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隣国といえど大陸間の移動は骨が折れる。
タルツィラヌの港を発ってから丸三日、悪天候に見舞われながらようやくテルネリカ本土にたどり着いた。まだ少し朦朧とする意識の中、荷物を抱えて船を降りる。
港には入国者を管理する管理局があり、ナギはそこで役人の身分を証明する札を見せた。あらかじめ役所の方に申請が届いていたのだろう、札の確認を行った程度ですんなりと入国ができた。
一年ぶりのテルネリカは暑かった。冷涼な気候のタルツィラヌにも夏は存在するが、こちらに比べると幾分涼しい。故郷の、胸を微かに燻らせる夏の匂いをゆっくりと吸い込むと、今年も帰ってきたのだ、という心地がする。
ナギの故郷は港からは歩いて半日ほどかかる内陸の方にあるため、途中で馬車を捕まえて向かった。異国で勤める役人にはそれほど時間は残されていないのだ。
「おまえさん、外国の役人なのかい」
馬を休ませている時に、御者に問われた。ナギは手に持っていた水筒を置き、答える。
「ええ、そうです。こちらでは筆談の必要がないので、やはり過ごしやすいですね」
「そうかいそうかい。俺も昔、フォンシュンの方に働きに出ていたことがあるけど、目が悪くなっちまって商売に支障が出てきちまってな。そんでこっちに戻ってきてのらりくらりとこいつと走り回っているってわけさ。…おっと、つい語りすぎちまった。日が暮れちまう前に、おまえさんを送り届けなきゃな」
そう言って彼は右手をすいっと上げ__「来い」、と言っている__馬車を再び走らせた。
故郷に辿り着いた頃には、もう日が暮れ掛かっていた。
夕暮れの時の少し湿っぽい空気を吸い込んでいると、突然空腹を感じた。ちょうど左手に馴染みの食堂があったのでそこで夕食にすることにした。
子供の頃から変わらない、少し立て付けの悪い戸を引くと、手に擦れるような抵抗がかかった。
中に入ると店は暖かな光で満ち、多くの客たちで賑わっており、店の者達は忙しいそうに駆け回っていてナギが入ったことに気づかれるまでしばらくかかった。帰る客の食器を下げに来たアオイと目が合い、ようやく席に案内された。
「いらっしゃいませ」
アオイは少し控えめに久し振り、と付け加えた。動いてばかりで暑いのか、長い髪を頭の上で一つに結えており、ナギは彼女のうなじに視線を送っている自分に気づき、慌てて目を逸らした。
「久し振り。鶏の揚げ物と、夏野菜の煮物を」
「かしこまりました」
それだけ言って、彼女はそそくさと厨房へ戻っていった。
この食堂はアオイの両親が経営しており、彼女は幼い頃からいつも手伝いをしていた。ナギは一家揃って度々この食堂にお世話になっていた__いわゆる幼馴染というものである。
「お待たせしました。ごゆっくりと」
しばらくしてアオイが盆を抱えて戻ってきた。盆の上には大ぶりの揚げ鶏と野菜のぎっしり入った煮物、そして特産の米がそれぞれの皿で絶えず湯気を出していた。
お冷を置いたとき、アオイがそっと言った。
「ねえ、この後、ちょっと話せる?」
ナギがゆっくりと頷くと、アオイは何事もなかったかのように机を離れた。
軽く水で口の中を潤し、揚げ鶏を頬張ると、懐かしい香りが鼻を抜けていった。テルネリカに帰ってくると、ナギは必ずこれを食べる。何も気取っていない、素朴な味はナギを安心させてくれる。
食べ終わり、代金を支払って店を出ると、後から来たのであろうアオイに袖を引かれた。
「散歩しない?」
ねっとりと張り付くような風の吹くなか、二人でしばらく郷を歩いた。
空には幾つもの星々が瞬き、一年前に戻った時と同じ星座が見下ろしていた。空の星たちも、一年をかけてゆっくりと巡り歩いている。
ふとアオイの方に目を見やると、少し俯きながら歩いているのが見える。昔から彼女とは兄妹のようにいつも一緒にいた。互いの家族の仲も良好で、二人にとっては四人の両親がいるようなものだった。
やがて成長し、思春期を迎えて少し経ったある年、アオイに花火を見に行こうと言われた。二人で花火を見にいくことは以前からもよくあったし、特段おかしな点はなかったが、その年のアオイは頬を真っ赤に染めて、少し潤んだ瞳でこちらを見ていた。
それだけでナギもその気になってしまうのだから思春期というのは不思議なものである。
その年の花火のことはナギはあまりよく覚えていない__ただ、アオイが綺麗だったということを除いて。
それからも二人は訳もなく一緒にいた。周りも昔から二人が一緒にいるのをよく知っていたから、冷かすようなことはしなかった。互いに好意を口にすることもなかった。
ナギはいずれアオイとの家庭を持ちたいと考えていた。おそらくアオイもそのつもりでいたのだろう。二人はこの関係に甘えていたのかもしれなかった。
