見つめていて、けなされたことにも気付かない。

……なるほど、只の馬鹿か。素晴らしい。

「脱落サンもすっげー殺し屋だったんでしょ?悪い奴をバンバン倒すみたいな!」

悪い奴に限定されていたかはともかく、バンバンは撃っていたので、ハルトは気圧されながらも頷いた。

……客が居ないからといって、デカい声で言うのはご遠慮願いたい。

「彼は此処で育成中……ってことですか?」

こっそりさららに尋ねると、彼女も小声で答えた。

「いいえ。それらしいことは何も。本人が希望してる押しかけ女房みたいな感じだから、正式なBGM所属者ではないわ。トオルちゃんは優しいから、追っ払わないでバイトくんとして入ってもらったの」

「それで、本人は納得してるんですか?」

未春に何事か話し掛けている青年は、頭こそ残念そうだが、安易に引くタイプには見えない。

「学業第一ねって条件で、たまーに未春が相手してあげてる」

「相手? 戦闘訓練みたいなことを?」

軍隊じゃあるまいし、という顔のハルトにさららは微苦笑を浮かべて首を振った。

「男の子二人が仲良くランニングしてるようにしか見えないわよ」

ちょうど、真正面の米軍基地内では年に二度、まあまあの規模でマラソン大会が開かれるらしく、“教育”とやらの試験に用いているという。つい昨日加わったハルトでも瞬時にわかる程度に丸め込まれているようだが、当の青年は疑う素振りも無いらしい。

「イイ奴ってことはわかりました……」

「ふふ、そう。此処に居るのはみんな良い子よ。殺し屋なんて言葉、全然似合わない」

仰る通り、体格はいいが、どう斜めに見ても好青年だ。はっきり言って、やんちゃな犬っぽい雰囲気からしてワルの要素は微塵も無い。

「あんま、そっちのことは喋んない方がいいんですかね……?」

「トオルちゃんは駄目って言ってないけど……理解できるかは別の話だから。お店も二年目だけど、なーんかまだ危なっかしいのよねえ」

――脳筋ね。彼には悪いが、日本ではそれも良い才能だ。

「ハルちゃん、所属歴何年?」

急に声を掛けてきた未春に向き直ると、隣では力也が例のきらきら視線を輝かせている、

「あー……正式登録は15歳の時だから……13年」

「あれ、所属歴も俺と同じだ」

首を捻ると、未春は力也に振り向いた。

「リッキー、ハルちゃんと俺は所属歴も歳も同じだった」

「マジすか! なんかスゲー!」

おー……何がスゲーんだ。この意味不明なテンションの高さは生気を吸い取られる気がする。黙っていると質問攻めにしてきそうな力也だったが、さららが立ち塞がるように腰に手をやっている。

「リッキー、とりあえず着替えてきなさい。ハルちゃんと交代してあげて」

「ええー! 会ったばっかなのに! センパイどっか行っちゃうんスか?」

「文句言わないの。日本で暮らす手続きが沢山あるんだから。保険証がないと何かあった時困るでしょ。年金だって通知来ちゃうし。ハルちゃん、もう市役所開くから、混まない内に行って来て」

保険証に年金……妙にリアリティのある響きだが、公的医療保険の話なら、日本は優秀なのでさっさと交付するに限る。アメリカなんぞは公的医療が高齢者、障害者、低所得者対象ぐらいのものしか無く、ほぼ民間保険中心だ。未加入でアメリカで怪我をすると、日本人には理解できない請求にビビる羽目になる。何にしても……現状所在地が日本である以上、殺し屋だろうが何だろうが一般人ぶる他ない。

「じゃあ……行ってきます」

「ハルちゃん、書類関係はリビングのテーブルにあるから。あとコレ使って」

優秀な秘書のような未春から手渡されるのは、自転車のカギだ。

「裏手の黒いやつ。俺のだから平気だと思うけど、高さ合わなかったら直して」

「おー、Thank you……」

「さすが、ネイティブって感じのサンキューねえ。ハルちゃん運転はしないの? 私の車使ってもいいよ?」

さららの言葉に、ハルトは首を振った。

「俺、向こうの免許しか無いんで、切り替えないと乗れないんですよ」

「外国免許!? すげーかっけー!」

「いや……別に海外で乗るだけで変わんねえから……」

まだまだ大騒ぎしそうな大学生から逃げるように、ハルトはその場を後にした。



 芝生の上に立方体を二個置いたような、変わった形の市役所から帰宅する頃、陽はとうに真昼を過ぎていた。役所はひっきりなしに人が訪れ、役所を取り囲むように配置された駐輪場はぎっしり埋め尽くされている。

