月面少女と苦行重力

 すべてが偽りの中、ただ歩いていた。

 偽りの空、偽りの草原、偽りの重力。

 この世界に本物は私ただ一人のみ。

 時間も距離も分からない。

 いや、距離ならば少しは分かる。

 遙か彼方に見える大木。

 あの大木との距離が私の現在地。

 私はあの大木に辿り着くために歩いている。

 だが、あの下僕義兄と別れてからどれだけの時間が経過しただろう。

 どれだけの道のりを踏破できたのだろう。

 つい先ほどのことのように感じるし――。

 僅か数メートルの距離しか進んでいないような気もするし――。

 莫大な時間と壮大な距離を進んだ気もする。

 上空を数度、灰色の鳥が通り過ぎていった。

 けれども、目指す大木は未だ遠くにある。

 私は――何故ここに居るのか。

 そして思い出す。

 ――ああ、私は地球に――。

 ふらつく足取り。

 揺らぐ草原。

 けれども――大木との距離だけは変わらず彼方にある。

 私は――届かない。




月面少女と苦行重力




「はぁ……はぁ……」

 たかが1km。

 月面の交通機関なら一瞬で通り過ぎる距離。

 けれども、生まれてこの方交通機関を使用しない長距離移動をしたことのなかった私には未知の距離であったと今更ながら思い知らされた。

 どれだけ進んだだろうか。

 どれだけ経っただろうか。

 遠くに見える大木の大きさはぴくりとも変わっていない。

 重い身体を引きずりながら、足を僅かにあげ、滑るように前へと進める。

 肌着がじんわりと湿っているのを感じ、汗をかいていることに気づいた。

 汗をこんなにもかいたのは久しぶりな気がする。

 いや、そうでもないか。

 ――マフィアの暗殺を実行した時。あの時は確かに自分でも驚くほど汗をかいていた気がする。

 足を前へと踏み出す。

 息を吐く。

 歩きながら思考が、意識が、深く、どこかへと沈んでいくのを感じる。

 ――どこへ?

 ゴールのない人生だった。

 月面都市に生まれ、銀環の青い惑星を見上げながら、夜のない黒い空で育ってきた。

 ただ遊び、ただ学び、ただ笑い、ただ言われたことをやりながら、隙間を縫って遊びながら、いつかあの青い星に辿り着く未来を夢見ながら――。

 両親が死んだ。

 ぼんやりとあったはずの、なんとなくの人生の道標ががらがらと崩れた気がする。

 別になりたいものがあった訳ではない。

 スポーツ選手になりたいと思ったことはない。運動は好きじゃないからだ。

 学者になりたいと思ったことはない。勉強はめんどくさいからだ。

 プロゲーマーになりたいと思ったことはない。遊びを仕事にはしたくない。

 クリエイターになりたいと思ったことはない。作り出すよりは作り出されたものに一喜一憂するのが好きだからだ。

 サラリーマンになりたいと思ったこともない。でも、親がそうだからそうなるのかな、という気もしていた。

 人を殺したいと思ったことはない。あの時までは。

 復讐を決意したのはいつだっただろうか。

ピーーーーーーーーーー

「……はっ」

 耳をつんざく警告音に意識が現実に呼び戻される。

《心拍数が上昇しています。過呼吸となっています。一旦立ち止まってください。心拍数が上昇しています。過呼吸となっています。一旦立ち止まってください。心拍数が上昇してい――》

「はぁ…………もう立ち止まってるよ……はぁ……はぁ……」

 私は苦笑し、それから気づく。

 おそらく警告音が鳴る前からトレーナーAIは忠告をしてたが私が気づいてなかったのだろう。そこまで自分が追い込まれていたことに気づかされ、どうしようもなくなってしゃがみ込んだ。

