BGM

sou

1.Drop out.

ドアの前には見るからに屈強な男が立っていた。

地味だが仕立ての良いスーツをきっちり着込む姿はビジネスマンに見えなくもないが、張りのある肩幅や筋肉は隠しようもない。男はもうこちらを見つめていて、淡いグレーの静かな目線で会釈した。同じような視線を返すと、彼はやや気の毒そうに苦笑した。

「話は聞いた。手元が狂ったのか」

聞き慣れたバリトンの英語に、返す言葉もなく肩をすくめた。

「そうかもな」

悪びれる様子のない返事に、男は苦笑いのまま首を振った。

「お前に限ってそれはない」

「……じゃあ、歳なもので」

「28はヤングだ。ボーイと言ってもいい」

「そーかもな……」

やれやれといった調子で返事をしてから、苦笑混じりに付け加えた。

「あんた、他のスタッフの歳までチェックするのか?」

男は微笑したが、何も言わずにドアから身をずらした。ノックをすると、軽く応じる声がした。ノブに手を掛けたとき、背後から静かな声が掛かった。

「ハル、辞めるつもりなら考え直せ。俺が社長に頼む」

「それこそ、俺に限らず有り得ない」

何故か棘のある口調になった気がして、なるだけ穏やかに言い直した。

「有り得ないだろ。あの人の腹で決まったから、俺は此処に呼ばれた。違うか」

「お前は特別だ。才能がある。それに、施設のことは――」

「ジョン、昔の話はナシだ。ノーサンキューだ」

やはり最後はぶっきらぼうになった。

ドアに向かって来訪を告げ、中の返事を待たずに開く。背後に微かなため息のようなものが聞こえたが、ドアの閉じる音に紛れて消えた。

「やあ、ハル」

何もかもすっきり片付いた部屋の主――否、当高層ビルの主は眺めていたノートパソコンから顔を上げた。50を越える筈の欧米人は、スマートな痩身とブロンドの髪が白いスーツに異様なほどハマっていた。若い頃からモテるとのたまう容貌は、真偽のほどはともかく余裕に満ち、どこか愛嬌のあるブルーの目元はいつも穏やかに笑っている。知らぬ者が聞けば不思議に思うだろうが、男の挨拶はネイティブ並の日本語だった。ひと頃より更に薄っぺらいシルバーのPCを折り畳み、男は執務机の向かいに置かれた椅子をすすめた。まるで被告人席だな、と思いながら大きすぎる背もたれのそれに大人しく座ると、上司は相反して子か孫でも訪ねて来たように相好を崩した。……今回のような場合、上司は愛想が良いほど性質が悪いのだが。

「顔を見るのは久しい。元気かい?」

出会った当初から砕けた話し方を好む上司は、寛いだ様子で尋ねた。その日本語は、母国語と言ってもいいほど滑らかだ。

「まあまあです。ミスター・アマデウス」

背筋も伸ばさない部下は、『母国語』の日本語で答えた。不遜な挨拶に男が気を悪くする様子はなかった。“神に愛される”または“神を愛す”意味の名を持つ男は、見掛けだけなら天上の人間のように微笑んだ。

「まあまあか。君はいつなら元気なんだい?」

「さあね。疲れるんです。誰かさんに扱き使われてますから」

「それは仕方ないよ、ハル。世の中は、有能である我々がフル稼働することで、辛うじて回るんだ。ひとりの可能性は偉大だが、サイズは様々だからね」

さっそくの講釈に、部下は呆れ顔で片手を宙に放った。

確かに、この上司が働き者なのは認める。二人か三人居るかのように走り回るのは感心するが、部下にも限界に近いアクションを求めるのは如何なものか。見返りがあるだけマシだが、生憎とまともな社ではない。否、詳しく言えば、至極まともなことをしながら、非人道的なことをやってのける組織だ。上司は自分を棚に上げ、この事業を掃除に似ていると言っている。きちんと暮らしていても溜まってしまう塵や埃を払い、廃棄し、処分する事業だと。綺麗好きなのはともかく、清掃業者に謝った方がいい――彼らの掃除が正真正銘の美化ならば、当社の作業は掃溜めでゴミを潰して歩くようなものだ。常に掃溜めを天高くから見下ろす男は、優雅に椅子にもたれた。