空は薄曇りだったが、日差しもある良い陽気だった。

役所なんぞを訪れて手続きしていると、急に日本人になった気がした。最初から正真正銘の日本人なのだが、どうも米国中心の生活だった為、自転車で走るには狭い道路や、日本人ばかり歩いている様子は異国に感じる。そこへ行くと、変な外車や大型トラックが来る国道沿いは、かえって落ち着いた。ずっと坂の続く道を上がっていくと、にわかに騒がしい国道に直面する。

今更だが、一番高いところにあるんだな、と気付いた。

そのわずか数車線先は、米軍基地のゲートだ。別に銃器を掲げた兵士が立つわけではなく、するりと入れそうにも見えるが、間違っても呑気に入っていける場所ではない。Yから始まるナンバープレートを付けた車が入場していくのを尻目に、店へと自転車を走らせると――ふと、行き過ぎればいいものに目が留まってしまった。

平日は人通りが殆どない為にかえって目についてしまったのだが、止まってしまったことは迂闊だった。

高校生だろう――制服姿の少女がスクールバッグを抱いて、真っ黒なスウェット上下の男と派手なパーカーの男二人に囲まれている。茶髪をボブカットにした女子高生は、紺色のブレザーに濃いグレンチェックのスカートを履いた今風の子だ。

初めは仲間で話しているだけかと思ったが、道から隠すような様子は“ソレです ”と告げていた。

「あっ!?」

目が合ってしまった瞬間、先に声を上げたのは少女だった。

「その自転車……みーちゃんの――」

自転車。みーちゃん。女子高生。太陽は真上を過ぎた。

――パズルが合わさるまで、時間は掛からなかった。

「君……ひょっとして“ラッコちゃん ”?」

ハルトの問い掛けに少女が声を上げるより早く、傍らの男が腕を広げて遮った。

「コラ、なに無視してやがる! 倉子くらこテメェ、いい加減渡しやがれ!」

「だ、だめだってば!」

大きな腕を素早くすり抜けると、少女はこちらの後ろに回り込む。よほど大事なものが入っているのか、ぱんぱんに膨らんで重そうなスクールバッグを、爆弾でも抱えるようにしている。

やれやれ、そういう流れになるのか?ベタかよ、ニッポン。

無視して帰れたらどんなに楽なことだろう。車の走行音が激しいからなのか、少女はあまり高くない声を張り上げた。

「お兄さん!『DOUBLE・CROSS』に来た脱落サンでしょ? お願い、助けて!」

「……助けを頼む相手にそれは無いと思う」

そうは申し上げたが、少女は切羽詰まっていてそれどころではない。致し方ないので自転車を降りると、見るからにラッパー系ファッション被れした男は怒鳴り声を響かせた。

「なあにが助けてだ! アホか!」

「あの……落ち着いて下さい。彼女、何したんです?」

「オイオイ、関係ないだろ、兄ちゃん。さっさと行っちまえよ」

そんなにわかりやすいチンピラをやらなくてもいいのでは、と思いながらハルトは相手を刺激せぬよう遠慮がちに見た。

どこかのブランド・ロゴが入った黒のキャップ、大柄な体格を包んで尚ばかでかい黒スウェットの上下、目の透かし見えないサングラス。誰か彼らにセンスを指摘してやってくれと思いながら、背後の少女を肩越しに見やる。

「君、何したんだ。怒らせるようなことなら謝った方がいいよ」

少女は左右に激しく首を振ってから、ぼさっと広がる癖っ毛をちょいちょい整えた。

「あたし、悪くないもん!」

「てめッ……このバカ女……ッ!」

少女の声を引き金に男が近づいてくる。ごうごうと騒がしい国道を背景にハルトは思った。

――ええと、大怪我させるのは駄目だ。

顎に行こうとしていた自分の手を慌てて止めたが、それでも軌道修正は間に合った。

――今はなんだ? 制圧でいいのか? 制圧――そうだ、気絶だ、気絶させとけ。

脳の命令を受け付けた腕が、傍目には一直線に動いていた。向かってきた男の首、側面に向けて横殴りに拳が襲い掛かっている。瞬間、バットで殴られたようにその場に打ち倒された男が地面に沈むと、もう一人の派手なパーカー男が信じられないものを見る目でハルトを見た。

