ないものねだり
最近、僕の心の中には
もやもやが溜まっている。
それは単に5月だから、で済むものではない。
茉莉の現在はよくわからないけれど、
寧々さんとはバイト先が同じこともあり
度々出会っていた。
その都度、今の寧々さんとは
全く関係の深くない人だと思うと
ずきりと心が痛んだ。
僕は信頼できる人を
亡くしたようなものだけれど、
寧々さんからすれば
どんな世界になっているのだろう。
きっと世界線が違うなんて話は
聞いていないと思うし、
突如として世の中が
変わってしまったように
思っているのだろうか。
…ちゃんと、信頼できる人は
いるのだろうか。
前の話ぶりでは澪って呼び捨てで
呼んでいた気がするし、仲がいいのかな。
けど、当の澪さんは寧々さんのことなんて
嫌いみたいな反応をしていたし…。
しかも、寧々さんは今日
バイトだったのに無断で
休んでしまっていた。
これまでこんなことはなかったから、
僕も他の職員の方も困惑していた。
何かあったんじゃないかと思い、
仕事が終わってから電話やメールを
何本もいれたって全く連絡がつかない。
電源を切ってしまったのかな。
でも、どうして電源を切るようなことを?
故障…?
であれば、直接バイト先に来て
ひと言くらい残してもいいのに。
…となれば…事故…?
…。
…いやいや、考えすぎだよね。
その可能性は高くないし。
うん。
…。
こころ「はああー…。」
歩「うるさい。」
こころ「だってぇー。」
歩「だー、もう、くっついてこないで気持ち悪い。」
こころ「だってだってぇー。」
溶けたスライムのように
お姉ちゃんに近づいて足を掴むと
ここぞのばかりに蹴られた。
盛大にため息をついただけで
そんなに機嫌を
悪くすることもないだろうに。
昨日に引き続き天気は悪い。
とはいえ時折晴れ間が差すこともあって
完全に悪いわけではない。
湿度が高くて嫌になる。
蒸し暑さから解放されない。
その程度だった。
その程度、が厄介なんだけど。
お姉ちゃんは気が向いたのか帰省していて
2人で扇風機の前を占領していた。
だらだらと寝転がる僕と
あぐらをかいて髪を靡かせるお姉ちゃん。
ここだけ夏休みの端くれみたい。
歩「何なの。」
こころ「…聞いてくれる?」
歩「だる。」
こころ「ちょっと、そこは聞いて聞いて!」
僕がまた足を掴もうとすると
子供のようにばたばたと足を動かした。
まったく…どっちが年下なんだか。
歩「どうせ勉強についていけないとか、出席日数が足りないとかでしょ。」
こころ「違う違う。今回は…いや、今回もガチで悩んでるの!変なことが起こってて。レクリエーションの後のことなんだけど」
掴みかかりながら話していると、
突如お姉ちゃんは抵抗するのをやめた。
力のあまり思わず袖をぎゅっと握るも、
反射で手放していた。
そのまま掴んでいては
いけない気がしてしまったのだと思う。
お姉ちゃんはこちらを見て
目を見開いていると思ったら、
今度は怪訝そうに目を細めた。
それから僕は
レクリエーションで起こったこと、
その代償として茉莉と寧々さんが
入れ替わってしまったこと、
今日寧々さんがバイトを
無断で休んでいたことを伝えた。
お姉ちゃんは扇風機の強さを
1段階下げてから口を開く。
歩「こころはどうしたいの。」
こころ「…え?そりゃあ寧々さんと茉莉を助けたいよ。」
歩「それはそうなんだろうけど、その2人を別世界線から引っ張ってきて、今いる2人は元に戻したいの?」
こころ「うん…だからそう言ってるじゃん!」
歩「…その方がお互いいいんだろうけどさ、今この世界にいる2人と関係結んでるんだったら、ちょっと残酷だなって思っただけ。」
こころ「え…?」
歩「そんなに深く関係を再構築できてないことは伝わる。だからやるならさっさとしなきゃ逆にあんたが離れらんなくなるよ。」
こころ「…要するに、やるなら早く、やらないなら今の2人ととことん向かい合えって…?」
歩「そ。性格もそんなに変わってるわけじゃないんでしょ。ならそのままでもいいんじゃない?」
こころ「でも、このままなんて…。」
このままなんて、駄目。
そう言いかけて口は止まった。
どうして駄目と思ったのだろう。
向こうの世界の寧々さんが気がかりだから?