「何があった?」

 いつの間にか側に下僕義兄がいた。顔を上げないが、足だけは見える。

 その声色からは心底私を心配しているようなのがうかがえた。

「へっちゃら」

 この男は自分の立場が分かっているのだろうか。

 殺人鬼の私に脅されて下僕になっていると言うのに。

「それは大丈夫じゃないな」

「どうして?」

「へっちゃらってのは、辛いけど耐えられますよ、て言葉だからな」

「そうだっけ?」

「俺の中ではそうなんだよ」

 こんなにも、私を気にかけてくる。私に気があるのだろうか。だとしたら私は罪な女だ。

 ――まあ罪というのなら、大量に罪を背負っているのだけど。

 初めて出会った時の彼の言葉が浮かぶ。

――「キミの罪はどうなる?」――

 それはこっちが聞きたい。

 私と彼は赤の他人だって言うのに、なんでこんなにも――。

 私は顔を上げた。考えられる限り精一杯の笑みを浮かべて。

「おにーちゃんは心配性だね」

 大丈夫。女の子は男どもよりも生まれた時からずっと演技して生きてきてる。

 けど、下僕義兄には効かなかったらしい。

「今日はこれまでだな」

「ホントに心配性。過保護すぎない?」

「高重力はあらゆるトレーニングの中でももっとも過酷なやつだ。甘く見るな」

「そんな危険な訓練をこんなカワイイ私に」

「言い出したのはお前だろうが」

 へらへらと笑う私を下僕義兄は軽々と持ち上げた。

 今の私は体重が二倍あるはずなのに、意外と力持ちらしい。

「マイトレーナー、重力制御を解除」

《了解<ラジャー>。重力1ルナジーに戻します》

 すっと身体が軽くなる。

 いつもの身体だ。

 でも周りでは相も変わらず仮想の草木がゆらゆらと波を打っている。

 あれらは何故いつも揺れているのだろうか。

 何も分からない。

 けれども、草木は自分で立てるだけ今の私よりも強い。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか意識が落ちた。