背後の少女も思わず息を呑む。

「ま……待て……! お前まさか……未春サンの関係者か!?」

「同僚になったばっかだけど。知り合いか?」

痛くもない拳をさすりながら尋ねると、男は冷や汗混じりに手のひら掲げて頷いた。

「おッ……俺たちが悪かった、もう病院送りは勘弁してくれ……!」



「……なんていうか、すみませんでした」

店に戻ってくると、平伏するように頭を下げていたのはハルトの方だった。

「ホント、倉子に関わるとロクなことにならねえわ……」

カフェの椅子に座って、氷のうを当てられていた首に湿布を貼ったのは、先ほど殴り倒したラッパー系兄ちゃんだ。向かいで治療に当たりつつ、にまにまと笑っているのは、先ほどやっと起きてきたという十条である。湿布を片付けながら、気軽な調子で口を開く。

「ごめんよーガヤちゃん。彼、海外育ちでさー、治安の悪い社会仕込みなんだ。勘弁してあげて」

舌打ちしたラッパー系兄ちゃんは保土ヶ谷ほどがやという名前らしい。通称ガヤちゃんは、サングラスを取ると、厳つくもなかなか良い面構えの顔を胡散臭そうに歪めた。

「ったく、十条サンどっから連れてくんスか……物騒なのばっか集め過ぎ。未春にやられたヤツ、まだ病院出られないんスよ」

「じゃあ、ハルちゃんで良かったじゃないか。君たちもやり方が紛らわしいんだよ。今度はうちに来て待ってることにすればいいじゃない」

「倉子が持ってるモン見たら、ンなこと言えないすよ?」

呆れ顔で溜息を吐くと、保土ヶ谷はハルトに向き直った。

「もういいって、顔上げろよ。俺も頭に血が上ってたから気にすんな」

「はあ……どうも……」

思った以上に男前な対応に感心していると、十条は女子高生を振り返った。

「ところでラッコちゃん、今度は何したの?」

彼女は椅子の上で、例のスクールバッグを抱えたままだった。

不服そうに頬を膨らませていたが、おっとり笑顔で迫る男の視線に、居心地悪そうにしつつ、ジッパーを開いた。そこから出てきたものに、カフェのオーナーが思わず椅子を蹴って立ち上がったのは致し方ないことだった。

「ラッコちゃーん!! そそそれはダメなやつ! すぐガヤちゃんに持ってってもらって!」

十条の叫びに、何事かとキッチンから顔を覗かせたさららまでもが甲高い悲鳴を上げた。客が居なかったことは、大変幸いだった。

「ネズミだ」

非常に落ち着いていたのは、そう呟いた未春と、海外で見慣れているハルトである。

日本だろうと海外だろうと、飲食店にはご法度であられる大きな家ネズミ――ドブネズミが、ネズミ捕り用の小さな籠に入ってキョロキョロと動いていた。

「大人しいな。エサ薬入り? 普通キーキーうるさい筈だけど」

「ハルちゃん……こんな時に海外仕様のコメントやめてよ……」

心底嫌そうに言う十条に、ハルトは頭を掻いた。

「海外の、もっとデカいですよ」

「やめてよー!」

身の毛もよだつといった風の男に対し、女子高生はひどく悲しげに俯いた。

「……だって、殺しちゃうって言うから……」

「当たり前だろーが、バカ女。害獣だぞ」

聞くところによれば、このどう見てもラッパー崩れか、麻薬密売人が似合いそうなガヤちゃんは、害獣駆除の専門業者だという。普段はびしっと制服であるツナギを着て働く、非常に真面目な男らしいが、今日は子分のような同僚と非番だった。