「私が思うに、最近のハルは好調だったんじゃないか。ミネソタの件では欧州支部も驚いていた。君はまったく、恐ろしい精度で狙撃をする」

「貴方に言われたくありませんが……あれは撃つだけでした。郊外で、警戒する相手も居なかった。ああいう場合は、足元が揺れたりしなければ大抵の奴は外しません」

「ハルはこういう話になるとジャパニーズだねえ。ホンジュラスではどうかね?無理をさせたろう?」

「慰謝料なら喜んで頂きます。慎んで、とか付けた方が日本人らしいですか」

面倒臭そうな返答に、上司は愉快げに笑った。わかりやすい罵詈雑言を吐いてもこの反応に違いない。出会って十年以上経つが、この男は殆どこの調子だった。

「慰謝料は別に埋め合わせよう。お利口さんのハルには何を――」

「ミスター・アマデウス、誉め言葉の安売りは他所でやって下さい。俺を呼んだのは世間話の為ではないでしょう」

鬱陶しそうに遮った部下に、上司は表情を変えなかった。ブルーの目を和ませ、ゆったり首を振る。

「いいや。出来るものならしておこうと思った。君の返答次第では、我々は二度と会えなくなる」

言葉に不穏な響きを帯びても、上司の顔つきは変わらない。

やっとか。

胸中に吐いたのは、唸り声に似た溜息だった。

やっと、この生活――ひいては世間からおさらばするのか。

ほっとしたようでもあり、虚しいようでもある。常人の感覚で言えば、ブラック企業をリストラされる気分だろうか。

それとも、断頭台で罪状を聞く死刑囚の気分だろうか。

ふと、喉元の奥深くに土埃が蠢く気がした。

氷が欲しいな――と思ったところで、上司は失望をあらわに首を振った。

「本当に残念だよ、ハル。君は異動だ」

「異動?」

すっとんきょうな声を発して、自分で驚いた。椅子を蹴るように立つのと同時に思わず、Why is that?と口を突いた。

異動だと?話が違う!

「ちょっと待って下さい。異動? クビではなく?」

「普通はクビだね。文字通り、クビが吹っ飛ぶこともあるね」

上司は柔和な微笑から、えげつない笑みに変わり始めていた。

「いいかい、ハル。知っての通り、君が犯したミスはクビになるのがセオリーだ。しかし、私は君をクビにする気は全くない。そして、君の真価がわからない連中にやるつもりもない。いわんや、首をはねる気は全くない」

『いわんや』なんて言い回し何処で覚えたんだ――要らぬ指摘は胸に留めて、首を振った。

「……素っ首飛ぶのはともかく、俺は別の組織に入る気はありません。フリーをやれるほど器用でもない」

「過小評価が過ぎるのは野暮だよ。君は今日此処を出た瞬間、腕を掴まれるか、車に詰め込まれるかぐらいは十分有り得る。私はその実力を、つまらぬギャングや民間軍事会社は勿論、国家に渡すのは御免だ。――かといって、今回の件は黙殺できない。知らん顔するのは得意だが、これを揉み消すには君が不在の時間がそれなりに要る」

す、と透明なファイルが机を滑ってきた。透けて見える中身は紙っぺら一枚だ。目を通すまでもない短い文面に、自分でも怪訝な顔になるのがわかった。

「ミスター・アマデウス」

「何だね」

「これが俺の異動先ですか」

「そうとも。君にとっては里帰りにもなるし、骨休めには最適な場所だ。一石二鳥だろう?」

日本。いま、日本語で会話することが奇妙だと思うほど、遠く感じる故郷。行き先は東京だが、23区ではない。行った覚えはないが、只今在住のアメリカとは妙な縁が有る場所の様だった。

「銃刀法がある国で、俺に何をしろと?」

「さてね。先方に聞いてくれたまえ。といっても、君がどういう経歴の持ち主か知っているし、相棒は連れてくるよう承った」

首を傾げた。銃規制のある国に銃器を持ち込み、使わせる気なのか。それこそ、この業界では『いわんや』なのだろうが、どうにもお門違いに思える。熊や猪狩りじゃないだろうなと改めて書類を見直すと、その手の狩猟ではない代わりに信じがたい文字が並んでいた。

紙面から、ちらと目線をもたげる。

「この支部名、マジですか」

ぷっと上司が吹き出した。

思わずムッとしてしまうが、上司は笑いながら大きく頷いた。

「良い名前じゃないか」

「驚くほど胡散臭い。新興宗教かフェイクカンパニー程度には怪しいです。一体どんな代表なんですか?」

まともな人間が居る方がおかしい業界だが、あまり奇怪な人間が上司になるのは困る。

そこへ行くと、まともか奇怪かどうかも断言し難い現・上司はにやけ顔のままゆったりと首を振った。

「ハル、勘違いしてはいけない。確かに出来の悪い上司というものは世間に溢れているし、君がトップクラスなのは私も保証する。だが、今の君は選ぶ立場に無いし、選ばれたことに感謝しなければならないよ。心配しなくても、代表のトオルは稀に見る良い男だ。センスは独特だが、実力はTOP13内でも高位。しかも現役だ。私と同位なら、君も文句はないだろう」

TOP13は、一人を頭に据えない当組織に13人居る各方面の代表者のことだ。

目の前の男は北米を統べ、他に南米、欧州、アフリカ、ロシア、中国、中東、アジア、そして日本などに散っている。但し、彼らが何処の誰なのか、どんな顔をしているのかは組織構成員の九割以上が知らない。末端に至っては、誰が自分の直属上司かを知らず、表の世界では逆の立場で顔を合わせている可能性すらある。これはTOP13同士でも有るというから、組織の立ち上げはどうやったのか、横の繋がりをどう維持しているのかは甚だ疑問だ。13人が一同に介することは諸々の事情で無いらしいが、ネットを利用した会談や、個々の接触はあるという。表社会で音楽会社CEOを務め、他にも様々な事業を手掛けるアマデウスはこの中では有名なタイプだ。一方、全く顔を見せない人物に至っては、人間ではないのでは、子供なのでは、などと噂されている。

