4
その年の航海も快適とはいえないものだった。
前回よりも酷い風雨に見舞われ、一週間経ってもまだ到着の気配がなかった。
元々船があまり得意でないナギは、船旅のほとんどを寝て過ごした。ある夜、ナギは久しぶりにはっきりとした夢を見た。
母の夢だった。
ナギは幼い頃に戻り、母に包まれて微睡んでいた。あたたかい。頭を撫でてくれる母を見ると、微笑を湛えている。
全ては巡りゆくのよ。
撫でるのを止めて母は言った。
良いことも悪いことも、生きている人も死んだ人も、巡り巡って、帰ってゆくの。
巡る、とナギが繰り返すと、母は頷き、前を見やった。
ナギがそちらを向くと、アオイが立っていた。
最初に見た時は幼い頃の姿だったが、瞬きをすると浴衣を着た姿になり、もう一度瞬きをすると髪を結えた姿に変わった。
ナギが立ち上がると、自らも幼い頃の姿ではなく、よく知っている普段の姿に変化していることに気がついた。
アオイの方へ一歩踏み出すと、彼女は悲しげな顔をした。
もう一歩踏み出すと、さらに顔を歪める。
一歩一歩近づいていく度にアオイの表情は悲しみで満たされ、目から涙が溢れ落ちそうだった。
ようやく触れそうな距離まで近づき、今にも泣き出しそうなアオイに手を伸ばした時、視界が揺れた。
はっと目を開けると、船の木目の天井が目に入った。
窓は空いていないのに、目に海水が沁みた。
ナギを迎えた故郷は以前よりも寂れていた。
夏だというのに風が吹き荒び、気のせいか一体が茶色がかったように見える。
まさか、と思ってナギは“受け皿“へ駆け出した。“受け皿“の上には変わらず“使い“が載っている__しかしそれは、一年前とは違って栞のような形で静かに横たわっていた。そう、栞のような。
「ついにテラナリ様がこの郷にも”栞“を挟みなさった」
呆然として郷の中心に戻ると長老のダロがナギに縋るようにして言った。
「ナギよ、お主は異国の役人ゆえ、わしらの知らぬ解決策は持ち合わせておらんか?」
ナギは言葉に詰まった。脳裏には絶えずアオイの笑顔が浮かんでいる。鼻の奥に鈍い痛みが走った。
「いいえ。…伝承通りのことしか、我々にはできません」
「しかし、そうなると、お主は…おお、ナギよ、すまぬな」
「いいえ、良いんです」
いつの間にやら視界がぼやけていた。頬を何か温かなものが伝っていく。
「僕にとって彼女は、大切な幼馴染だというだけですから」
いつにも増して空気の澄んだ夜だった。
最後に少し話そう、とアオイは出発前夜のナギの袖を引っ張って歩き出した。手には重そうな小包を抱えている。
しばらく歩き、一帯に花の咲き乱れる小さな丘に着いた。綺麗な満月の夜だった。
アオイは腰を下ろすと手に持っていた包を開け、中に入っていた白い装束を取り出し始めた。
「もう知っていると思うけど、私ね、お嫁に出るんだ」
そうなることはわかっていた。“使い“を見たあの時から、もう知っていたはずなのに。ナギの喉が奇妙に震えた。
「見て、これが私の嫁入りの衣装。綺麗でしょう?」
ナギは月下のアオイの顔をまともに見ることができなかった。視界の端に映るアオイの輪郭は月明かりに縁取られ、幻想的になっている。
「ああ、綺麗だよ」
アオイは少し微笑み、地面に咲く花々を見つめた。風が吹き、花の匂いを巻き上げる。
「明日の今頃、私はお船に乗って、大海に出て…運が良かったら、どこか異国の人に拾われて、そこで結婚するんだろうね」
今すぐアオイを抱きしめたかった。二人でタルツィラヌに行って、穏やかに暮らしたかった。でもそんなことをしたら郷の人々がどうなるかはもう知っていた。異国で見た情景を自らの知っている人々に当てはめたくなかった。
それでも、アオイにはいなくなくならないで欲しかった。
「ねえナギ」
アオイの手を目が追う。ナギは何も言えない。
「私を異国で引き揚げてくれる人が、ナギならいいのにね」
アオイは俯いた。返事を待っているのか、別の感情があるのか、ナギにはわからなかった。いや、わかりたくなかったのかもしれない。
「幸せになってね」
当たり障りのない事しか言うことができなかった。風が控えめに二人の横を通り過ぎていく。