ベースサイド・ストリートを闊歩中、鞄をぱんぱんにして歩く彼女に目を留め、売人……じゃない、仕事人のカンで怪しいと気付いて呼び止めていたのだ。

「……ラッコちゃん、いくら動物好きだからって、それだけはマズイよ……」

冷や汗混じりの形相で十条は言った。恐慌状態のさららがぎくしゃくと渡してくれた袋に、なんとか籠を収めさせる。その通りだ。野ネズミとは異なり、家ネズミという連中は、食べ物を食い荒らすに留まらず、家に使われる木材や配線コードなどを齧り切り、最悪の場合は火災を引き起こしかねない恐るべき害獣なのである。勿論、生き物という概念からすれば、むやみやたらに殺していいわけではないが、飲食店で出ましたとなれば何が起きるかは言うまでもない。

「ごめんなさい、十条さん……あたし、動物だと気になっちゃって……」

なにやら十条の前では殊勝な娘だ。色濃い反省の態度に、十条も頭を掻く。

「参ったなあ……とにかくウチは飲食店だし、病気があるかもしれないんだから、ネズミはダメだよ。おスズも居るからさ」

俯く少女を十条は叱らなかったが、困り顔のまま保土ヶ谷を振り返った。

「ガヤちゃん、悪かったよ。今度一杯奢るから」

「もういいって、十条サン。アライグマやハクビシンの時よりマシっすよ」

アライグマにハクビシン……よっぽど手に余る外来生物オンパレードに、ハルトさえ呆れ顔になる。話の流れからして、縮こまる女子高生は、常習犯なのだろう。業者が仕掛けた罠を知っていて、掛かっているのを見つけると、こっそり持っていこうとするらしい。アライグマやハクビシンなど、軽々持ち上げられるわけでもなかろうに。聞けば、同じようなシチュエーションで、抵抗する彼女を乞われるまま助けた未春によって、彼らの同僚は病院送りになったという。

それにしても、ドブネズミを己のスクールバッグに入れるとは、かなり行き過ぎた動物愛護家のようだが。

「ほら、ラッコちゃんもごめんなさいして」

学校の先生めいた十条の言葉に、女子高生は保土ヶ谷に向かって素直に頭を下げた。

「もうやるんじゃねえぞ、倉子」

「……」

返事が無いのが気に入らないご様子だったが、ともかくサングラスの真面目な青年は、終始、未春とハルトに慄いていた同僚と帰って行った。

眩い日差しを浴びるヤシの下、西海岸を歩くように立ち去るラッパー系男子たちの手には、ネズミ入りの籠。冗談のような一コマを見送って、ハルトは思わず呟いた。

「……ブレねえなー……ハッピータウン……」

隣で共に見送っていた女子高生を振り返ると、頭を下げていた筈の彼女は、腹立たしそうな目で、べーと舌を出していた。



「とんだ紹介になったけど、彼女が空井倉子そらいくらこちゃん。皆はラッコちゃんって呼んでるよ」

十条の紹介に、カフェの制服に着替えてきた彼女は、ハルトにちょこんと頭を下げた。

どこから見ても、その年頃の明るく可愛い感じの子だ。

ドブネズミをスクールバッグに隠し持つようには見えないが、残念ながらこの印象はしばらく拭えそうになかった。

「さっきは、助けてくれてありがとうございました」

接客業をしているだけに、お辞儀は完璧だった。助けたことになるのかは疑問だったが、ハルトが名乗って頭を下げると、好奇心が強そうな黒い目の少女は、最初で最後の敬語をまるきり捨て去って口を開いた。