こちらの世界にいる寧々さんに
後ろ髪を引かれているから?
それとも、どっちも寧々さんだし
どちらでも良いと思っているから?
お姉ちゃんは冷たい目をしながら
膝を抱えて顔を埋めた。
ふわふわと髪が揺れている。
大学生になってから髪を染めたらしい
赤色のインナーカラーが優雅に揺蕩う。
歩「好きなようにして。でも、後悔するようなことはしちゃ良くない。」
こころ「…お姉ちゃんは…お姉ちゃんたちの時はさ、どんなことがあったの。」
歩「不可解な出来事の話だよね。」
こころ「そりゃあ。」
歩「…そうだね…思い出せるのだと、吸血鬼みたくなってしまった人がいたり、数ヶ月行方不明になってた人がいたり…あと、死んでたはずの人が生き返ったりもした。」
こころ「…えっ!?どういうこと?禁忌を犯して…!?」
歩「さあ、知らない。」
こころ「大事なところじゃんー!」
歩「それから、別世界線に飛んだ人もいたよ。」
どくん、と脈打つのがわかった。
別世界。
それこそ、先日Twitterで
教えてもらった人なのかもしれない。
嶋原梨菜という人で、
聞いてみれば何かわかるかもと
教えてもらったのだ。
こころ「嶋原…って人?」
歩「知ってんの?」
こころ「いや、教えてもらったんだ。」
歩「あそ。」
こころ「嶋原さんにね、DMで異世界に飛んだ場所は教えてもらったんだ。」
歩「…行った?」
こころ「ううん。…戻って来れなくなった時のことを考えると怖くって、まだ。」
歩「…戻って来れる確証があればね。嶋原はどうやって戻ってきたって?」
こころ「桜の木の下で願いながら歩いたって。満開で綺麗だったって聞いたよ!」
歩「別に感想はいらないけど。願うだけってどんだけ楽なの。」
こころ「多分、いろいろと条件が重なったんだろうね。」
歩「あー…天気とか、桜が咲いてたとかね。」
お姉ちゃんは扇風機の首を
最大限下げてからソファに寝転がった。
リビングで2段ベットのような状態で
寝転がりながらする話では
ないような気がして、
今度は僕が体を起こす。
誰を冷やしているのだろう、
からからと扇風機は回り続けた。
歩「……あと、あれだ。…タイムリープ。」
こころ「タイムリープ?」
歩「そ。ほら、前に首謀者のことどう思ってるか、みたいな話したじゃん。」
こころ「ああ、物騒なこと言ってたやつね。」
歩「うん。そのきっかけ。」
こころ「未来や過去に行ったの?縄文時代とか?」
歩「馬鹿、観光じゃないの。」
お姉ちゃんは変に合間を空けて
ゆっくりと息を吸っていた。
歩「友達が……昨日と今日を繰り返してた。それで、精神やっちゃって。」
こころ「…。」
歩「あの子、今も頑張ってる。」
こころ「…それは……。」
ソファを背に座っていたもので
お姉ちゃんの表情は見えなかった。
けれど、これまでに聞いたことないような
寂れた声だったもので、
どう返事したらいいのか
わからなくて口を噤んでしまう。
…精神に異常をきたしてしまうほど
繰り返すって、一体何をそんなに
巻き戻したかったのだろう。
そこに突っ込むのは野暮だと思い、
黙りこくったまま時間は過ぎた。
数秒しか経っていないのだろうけど
何時間も経たように思えた頃。
足癖の悪いお姉ちゃんの膝が
背中に緩やかに刺さった。
歩「あんた同い年でしょ。小津町花奏って知らない?」
こころ「小津町…。」
歩「あ、不登校だから知らないか。」
こころ「ちょっとデリカシーなさすぎ!酷い!」
歩「んで、実際どう。知ってる?」
こころ「…多分、隣のクラスとかにいるんじゃないかな。名前は聞いたことあるよ。背の高い人って覚えてる。」
歩「そうそう、合ってる。」
こころ「でも最近見てないような…えっと…。」
必死にこれまでの学校での
出来事を思い返してみる。
ただでさえいる時間の短い学校。
思い出せることすら少ないのに、