独特のセンス……まさか、その噂は事実なのではと部下が思い始めた辺りで、アマデウスは首を振った。

「これこれハル、自由の国で暮らした君が、人のセンスをどうこう言うものではないよ」

「日本はアメリカじゃありません」

都合のいい部下に、上司はにやけ顔で鼻をならした。

「おかしいねえ――日本は我が国の“教育”が染みている筈だよ。まあ、君にとって悪い話ではない。今回のミスは私が揉み消すし、四六時中見張られて、むさ苦しいアウトローや警官に追い回されることも無くなる。君さえ望めば、ほとぼりが冷めた頃に連れ戻しても構わない。少なくとも、日本に行けばトイレくらいは快適じゃないかね?」

“ほとぼり”なんて言い方、どこで?指摘を飲み込んで、溜息を吐いた。

「ひとつ良いですか」

「なんだい?」

「俺が日本でもミスを犯した場合、首は切れますか」

上司はニヒルに口許を歪めて笑った。

「それは私が決めることじゃない。君の上司は日本だ。直接聞いてみたまえ」

思わず舌打ちが出たが、一歩届かない机は蹴らずに済んだ。

代わりに手元の書面――ご丁寧に日本語だったそれをうんざり見下ろした。


野々のの ハルト 異動申し付ける 日本 F市

『ハッピータウン支部』



Back Ground Militaryバックグラウンドミリタリー』略して、BGMという組織がある。

直訳は『背景の軍隊』だが、世界中に支部を構える殺し屋組織である。

バック・グラウンド・ミュージックに掛けている名称は、社会の表裏に関わらず、関与のない人々にとっては音楽のBGMが流れゆくように「気付けば起きていた」殺人を「背景」と表現している。

世界に13人居る『TOP13』が自身が在するエリアを担当し、個々に雇った殺し屋を使って運営し、掲げた目的はただ一つ『世界を滞りなく回すこと』。

唯一守らねばならないルールは、国家間の戦争に参加しないこと。

他にも禁止事項として、同士討ち、告知のない管轄エリア外の活動などが含まれるが、これは暗黙の了解で破られているケースもある。

TOPらがどうした経緯で集まり、BGMなどという組織を創るに至ったのか、それは所属する人間ですら知らない。殺しで金を稼ぐが、BGMの方針は民間人から搾取するようなことはせず、過激派テロ組織のような残虐行為は非難し、依頼があれば遠慮なく踏み潰す。

この民間軍事会社のグローバルネットのような組織を牛耳る一人が、日本に居る。


自身のシマに、『ハッピータウン支部』などという、気絶しそうなセンスの名前を付けて。


「……此処か?」

ハルトがやって来たのはF市・国道16号沿いのベースサイド・ストリートだった。

久々に長距離移動に使った飛行機はいいとして、都心から此処に来るまでの電車移動は、まったりした空気の中、ちょくちょく止まる車体に揺られ、気分を爛れさせた。おまけに駅からは徒歩十数分を要する距離で、いまだ日差しの強い九月の干からびたコンクリート面を、スーツケースを転がしてだらだらと坂道を上がらねばならない状態には、28の若者にタクシーを使えばよかったかと地味な後悔をさせた。

坂を上がり切って望む車の往来はスピードを含めて激しく、会話をするには声を張らねばならない程度にやかましい。フェンスや壁一枚隔てて米軍基地が目と鼻の先であり、何故か街路樹に巨大なヤシが植わっていたり、如何にもアメリカらしい英字の看板を掲げた店が軒を連ねた……かと思うと、シャッターに閉ざされた店舗が合間を埋め、突如、和風の店やアジア系のショップが現れる。

奇妙な異文化に染まった通りを抜けた先に、その店は存在した。


――こんなに目立っていいのか……?


内心、そう思ってしまったのは仕方がない。

入口はガラスの引き戸という非常にオープンなもので、椅子の専門店なのか、中には様々な椅子とソファーが並び、同じ店内の半分はこじんまりとしたカフェが併設されている。店名と思しき『DOUBLEダブルCROSSクロス』と書かれた巨大な看板にはスポットライトが備えられ、でかでかと主張する黒字にも丸い電飾が付いていた。アメリカのダウンタウンやバーボンストリートをそれとなく思い出しながら、ハルトは店の様子を窺った。

午前十時だが、まだ開店しないのか、店内は薄暗い。

しばし、トラックのバカでかい走行音をバックに立ち尽くすと、突如、店内の端からふらりと人が現れた。

同い年くらいだろうか――二十代後半かそこらの、色素の薄い、少々びっくりするほどハンサムな青年だった。青年はハルトの視線に気付いているのかいないのか、ロボットのようにすたすたと向かって来ると、からからとガラス戸を引いて出てきた。背はすらりと高く、日差しにぼけたアッシュの髪は無造作だ。ほうきと柄の長いちりとりを手に、カフェやバーのスタッフを思わせる黒シャツにズボン、腰から長い黒エプロンを身に着けていた。

「あ……あのー……すみません」

声を掛けると、彼はぼんやりと暗いアンバーの目を持ち上げて、ハルトを見下ろした。

「何ですか」

にこりともしない硬質の声音と、わずかとはいえ日本人に上から見られる感覚に萎えつつ、ハルトはできるだけ友好的に言った。

「今日、此処に来るように言われた野々ののと申します。オーナーの十条じゅうじょうさんは、いらっしゃいますか?」

青年はハルトを見据えたまま何度か瞬きした後、速度の遅い通信がやっと通ったように頷いた。

「ああ……エリート脱落の人ですか」

――おい、ナチュラルに失礼なタイプか?

