10「恍惚」

 今日はきっと、一生でいちばん幸せな日だ。これまでいいことがなかったのは、きっと今日のためだったのだろう。中学校よりもずっと前、幼稚園のころから、私は不幸だった。けれど、それもすべて報われた気がする。


 優しい言葉が聞こえる。私だけではない、これまで幸せではなかった誰かを救うたび、ひとは増えていくという。今までの私なら、私一人だけが愛されていたいとわがままも言っただろう。けれど、こうして満たされてしまえば、そんな気分にはならなかった。彼女とも友達になれた私なら、きっともっとたくさんの友達ができてもうまくやっていける。そんな気がした。


 誘われて車までついていったのは、完全に出来心だった。そんな経験は一度もなかったけれど、どうしてか心の奥で確信していた。あのひとは、私を欲しがっている。車に乗ってから家に着くまでに、ほんのわずかの時間しかなかったけれど、そのお手軽さがもっと私を高揚させた。もしかしたら、という気持ちがあふれるようだった。


 仲良くなったひとの家でご飯をいただくなんて、初めてだった。料理上手ですねと言うと、あのひとは笑っていた。出された軽食をすこしいただいて私も作りますよと言うと、キッチンでふたり並んで料理をすることになった。隣にいることが恥ずかしくなってしまいそうなほど、手際がよかった。けれど、ていねいにきっちりこなすんですね、と言われて飛び上がるほどうれしくなった。


 ワインは分からないんです、というと果実酒が出てきた。自家製もいいでしょう、という笑顔はひどく無邪気で、虫取り自慢をする子供のようだった。野生の渋さに、かかった年月を思わせる深いコク。とても美味しいお酒にほろ酔いになって、私とあのひとはたくさんお話をした。


 いつもはネガティブな話題ばかりが出てくるはずなのに、あのひとがリードしてくれたからか、とても楽しい時間を過ごすことができた。こんな人とならずっと一緒にいたいな、と心から思えた。友達になれたら――いや、もっと先の関係になれたのなら、私の人生はぱぁっと明るくなるに違いない。そう思っていたことを言い当てられて、私はひどく動揺した。


 けれど、ここで正直になるしかないと考えたのも事実だった。冷たくて何の救いもない一生を、訪れたチャンスさえふいにして、惨たらしいままで終えてしまうなんて……そんなことができるほど、私は恐れ知らずではなかった。これまでの人生に終止符を打って、新しい生き方を始めるなら、今しかない。そう思った私は、あのひとの手を取った。


 背中に回ってきた手が優しく抱きしめ、腰に回した手はどこか妖艶に撫でた。愛撫という言葉の意味が、そのときにやっと分かった。ぞくんと縮み上がるような官能が走って、思わず小さな声が出た。知り合って一日も経っていないひとのベッドにだなんて、なんて安い女なんだろう。自嘲したけれど、私は手を振り払わなかった。


 あのひとと繋がって、何度も愛されて、何度も達した。これが喜びなんだ、これが愛されることなんだと知った。恋人でも作ったら、と言っていた友達は正しかったんだと、そのときにはっきりと理解できた。こんなに素晴らしい体験が待っているのなら、こうしてずっと過ごせるのなら、誰だって輝き始める。私の人生はこうして変わるんだと、優しく髪をなでられながら思った。


 あの人は愛し方を知っていた。ごめんね、と謝っていたけれど、きっとその方がよかったのだろうと思っている。あの人の放つ色気は、その深い経験が放っていたものなのだ。優しく緊張をほぐして、はじめての体験を何よりも思い出に残るようにと貫いてくれた。誰だって夢中になるよ、と私のからだを隅々まで愛撫して、じっくりと教えてくれた。それから、こうすると気持ちがいいんだと――視界が赤と緑でちかちかするほど、幾度も突き上げた。それから少しの間だけ、私はぼうぜんとしていた。


 やってきたあのひとが、私を抱え起こして、抱きしめてくれた。とくん、とくんと私にない音がやけに大きく響く。ほんの少しだけ固くなっていた手をほぐすように、あのひとの手が握って、それから全身をゆったりとしたリズムで撫でる。何度も、何度も……子供を寝かしつけるように、あたたかな手を感じた。


 あのひとの手が、内ももに触れた。拭き取っていなかった蜜が、すこしだけ冷たい。やわらかなハンカチがそこに触れるたびに、ひどく淫らな気分になった。ぬるりと淫靡に撫でまわす指が、しゅるしゅると包み込むように下着を付けさせてくれた。こんなに細くてセクシーな下着なんて、今まで試してみたこともなかった。むっちりした太ももをたぷんと感じさせるガーターリボンを感じながら、私は自分が変わったのを感じた。


 ねっとりと楽しむ指先が、ブラを付ける。とってもきれいなんだから誇らなくちゃね、とあのひとは言ってくれた。いつもはこの締め付けをうっとうしく思っていたはずなのに、まるで間近で抱きしめられているかのように感じて、その官能にうっとりした。素肌に触れる指先がひどく熱く感じて、服を着たまま抱かれるのも悪くない、と思った。


 鏡を見ようか、とあのひとは微笑む。私をベッドに横たえて、あのひとは手鏡を私の前に差し出した。お酒を飲んだからか、目がすこし充血していて、舌まで赤かった。ああ、とあの人は顔まで優しく撫でてくれる。


 抱かれた官能が、まだ胎の奥に響いている。真っ暗な視界の中で、私は幸せだった。

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