その中でこれまであまり関わったことの
ない人の記憶を探せだなんて
無理がありすぎる。
そんなことできないと
言おうとした時だった。
ふと、空席があったのを思い出す。
それも、自分のクラスに。
何日に行ってもその席だけは
永遠に埋まることがないまま
今日まで至るあの空間を。
はっとしてお姉ちゃんの方を見たけれど
お姉ちゃんは僕を見ることなんてなくて
ただただ天井を眺めていた。
こころ「……学校に来れてない…?」
歩「ん。動けなくなっちゃったんだって。昨日の夕方に会いに行ってきた時、そう言ってた。」
こころ「そっか…。」
歩「事情が事情なもんで、このまま高校退学するようなことはさせたくなくて。でも現に今のままじゃしそうでさ。」
こころ「…。」
歩「お節介だろうけど、退学するくらいなら通信に行くなり何なりして、自分のペースでもいいから卒業してこいって言ってきた。」
こころ「お姉ちゃんってそんなキャラだっけ。」
歩「ね。」
こころ「ね。…って。」
歩「私も自分で驚いてんの。」
こころ「ふうん…大事な人なんだね。」
歩「…ん。」
別に、と返さないあたり、
本当に大切な人なんだろうなと
勘づくもあえて茶化さないでおいた。
前を向いては、手持ち無沙汰で
扇風機をこちらに向けてみた。
足が冷やされるけれど、
あまり意味を感じない。
歩「あんたもさ、後悔するくらいならできることやった方がいいよ。」
こころ「できること…。」
歩「行動することでリスクは高くなるかもしれないけど、何もしなかった自分を責めるよりはマシでしょ。」
こころ「…そう、だね。」
そろそろ日が暮れそうな頃。
相変わらず曇った空が
窓越しに映っている。
背伸びをしたのか、
後ろから手足が僅かに見えた。
後悔ないように。
お姉ちゃんはそれを軸に
行動していたはずなのに、
それでも小津町さんは…。
こころ「お姉ちゃん。」
歩「ん?」
こころ「後悔してない?」
歩「全くしてないって言ったら嘘になる。もっといい方法はあったんじゃないかって思う時もある。」
こころ「そっか…。」
歩「けど、どれを選んでも後悔のひとつやふたつはあるって思うようにしてる。」
こころ「…後悔をしないようにしてるって感じだね。」
歩「そうかも。」
空を、つけっぱなしの扇風機を、
真っ暗な画面のテレビを見つめる。
テレビには僕が反射して映っていた。
長い髪、くりっとした目、
それからふりふりで可愛い服。
どれを選んでも後悔はあるのは
その通りだなと感じていた。
今の自分を見て、
思い当たる節が多すぎる。
後悔はつきものならば、
寧々さんのことだって行動して
後悔する方がいい。
より悪い方に転んだとしてもとまで
僕は言うことはできない。
行動するからには
いい方向に転がって欲しい。
そんな願いを込めながら
勢いよくその場を立った。
こころ「僕、ちょっと出かけてくる。」
歩「ん。いってら。」
お姉ちゃんは気だるげに
手を挙げただけで、
僕に視線は寄越さなかった。
晩御飯を作っていたお母さんにも
ひと言出かけると伝えて、
走りやすいようスニーカーを
履いて外に出た。
フリルの多い服にスニーカーなんて
全然合わなくてびっくりする。
寧々さんの家は一度だけ
行ったことがあったと思い出す。
とはいえ室内に入ったわけではなく
マンションの前までだったけれど。
電車に乗る間はこれから
バイトに行くような感覚に襲われて
少しだけ鬱屈な気分になった。
昨日のことを思い出して
いるのかもしれない。
寧々さんのいない職場。
誰もが休んだ理由を知らない。
僕も聞かれたけれど、わからない。
それでも多少がたはあれど
スムーズに進んでしまう仕事。
皆寧々さんのことを嫌っているわけでもなく
むしろ信頼している方なのに、
いなくても大丈夫と
言っているかのようなその場の状態。
いっそ、昨日は仕事がうまく回らない方が