エリートと称されるのに気後れはあるが、初対面の青年に“脱落”呼ばわりされる筋合いはない。あまり無いと思っていた自尊心に引きつりそうになる頬を何とか愛想笑いでごまかしていると、青年は全く頓着しない顔で言った。

「十条さん、此処に来いって言いましたか」

「え? はい、そうです」

本人と話したわけではないが、指示された日時は合っている。送られてきた封書の中身――といっても、軽い挨拶と出社日時、場所の地図などしか書かれていないもの――を、差し出すと、青年は一瞥して頷いた。

「じゃ、仕事してもらっていいですか」

「え……いきなり?」

「はい。十条さん、昼過ぎないと起きて来ないので」

「は……はい?」

着任早々の指示に、ハルトは冷や汗が垂れた。

まさか、思ったより治安が悪いところなのだろうか?

念のため脇に吊っていた拳銃が急に気になり、緊張に鼓動が早まる。確かに米軍基地が間近という実態は、普通の街とは違うトラブルがありそうだが。

ほうきを立て掛けた青年に促されるまま店内に入ると、中は本当におしゃれなインテリアショップ――という以外、何の変哲もない店だった。清潔感のある白壁の手前には禁煙を促す看板が据えられ、天井では木製のシーリングファンが回るライトが点灯し、流れている音楽はジャズだ――軽やかなピアノや、金管楽器と思しき音がシックに響く。

「さららさん、例の新入りさんが来ました」

青年がカフェのカウンターから奥に向かって声を掛けると、柔らかな印象の女性が顔を覗かせた。ふわっとした栗色のショートヘアがよく似合う。ぱっちりした目の可愛らしい顔立ちだが、二十代にも三十代にも見える年齢不詳タイプだ。青年とは異なる白シャツを着て、同じ黒いエプロンをした女性は、両耳のシンプルな金ピアスを揺らして、さも人が良さそうに言った。

「あら、ようこそー。脱落くん」

「……ど……どうも……」

此処のスタッフは揃いも揃って失礼なのか?

言いたくなる気持ちを押さえて頭を下げた脱落者に、女性はにこにこ笑った。

「かわいい後輩が増えて嬉しいわ。私、小牧こまきさらら。どうぞよろしく」

「はあ……野々ハルトです」

「まあ、ハルトくん? 未春みはると似た名前ね?」

「ミハル?」

彼女が視線で示すのは、先ほどから無表情に突っ立っている青年だ。さららはたちまち渋面になり、ぼさっとした顔に向かって姉か母親のような声を出した。

「もう、未春ったら、また挨拶してないの? いつも言ってるじゃない」

「すみません、さららさん」

自身より頭一つは小さい女性にぺこりと頭を下げると、青年はハルトに向き直り、これまたかっちりしたお辞儀をした。

十条未春じゅうじょう みはるです。宜しくお願いします」

「え、十条……? まさか君、息子さん?」

「違います。甥です」

甥?何やら妙なポジションにハルトは眉を寄せたが、さららがパンパンと手を叩いた。

「はいはい、ちゃんと挨拶出来たら、お仕事よ、未春。ハルちゃんはどうぞ上で休んで。長旅で疲れてるでしょう?」

「はあ。でも……仕事ですよね?」

「あら、いいのよ。そんなに真面目にやらなくても」

どうせ暇だし、と付け加えるさららは優しく微笑した。殺し屋稼業とは程遠い表情に、ハルトは何やら辟易した。彼女が言っているのは、どう考えてもこの店の話だろう。

では、彼女はBGMを知らないのか?さっきから隣に突っ立った青年は?“脱落エリート”とは一体何のエリートだと紹介した話なのだろう?

たちまち疑心と雑念に呑まれたハルトに対し、さららは何の気を削がれた風も無かった。

「でも、折角だから制服だけ渡しておきましょうか」

そう言うと、さららは奥に引っ込み、カウンターにきちんと折り畳まれた黒い服を置いた。

「はい、これハルちゃんの」

「へ……? お、俺の……?」

固定されそうな呼び名が気になったが、ひとまず堪えて問い掛ける。さららは、当然といった様子で頷いた。

「そうよ。サイズは合ってると思うわ」

どうやら、いまだに無表情の未春と同じ制服のようだ。そちらと制服に視線を往復させて、ハルトは呻くように尋ねた。――わからなければ、アメリカン・ジョークで片を付けよう、と思いながら。