「脱落サンは……殺し屋なんだよね?」

「げ……十条さん、まさかこの子も同業者ですか?」

もはや脱落発言は流すことにしたハルトだが、現役女子高生の殺し屋など、映画かコミックかと頭を抱えたくなる。十条は面白そうに笑った。

「安心してよ、ラッコちゃんは事情を知っているだけの、殺し屋じゃないバイトさんだから」

「目指してるけどねー」

すかさず口を挟む女子高生に、十条は先ほどの先生口調で首を振った。

「だーめ。ラッコちゃんには向いてないって言ってるでしょ?」

「やってみなくちゃわからないって、十条さんいつも言ってるじゃない」

「大人の揚げ足取るんじゃありません。まずは学業第一だよ」

「リッキーは勉強スカなのに、みーちゃんに付き合ってもらってるじゃん」

女子校生のツンと澄ましたセリフに、ハルトは内心、走ってるだけですがね、と呟くが、当の力也は悲鳴を上げた。

「ラッコちゃんひでえー! スカとか……そうだけど泣ける……!」

「はいはい、リッキーも騒がないの。ラッコちゃん、リッキーはスカだからオッケーなんだよ? 知ってるでしょ?」

よっぽど酷い発言を被せてくる上司はさておき、女子高生は納得いかんという顔つきでハルトを指さした。

「じゃあ、この人は勉強もできるってこと?」

面倒な方向に話が逸れてきた。咄嗟に憂鬱な顔になるハルトに対し、無責任な上司はさも当然といった風にふんぞり返って頷いた。

「もちろんさ、なんたってハルちゃんは元・エリートだよ。アメリカ仕込みの超出来るスナイパーだったんだから!」

何もかも過去形という点は、褒められているのか、けなされているのか。

それに、スナイパーというのは語弊がある。スナイパーというのは、小銃ことライフルを得意とする狙撃手のことで、こっちは拳銃派の中距離または近距離型が得意な殺し屋だ。

「あのお……十条さん、俺は――」

「少なくともバイリンガルだよね? 英語ペラペラだもんね?」

グイグイ来る上司から身を引きつつ、ハルトは仕方なさそうに頷いた。

「いや、英語は話せますけど、勉強は別の話で――」

「英語くらいあたしだって出来るもん! 脱落サン、あたしと勝負しようよ!」

自信たっぷりに発した少女の挑戦に、指名された殺し屋が返事をする間はなかった。横合いからのそりと出た手が、中途半端に遮っていたからだ。

「ラッコちゃん。悪いけど、ハルちゃんはこれから仕事」

「――は……?」

代わりにマヌケな声を発した青年を、熱も冷気も無さそうな目が見下ろす。先日、ハルトがやったリアクションを真似てか、己の首の前をスっと指で引いた。

「俺と仕事。そっちの」

「……あ、ああ、そう……」

そっちの、か。

「いいなあー俺も見に行きたいッスー」

「駄目よ。リッキーはこっちのお仕事」

今の今まで例のキラキラ視線を続けていたリッキーが物騒な嘆息をもらすが、こちらも仕事が早いさららに連行されていってしまう。それを呑気に見送ってしまったハルトを、未春は軽く首を捻って見下ろした。

「ハルちゃん、大丈夫?」

「ああ……大丈夫だけど……」

そっちの仕事にこっちの仕事。この支部、本当に調子が狂って仕方ない。

アップダウンの激しい山道か、カーブだらけの峠を疾走するようだ。返事を待っていたかのように、十条が頬を膨らませる女子高生の頭にぽん、と手を置いてハルトに笑い掛けた。

「ハルちゃんの相棒は、部屋にあるから持っていってね」

「……使っていいんですか?」

「いいよ。今回の現場なら、音は心配要らない。詳しいことは、上で未春に聞いて」

頷いて、未春に続いて階段を上がるとき、やけに足が重い気がした。

日本こきょうでの仕事、か。

感慨深いことなど何もないが、このやたらと平和に映る場所で、一体誰が死ぬ必要があるのだろう。普段着に着替えて、ほんの少々離れていただけの拳銃を吊ると、なにやら重く、邪魔にさえ感じた。一般女性がハンドバッグに銃を入れることもある米国では、護身の意味でも頼もしいが、此処では只のアンフェアな凶器に見える。

未春は何も変わらぬ様子で落ち着いていて、武器も何処に持っているのかわからなかった。ダイニングのテーブルに薄っぺらいファイルを持って来ると、スーパーに出掛ける時と同じ調子で話をした。

「隣の駅だから近いよ。標的は四人。顔はこれ」

顔写真入りの書類は、日本語というだけで見慣れたものだった。BGM内では共通に使用されているらしいターゲットの情報だ。恐らく、本人が書く履歴書よりも詳しい内容に違いない。

「……二人で相手をする程の奴らなのか?」

よほどの多人数や厄介な相手でもない限り、BGMの殺し屋は単独行動がセオリーだ。裏の軍隊を名乗るとはいえ、軍隊のような規律や指揮系統はない為、“万が一”のミスが起きた場合も一人の方が安全と考えられている。