よかったのかもしれないとすら思った。
そう思いたいのは、
きっと僕が寧々さんを必要としてるから。
必要としたいから。
寧々さんがいつも降りる駅名が
耳に届いては慌ててホームに降りる。
この前寧々さんについて行った時は
怖い思いをさせてしまったな。
…。
…それなら、今日僕が行ったって
怖がられるだけなんじゃ…。
こころ「…ううん、行こう。」
ぴ、と改札が鳴り、
もはや懐かしいとすら感じた土地に
足を踏み入れた。
寧々さんの住むマンションに
たどり着いたはいいものの、
ここからどう探すかが問題だった。
表札があればいいが、
最近では個人情報が漏れるのは
嫌だといいつけない人も多い。
とりあえず全ての階を見回ってから
考えることにしよう。
住宅街だからか、
子供達の声が聞こえる他にも
テレビの音や赤ちゃんの鳴き声が耳に届く。
夕飯の時間というのもあって
至る所から美味しそうな匂いがする。
自転車に乗る人や突っ立っていた
女性を横目にマンションに入った。
何と運がいいことに
たまたま中から出てきた人とすれ違い
入ることには成功した。
しかし、吉永の表札は
案の定どの階層にもなく、
唇を噛みながらマンションを出た。
こうなれば1人1人の部屋番号を
入力していくしかないかと思った時。
ふと、未だ外で突っ立ったままの
女性がいるのが目に入った。
スマホをいじることもなく、
ひたすら右、左と視線を泳がせている。
習い事から帰ってくる子供を
待っているのかもしれない。
そんなことを考えながら
通り過ぎようとしたその時だった。
「あの。」
こころ「え。」
その女性は何を思ったのか
僕に声をかけてきた。
40代…いや、もしかしたら
それより上だろうか、
中年の女性が眉間に皺を寄せ、
眉を下げてこちらを見た。
「…娘を知りませんか。昨晩、帰って来なくて。」
こころ「えっと…知らないです。」
「そう…ですか。」
女性は心底落ち込み、
猫背のまま項垂れるように
「引き留めてすみません」と言い
深々とお辞儀をした。
髪がぼさぼさなこともあり
山から降りてきた婆のようにすら見えた。
両手に抱えた学生鞄に
見覚えがあるような気がして
より怖くなってしまった。
白い綿毛のようなものが
腕の隙間から垣間見えた。
僕は恐る恐るその女性から距離をとり、
すぐさま次の思い当たる場所へと向かった。
次は公園。
バイトが終わった後、
よく一緒に駄弁ったところ。
その次はとある自動販売機。
いつも寧々さんと僕が飲み物を買うところ。
さらに次はカフェ。
休日に遊びに行って、
帰ってきた時に寄ったところ。
寧々さんとの思い出が流れてくるたび、
今の寧々さんにはその思い出は
もうないことを噛み締める。
僕が思い出だと思っている場所に
行ったとしても意味がないんじゃないか。
それならば、寧々さんに思い出のある…
…僕と出会う前から、
大切にしていたような場所…。
お兄ちゃんのお墓だろうか。
けれど、流石に場所がわからない。
他…他には…。
歩きながら考えていると、
ふと、思い当たる節があったのを思い出す。
寧々さんが1度だけ僕を連れて
誰も住んでいない家のような、
蔓の多く巻き付いた建物に
行ったことがあった。
確かバイト終わりに向かったもので、
暗くて恐怖が湧いた。
流石に入ることはしなかったけれど、
寧々さんの大切な場所と
言っていたような気がする。
こころ「……行ってみよう。」
道のりを思い出せる自信はないが、
行かないよりかは絶対に行く方がいい。
探す方がいい。
そう思い立ってはいっそう足に
力を入れて歩き出すのだった。
数時間歩き続けて、
ふと隣に現れたのは
記憶の隅に眠るあの建物だった。
陽は落ち、建物にも影が落ちる。
暗くなってから見つけるなんて、
ついていないなと肩をすくめた。
