第十二話 ゴブリン

 グリムの北にある大きな山は、大陸を上下に分けるように横たわる、〈銀冠山脈ぎんかんさんみゃく〉の一部分にすぎない。〈白銀の月〉が昇れば、山頂が呼応するように仄かに光ることから、そう呼ばれている。光る原因は未だ不明であり、もっぱら銀級冒険者の調査依頼の対象となっていた。


 銅級冒険者の依頼は、増えると厄介な魔物の個体数調整を目的としたものが多い。かつて魔物支配地であったこの地域の魔物は、総じて増える速度も速いものが多く、さらに長く生きた魔物はより強力になっていく。


 魔物は弱い内に狩るのが銅級冒険者の仕事だ。


 山脈のふもとではゴブリンが多く棲みついている。力も頭も弱い魔物だが、血鼠ちねずみと同じく群れると厄介な性質を持っている。


 ヨトが受けた依頼は、ゴブリンの討伐だった。


 ゴブリンは洞穴ほらあなを巣として利用している。だからといって、洞穴の中を見て回るような馬鹿なことはしない。もしゴブリンの群れに囲まれてしまえば、高い確率で死ぬだろう。特に一人のヨトは。


 ゴブリンは少数の集団で血鼠狩りに出る。ヨトはそこを狙おうとしていた。


 山脈のふもとの森は、地面に届く太陽光が多いのか〈灰牙森はいがもり〉よりも明るかった。遠くからは鳥の鳴き声が、足元からは落ち葉や枝が混じり合った土を踏みしめる音。ささやかな風が、木の葉の匂いを運んでくる。


 ヨトは新しい短槍を握りながら分け入っていく。


「ギャア! ギヤ!」


 ヨトは背後からの耳障りな音に振り向いた。


 ゴブリンが三体、ヨトに向かって走ってくる。先に見つけられたのは失敗だ。


 ヨトは短槍の穂先を先頭のゴブリンに突き付けると、三匹は間合いの外側で立ち止まった。


 体格はヨトよりも小さく、背中が丸まって前傾姿勢を取っている。浅黒い緑色の肌、大きく尖った鼻と耳、鋭い爪と牙。それらが人間との明確な違いとなって、魔物であることを主張していた。そのくせ襤褸切ぼろぎれとなった服だったものを身に纏い、二匹は太い木の枝を棍棒こんぼうとして使い、一匹は刀身が半ばから折れた剣を持っている。


 まるで人間の真似事をしているように、ヨトの目には映った。


 おそらくは死んだ人間の持ち物を漁っているんだろう。あるいは、人間を襲った戦利品か。


 向かって左側にいる棍棒使い二匹が、じりじりとヨトの側面に移動し始める。囲もうとしているのがわかった。


 魔物は、怖い。魔物を見かければ、頭の中の深いところで"赤"がちらつき、体が震えそうになる。逃げたくなる気持ちが湧いてくる。そのたびに、立ち向かう勇気を探す。今の自分ならば、戦えるのだと必死で思い込む。もう、戦うことすらせずに、逃げたくない。


 ヨトは短槍を強く握りしめ、心の奥底からふつふつと湧いてくる熱を感じ取る。熱は体の中心から手足の先へと伝っていく。体が戦うことを覚悟した証だ。


 当然のことだが、ゴブリンたちは灰牙の末裔よりもはるかに弱い。だが、灰牙の末裔を倒せたのは、リヨンたちのおかげであり、さらには運が良かったからだ。自分一人では、例えゴブリン相手だとしても、油断なんてできるはずがなかった。


 ヨトは、息を吸って、目をほそめた。


 素早く息を吐いて左端の棍棒使いに突進した。反射的に振るわれる棍棒を穂とは逆の柄で、右から左へと弾き飛ばし、さらに軌道をなぞり返して短槍を横薙ぎに振る。穂先が左端の棍棒使いの胸を切り裂き、叫び声と共に血しぶきが飛ぶ。


 勢いそのままに大きく右側へと振れば、ヨトに向かって武器を振りかぶる二匹がその場を飛び退いた。胸を切られた左端の棍棒使いが痛みからか地面に倒れ込むのが見えた。


 仕留めきれた感触はないが、まずは一体。


 ゴブリンたちはヨトよりも小柄で、持っている武器は短槍よりも短い。相手よりも攻撃の間合いが広いという利点を最大限生かすべきだ。


「すぅっ」


 穂先を残り二匹のゴブリンたちに向けながらヨトは息を吸った。


 ヨトは残りの棍棒使いに仕掛ける。常に右側の剣使いを意識しつつ、短槍を左から右へと薙ぎ払う。しかし、棍棒使いはそれをしゃがんでかわし、短槍の穂は右側にいる剣使いの剣に受け止められる。剣使いは弾かれ遠ざかったが、棍棒使いはヨトの踏み込んだ右脚を狙って棍棒を振る。


「ぐっ」


 ヨトは歯を食いしばり、棍棒使いの頭を左足で蹴りつけた。中心を打ち抜いた手ごたえ、棍棒使いは吹き飛んで転がるが、同様にヨトも態勢を崩す。地面に落ちる体が叩きつけられることを左腕で防いだ。


 倒れたヨトの視界に、折れた剣が入り込んだ。


 ヨトは咄嗟に短槍を振った。態勢が悪く力が入っていなかったが、剣使いの足に引っかかり転ばすことに成功した。すぐさま立ち上がったヨトは、倒れている剣使いの咽喉のどにへと突きを繰り出す。


 防ごうと揺れる折れた剣よりも早く、短槍の穂が貫いた。肉を裂き、首の骨を砕く感覚に嫌悪感がこみあげてくる。


 魔物であると理解しているが、人に近しい姿かたちをしているせいで、心が錯覚を起こす。


「ギ、ギヤギャ!」


 蹴り飛ばした棍棒使いが叫び声をあげ、棍棒すら持たず逃げだした。ヨトは短槍を引き抜き、すばやく追いかける。


 一瞬だけ、逃げているものの背中を狙うのか、と疑問が浮かんだが、それをかき消すように短槍を手の中で滑らせる。穂先は棍棒使いの背中に突き刺さった。心臓を貫いたのか、棍棒使いはすぐに動かなくなった。


 顔に冷や汗が流れ、両手も汗で濡れている。ヨトは肩で息をしながらも、一番目に倒したゴブリンに近づいていく。


 まだ息をしているようだった。黒く濁った目がヨトを見る。


 もしかしたら、憎しみが込められた目だったのかもしれない。


 ヨトは短槍を両手で握りしめ、ゴブリンの胸に穂先を突き立てた。


「おれも、お前ら魔物が憎いよ」


 ヨトは吐き捨て、荒い息を繰り返す。


 動き以上の疲れを、ヨトはひしひしと感じる。


 何とか怪我をせずに戦闘を終わらせた。弱い魔物とされるゴブリン相手に危ない場面があったのは、それこそがヨトの実力ということになる。


 一対多だったから、という言い訳は、群れを作る魔物に対してはむなしいだけだ。

 ヨトが短槍の穂についた血をぬぐう。


 目標討伐数は五体。後、二匹。


 ほんのわずかにヨトは気を抜いた。だから、すぐそばまで来ているものに気付くのが遅れた。


 背筋に冷たいものがはしった。


「ギャア!」


 反射的に飛び退いて振り返る。鋭い何かがヨトの左頬をえぐった。


 ゴブリンが先の尖った長い木の枝を頭のあった位置に突き出していた。ヨトにはそれが自分が持つものと同じような短槍に思えた。自身の短槍を握りしめて構える。


 ヨトが痛みと共に顔をしかめる。


「ギャギャ!」


 一匹のゴブリンが、棍棒を捨てて折れた剣を拾って持ち替えた。


 気づけばゴブリンの群れに囲まれていた。数は十匹前後。それぞれが武器を持ち、醜悪な顔を加虐的に歪ませ、ヨトを責め立てるように声を上げる。


 ヨトに殺されたゴブリンの声が、新しいゴブリンを呼び出した。


「くそっ」


 ヨトは、さっきとは違うものを吐き捨てた。


 頬を流れる血を拭うことすらせず、ゴブリンの群れへと飛び掛かる。他のゴブリンへの牽制けんせいを考えず、一匹を確実に仕留めるため、咽喉のどへと突きを繰り出した。


 命を奪った感覚が手に伝わると同時に、背中に叩かれた衝撃と痛みを感じ取る。しかし、そこは軽鎧けいがいの金属板がある部分だ。ヨトは大きな損傷に繋がる攻撃以外は無視することにした。


 素早く身をひるがえして短槍を振る。一匹のゴブリンの首を切り落とした。

 痛みをともなうものだとしても、死ななければ、体が動かせるならそれでいい。


 今のヨトの実力では、無傷でこの数のゴブリンを倒すことは無理だろう。多少の危険は飲み込んで、積極的に好機を拾いに行くべきだ。


 そうして戦い続けたヨトは、気付いたころにはすべてのゴブリンを殺していた。


 足元の草や、乱立する木々が赤い血に染まって、森の景色は凄惨せいさんなものになっている。


「はぁ……はぁ……!」


 深い呼吸を繰り返すたびに、一瞬のようで、長いような、狂った時間感覚が、段々と正常な形に矯正されていく。そして体は痛みを思い出していく。特に左腕の損傷が激しい。いくつもの攻撃を左腕でかばったからだ。それでもかばいきれずに受けた傷は脚や胴にもある。


 無傷に近い右腕も、短槍を振るい続けた疲労が痛みにも近いものとなっている。


「アンジェの、ところに、帰るか……」


 ヨトはゴブリンの討伐証明として、目標数の分だけ耳を切り取って袋に詰め込んだ。


 そして、他のゴブリンが再びやって来る前に、痛む体を引きずり、歩き始めた。

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