「仕事って……殺しじゃないんですか?」

二人は顔を見合わせた。ほんの数秒後、さららが両手で口元を押さえて吹き出した。

「そうよー、決まってるじゃない。トオルちゃん、何も言ってないの?」

「いや、だから……まだ会ってないんですけど!」

耐え兼ねた一言が口を突くものの、二人は全く動じる気配がない。少しは焦ってほしいのだが、互いにスローペースに顔を見合わせた。

「十条さん、起きてないですよね?」

答えがわかっている前提の未春の問い掛けに、さららも聞くまでも無いと頷いた。

「まっさかあ……起きないわよ。行事でも無い限り、トオルちゃんは夜行性なんだから。最悪、三時のおやつまで寝てるわ」

「……平和ですね……ここ……」

愛想笑いを剥いでしまったのは、もはや致し方ない。無言の訴えに気付いているのかいないのか、さららはにっこり微笑んだ。

「やだ、ハルちゃんたら、けっこう殺伐人生だったのね? 此処はそういうとこじゃないから安心して」

そりゃあどうも、などとは言えないが、さすがはハッピータウンか。そちらの方向にハッピーということは、どうやら本格的に脱落方面で雇われたものらしい。しかし、それなら何故、ここの代表が殺し屋集団のTOP13に名を連ねているのだろう?

それに、この二人は殺し屋ではないのだろうか?

「お店はのんびりしているから、すぐに慣れるわ。土日が少し忙しいくらいよ」

「それじゃ、俺は普段、この店を手伝うんですか?」

「うん。あとは町会活動でしょ、地域行事の参加と、ボランティアなんかもあるわね」

指を折るさららに、未春が小さく片手を上げた。

「さららさん、俺もう町会バス旅行しんどいんですけど」

「ええー! 何言ってるのよ! 未春が来るから、おば様方が喜ぶのに!?」

「何の需要なんすか」

面構えのわりに鈍い男だ。ハルトさえ気付ける供給源を思い、さららは首を振った。

「わかってないわね。同世代が居なくて寂しいなら、ハルちゃんに来てもらえばいいでしょ――とりあえず、上に荷物置いてもらいなさい。案内してあげて」

町会バス旅行に行く?

――おかしい。殺伐要素があんまりどころか何処にも見当たらない。痛くなってきた頭を押さえつつも、エリート殺し屋改め、脱落エリート殺し屋は、その肩書を背負ったまま、カフェの制服に腕を通さざるを得ないことを理解した。



 結局、手持無沙汰になったハルトは、店を手伝う羽目になった。

未春に指示されるまま、周囲の拭き掃除をし、商品である椅子の埃などを払っていると、自分に染みついた死の匂いがふっと香って来るような、逆に消えて行くような、おかしな違和感が胸を占めた。殺しの業界を離れたわけではないのに、真逆の環境に浸っているからなのか。四肢の感覚があやふやになるような気分や鈍い頭痛は、疲れなのか、時差ボケなのか、発散できずにいるツッコミなのか。

さららが出してくれた旨い昼食を食べ終わる頃、答えをくれるであろう件の人物はようやく降りてきた。

――降りてきた、というのは……この店が二階建てで、二階は十条のオフィス兼住まいだからだ。先程、スーツケースを置きに行った際、叩き起こそうかと思った男は、店内からも上がれるようになっている黒の鉄製階段を気怠い靴音で渡って来た。

「おつかれー……おはよーう…………」

「十条さん、もう昼です」

熱のない指摘は未春だ。その男は緩慢な動作で首をがっくんがっくん捻った。

「仕方ないでしょ、未春……おいちゃんは遅くまで働いてたのー……」

黒いぼさぼさの髪を更に掻き乱しながら、男は大あくびをした。四十代後半と聞いていたが、年齢よりずっと若く見えた。痩せ形でひょろっとした背は甥以上に高く、整えればハンサムな気もするが、未春と比べてしまうとくたびれた大人の印象が否めない。

飾り気のないシャツに、黒っぽいジーンズというスタイルは、自宅が絵に描いたような豪邸である前の上司とは対照的で、ずいぶん庶民派だな、とハルトは胸に呟いた。

「十条さん、例の新入りさん来てますけど」

「えっ!あ、そっか……今日だっけ?」

嫌な予感はしていたが、やはり忘れられていたらしい。しまった、しまったなどとぼやきながら、男は艶の失われた革靴でよたよたと歩いてきた。

「いやあ、申し訳なかった……君が、えーと……」

「……野々ハルトです。はじめまして」

頭に来ないわけでもなかったが、一応はクビの自分を拾ってくれた、余計なお世話の救済者だ。一礼すると、十条は相好を崩してへらっと笑った。

「ご丁寧にどうも、はじめまして。ここの代表の十条じゅうじょうとおるです。ミスター・アマデウスには、とっても優秀だったと聞いているよ。宜しくね」

――優秀“だった”、か。

悪気など一ミリもなさそうな顔を見上げて頷くと、十条は顎を撫ぜてハルトを眺めた。

「最近、ミスター・アマデウスにはお会いしていないけど、お元気かな?」

「あの人はいつも元気です。あれだけ贅沢してるんですから」

「あはは、昔からやり手だよねえ。彼って、ドラッグ以外は何でもビジネスにしてしまいそうだよね」

殺しの稼業以外にいくつもの事業を運営する男を、殊のほか不機嫌にさせるものを挙げて、十条は未春に振り返った。

「未春、一旦お店閉めてくれる?さらちゃんは四人分のコーヒーをお願い。歓迎会は改めてやるとして、ひとまず彼の話を聞こうよ」

「は? いや、そんなの別にいいですけど……」

せめて閉店してからでいい、などと言う新入りに、十条はにこにこしながら首を振った。

「まあまあハルちゃん、一緒に働く仲間なんだし、掴みは肝心でしょ?」

――新入りが来る日を忘れていた奴がそれを言うのか?