母が倒れたのは二人が成人の儀を終わらせてから半月が経った晩夏の日のことだった。
床に臥し、苦しそうに呼吸をする母は、意識が途切れる直前にナギを見つめて両手を回した__「巡る」。
郷の者が総出で看病に当たったが、ついに母が目を覚ますことはなかった。
ナギがタルツィラヌで働くことを決めたのはその時である。
数年前に父が亡くなり、母も亡くなった今、自分は一人で生きていかねばならない。いつまでも昔のようにアオイの両親に迷惑をかけるわけにもいかなかった。
誰も自分を知らない異国でしっかりと生きていこう、そしていつか、自分がふさわしいと思った時に、アオイを迎えに行こう。そう決めて、ナギは最低限の荷物だけを携え、「それじゃあ」とだけ言って故郷を発った。その時のアオイの表情はどんなふうだっただろうか。
あちらでもアオイのことを思い出さないわけではない。しかしそれよりも、ふさわしくならなければという気持ちがナギを突き動かし、こうして役人にまで上り詰めた。
けれど、まだその時ではない。毎年帰ってきてアオイに会う度に自らに言い聞かせていた。
「向こうでは、どう?」
ふとアオイが尋ねた。
「まあまあ。時々忙しいけど、普段はそんなに大変ではないかな」
「そう。…ナギはすごいね。私がここでご飯を作っている間に、いつの間にかあっちで役人になっちゃうんだもん。いつまでも変われない私なんかより、よっぽどすごいよ」
彼女は目を伏せたまま言葉を紡ぐ。店で動いていたせいで、結えている髪の一部が解けてうなじに掛かり、月明かりで光っている。
「ナギがどんどんすごくなっていくのに、私はずっとこのまんま、どこにも行けない…」
「そんなことはないよ。いつもアオイに会うと、安心する。無理に変わらなくてもいいし、外に行かなくたっていいんだよ」
アオイは弾かれたように顔をあげ、少し悲しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
いつしか夜も更け、気配のない冷たい空気が辺りに満ちていた。
出発の日の朝、ナギは郷の中心部にある“受け皿“へ向かった。
開いた本のような形をした陶器の“受け皿“の上には、金色の炎のようなものが風もないのにひとりでに波のように揺れている。これが“神の使い“と呼ばれる神の分身である。
ゆっくりと近づき、小さな袋を取り出す。中が空っぽのその袋を取り出すと、“使い“は強風に煽られた布のように一際大きく揺れる。
近づけた袋を開くと、“使い“はその袋から離れるようにして曲がり、上端の一部が小さく千切れた。その欠片は緩やかに回転しながらゆっくりと袋の中に入っていく。袋を閉じると“受け皿“の方は元のように揺れる炎に戻っていた。
ナギは軽くお辞儀をして“受け皿“を後にした。
出発の準備をしているとき、アオイに肩を叩かれた。
「また、戻ってくる?」
昨夜のような悲しげな目で見つめてくる。
「また、来年」
「そう」
泣き出しそうな顔でアオイは食堂へ戻っていった。
心につかめない感触のものを抱えたまま、ナギは荷造りを済ませて立ち上がった。
郷を発つ前に、実家へ立ち寄った。正確には実家の跡地と呼べるそこにはかつて暮らしていた家屋はなく、庭だったところに大きめの石が置かれている。人気のないためか、ナギはここに来るといつもどことなく埃っぽい空気が満ちているのを感じた。
すっかり苔むした石には近づくとかろうじて読める字で母の名が刻まれている。ナギが旅立つ前に、郷の人がこしらえてくれた墓石だった。
また来年、と思いながら手を合わせた。終わりかけの夏の風が吹き、ナギの前髪を揺らした。
タルツィラヌへの船の中は戻ってくる時のものと比べ揺れは少なかった。今年もアオイに言えなかった、そう思いながらナギは“使い“の入った袋を取り出した。“受け皿“の上では炎のような形を保っているが、こうして袋に入っている間は持ち主がその時最も考えているものの形になるらしい。ナギが覗いた時、中では二つの光の粒がくるくると回っていた。
役所に戻ると__戻る、という言い方もおかしなものだが__休みを取っていた分の仕事と対峙することとなった。毎年のことだからもう慣れたものだが、やはりいざ目の前にすると少し憂鬱な気分になる。
ようやく普段通りの仕事量になったのは二週間程が経った後だった。
仕事を早々に終わらせ、宿舎へ戻る途中にふと空を見上げた。
空には故郷で見たものとそう変わらないはずの星が光っていた。同じ星でも、空気が違うと他の星のように見える。あれから少し経ち、星座が巡り、空の模様は違ったものになっていた。アオイも同じ空を見ているのかもしれない、とナギは思った。
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