本当にここに寧々さんがいるとも
思えなかったけれど、
行動してから後悔しようと
腹を括っては草木をかき分けた。
ふりふりの服はきっと
汚れてしまっているだろうけれど、
友達のためなのだから仕方がない。
必要なことなのだ。
洗えばいい。
服よりも寧々さんのことが
大切に決まってる。
割れた扉を、服を引っ掛けないように
注意しながら潜る。
身長が小さければもう少し
入りやすかったのだろうなんて思う。
できるだけ足音を鳴らさないようにしても
草木や葉、湿った地面のせいで
しゃく、しゃくと不快な音が響いた。
真っ暗で何も見えず
恐怖のあまり声を上げかけたけれど、
落ち着いてスマホを取り出して
懐中電灯代わりにする。
すると、古びた建物の内装が
ありありと映し出された。
キッチンらしき場所があって、
そこにも蔓や蔦が蔓延っている。
倒れた机、ぼろぼろの壁。
4つ並べられた椅子。
そして、大きな棚…。
こころ「………っ!?」
刹那、心臓は気持ちの悪い挙動で
動き出すのがわかった。
何をしているの、が1番に。
次に浮かんだのは逃げなきゃ、だった。
そこには確かに、寧々さんがいた。
彼女は虚な目をしながら
何かを抱きしめている。
震える手でスマホを持ち直し、
恐る恐るそちらに光を向ける。
できるのであれば逃げ出したかった。
手どころか唇まで震え出しているのが
嫌でもわかってしまう。
寧々さんは大型犬らしい何かを
大切に大切に抱えては
時々「お兄ちゃん」とこぼしていた。
大型犬らしいとはいえど、
雨のせいで湿気った毛はだらりと垂れ、
寧々さんの頬にもくっついている。
犬は生きていないのか
ぴくりともしない。
虫が彼女を囲むように
飛んでいないことだけが幸いだった。
狂気的な光景に思考はフリーズしてしまう。
いつからこうなっていたのだろう。
今日から?
昨日から?
昨晩バイトに来なかったのも
もしかしてこのせい…?
そういえば先ほど会った女性は、
娘が昨晩帰ってこなかったと
言っていなかったか。
もしその女性が偶然にも
寧々さんの母親であれば、
寧々さんは一晩中ここに
いたことになるのではないか?
そもそも寧々さんは
犬なんて飼っていない。
一体どこから連れてきたのだろうか?
疑問は尽きることなどなく、
その間も時間は過ぎて行った。
しばらく光を当てっぱなしにして漸く
寧々さんはこちを認識した。
スマホからの光を反射しているものの
ぱちくりとする目はどうも虚だった。
寧々「……あれ…三門さん?」
長いこと何も飲んでないのだろう、
からからで痰の絡んだ声で
微かに僕の名前を呼んだ。
何ともいえない感情が心臓を締め付ける。
こころ「……寧々…さ………何、して…の…?」
優しく、優しく聞こうとしたものの、
恐怖が混ざってしまい
声は途切れ途切れになる。
僕も何日間も飲み物を
飲んでいないのではないかと
錯覚してしまうほどに
目の前の景色は異常だった。
寧々「え?お兄ちゃんと一緒にいるんです。生き返ってくれたんですよ。」
「ねー」とお兄ちゃんと呼ぶそれに
声をかけている。
彼女の頭の中では返答があったのか
うんうんと頷いている。
それからより一層強く抱きしめた。
お姉ちゃんの話をふと思い出す。
人が生き返った、と言っていた。
しかし、これとはまた違うのだと思う。
でなければ、お姉ちゃんが
おかしくなっていたことになる。
お姉ちゃんのことすら
不安に思いながら寧々さんと向かい合う。
前々から家庭環境のことは
耳にしていたから、
ストレスのあまりおかしくなって
しまったのだろう。
精神をやってしまった…のだろう。
こころ「……それ…は…?」
寧々「お兄ちゃんです。それ、なんてひどいですね。」
こころ「…っ…違うじゃん…。」
寧々「…?あ、こちらは三門さんです。バイト先が一緒で、よくお世話になってるんですよ。」