――失敗を“処理”する為にも。

思った通り、未春は緩く首を振った。

「一人で余裕だと思う。十条さんが、ハルちゃんがうちで最初の仕事だからって」

「保険てことか」

さんざんエリート云々言われたが、舐められてるのかなと思うと、未春はこちらの考えを読むように言った。

「珍しく、拳銃が一丁あるらしいから、ハルちゃんが居た方がいいって」

そう言いつつ、アパートの間取りと、周辺地図を取り出した。

「十条さんは音の心配ないって言ったけど、ナイフの方が目立たないから、俺が先に入るよ。鍵掛かってたら、開けないといけないし」

ファイルと一緒になっている鍵を手に、未春はカフェの仕事を教えるように言った。

「わかった。お前がやり損ねたら、俺が殺る」

これで打ち合わせは済んでしまった。四人の人間の死を扱うのに、あっさりしたものだ。仕事の内容は、『標的を殺すこと』ただそれだけ。

普通の仕事の方がよほど難しく、出来たら立派だと、あの少女に言ってやりたいと思った。



 夕闇迫る頃、向かった目的の場所は線路沿いだった。

本数の少ないローカル線だが、帰宅時間帯はそれなりに通るようで、間近に踏切の音が聴こえた。道路から入り口が隠れるように建っているアパートは、二階建ての簡素な造りだった。無機質なコンクリートを、古びた蛍光灯が、ちかちかと落ち着かない光で照らす。現場が見えたところから、二人の青年は無言だった。本当に、ただ連れ立って帰宅するところといった風に歩いて行く。強いて言えば、両者とも歩行音は極めて小さく、響かない。

標的のドアに辿り着いても、軍隊のようなハンドサインなどしない。

未春は黒手袋をした手を無造作にドアノブに当てると、音も無くわずかに捻ってから、一息に開けた。そのまま止まることなくずんずん進んでいく。

――施錠ロックナシ。靴は四セット。言うことなしの状態だった。

だが、次の瞬間、ハルトは思ってもみなかったものを目の当たりにしていた。

本当に、それは一瞬の出来事だった。

カップラーメン一杯出来上がる前に、済んでしまった。


――何が、ハッピータウンだ。


毒づいてしまったのは、自分のせいではない。

目の前には、今や遺体という物体になってしまった男性が四つ転がっていた。

むっとした血の匂いと、鉄錆びた腐臭が、男臭く埃っぽい室内に混じる。何の変哲もないアパートの部屋は、惨劇の現場というよりも、あらかじめセットされた舞台に見えた。

その中で、それこそ俳優のような面構えの未春が、ぽつんと立っている。

黒いグローブをした片手に、血が付着した小さなナイフを持っていたが、彼の所持品ではない。倒れているどなたかの持ち物だ。全く、恐るべき手腕だった。

自宅に入るように玄関から入室した未春は、現場で背を向けて座っていた男の首を無造作に蹴り飛ばし、仰天して腰を浮かせた一人が握ったナイフを、腕ごと捉えて隣の男に刺した。血濡れた手に驚愕していた男の手から抜き取ったナイフがその首を一突きし、情報にあった拳銃を取り出した男は、押し倒されるように喉元を突かれている――この一連の動作が、日常生活の動きと殆ど変わらなかった。

いっそ気怠くすら見えた動作は流れるように無駄が無く、最初に蹴られた男に至っては、首がおかしな方向へ捻れていた。

「……お前、普通じゃないな」

声を掛けるというより、独り言のようにハルトは呟いた。

その手元にあった拳銃は、ひと筋、硝煙を上げていた。実は、一発だけ発砲していた。

一丁あると聞いていた拳銃は、持っていた男が構える前に弾き飛ばされていた。当たり所が悪かったか、その男の片手は死んで尚、赤く腫れだしている。

未春は少しも汚れていない顔を振り向かせ、何の感情も抱かない目で問い掛けた。

「ハルちゃんは普通なの?」

「いま、普通だったと確信した」

「そうかな。撃つの全然わかんなかった」

未春は無表情で首を捻り、ナイフを元の持ち主の手に返した。

血生臭いアクションをしてのけた男は、息さえ上がっていない。思った以上に早く動けるらしく、返り血は殆ど浴びていないようだった。汚れた手袋を外してジップ付きのビニールに詰めると、例のエコバッグにぽいと入れる。

