第二十五話 紫星

 しばらく地面に転がり休んだ後、ヨトとアンジェは先を目指し始めた。


 それから少し歩いた先に、木々が少し開けた場所に出た。森の中にぽっかりと空いた穴のようだった。


 木の幹の色や草と葉の色とはまた違う、鮮やかな色がヨトの目に入る。同じ森の中でもそれまでの空気と違う。爽やかな風が頬を撫でていく。それに乗った花の香りが鼻腔をくすぐり、ヨトは息を飲んだ。


 アンジェは、ほう、と息を吐き、「きれい……」と呟いた。


 紫星の群生地だった。


 背丈は高く、ヨトとアンジェと同じくらいのものや、それよりも高いものもあった。枝分かれした茎の上にいくつもの小さな花が咲いている。中央は黄色で、周りを紫の花びらが囲む。


 紫星たちは、そよ風に揺すられている。


「ねえ」とアンジェはヨトの袖を引っ張る。「これ、紫星、だよね?」


 アンジェの方へ目を向けると、星を思わせる赤い瞳がぴったりと合った。


「ああ……そうだよ」


 逃げるように目を逸らし、周囲を見渡す。


 動くものはなく、耳に入ってくる音は、風と柔らかく揺れる草木のものだけ。


 ざわついた心が落ち着いていくのがはっきりとわかる。紫星の小さな花畑は、〈灰牙森〉の中とは思えないほど安らかな場所だった。


 目に入った紫星に近づき、小さな毛が生えていてざらつく茎を摘まみ、短槍を短く握って穂で紫星を摘み取る。


 中央の黄色の花に、鼻を近づける。甘い花の香りがした。


 それがきっかけとなり、花が大好きな友達の姿を思い出した。


 彼女は、自身の薄紫色をした長い髪をとても気に入っていて、まるでお花みたいでしょ、と手櫛てぐしいては自慢げに言っていた。


 それから、空を思わせる淡い青色の瞳もきれいだった。驚くほど透き通っていて、その目を細めた表情を、ヨトは今でも容易に思い出せる。


「ねえ!」


 突然、頭の中で響いた声で、意識がどこかへ旅立っていたことに気付いた。


 はっと目を瞬かせれば、紫星たちが揺れる姿が目に入る。


「大丈夫……?」


 アンジェが心配そうにヨトの顔を覗き込んでいた。


 涙で視界が滲んだ。


 ヨトは何か言葉を返そうとするが、思うように舌は動かず、結局、何も言うことができなかった。


「……お母さんが言ってたんだ。つらいことも言い合える誰かがいたらしあわせだ、ってね。だから……おしえてよ。ヨトのつらかったこと」


 そんなヨトの様子を見かねて、アンジェはひどく優しい声で言った。


「といっても、わたしはそんなつらい目には遭ってないかもね。お母さんが死んだのは、病気だから……ただ、ひとりになった時は寂しかったけど……」

「……ひとりは、つらいよ。すごくな……」

「そっか……」


 ヨトは、胸いっぱいに息を吸い込んだ。紫星の香りが頭の中を満たしたように思えた。


 そして、息を吐いて、震えた声で話し始めた。


 故郷のエノン村が赤い魔物に襲われて、自分以外の全員が死んだこと。花が大好きな友達を置いて、自分だけが逃げ出したこと。それを死ぬほど後悔していること。赤い魔物を忘れられずに憎んでいること。


 さらに、ヨトは続ける。ギルドで冒険者になる時、三人の仲間ができたこと。いい人たちで、友達になれそうだったこと。登録依頼の時、灰牙の末裔という強い魔物に襲われたこと。また自分だけが生き残ったこと。もう仲間を失いたくないこと。


 全てを吐き出した後、胸が軽くなった気がした。


 ああ、やっと言えた。


 何も解決はしていないし、黒くどろどろとした何かは、まだ心の奥底でくすぶっている。それでも、落ち着けている。


 アンジェは黙って聞いた後、目元を手で拭って、力強くヨトに笑いかけた。


「大丈夫!」


 アンジェが叫ぶように、言った。




「大丈夫!」


 アンジェは、とにかく自分の意志を込めて声を張り上げた。ヨトを安心させるために、自分を奮い立たせるために。


 ヨトが呆気にとられるのがわかった。


「わたしが力を貸してあげる! 仲間だって、これからもっと増える! その赤い魔物だって、その仲間と共に倒せばいい! 無理なら、みんなで一緒に逃げればいい!」


 何も考えず、ただ思ったことをヨトに言い放つ。体の奥底から熱が湧いてくる。


 それは、火の魔法よりも、あったかいものだ。


「それに、わたしがヨトを守ってあげる。だから、ヨトもわたしのことを守ってよ。それなら……わたしたちは、絶対、死なない」


 言いたいことを叩きつけた。アンジェはそう思った。


 ヨトの目からは、まだぼろぼろと涙がこぼれている。


 濡れた瞳は、吸い込まれそうなほど深い青色をしている。けれど、そこに身を凍らす冷たさはなく、身を包み込む優しい冷たさがある。


 アンジェはその瞳が好きだった。自分の、火のような赤い瞳とは対照的な、水の中を思わせる青色の瞳。


 ヨトが拙く口を動かすが、声が出ない。


 アンジェは、やさしく笑いかけた。


「……ぁあ」


 ヨトは小さく声を出した後、手で必死に涙を散らす。


 そして泣き笑いのような、不格好な笑みを浮かべた。


「おれも、アンジェを守るよ。だから……おれのことを、守ってくれ」


「うん!」アンジェは笑った。「やっと、本当の仲間になれた気がする」


 そう思ったのは、ヨトがこんな風に安心して笑う姿を初めてみたからだろうか。


「そう、かもな……」


 ヨトは、本当にうれしそうに笑った。

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東の風を越えて 高町テル @TakamachiTeru

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