「ここは?」

 目をぱちくりとする。

 ここは月面。

 白い大地と、黒い空。

 大気の存在しない真空の大地で私は立ち尽くしていた。

 息を吸う感覚がなくてすぐに夢だと気づいた。

 裸足の私はクレーターまみれのでこぼこな白い荒野を踏みしめる。感覚はない。

 音も空気もなくて、光と大地だけがある。

 地球には夜があるという。

 私は夜知らない。

 月面都市は常に太陽の光が当たる場所に造られているため夜が訪れることはない。

 私は昼に起きて昼に寝ている。

 朝と夕暮れを知らない。

 巨大な太陽が地平線を昇るところを見たことがない。

 もちろん、映像なら、仮想空間なら経験がある。

 けれどもそれはどうにも作り物めいて、そんなことが本当に起きるなんてことが信じられない。

 人を殺すということもそうだ。

 月面都市にはほぼ虫が居ない。

 機械によって徹底的に排除されるからだ。

 だから人類以外の生命体が月面には乏しい。

 そんな中で、人が人を殺した。

 なんだかそれは、とても罪深いことな気もするし、そうでない気もする。

 罪の自覚が足りないと言われるかも知れないが、あんな悪党どもが死んだことにいつまでも引きずられるつもりはない。

「でも、悪いことをしたのは確かだろう」

 不意に浮かび上がった人影にげっとなる。

 身長180cm前後の小柄な髭のおじさん――下僕義兄だった。

「こういう時、現れるのはもう一人の自分か、両親じゃないの?」

 思わず眉をひそめる。

「自分に責められてもキミは気にしないだろう」

「まあね」

 そして不機嫌になる。

 私は、あの下僕義兄に嫌われるのを嫌だと深層心理かなんかで思っているということなのだろう。夢の中とは言え、むかつく話だ。

「キミの罪を俺だけが知っている」

 そう、月面都市のシステムログには私の犯行は残っていない。

 私の罪を知るものは月面都市では、いや、この宇宙に下僕義兄しか知らない。

 下僕義兄が他者に漏らしていなければ、だが。

「やっぱり殺すべきだったかな」

 その後は、こうして月面に裸で飛び込んで真空自殺するのもいいかもしれない。

「罪を重ねるべきじゃない」

 下僕義兄の幻がたしなめるように言う。

 刑事のくせに信心深くて聖職者みたいなおじさんだ。

「オジサンはよしてくれよ」

「年を食ってることを自覚すべきね」

「ならキミはまだ子供であることを自覚すべきだ」

「子供である自覚ってなに? 大人の言いなりのいい子ちゃんになれってこと?」

「未熟であるという自覚さ」

「そんなの、幾らでも知ってる! あたし達子供はね! あれも出来ないこれも出来ないで早く大人になりたくって、ずっともがいてる!」

「もがくことはいいことだ。そしてキミは罪を犯した」

 ――またそれか。

「あたしがやらないと誰がアイツらを殺したの? 誰があいつらの罪を断じたの? 悪事を放置しておいて何が私の罪よ」

 何もない月面で私は叫ぶ。

 真空の世界では音は響かない。

 ならこの世界に響き渡る私の声は、怒りはなんなのだろう。

 ありえない、意味のない叫びだと言うのだろうか。

「罪は裁かれるためにある」

 下僕義兄が懐から銃を取り出す。

「やっぱり、あたしを殺すために一緒に居たのね」

「一緒に居ろと言ったのはキミだ」

 銃口を突きつけながら彼は憐れんだ目でこちらを見上げてくる。

「いつかこの時がくることをキミは望んでいる」

「嘘ね」

「じゃあキミが望んでいるものはなんだ?」

 問われて私はにらみ返す。

「そんなの――あたしが知りたい」

 私は突きつけられた銃を右腕ではねのけ――られなかった。

 幻影のくせに下僕義兄の腕は強靱で私の打撃ではびくともしない。

 ――なっ。

 下僕義兄はゆるやかな動作で私の腹を蹴り、そのまま月面に踏みつけた。

「地球人に月面生まれが力比べで勝てるはずないだろ」

「うぐぐぐぐ」

 軽く足を乗っけているだけに見えるのに下僕義兄の足はどれだけ叩いてもびくともせず、どけることも出来ない。しかしここが月面だからか、あるいは夢だからなのかその足には重みも、痛みも感じなかった。ただ、抑えられ、踏みつけられている。

「痛みの自覚が足りないようだ」

 下僕義兄が呟いた途端、踏みつけられた腹部に激痛が走る。

「あっ……がっ……」

 ――想像してはダメだ。

 ここは私の夢の中。ないと思えば、痛みなど、存在はしない。

「なぁにが……罪よ。馬鹿げてる。悪党を殺して責められる筋合いはないっての!」

 叫ぶと同時に上にのしかかっていた下僕義兄がどぴゅーんと吹き飛びそのまま月面に頭から突き刺さった。

 逆さに突き刺さった下僕義兄の股間へと私は叫ぶ。

「あたしはやりたいようにやる。生きたいように生きるっ!」

「キミはそれでもいい。だが、側に居る俺はどう思うかな?」

 月面に突き刺さったままの下僕義兄がなおも思わせぶりなことを言ってくる。

 あまりにも馬鹿げてたので力の限りその尻を蹴飛ばした。

「し・ら・んっ!」

 私の渾身の叫びと共に下僕義兄の身体は月面をすっぽ抜け、そのまま月面を離脱し、月の重力圏を越えて宇宙の彼方へと放物線を描かずに飛んでいく。そして下僕義兄らしき幻影は星となった。

「知らない知らない。

 あたしに罪があるとしても、それはあたしだけのもの。

 おにーちゃんがどう思うなんて知らない!」




 目が醒めるとベッドの上だった。

 肌の感触からして運動着から寝間着に着替えさせられているようだった。

 まあベッドに寝かせておけば後はホームシステムが自動で汗をぬぐって着替えさせてくれるので着替えについては気にすることはないだろう。

「電気ちょうだい」

《了解》

 システム音声と共にぱっと灯りがつく。

 どうやらここは自室らしい。

「…………」

 私はおもむろに下半身をスライドさせてベッドから出し、上半身を起こした。ややもたつきながらも足に力を入れ、ぐうぅと立ち上がる。

 ふらつきながらも立ち上がり、その場で足を二三度持ち上げた。股関節に異常はなさそうで、ちゃんと歩くことは出来そうだ。

 私の貞操と筋肉に問題なし。

 下僕義兄は私の与えた自室に帰ったのだろう。

 私達は今、私の生家で暮らしている。下僕義兄が私を引き取った結果、月面警察の用意した独身寮を追い出され、月面都市の市民権もないので新しい住居を借りることすら出来ず、結果的に私が元々住んでた家に下僕義兄が入り込むこととなったのだ。

 私としては、両親の残り香のあるこの家からは離れたかったのだが。

 ――家出する前に家を焼くべきだったかも。

 とはいえ月面都市で放火は殺人よりも罪が重いテロ行為だし、そんな足のつくことは出来ないが。

 下僕義兄に何か言いに行くべきか。

 ――いや、別にいいか。

 さっきの夢もあってなんだか気まずい。

 明日の朝、適当に礼を言えばいいだろう。

 私はよろよろと細長い身体をベッドに滑り込ませる。

 寝る前にネットワークにアクセスして今日の運動記録を確認する。

 私の重力訓練の移動距離は20mだった。

「…………」

 私は釈然としないものを感じながらも目を閉じた。

 明日こそは、重力などに負けないことを誓って。




つづく

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廃月と罪少女 生來 哲学 @tetsugaku

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