思わず出そうになる言葉が日の目を見なかったのは、さも好い人とばかりに笑ったこの男には幸いだったろう。慣れた様子で椅子に手招くと、さららが淹れた良い香りのコーヒーを代表自ら運んでくる。

「皆のこともおいおい教えるけど、今日のところはハルちゃん、どうしてこの業界に?」

「書類にある通りなんですが」

「おや、君の口から聞きたいなあ」

調子の狂う笑顔は、前の上司にも似ているが、この男は武器と呼べる仕上がりだ。読み難い長閑な顔を見つめ、ハルトは淡い溜息を肩から吐いた。

「そう仰るからには、この二人は関係者なんですね?」

「もちろん。ねえ、二人とも?」

さららはやんわり頷き、未春は何の反応も示さないが否定はしない。

「君が居たアメリカに比べれば生温いだろうけれど、僕らは間違いなくBGMだし、殺し屋だ。遠慮なくドーゾ」

「――わかりました。……よくある話で、面白くないですよ?」

渋ってから、ハルトは己のプロフィールを話し始めた。

生まれは日本。両親は至って普通の一般人。小さな町工場を手掛けていたが、ある事業に失敗し、思い切って東南アジアに夜逃げをした。その際、BGMが関わっていた案件に偶然巻き込まれ、標的だった連中の仲間と一緒に殺されてしまったのである。

……勘違いされては困るが、何もド派手な銃撃戦などで亡くなったわけではない。

たまたま、本当にたまたま、殺されると思っていなかった標的らと親しくなり、同じ釜の飯……及び、酒を飲んで毒殺されたのである。

深夜だったこともあり、一人眠っていた幼児のハルトは九死に一生を得たわけだが、BGMはこのミスを放置するわけにはいかなかった。当初、少年を日本に送還しようとしたが、両祖父母はとっくの昔に他界、両親は一人っ子同士、親戚は疎遠、まあそうでもなければ夜逃げすまい、という八方塞がりになっていた。その上、“夜逃げ”したということは、踏み倒そうとした借金が丸々、ハルトの双肩に圧し掛かることになり、安易に送還できない、という非常に“お節介な”結論に至った。この判断が幸か不幸か問われても、送還の方が幾らかマシだったろう。

それでも一番の理由は、幼児とはいえ、物心ついている子供に事の顛末を知られたことが原因だとハルトは見ている。そして知られたくない問題がいま一つ。

この時、現場はアジア圏にも関わらず、ミスをしたBGMはアマデウス傘下の北米支部なのだ。つまり、何らかの理由で秘密裏にテリトリー外で仕事をした際のミスという、救いがたい失敗というわけだ。

それでも口を封じるという手段を選ばなかったのは、北米支部が『人間』を『資源』として厚遇するのを常識にしていた為である。

この点は本当に奇怪なことだったが、最終的にハルトは試験的に導入されていた英才教育施設に送られ、目を付けたミスター・アマデウスに直属としてスカウトされ、エリート級の殺し屋になるのだ。この教育システムに自信を持っていたのか知らないが、親を殺された少年が、腕利きの殺し屋になってから組織に復讐するとは考えなかったのかと未だに思う。実際に復讐を考えたこともあったが、アマデウスの下で、仕事を続けた今、有った筈の私怨は煙のように曖昧になってしまっている。

――ちなみに、借金は返済済みなのを付け加えた。

「かわいそううううー……」

突如ハンカチ片手においおい泣き出すのは、十条とさららである。

「さらちゃん……大人って酷いなあ……!」

「ほんとう……! ハルちゃん、かわいそう……!」

「……あの、そういうの今更いいんで……」

「ううっ……きっと辛い過去のせいで心を閉ざしてるんだね……大丈夫だよハルちゃん!此処は限りなく平和なところだから!」

何故、殺し屋集団を束ねる実力者が、限りない平和を主張するんだ?

それに、心を閉ざす云々ならば、いまだ無表情がゆるがない未春の方がよほどそれらしい。彼は接客業をしているわりに、お客相手にも同じ態度だった。にこりともせず、挨拶は機械のように味気ない。

それでも女性客には喜ばれているようだったが。

「ミスター・アマデウスって……BGMの中でも凄い人、だったかしら……?」

さららが薄いメイク落ちを気にしながら、ハンカチで目元を押さえて尋ねた。

凄いも何も、顔の知れたTOP13では最も目立つ辣腕家だろう。

「どうして、ハルちゃんはクビになっちゃったの?」

「……それ、言わないとダメですか」

面倒くさくなってきたハルトだが、十条はきりりと眉を引き締めて頷いた。

「――ハルちゃん、うちは思春期の隠し事以外は禁止なんだ」

……思春期をとっくに過ぎた大人しか居ない場所で、何を勿体付けるんだこの大人は。

投げやり気味に溜息を吐くと、ハルトは白状した。

「……俺は、その……子供を殺せという仕事に反抗というか、はずみというか……まあ、とにかく依頼人の方を殺してしまったんです。オーダーに逆らったことになるんで、普通はクビか、断頭台行きというわけです」

