-3
マーケットは健全な活気に満ちていた。色彩豊かなテントと人々が入り乱れ、ガヤガヤしているわりに忙しなくはない。流れる時間は日向ぼっこの猫のように大らかで、それが独特の雰囲気を作り出していた。
ハルカは目を輝かせて意気揚々その中へ混ざり、俺の指示に従いながら日用品や消耗品をさまざま買っていった。長身と黒髪は人混みでもよく目立つ。しょっちゅう観光かと声を掛けられパイのおまけを持たされ、昼間から酔っ払った集団に絡まれ老人の長話に付き合わされた。
地元の子供と鬼ごっこ、泣き出した赤ん坊へ声を掛け、じゃれつく野良猫を抱き上げる。屈託のない笑顔がくるくると踊るように人と交わっては離れていくのを俺は見る。喜びと愛情に溢れた素晴らしい光景だと思った。ひとつひとつが映画のようだ。劇的な出会いと別れが実に気軽に繰り広げられている。
ただの買い出しのはずがずいぶん時間を食ってしまって、へとへとになった俺たちがマーケットの外れで適当なバルに入ったときにはもう夕方の気配が迫っていたほどだった。
「疲れたあ」
人目に付きにくい隅のテーブル、スツールの上でひょろ長い体が伸びる。
「お前体力あるなあ」
俺も良い気分で机の上に乗り、目の前の髪の結び目に語りかけた。走って戦って買い出ししてさんざん駆け回って、それでもまだ声に張りがあるのだ。若さだけじゃない無尽蔵のエネルギーが絶えず奴の底から湧いているような気がする。
「それにしてもよかったよ、パンとかフルーツとかいろいろもらえちゃって!」
「ああ。俺はもうあれで腹一杯だ」
「写真家さんも思ったより食べたし」
オレンジひと切れとクロワッサン半分、妙に美味くてうっかり感動してしまった。
俺とは比較にならないほどたくさんのものを食っていたハルカは、しかしちょっとねだるように唇をとがらせる。
「でもまだ、満腹には足りないかな」
「だろうと思った。いいぜ。今日の働きの礼だ、奢る。常識の範囲で好きなだけ食べろ」
「常識の範囲で」
「途中で一文無しになって雑草食いたいんなら止めないがな」
「常識は大事!」
俺の姿を隠すようにメニューが開かれた。俺は瓶ビールを、ハルカはペペロンチーノと白ワインを選び、一緒に店で一番小さいグラスを注文してもらう。
怪訝そうな店員に少し恥ずかしそうな顔をするのには少々申し訳ない気持ちになった。こいつ自身が元凶とはいえ、嘘のつけない人間に隠し事をさせ続けるのは気持ちが悪かろう。早く宿を取って寝て明日には支部のある隣国へ行きたい。
注文の間、俺は店員に見つからないようハルカのキャスケットの下に隠れていた。もう長く使っているのか、触った感触は柔らかい。
料理が運ばれてきて、俺たちはワイングラスとデミタスカップで乾杯した。普通ごく少量のエスプレッソを飲むカップはそれでも今の俺の半分近くの大きさで、抱えるようにゆっくり傾けなければいけない。
喉にぐんと沁みるアルコールに唸った。麺をフォークに巻き付けながらハルカがクスクス笑う。
「めっちゃおじさん」
「お前はガキみたいだぞ」
「ガキじゃないもーん」
ガキである。
ペペロンチーノはニンニクが利いていて、唐辛子とアスパラ、ベーコンがオイルにつやつやしている。結構ボリュームがあるのにハルカは全く動じた様子もなく美味そうに食べ進めていた。反面ワインはゆっくりと飲んでいるので、酒には弱いのかもしれない。
あっという間にパスタを平らげてしまうと俺たちのテーブルに流れる空気はたちまち緩慢になった。BGMは会話を邪魔しない気の利いたジャズ、照明の色は控えめな橙だ。横に置かれたキャスケットのつばを何となく触って、俺は正面のお子様が案外静かな酔い方をするのに驚いていた。
グラスを回して、口に含んで、ふうっと息継ぎをするみたいに吐く。白い頬が少し赤い。眠そうな大きな目が俺を見て、テーブルの上の水滴を見て、うーんと唸った。
「寝るなよ」
「起きてる」
「あまり飲み過ぎるな。この後宿探して運んでもらわなきゃならんから」
「常識の範囲なら好きなだけいいって言ったじゃん~」
水滴を指でくるくるひっかく姿は親にだだをこねる子供のようだ。そう思って、俺はようやくこの男がちょうど自分の子供と同じくらいの年齢なのだということを思い出した。
それなのに、今日はずっと彼に世話を掛けさせてばかりいる。ハルカ自身の行動がこの状況の原因なのだとしても、俺が通常の身丈なら酔い潰れたって肩を貸してやれたのだ。
酒が弱気を連れてくる。後ろ向きでいることは冷静から俺を遠ざける。昼間のマーケットで見た明るい光景が幻のようにまぶたの裏でちかちか光った。
「早く大きくならなきゃねえ」
俺の気持ちを察したのかあるいは声に出ていたか、ハルカはふわふわと同じ話題を口にした。しかしその言い方では赤ん坊か木の苗木に向けているようである。
ハルカは相変わらず卓上の水滴でぐにゃぐにゃ遊びながら心地よさそうに笑っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます