28「死人の言葉」
春先がすでに過ぎたタイミングでも、日の入りは早い。冬至と夏至という観点から見れば、中間よりは長い方に傾いているはずだが、思った以上に夕暮れはすぐ夜に変わった。家に帰っていく車が過ぎてゆくが、道行く人はちっともいない。老人の言っていた「逢魔が時
づっ、ぷつと鳴る切れかけの街灯に、人けのない道。ちょろちょろと流れる音だけは涼やかなドブ川も、ガードレールの向こうは真っ暗闇だ。色だけは少し残っている退廃的なオレンジの空に、影になった樹がザアザアとあざ笑うように揺れる。
閉鎖的なブロック塀と暗闇になったドブ川の間を、ひたすら駅の灯りだけを目指して歩く。明るいのは通り過ぎていく車のヘッドライトばかりで、それも中にいる人がちっとも見えない。世界に誰もいなくなったのではないか、と錯覚してしまいそうになるほどに、寂れた港町の宵はあまりにも静かすぎた。
忍び寄る恐怖を紛らわせようと、独り言を口にしてみる。
「志崎が、女連れ込んで食い散らかしてたなんてなあ……」
イケメンは敵だ、などと思ったことはない。いいなと思った女性を取られた経験もないし、みんないいやつばかりだった。明らかに悪いやつだとか、いじめを率先的にやるやつなんて、見たことがない。
とはいえ、探索者という職業にありつつ、そんなに強くない理由がそれだとしたら、少しは納得がいくのも事実だった。お金を効率よく稼ぐ手段は知っているが、実際に稼ぐことは少ないのかもしれない。だとしたら、何年か戦っていても、レベルがさほど高くない理由付けにもなる。
「初心者ナンパかぁ……やるメリットなさそうだけど。というか何人もって、どうやったらできるんだよ」
一人と関係を持つだけでも大変そうだし、処女を奪ってそのままポイ、を繰り返していたら組合の方にも一報が入るだろう。毎度その場でパーティーを組むほどにぎわっている場所なら、すぐに顔を覚えられてしまいそうだ。
今日は、仲間になったはずの人物の、意外な一面ばかり見せられている。それも、どちらかと言えば負の側面ばかりだ。両親が失踪した以外に特殊な事情がない俺にとって、本人だとか家族がヤバい、なんて事情は縁がないものだった。
「――あれ、波瀬さん……? なんでジョブコスチューム着てるんだ」
駅にほど近い、灯りの遠いベンチに、ひどく露出の多いイヴニング風のドレスを着た波瀬さんがいた。彼女も裏切り者候補であり、容疑者から外せない状態だ。単に雪見さんと仲良さそうにしていたというだけの、もしかしたら誘拐犯かもというには失礼すぎる根拠だが、ゼロではない。
遠くから見ていても、何かしらをつぶやきながら頭を抱えている、絶対に近付きたくない状態だった。痴女そのものの服装でダンジョンの外にいて、何かつぶやきながら頭を抱えているなんて、見かけた時点で通報するのが正解だろう。
俺は指輪に話しかけて、二人を呼び出した。
「トラ、ナギサ。出てきてくれ」
『どうしたのじゃ』
「波瀬さんがいる。けど様子がおかしい」
『ん。倒すべき?』
初手から物騒なことを言っているが、二人も事態の緊急性は分かっているようだった。ダンジョンではなく現実世界で、食事やお買い物ではない戦闘・警戒にあたるという事態。おかしなことが起きているのは明白だった。
「まず、俺が行く。合図したら、すぐぶっ飛ばしてくれ。それで死ぬ人じゃない」
「組合やらに言わんでよいのかのう」
「やってから報告するよ。人が来たり、降車して声かけたりしたら困る」
「そうじゃのう。今の今まで起きておらんことも、起きんとは限らんな」
静かに、静かに……相手を刺激しないように、しかし不自然にならないように、俺は波瀬さんに歩み寄っていった。相手は、こちらのことなど一切気にしていない様子で、ひたすらにぶつぶつと何かを言っている。
「ああ、なにも。なにも考えられ、女の男、違う、なにも。男じゃない、なにも、わたしは女の子、ああ……女の子が欲しい、違う、男じゃなくて、なにも」
すさまじいくらいに言葉が混乱していて、文脈らしきものが読み取れるのが奇跡に思えた。欲しいのは女の子であって、男ではない。もともとレズビアンだったとか、そういうことなのだろうか。
「お前じゃない。なにも、ああ。試しただけ、女の子、じゃない……欲しくない。だました、な。わたし、なにも。そんなこと、違う」
大太刀が届くくらいの距離に入っても、彼女はまったくこちらを見ない。ひどく白い肌に露出の多いドレスが映えて、ぞくりとするほど艶めかしい。手が頭を押さえるたび、スカートがするするとずれて、ひどく細いショーツが露わになっていた。
大太刀を背負って、俺は彼女の真正面に立った。
「波瀬さん? 何やってるんですか」
「なにも、考えられない……」
ベール越しに、どろりと濁った眼で確かにこちらを射た彼女は、ゆらりと立ち上がる。
「欲しいのは男じゃないの。女の子なの……」
「なんで言いながら寄っかかって……!?」
酔っ払いがベンチから立ち上がって、そのままふらついてホームから転落するように……彼女は、歩くのもままならない様子で抱き着いてきた。しなやかながらふっくらした体のラインが、不安定な歩調のままになだれ込む。やわらかな感覚が押し付けられ、腕がするりと首元へ回り込んできた。
「つ、冷たいっ……!!?」
首だけではない――シャツ越しに触れている露出した肌は、人間とは思えないほどに冷たかった。
「こ、……鼓動もない! なんで!?」
「ああ、なにも……」
胸と胸がぴたりとくっついているのに、相手の拍動がまったく感じられなかった。まるで死んでいるかのように、体温も脈拍もない。
「波瀬さん!? これジョブの特殊効果とかなんですか!?」
「う、う……」
俺の顔を見上げた首元に、黒い手の跡がついている。青あざのように色濃いそれは、彼女が絞め殺されたことを示しているらしかった。
「いたぞ、こっちだ!」
「え? ちょ待っ、違う俺じゃない!」
ふらついて俺の体から離れていった波瀬さんは、地面に倒れこみ――
そのまま、黒い穴に飲み込まれて消えた。
「君が見たことを、話してもらえるかな」
制帽をかぶった警官が、俺に拳銃を向けていた。
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