実際、この依頼は出足も後味も最悪だった。思い出したくもない話に顔をしかめていると、十条とさららは、ピンと耳を立てた小動物みたいに揃って静かになった。

当然だ。プロから見たら、目も当てられない失態なのだから――

「引きますよね、これじゃアマチュアより――……」

「か……カッコいい。どうしようトオルちゃん、うちに本物のイケメンが来たわ……!」

「お、おおお落ち着いて、さらちゃんんんん!」

あんたが落ち着け!

ガタガタと荒ぶる両者に叫びそうになるハルトは、思わず静かなままの未春を振り返った。

「大体、何をそんな大げさな……イケメンなら既にいるでしょう!」

「違うのハルちゃん! 未春は良い子だけど、顔に関しては“特殊イケメン詐欺”なの!」

「なんですか、それ……」

「そうなんだ……さらちゃんの言う通り、未春は顔に関しちゃ最低野郎なんだよ……この顔で数多の女子を惑わし続けて28年!無自覚に女子の財布を緩めるだけの悪魔のようなイケメンなのさ!」

悪魔の様なイケメン……

思わず気の毒な表情になりながら、ハルトは控えめに見ても悪魔には見えない整った容貌を眺めやる。

「あんた、同い年だったのか。すごい言われようだな……」

「俺は気にしてないよ、ハルちゃん」

本当のことだし、などと、顔を特殊詐欺扱いされた男は無表情のまま言ってのける。こちらも甥への暴言を全く気にした様子の無い十条が、タン、と膝を打った。

「よし、辛い話はここまでにして、ハルちゃんの楽しい情報を聞こうじゃないか」

「いや、ありませんて……そんなもの」

「ええっ! 好き嫌いぐらいは教えてよ。一緒に住むわけだしさ」

「………………は?」

今、この上司は何を口走った?立ち上がりそうになるハルトは、できるだけ冷静に尋ねた。

「一緒って、どういうことです……?」

「あ、この上が僕のオフィス兼住居なんだ」

知っとるわ、と思いながら、今日一番の嫌な予感は裏切ることなく的中した。

「そこで一緒に住むんだよ」

「な……なんで……!?」

「え、あれ? そんなに焦る?もしかしてハルちゃん彼女いた?」

「いませんけど、そうじゃなく――――」

「ちゃんと部屋は別だよ。未春もいるけど」

まさかの住み込み? このボケボケ上司と偏屈なイケメンと?

「この辺りさ、立地もイマイチなのに家賃高いんだよー。この店までは駅も遠いし、バスも殆ど通らない。車は駐車場代掛かるし、自転車通勤じゃ、雨の日大変でしょ?」

ハッピーとは何を指す言葉なのだろう……?

大体、都市部ではなく、この辺鄙な場所に拠点を置くのが謎だ。

「ま、ハルちゃんが余所がいいならそれでいいけど、日本で暮らす手続きが色々あるでしょ? 落ち着くまでは此処に住むといいよ。心配しなくても部屋はちゃんとしてるし、壁も薄くないよ」

ニヤニヤ笑う上司を呆れ顔で仰いだ。……何を心配してると思われてるんだ?

