透明人間

翌日のこと。

明日というのは当然のようにくるもので

随分拍子抜けしていた。

朝日を拝みながら硬い床の上で起床する。


寧々「…いたた……。」


布団すらない床の上だと

やはり体の至る所に鈍痛が走る。

体を起こしてのびをするまで

少しばかり時間が必要だった。


朝日を浴びながら

昨日のことをぼんやり思い返す。

何故場所がわかったのか、

三門さんが私のことを

迎えに来てくれていた。

その後、あまり覚えていないけれど

少し話をしたんだと思う。

それから、服の画像を見せられた。

…そして、三門さんに

3つ目のお願いをするよう頼んだ。

お兄ちゃんがいなくなったことが

どう悔やんでも悔やみきれなくて

何分も何十分も泣いた。

あんなに泣いたのは初めてかもしれない。

それでも、真実は知っておきたかった。


三門さんの話を聞くに、

お兄ちゃんを生き返らせてという願いは

私視点でしか叶っていなかったらしい。

苦い表情を浮かべながら

ぽつりぽつりと話してくれた。

三門さんはどうしてそこまで

私のことを気にかけてくれているのか、

なんとなく分かった気がした。

ぼろぼろに汚れた服を見ながら

ありがとうと伝えた覚えがある。

それを聞いて、笑ってたっけ。

「これからたくさん遊びに行こう」って。


家に帰ってからこっ酷く

怒られると思いきや、

意外なことにお母さんは

わんわん泣きながら私のことを迎え入れた。

一晩中どこ行ってたの、

制服汚して大丈夫なの、

と私のことばかり気に掛けた。

むしろ気持ち悪く思ってしまうほど。

昨晩はお母さんには先に寝てもらい

ゆっくりとお風呂に浸かった。

ひとつ大きく違ったのは、

ダイニングから私の布団が

撤去されていたことだった。


寧々「…全く…酷い仕打ちですね。」


今朝起きてから気づいたのだが、

布団どころか私のものも

一切置かれていない。

全て捨ててしまったのだろうか。

昨日お母さんは

私が家を出たことで

荒れ狂っていたのかもしれない。

昨晩山積みだったゴミ置き場に

気づくことなく家に

入ってしまったのかもしれない。


硬い体のままキッチンに立ち、

冷蔵庫の中を開く。

一昨日あたりに作り置きしていた

副菜が残っている。

お母さんは食べなかったのだろうか。

不安になりながらも

お母さんが起きる前に

朝ごはんを作り終えないと。

帰ってきて早々何をやっているんだろう

なんて思いながらフライパンを鳴らした。


それから数時間して、

お母さんが起き上がってくるのが見えた。

寝ぼけているようで、

目をこすりながらお手洗いに籠る。

数分して出てきては手を洗い、

食卓を見やってはびくりと体を硬直させた。

そして、信じられないものを見るように

目をかっ、と見開いている。


お母さん「…これ、どうしたの。」


寧々「え…?」


もしかして癪に触った?

…それもそのはず。

だって一晩帰ってこずに、

しかも服を泥だらけにして

帰宅したのだから。

もしかしたら殴られるかもしれない。

そう考えて身構えた時だった。


ふと、石鹸のような

いい香りで包まれた。

腕や腹にぎゅう、と圧を感じる。

泡のように髪が舞っていた。

…。

…どうやら、お母さんに

抱きしめられているようだった。


お母さん「ありがとう、とっても嬉しい。」


寧々「…全然…いつもやってることだし…。」


お母さん「あら、学校で?」


寧々「…?」


お母さん「そういえば、家庭科部があるって言ってたものね。そこに入ったの?」


抱きしめられて、三門さんのことや

それ以前の…澪のことを

思い出したりして暖かく思っていた最中、

背中に嫌な汗が伝った。

これは、経験がある。

周囲の人が突然

私の知る過去とは全く違うことを

話し始める経験が。

…澪や、三門さんの時と

全く同じだと悟った。


寧々「…うん、そうなんだ。それで、家でも試してみたくって。」


適当な嘘であしらう。

お母さんの反応からするに、

私はいつも家でご飯を

作っていないことになる。

…であれば、冷蔵庫の中に

入っていた作り置きは

お母さんが作ったもの…?