「うん。…そうだ、ここに咲いている花をお船に敷き詰めてもらおう。この花、なんて名前なんだろう?初めて見た」
「月下美人、というらしいよ」
いつかどこかの本で見かけた記述の記憶を辿りながら答えた。花には花言葉というものがあることは覚えていたが、どのようなものだったかは覚えていなかった。
「そうなんだ。月明かりに照らされて、とっても綺麗…」
どこか物憂げにそう言う彼女の目は潤み、月光で輝いていた。背後の空一面を含めて、今のアオイは一枚の絵のように見えた。このまま本当に絵としてずっと残せてしまえばいいのに、とナギは頭の片隅で考えた。
アオイはたくさん咲いている中から一輪を摘み、ナギによこした。
「これ、持ってて。またいつか、会おうね」
「ありがとう」
ナギはもう空っぽになった小袋を取り出し、その中に花を入れた。
まだ誰も起きていない早朝にナギは出発した。
墓参りの後、最後に郷を少し見て回ろうと思い、周囲を歩いた。昨晩見たあの丘の辺りに辿り着板が、見まわせども見まわせどもあの花は見当たらなかった。
タルツィラヌへの船に揺られながら、ナギは遠ざかるテルネリカを見つめていた。
きっと今頃、アオイは花嫁姿で海に旅立っているのだろう。
ナギの右側の空気が軽く震えた。そちらを見ると、頭に大きなゴーグルをつけ、長い赤毛を一つに編んだ若い女性が話しかけているようだった。
口を何やら開閉させている。おそらく、何か言葉発しているのであろう。ナギは役人証の裏を見せた。裏にはこう書いてある筈だ__「私はテルネリカの者です」
彼女は頷き、紙を取り出してペンで文字を書いた。
「ごめんなさい、タルツィラヌの役人の格好をしているから、勘違いしてしまって。タルツィラヌまで、ちょっと話さない?ここまで一人で、話し相手が欲しいの。名前を書き忘れていたわ。私はフォンシュン生まれのピョド」
丸っこい文字でそう綴られた文を見て、ナギはその裏側に「ありがとう、気にしていない。こっちはナギ。他より早く下船しなければならないけど、それでも良かったら」と書いて渡した。
ピョドは微笑み、新しい紙に文章を綴り始めた。
「あなたはどうしてタルツィラヌに?私はフォンシュンに花嫁を見送りに行って、その帰り」
花嫁という言葉でアオイを思い出し、ナギは胸が痛くなった。次にユンナを思い出した。彼女は今どうしているだろうか。
「俺は年に一度の帰郷で。普段はタルツィラヌで役人をしている」
ピョドは目を輝かせた。
「やっぱり、役人だったのね。それじゃあ、今、”使い“が一緒なの?」
「いや、今年は…”栞“が挟まれて」
ピョドは少し同情するような表情を浮かべ、迷いがちにペンを走らせる。
「あら、あなたも…近頃多くて、嫌になっちゃうわね。ねえ、普段どうやって連れているの?私はこのペンダントに入れているのだけど、他国の人がどうやっているのか気になる」
紙を渡すとピョドは首元の少し大きめのペンダントを手に持ち、ナギに見せるようにして揺らした。
「普段はこの袋の中に入れている。今は、花しか入っていないと思うけど」
紙と一緒に袋を手渡した。
「あら?いるじゃない」
一緒に返された袋の中には、月下美人の花弁の形をした金色の炎が揺れていた。
「大丈夫?空も暗くなってきたし、中に戻ったらどう?」
随分長い間“使い“を見つめていたのであろう、ピョドがゆっくりと紙を手渡してきた。
「ちょっと、戻る。話してくれてありがとう」
ピョドは安心したように明るく笑い、ナギに手を振って自室へ戻っていった。
ナギが部屋の戸を閉めたと同時に窓の外に一閃の光が走り、続けて重い振動が足元や胸を震わすように伝わってきた。窓は次第に引っ掻く水でぼやけ、外の暗さに合わせて船内に電灯が灯された。
袋を両手で抱えながら何も考えずに座っていると、窓に一枚花びらが張り付いた。
その花びらは白く、しかしどこか紫がかって見える。
(__月下美人)
手元の“使い“は、いつしか髪を結えた少女の形に変化していた。
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