第九話 ガルト
ヨトは立ち上がって体を伸ばした。熱は下がったみたいで体が軽い。肩の動きに鈍さを感じ取れるが、痛みは気になるほどではなかった。
丸一日も寝れば、体の調子はずいぶんと良くなっていた。
アンジェは大銀貨を握りしめている。ヨトが渡した宿泊代だ。
「調子は良さそうだね」
「ああ。助かった、ありがとう」
「……これから、どうするの?」
アンジェがヨトを覗き込むように見上げる。
「そうだな……まずは」
突然、ドンドン、と木の戸が強く叩かれ、ヨトの言葉は中断される。姿が見えなくても、音の調子から
アンジェは立ち上がり、戸の覗き穴で外を確かめると顔をしかめた。
「……よう、アンジェ。開けて、顔を見せてくれよ」
木の戸の向こうから、男の声が聞こえた。若くはなさそうだ。
「……いやよ」
「知ってるぜ? ガキを連れ込んでるんだろ?」
アンジェの苦々しい声を気にすることもなく男の声が重ねられる。怒気を
アンジェの表情は、ますます険しくなっていく。
「ただの怪我人よ」
アンジェの声は、相手をはっきりと突き放すようにとげとげしい。
「ただの怪我人なら、泊める必要なんてねえだろうが!」
ドン、と木の戸が強く叩かれ、決して広くはない家の中に響き渡る。
思わず腰を浮かせたヨトに、アンジェが手のひらを突き付けて目配せをする。ヨトの行動で最良なのは、何もしないことだ。今ここで出しゃばれば、話はよりこじれるだろう。
「重傷だったのよ」
「オレは泊めてくれなかったのによぉ」
「泊めるわけないでしょ」
「なら戸を開けて、顔くらい見せろよ。お前の母親は、よく笑ってくれたぜ」
そもそも、男はアンジェの話をろくに聞こうともしなかった。大きな音と声で相手を押さえつけようとしている。まさしくガラの悪い男だった。
アンジェは恐怖を感じているんだろう、顔が強張っている。しかし、怯えているような雰囲気はなく、
アンジェはそのまま強い語調で応戦する。下手に戸を開けてしまえば、ヨトに突っかかっていくことが、彼女にはわかっていた。
「わたしは、あんたの顔なんて見たくない」
「そんなこと言わないでくれよ、な?」
「いい加減にして!」
ヨトの顔を熱気が撫でる。アンジェの怒気に火の魔法が反応し、熱が放たれていた。昨夜に感じた温かさではなく、焼き焦がす意思を持った熱さを感じる。はっきりと敵意を持った威嚇だ。
「チッ、わかったよ!」
男も木の戸越しに熱さを感じたのか引き下がる。
話が終わったと判断したヨトが口を開こうとすれば、再び手で制された。
アンジェは黙り込んで耳を木の戸に寄せる。しばらく経つと、やっと足音が聞こえて去っていった。
「ふぅ……」
アンジェが一息つき、藁の寝台に腰かけると、朝の冷えた空気が戻ってくる。
「大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫」アンジェは一呼吸おいて「でも、ガルトは、しつこいのよ」
ガルト、とはあの男の名前だろう。それを口に出す苦々しい声は、今回のことが初めてではないことを語っていた。
「なんでつき纏われてるんだ?」
「あいつは、わたしの、おかあさんのことを知ってるみたいで、母親に似て良い顔をしているって言ってきて、それから。小さな傷でも、すぐわたしのところに来るのよ」
確かに彼女は、可愛らしいというよりは、きれいな顔立ちをしている。ヨトと年齢に差はあまりないが、態度や声は大人びた雰囲気をしている。
「ガルトはまさに、落ちぶれた冒険者だね。魔物と戦うのが怖くなって、すぐ冒険者を辞めたらしいの。ヨトは、あんな奴みたいにならないでね?」
そう言って笑うアンジェは、もうすっかり元の調子に戻っていた。
「……満足するまでは、辞めないよ」
冒険者を辞める時は死ぬ時だ、という言葉をヨトは飲み込んだ。
「ヨトは、冒険者ギルドに行くの?」
ちらりとヨトをアンジェが見上げた。
「ああ。でも、その前に武器を買わないと。それに防具も」
ヨトは、灰牙の末裔の討伐報酬を新しい装備に使うつもりだった。高い装備は安物よりも性能が良い、性能が良い装備を使えばより戦いやすくなる。単純なことだが、重要なことだとヨトは考えている。
良い装備を買いたくても買えないのが駆け出し冒険者だが、ヨトにその障害はなかった。
とはいえ、四万オアはヨトにとっては大金だが、銀級以上の冒険者であれば稼ぐのは難しくない。
四万オアで、どこまで良い装備を買えるかはわからない。
「ふぅん、装備ってさ、やっぱり高いんでしょ?」
「それは、そうだろう」
相場を知らないが、決して安いものではない、ということくらいはヨトにもわかる。
「ならさ、ここを拠点にしない?」
「拠点?」
「元気になったって、寝るところは必要でしょ? 冒険者なら街で下宿するんだろうけど、ここなら安くするよ!」
にんまりと愛想の良い笑顔を浮かべるアンジェ。まさしく商売人の顔だ。
ヨトは寝るところにこだわりを持たない。というよりも、こだわり持てる余裕がない。安く済むなら、それに越したことはないだろう。特に良い装備を買いたいと思っている現状、出費を抑えるのは大事だ。
気になる点はあるが、利点が上回るかもしれない。
「怪我した時、さらに便利でしょ?」
アンジェは治癒術士だ。これは大きな加点要素になる。
それが、最後の一押しとなった。
「……とりあえず、藁の寝台、新しいのを用意してほしい」
「まいどありっ」
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