寧々さんはお兄さに説明しているのだろう、
死体に向かってにこにことしたまま
嬉しそうに話しかけた。
こころ「……寧々…さん、さ。昨日、家…帰った…?」
寧々「三門さんに関係ありますか?」
こころ「…あは、は…ほら、こんなところでずっといるのも、体に良くないじゃん?」
寧々「…。」
こころ「お、お兄さんもここに居続けるわけには行かない…と、思う…しさ。」
寧々「…でも、お兄ちゃんは私の好きにしていいっていってくれましたよ。」
こころ「でも…あ、ほら、お母さんに会わせたり…。」
そこまで咄嗟に話して、
僕はとんでもないことを
口走ってしまったことに気がついた。
寧々さんのお母さんこそ
お兄さんに執着していたではないか。
なら、出会ったら癇癪を起こすのか
受け入れて涙するのか、
お母さんすらおかしくなってしまうか。
どれにせよ、いいエンディングなんて
当然のように見えやしない。
寧々さんがその案を受け入れてしまったら
どうしようなんて思ったけれど、
彼女は力なく首を横に振った。
寧々「…会わせません。」
こころ「え…?」
寧々「お兄ちゃんは私がいれば十分って言ってくれたんです。だから…。」
ひとりぼっちにしないで。
そうお兄さんに呟いて目を閉じた。
こころ「…っ。」
お兄さんに執着していたのは
寧々さんだって一緒だ。
そうじゃなければお兄さんの
代わりになろうと思わない。
彼女の中で思い出を美化している部分は
どうにもたくさんありそうだけれど、
それでも大切な家族だったことには
変わりはないのだ。
寧々「私はここに残ります。お兄ちゃんがいれば、それでいいので。」
こころ「…ここで、消えちゃうとしても?」
寧々「はい。後悔ありません。」
寧々さんは僕ですら
見たことがないほど
綺麗に笑っていた。
昨晩は長いこと泣いていたのだろうか、
それとも雨の跡だろうか、
頬や目尻には水滴の足跡がついていた。
こころ「…そ……っか…ぁ…。」
後悔が、ないのか。
いなくなりたいというのが
彼女の本音なのは昔から透けていた。
僕は知ってた。
寧々さんと長いこと
一緒に過ごしたからね。
僕は寧々さんのことを
わかっているつもりだった。
反対に、寧々さんも僕のことを
わかってくれていたと思ってる。
今の寧々さんはまだ
そんなことは全然わからなくって、
僕のことなんて好きなことしかしないでも
生きていける能天気な人としか
思っていないかもしれない。
でも…。
でも、僕だって辛いことがあって、
それはまだまだ解決しないまま
ここに立っているんだよ。
人の幸不幸は比べられないけど、
僕にもいろいろなことがあったんだよ。
それでもね、生きていれば
いつか救われる時は来るよ。
僕はそのおかげで
寧々さんに会えたんだよ。
全てが言葉に出せないまま
立ち尽くすことしかできない。
こうなってしまったら
僕にできることは何もないのかもしれない。
彼女を置いて帰ることだって考えた。
でも、どうしても後悔はしたくなくて、
その場で拳を握った。
頭を殴って荒治療を…とも思ったが、
叩くなんて親としていることは変わらない。
それよりも、違うことを。
1歩。
ぴちりと靴裏が鳴る。
もう1歩。
ぐちりと靴裏が離れた。
音ひとつひとつが大きなコンサートホールで
反響しているのではないかと思うほど
大音量で聞こえてくる。
しかも、自分の心音のおまけ付き。
それでも、足を止めることはなかった。
寧々さんは嫌かもしれない。
僕だし、大して仲良くない…し。
でも。
大型犬を抱く寧々さんを、
正面から力強く抱きしめた。
突き飛ばされてもおかしくなかったのに、
意外にもすんなりと受け入れた。
寧々「何ですか…?」
こころ「僕は…やだ、な…ぁ…。」
どうしてだろう。
目頭が熱くなっているのがわかった。
けれど、ここで泣くわけにもいかない。