寧々「あの…。」


お母さん「ああ、ごめんなさい。いつまでもこうしてちゃ悪いわね。」


お母さんの手がぱっと離れる。

寝癖はついているものの、

何日もお風呂に入っていないような

髪の毛の質ではなさそうだった。


寧々「…布団…。」


お母さん「お布団がどうかしたの?」


寧々「…どこ…に、やったの…?」


お母さん「え?自分の部屋にあるでしょう?」


寧々「…。」


自分…の、部屋…?

頭の中で何度反芻しても

その言葉にしっくりこない。

実感が湧かない。

どういうことなのだろうと

疑問符ばかりが徘徊している。

だって、この家にはさっき

お母さんが眠っていた部屋と

もうひとつ…お兄ちゃんの部屋しか

ないはずだろう。


寧々「…っ!」


もしかして。

お兄ちゃんと私が相部屋している

ということになっているのか。

はっとして、願いが本当に

叶ったのかもしれないと

嬉々として扉に手をかけた。

お母さんは心配そうな顔をしつつも

食卓に座っては、

最後に聞いたのはいつかも忘れた

「いただきます」を口にしていた。


なんだか明るい気分だった。

これまでの私からは想像ができないくらい

晴れやかな気持ちで染まっている。


いじめられるために

図書室や音楽棟に向かった。

誰かに私のことを認知して欲しかった。

兄ではない私を見て欲しかった。

無様に転げる様を見て、

可哀想と思って欲しかった。

心配して欲しかった。

大して人を頼るわけでもないくせに

人からの好意は欲しかった。

そんな欲から解き放たれたような錯覚。


力を入れる。

緊張したまま、扉を開く。


すると。


寧々「…?」


すると。

…そこには、女の子用の部屋に変わっていた。

お兄ちゃんが使っていた面影も、

現在使っている面影も一切ない。

あるのはカレンダーや

可愛らしいラグ、私好みの服、

1人分だけの勉強机、

シングルベッドとシワひとつない布団。

白を基調とした清潔感あふれる部屋だった。


お兄ちゃんの部屋はもっと

青や黒色が多くて、

サッカーボールは置いてあったし

よくわからない参考書や辞典もあった。

服は畳まれて布団に積まれていた覚えもある。

しかし、そのかけらが何ひとつない。


寧々「…お母さん…?」


お母さん「ん?」


寧々「………そ、の……………お兄ちゃん…は…?」


お母さんはきょとんとした顔をしながら

口の中に残っていたものを噛み、

こくりと飲み込む。

そして、ゆっくりと口を開いて、

優しく優しく言ったのだ。


お母さん「何を言ってるの。お母さんの子供は寧々だけ。長いこと2人暮らしをしてるわよ。」


私がただただ混乱して

変なことを口走ったとでも

思ったのだろう。

お母さんは

「今日はクッキーでも焼こうかな」

なんて笑顔で言う。


こんなお母さん、私は知らない。

こんな家、私は知らない。


私はお兄ちゃんのことを覚えているのに、

この世の全ての人が

お兄ちゃんのことを

忘れてしまったのだろうか。

あれだけお兄ちゃんに

執着していたお母さん。

…そもそもお兄ちゃんが存在しなければ

あそこまで変わり果てることも

なかったのか。

その証明になってしまって、

お兄ちゃんがもはや邪魔だったとすら

言っているような世界に見えて、

私は泣き出してしまいそうだった。


それでも、無理矢理に笑顔を作って見せる。

お兄ちゃんは転んでもよく

くしゃくしゃな笑顔を作っていた。


寧々「ありがとう。」


お母さん「んーん。昨日は疲れたでしょ。今日くらい勉強だって休んでもいいんじゃない?」


寧々「…うん、そうする。」


お母さん「もうひと眠りしたら?クッキー焼けたら起こすから。」


寧々「うん。」


ありがとう。

と言ったつもりが、音にならないまま

空気中に溶けていった。


お母さんが私を殴らなければ

むしろ優しくしてくれる。

これは嘘みたいに嬉しい。

安心している。

けれど、お兄ちゃんがいなくなったことが

…存在すら消えてしまったことだけが

酷く悲しくて仕方がない。


近くにあったシングルベッドに

ダイブしてみる。

スプリングがきいており、

布団はふかふかで私を包み込んだ。


…。

…初めてベッドで眠った。

初めてだった。


お兄ちゃんのいない世界は、初めてだった。

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