第二十二話 虫取り網と虫かご
ヨトは結局、冒険者の手引書を借りた。
やはり知識は今後、生きていく上で重要だと感じたからだ。ヨトは文字が読めないため、アンジェが読んで声に出すことで学んでいた。銅級上位の昇格条件に文字が読めること、というのもあるため、同時に文字の読み方も教えてもらう。
依頼をこなし、宿に戻れば手引書を開く。文字を覚え、冒険者に有用な知識を吸収していく。苦に思わなかったのは、日々の依頼の中で効果を実感しているからかもしれない。
ヨトとアンジェは〈銀冠山脈〉の麓にいた。
今回はゴブリンの討伐とは、また別の変わった依頼だった。
「昆虫採取ってやつだ」
アンジェはヨトの持つ虫取り網を差して言った。
木の棒の先に輪っかと網が取り付けられてあるこれは、依頼のためにギルドから貸し出されたものだ。
代わりにアンジェは、しなりのある細い枝で編まれた虫かごを持っている。
「こういうことも、冒険者の依頼になるんだな」
「やっぱり、魔物生息地に入るのは冒険者だけなんだろうね」
〈銀冠山脈〉にいる
「虫取りに行って、魔物に襲われて死ぬのも間抜けな話だし、ギルドに金を出して依頼するのもしょうがないか」
ヨトは虫取り網を軽く振って言った。重量は短槍よりも軽いが、振った際の手にかかる網が生む抵抗は、短槍のそれとわずかに似てて何とも言えない気分になる。
「わたしとしては、お金出してまで虫が欲しい、って気持ちがわからないよ」
「そうか」
ヨトは曖昧に頷いた。かっこいい虫が飼いたい、という気持ちはわからなくもないからだ。
虫取り網を背負って、短槍を持ちながら森を歩く、さらには魔物と戦闘する姿は、冒険者として少し気の抜けたものに見える。もしかしたら、先ほど対峙したゴブリンたちの目にもそう映ったと思うと、体がむずがゆくなる。
立ち並ぶ木々にも種類というものがある。背が高く、幹が黒っぽくて太いものだったり、背が低く、幹が細く枝分かれしたものだったり。
狙いの兜虫がよくくっついているのは、幹が黒っぽくでこぼこしているもの、らしい。驚くべきは、この知識さえ冒険者の手引書に載ってあったことだ。昆虫採取の依頼も、それなりの頻度であるのかもしれない。
ヨトは、黒くでこぼこした木を下から上へと視線を滑らせていく。虫がいた。依頼を受けた際に見せられた兜虫の絵を思い浮かべ、それと比べてみる。目当てのものではない。
「うーん……」とアンジェが首をさする。
ずっと上を見上げながら散策しているため、首が痛くなってきたのは、ヨトも同じだ。
森の中を移動しているため、ゴブリンを含めた魔物と遭遇することもある。ただの討伐依頼とは違った手強さを感じる。
「ヨト! あれ!」
アンジェが指さす先、黒いでこぼこした木にくっついている、ひときわ黒いもの。目当ての虫だ。
ヨトは素早く虫取り網を手に取って構える。自然と短槍の構えと同じものになった。自覚して、気恥ずかしさを感じる。
「あっ!」
すると、兜虫は
「吹き飛べ疾風――」
ヨトは咄嗟に手のひらを突き出し、下級風魔術の呪文を唱える。
「――〈
手を握りしめ、思い切り引く。風がヨトに向かって真っすぐと引き寄せられた。
空を飛ぶ兜虫は、その風の流れに巻き込まれ、体勢を崩してまともに前へ進めず、むしろヨトへと落下するように近づいてくる。
十分に近づいた時、ヨトが手を開けば、風が止む。すかさず右手に持つ虫取り網を振るった。
兜虫は、すっぽりと網の中に入った。そのまま地面に叩きつけて蓋をする。
「やった!」
アンジェが喜色をあらわに近づいてくる。
昆虫採取で、つい魔術を使うとは。ヨトは心の中で呟いた。行動としては正しいものだ。目的を達成し、魔物生息地から引き上げるのは早い方が良い。
兜虫が網の中でもがいている。手を突っ込んでつまんだ。
艶やかに黒光りしていて、上へ反りかえった大きな角が上下に二本ついている。喧嘩相手を救い上げやすいよう、先端が四つに分かれていた。
なかなか大きく、かっこいいやつだ。
「どうだ、アンジェ」
思わずアンジェに向けた。かっこいい虫は、良いものだろう、と。
しかし、アンジェは、「あ、うん。依頼完了だね」と言って一歩引く。
心なしか、顔も引きつったように見えた。
つい、一歩近づいた。兜虫はアンジェに腹を向けて、ヨトの手から抜け出そうとぎちぎち脚を動かしている。
今度は、目に見えてアンジェの顔が引きつり、二歩引いた。
「……苦手なのか、虫」
「……そういうことも、あるかもしれない」
素直に苦手だと言えばいいのに、なぜ誤魔化した言い方をするのだろう。だからかはわからないが、ほんの少しの悪戯心が湧いた。
再び一歩近づけば、一歩引いた。
「……虫かごに入れなきゃだろ?」
「……そ、そうだね」
アンジェが虫かごを差し出す。腰は引けていた。その姿が、妙に面白い。