泣きたいのは寧々さんなんだから。
こころ「僕…寧々さんがいてくれたから、今日まで頑張ってこれたって言っても過言じゃないんだよ。」
寧々「…私は何もしていませんけど。」
こころ「そうだよね。そう…思ってるかもしれないけどね、心の支えになってくれたんだよ。」
寧々「何を言っているのか…。」
こころ「……これからも、いや、これから、辛いことも分かちあってさ……頑張れないかな。」
寧々「…もう、頑張ったので休みたいんですけどね。」
こころ「寧々さん…見て、見てこれ。」
僕は徐に彼女から離れ
スマホの懐中電灯を消して、
画面を何度か操作しては
とある写真を見せた。
それは、4月の頭に寧々さんが
僕に勧めてくれた可愛い服の写真だった。
真っ暗な中,汚れた画面を
2人して眺める。
寧々さんは僅かに
目を見開いたような気がした。
こころ「ほら、これ…か、わいくない…?」
何度か鼻を啜った。
どうしても寧々さんには
いなくなって欲しくなくて、
感情が溢れていた。
こころ「ね?これも、これも可愛いでしょ。」
寧々「…はい。」
こころ「やばくない?ここのフリル!…次、見てよ、配色が天才すぎるの!」
寧々「…。」
こころ「それにさ…次だって……。」
そこで、ふと手に冷たい感触が伝う。
画面を操作する手に寧々さんの手が
添えられていることに気づいた。
僕と比べると随分小さい手だな
なんてどうでもいいことを考えていた。
寧々「何をそんなに必死になってるんですか。」
変な人、と困ったように笑った。
それは張り詰めたようなものでもなく、
責めるようなものでもない。
子供が無意味に慌ててあるのを見て、
優しく大丈夫だよと
安心させるかのような笑みだった。
寧々「見せてくれた服の写真、いつもの三門さんとは少し趣味が違うように見えますね。」
これも、これも、と
僕の代わりに画面をスワイプする。
寧々「このフリルより、もっと幅の広くて、折り畳まれてるタイプのフリルが好みなんだと思ってました。」
こころ「…っ!」
寧々さんのいう通り、
学校の制服のスカートを
少し柔らかくしたくらいの
折り畳まれたフリルが1番好みではある。
けれど、ギャザーの寄ったフリルも
もちろん好きではあるわけで。
それこそ、今彼女に見せている
寧々さんの選んでくれた服のような。
寧々「…今着ているのだって、いつもの少し違いますね。」
こころ「…そんなに…僕のこと見ててくれたの?」
寧々「まあ、あなたは目を惹きますし。こっそりと注目はしていました。」
こころ「…あはは、なにそれー…っ。」
寧々「その服は自分で選んで買ったんですか。」
こころ「……これ、おすすめしてもらって…買ったんだ。」
寧々「…バイトの人、ですか?」
こころ「うん。いっつもお世話になってて、何度も一緒に帰って…たくさん話を聞いてくれる人。」
寧々「そう…だったんですね。」
こころ「……寧々さん。」
僕はスマホを地面に転がして
彼女の手を両手でぎゅっと握った。
離さないように、消えないように。
こころ「これから先、もっと寧々さんと話してたい。好きな洋服も教えて欲しいし、何ならおすすめして欲しい。」
寧々「…私を助けたいみたいな、泥臭いことは言わないんですね。」
こころ「僕には寧々さんが必要なの。…これで十分泥臭くない?」
寧々「…あははっ…それも………。…それも、そうですね。」
寧々さんはやや間を空けて
その犬から手を離した。
そして、僕の手を強く握り返してきた。
犬の毛がついているだとか、
泥に塗れているとか
そんなことは一切気にしなかった。
スマホ画面が暗くなって、
ここら一帯は暗闇に包まれる。
窓辺から微かに差し込む街灯の光が
寧々さんの瞳を煌々と照らした。
寧々「因みに、こんなことされても三門さんに好意はいだきませんからね。」