「さすがに小牧さんは別ですよね?」

「さららでいいわよ、ハルちゃん。私は此処の近所。他のスタッフも、遠くて駅ひとつ分程度よ」

他のスタッフ……これ以上おかしな人間が現れないことを祈りつつ、ハルトはひとまず十条に頷いた。

「……わかりました、とりあえずそうさせて頂きます」

「良かった。ルールは無いけど、詳しいことは未春に聞いてね。さてと、じゃあ何から聞いちゃおうかなあー」

嫌な含み笑いを始める上司をうんざりと仰ぐと、脇から熱のない声が響いた。

「……十条さん、俺買い物行っていいすか」

沈黙を守っていた男の打点の低い挙手に、十条ははたと気付いた顔になる。

「あ、そっか。ひょっとして何もない?」

「はい。今日から来るって思ってなかったんで。部屋は掃除してありますけど」

「じゃ、案内がてら一緒にスーパー行っておいでよ。僕がさらちゃんと店番するから」

過去の暴露と同居宣言の後はイケメンとスーパーマーケットにお買い物……なにやら今日だけで、これまでの自己が全面崩壊しそうだった。

「そうそうハルちゃん、拳銃は預かるよ。日本だし、仕事以外は使用禁止」

「はあ……」

銃刀法違反という有難い法律の日本では、確かに使う機会も少ない。指されるテーブルにそれを置くと、実際そうなのだが、脇にスカスカの空洞を感じた。

十条は手慣れた仕草で持ち上げると、つぶさに眺めて微笑した。

「ベレッタM8000……クーガーFか。若いのに渋いの使ってるね」

「アマデウスさんの趣味です。最新式より旧型が好きなんですよ」

「彼らしいな。僕もわりとそっち派だけど。そうだ、行くならアレ忘れないでね」

「アレ……?」

「エコバッグ」

「……ああ……ハイ……」

さららが持ってきてくれたそれは、淡いベージュのコットンバッグで、若者が好きそうな黒字で英語が書かれて――おい、ここの店名か、と思うまで数秒かかった。

「じゃあ、いってらっしゃい。未春よろしくね」

エプロンを外して出て行く若者たちに手を振りながら、十条はにこにこと拳銃を眺めた。

「良い子じゃないか。気に入っちゃった」

「……ウソばっかり。気に入ったから呼んだんでしょう?経歴からしてトオルちゃん好みだもの」

「まーね……十五発撃てるものを持っているのに、難なく撃てる一発を躊躇い、我が身の安定を捨てたんだ。そんな面白い殺し屋、そうそう居ないよ」

「……未春と仲良くなるといいわね」

入口を眺めながら呟くさららに対し、それまでと全く変わらぬ笑顔で十条は言った。

「『死神』が育てたエリートと、キラー・マシーンか……良いコンビになりそうだよねえ」



そこそこ距離のあった大きめのスーパーに辿り着くころ、日は傾き始めていた。

年中涼しいと思われる店内には、如何にも日常といった空気が流れている。つい最近までアメリカのオークランドなどで夜な夜なドンパチやっていた青年には、当たり前に生鮮食品が並ぶ様も、広告トークに明け暮れる店内アナウンスも、同じようなパッケージが山ほど並ぶ棚も、別世界の映像を見ているようだった。赤や黒の派手な値段表記を眺め、そういえば子供の頃見たかもしれない、と今頃考える。

「ハルちゃん、夕飯何がいい?」

この瞬間まで訂正の隙が無かったあだ名に、正体不明の疲れを感じながらハルトはげんなり答えた。

「……食えればなんでもいい」

「嫌いなもの無い?」

「無い」

「えらいね。十条さんより楽だな」

「あの人、好き嫌いあんのかよ」

「結構あるよ。お菓子は何でも食うけど」

「あ、そう……」

などと言う内に、詐欺と称されるイケメンは、カゴにどんどん食材を盛っていく。脇で見ていたハルトも感心する積み方は、明らかに慣れている人間のそれだった。

「お前、同業者って言ってたよな?」

ある種の異様さは感じるが、野菜を選んでいる今は熟練の主夫にしか見えない。未春は日本人にしては本数が多そうな睫毛をぱちぱちと瞬かせ、頷いた。

「得意なものは?」

「カレー」

「……いや、そうじゃなく……こっちの方」

溜息混じりに首を掻く動作を見せると、未春は合点がいったように頷いた。

「ナイフ。刃があれば他のものでもいいけど、片手ノコ以上長いのは使いにくい」

「ナイフか。前にそういう奴、会ったことあるが……」

拳銃よりナイフを好む殺し屋は居るには居るが、非常に珍しい。それが優位な場合もあるが、「弾切れしなくていい」なんて言い分は本当の達人のみの話だ。そもそも弾切れなんぞ起こすくらいなら、殺し屋なぞ辞めた方が良い。それに、異様に切れ味が高いフィクションの為に誤解されがちだが、ナイフも刃こぼれはあるし、容易に曲がるし、そう何度も連続して人の体を刺せるわけではない。案外、毎日のように包丁握って肉切ってる肉屋か料理人、或いは主婦の方が実感がありそうだ。たとえ野菜だけを切っていても、どんどん切れ味は鈍り、研ぐほどに刀身は減っていく。

「日本じゃ、そっちのが効率的なのかな……お前、ずっと日本か?」

「海外は行ったことあるけど、殆どこっち」

「ふーん……今は“持ってるか ”?」

銃刀法違反に触れる大まかな括りは6センチを超える刃物。

例外として、ハサミ、折りたたみナイフ、果物ナイフは刃渡り8センチ上限で、先端が尖っていないなど細かな条件をクリアすれば法的には問題ない。もちろん、包丁買って帰るところだとか、肉屋や料理人がケースに入れて持ち歩くなどは正当な理由があるものとして認められている。過去にはどういうわけだか、バッグに工作用のハサミを入れていただけで捕まった事件もあるそうだが……前科持ちでもなければ、所持する理由に応じる必要はないので、よっぽど人相が悪かったのかもしれない。

「今は店のハサミだけ。ズボンに入れっぱだった」

言われなければわからない辺り、刃渡りせいぜい8センチ以下の工作用ハサミだろう。

「……本当に平和だな、この支部」

「BGMの仕事が無いわけじゃないよ」

「わかってる。そうじゃないなら何なんだよ、この支部。のんびり真面目に働いてるだけならBGMに居ることないだろ?」

「さあ」

今日だけで何度目かの溜息が出るが、それは騒がしいアナウンスに掻き消された。

「ところで、お前……ソレなに……?」

未春が何気なく眺めてからカゴに放り込んだのは、小さな紙パック飲料だ。

……にも関わらず、パッケージに書かれた『よもぎ餅』と『チョコミント』とは飲み物の名前だったか?

「そそられない?」

「そそられない……」

何やら食生活が不安になり始めるが、当の青年はすたすたとレジに向かっている。


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