満足したヨトは、兜虫を遠ざけながら虫かごを掴む。アンジェは露骨にほっと胸をなでおろす。
兜虫を虫かごに入れ、蓋をする。内側から引っ掻く音がする。
「じゃあ、ほら」
アンジェに向かって差し出した。虫かごを持つのはアンジェの役割なのだから、仕方がない。
「っ!?」
アンジェは肩を飛び上がらせ、「え」とも「い」ともつかない不思議な声を上げる。
そして、ぶわり、と熱が広がった。
「こっちにも、打つ手はあるよ……!」
猫が毛を逆立てるように、犬が歯をむき出しにして吼えるように、これがアンジェの威嚇だった。
そんな様子にヨトは苦笑して、「わかったよ」と虫取り網の方を差し出す。
アンジェはふん、と鼻を鳴らし、火の熱を引っ込めて虫取り網をひったくり、肩をいからせ歩いていった。
「行くよっ!」
いかにも怒っています、といった調子で、ヨトは思わず笑ってしまった。
*
ヨトが依頼書の文字をある程度は一人で読めるようになった頃、ベルの方から依頼の話を切り出された。
「ヨト様とアンジェ様に、銅級上位昇格依頼が来てますよ」
以前ロンドから聞いた、銅級の内は実力があればすぐに昇格する、という言葉を思い出した。それに自分たちが当てはまるとは、ヨトは思っていなかったから驚いた。
「早いなあ」
アンジェが呟く。彼女からすると、銅級中位に昇格して数日で上位昇格依頼が来る、という状況だ。
「ギルドの都合が含まれてますからね。見込みがある駆け出しは、さっさと等級をあげろ、と」
つまり、ヨトとアンジェは冒険者として見込みがある、とギルド側から判断されたことになるらしい。どんな基準があるかわからないが、喜ばしいことだろう。
「ただし」とベルが人差し指を立てる。
「ただし?」とアンジェが返す。
「ほとんどの冒険者は、銅級上位で長く留まっています」
「それは、どうして」
ヨトが言うと、ベルは指をゆらゆらと揺らしながら口を開く。
「銀級への昇格は、高い壁となっているから、ですね。一人前の壁、なんて言われてます」
「魔具、ですか」
「はい」
ヨトはさわり程度に聞いた
そしてヨトは、まだ四万オアという別の壁を越えられていないため、デュセル武具店から魔具を引き取れていなかった。それは現在の冒険者としての収支が釣り合っているからだ。
宿代に食事代、魔物との戦闘を行うことで発生する、損傷した装備の修繕費用、など。ただ生活する分には現状で十分ではあるが、金を溜めるということなら、もうあと一押し必要となっている。
それに、ヨトには魔具入手の当てがあるが、アンジェにはない。魔具の本来の値段は、きっと震えるほど高価なのだろう。
「それで、どうされますか? 銅級上位昇格依頼を受けますか?」
「あの、依頼の内容は」
「あっ、そうですね。依頼目標は、〈
「――花、ですよね」
「ご存知でしたか」
紫星。中心には黄色の花があり、その周りに紫色の花びらが並ぶ花のことだ。一つの茎から枝分かれし、その先にそれぞれが小さな花を咲かせる。
花が大好きな友達から教えてもらった知識が湧いてくる。それに付随して浮かぶ思い出は、心の奥底へと押し込める。
「どれが紫星かは、見ればすぐわかると思います」
「はい、わかりました。こちらの難易度は、当然、今までの依頼よりも難しいものです。まず間違いなく、樹霊系の魔物との戦闘が起こるでしょう。彼らからすれば『家』に外敵が入ってくるわけですから。それに、銅級中位以下で相手してきた魔物よりも手強いですよ」
ベルは念を押すように強い目でじっとこちらの目を見る。ヨトは力強く頷いて返した。
「アンジェ、いけるか?」
ヨトはアンジェに顔を向ける。
すると、アンジェもヨトと同じくやる気に満ちた顔で応じた。
「うん、いけるよ。樹霊ってやつのことなら、手引書に載ってあったし」
受けない理由はなかった。ギルドから依頼が提示されている以上、それは自分たちであれば依頼を完遂できるという保証だ。もちろん、鵜呑みすることはない。
今までよりも強い魔物と戦うこと、それの危険性を理解してないわけじゃないが、前へ進めるのなら早く進んだほうがいいだろう。
「受けます」
「……わかりました。では、こちらに署名を」
ヨトとアンジェは依頼書に名前を書き込み、依頼を受注した。
そしてベルは、もはや恒例となったおまじないを行う。細く白い手を握りしめ、ヨトとアンジェに向かって、二回こすり合わせた。
本来であれば、冒険者が一番初めに受ける依頼の際にするものだが、ベルはヨトとアンジェが依頼を受けるたびにやっている。
ヨトには、それが何を思ってやっているものなのかはわからないが、自分たちの身を案じるものであってほしいと心のどこかで思った。
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