こころ「…恋愛でってこと?…それならとっくに知ってるよ。」
寧々「そんなことまで話してたんですね。…全く…どんなに信用していたんだか……っ…。」
声を詰まらせながら手を解き、
近くにあった箱を手に取っては
軽々しく開く。
そこには、ミイラのような
腕がひとつおさまっていた。
筋肉や脂肪はなく、
しわしわになった手のひらに
枝のような腕がくっついている。
刹那、背筋をものすごい勢いで
冷気が駆け抜けて行ったような気がした。
けれど、寧々さんと再開した時のような
悍ましさを感じるほどではなく、
その異常さを自然を受け入れていた。
こころ「これ…。」
寧々「願いを3つ、叶えてくれるそうです。」
こころ「ね…がい…?」
寧々「もう2つ使っちゃいました。」
こころ「…。」
寧々「…夢を醒させてください。」
寧々さんは腕を取り出し、
僕にそっと差し出した。
彼女は僕を見るなり
無理矢理に笑って見せた。
その顔が全てを物語っており、
拒むことも受け入れることも
できないまま固まっていると、
寧々さんは腕を押し付けてきた。
夢を醒させる。
それは、願いが現状の要因であると
言っているようにも聞こえた。
寧々さんは素の状態で
おかしくなったのではない。
…きっと、願いのせいで
おかしくなってしまったんだ。
それを察した瞬間、
今から僕がしなければならないことは
酷く残酷であることに気づいてしまう。
腕を彼女に返そうとすると、
寧々さんは静かに目を閉じて
…お兄さんの肩であろう場所を押して
自身から距離を開けた。
寧々「……私には、お兄ちゃんを2度殺すような真似はできません。」
手に力が入っているのがわかる。
寧々さんにも、僕の手にも。
寧々「なので、お願いします。」
消え入るような声で囁く。
次に耳に届いたのは嗚咽だった。
誰よりも苦しいのは、
寧々さんに間違いない。
お母さんに会わせるよりも
ずっとお兄さんの近くに、
ここに居続けることを選んだ。
大切な家族を、僕が。
もし僕だったら。
大切なお姉ちゃんをー。
こころ「……寧々さんの………お兄さんを…っ。」
寧々さんの大切をひとつ、剥奪するのだ。
彼女の心に穴を開けるのだ。
2度と戻ることのない穴を。
唇や口内を噛み締める。
もっと他にいい案だってあったはず。
だけど…。
これが、後悔の先の後悔なのかもしれない。
こころ「…消して…ください……ぃ…。」
ぎゅっと目を瞑る。
目の前で繰り広げられるであろう
惨劇を見たくなかったのだと思う。
数秒後、緩やかに風が吹いた。
生暖かく、夏を彷彿とさせた。
「寧々。」
ふと、声が聞こえた気がした。
刹那、寧々さんが酷く動揺して
目を見開いているのが想像できてしまった。
「大きくなったね。」
寧々「お兄ちゃんっ!」
寧々さんが叫ぶのが聞こえる。
耳が、心が痛い。
それでも、目を開くことはしなかった。
風が治ってから目を開くと、
そこにはどろどろに
溶けている大型犬だった何かと、
同じく溶けているミイラのような腕が
僕の手の中にあった。
まるで体温で溶ける金属のよう。
手にまとわりつきながらも
指の間からさらさら流れて行った。
現実を理解できないままでいると、
ふと視界の隅で何かが動く。
暗闇の中、大型犬が…
…お兄さんが居た位置に這っては
そこで蹲る寧々さんの姿があった。
寧々「…お兄ちゃ………っ…ああぁぁっ…。」
泥のようになってしまったものを
引っ掴んでは何回も地面に叩きつける。
地面に額をつけて、
髪も制服も汚れることなど厭わず
ただ亡き兄を思って、何度も。
寧々「ひぐっ……うああぁぁ…ああぁあぁあっ…。」
悲痛な鳴き声が、5月の夜に染み渡る。
僕は濁った手のまま
寧々さんの背中を
撫でることしかできなかった。
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