「十条さんに電話するけど、ハルちゃん、夕飯どうする?」

「……はあ?」

……コイツ、まじか。

絶句する青年に対し、いま一人はいっそ間抜けに映るほど凡庸に首を傾げた。

「もしかして、仕事の後は食わない派?」

「別に、食うけど……」

「じゃあ、どっかで食ってこ。帰ると店手伝わされるから」

電話をかけながら、彼はどこまでも普通に話した。その顔つきは、戦闘ストレス反応――BGMでは『キリング・ショック』と呼んでいる片鱗さえ見えない。

人間を殺しても、何とも思わず――すぐさま、日常に戻れる人間ということだ。

ハルトは、舞台のような事件現場を顧みた。

汚いが、綺麗だ。喉元一突きされ朱に染まる、出来すぎた作り物のような死体。

アパートの一室は、所謂「振り込め詐欺」の基地局だった。それなりの重点地だったらしく、防音完備に数十丁のスマートフォンや携帯電話、開いたままのパソコンには個人情報がびっしり表示されていた。

リッキーが喜びそうな案件だ。しかし、それでも……BGMは正義の団体ではない。

良くも悪くも――世界が滞りなく回るのを望む。

異端を嫌い、不利益なものに対して過剰反応を見せる、殺し屋集団というだけだ。

この特殊詐欺に関してはこのところ顕著で、アマデウスもナンセンスだと毛嫌いしている。既に社会的地位など地に落ちた暴力団や、金が欲しいだけの素人悪などをのさばらせても、自分たちの利益には繋がらないと考える為だ。捜査や逮捕の段階を踏むと大抵は撃ち漏らす上、余分な金がしょうもない場所に流出する。真っ当な官僚は知る由も無いことだが、BGMは行政が使う金にうるさい。無作為な箱ものやばら撒きは言うまでもないが、“消すべき”人間の為に使うことほど無駄なこともないと考える。良くも悪くも、社会利益あってこそ、世界は激しく動く。裏側の人間にとって、欲望は凝り固まっていては駄目なのだ。裏だけで回るのも、少数が貯め込むのも良しとしない。金銭が裏も表も巻き込んで目まぐるしく駆け巡り、奪い合うほど交錯しなければ、ビジネスは滞る。

故に、詐欺の実行犯に関しては、入念な身元確認の末、上層部が邪魔だと判断すれば、即時殺処分が下される。事件扱いになる場合もあるが、依頼主によってはニュースにさえならないこともあった。

今回は、清掃員クリーナーと呼ばれる、BGMの事後処理班が入るため、遺体は綺麗に片付けられ、下足痕や硝煙反応も、恐らく銃声さえ、聴こえていても揉み消されるだろう。

――それだけ、綺麗にお片付けが可能なクズ野郎共の死に限るが。

「十条さん、オッケーだって」

未春が、電話をポケットに戻して言った。

「何食う?」

「……なんでもいい」

「俺、焼き鳥食べたいな。レバー食いたい」

人様のレバー裂いといて、レバー食いたいってか。

猟奇殺人鬼じゃあるまいし、とハルトは思ったが、未春があんまりにも普通に――ドアノブだけはハンカチ片手に回したが――部屋を出るので何も言えなかった。

平和な場所でも、悪党は悪党。とりあえず、元の位置に吊った銃が重い。掴んで、夜空に向かって放り投げたくなる程度には。

湿度も低いのに鬱陶しく感じる夜の中を歩きながら、ハルトはふと、隣の未春に問うた。

「そういや、お前……キリング・ショックはどうやって解消するんだ?」

いかな殺し屋といえど、人を殺すという凄まじいストレスは、何らかの解消法を持たなければ、気が狂ってしまう。ハルトも独自のそれを持っているし、知っている上では、大量の本を読むとか、特定の煙草を規定量吸うとか、決まった音楽を聴くなどが挙げられる。

尤も、中には“殺し”に罪悪感を持たず、むしろ殺しを精神安定剤にしている変態が居るが、そういう人間は日頃から普通ではない。

未春は何一つ変化がない――血生臭さも全くない、綺麗な顔を振り向かせた。

「別に無いよ」

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