拠り所
台所から漏れる朝日で目が覚める。
鬱屈とした室内で
うんと背伸びをした。
寧々「…おはようございます。」
誰も聞いていないのに
ほろりとひと言漏らす。
明らかにお母さんに
言っているのではないと
自分でもわかっていた。
お兄ちゃんにでも言っている
つもりなのだろうか。
未だ閉ざされた扉の奥には
事故の当日のままに
時間が止まってしまった部屋がある。
お母さんがいない間にも
こっそりと開けずに今日まできた。
寧々「……お兄ちゃん。」
返事があれば
どれほどよかっただろう。
そんなことを思いながら
家を出る準備を始めた。
家を立つ直前、
お母さんはのそのそと起き上がっては
機嫌良さそうにおはようと言った。
好きな時間に起きては
私の作った朝食を食べる。
珍しいことに文句を言わなかった。
今日は何かしら楽しみなことが
あるのかも知れない。
お母さん「今日の朝ごはん、美味しくできてるじゃない。」
寧々「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。」
お母さんはこちらを見ることは
相変わらずなかったけれど、
箸を置くことなくご飯を摘んだ。
寧々「じゃあ行ってき」
お母さん「そうだ。お母さん、今日は昼間から用事があっていないから。明日の午前中には帰ってくるわ。」
寧々「…うん。わかったよ。」
何があるのかは聞かない。
大体予想できてしまうし、
わざわざお母さんの行動の全てを
知ろうとも思わない。
思えない。
そんなこと聞いたら、
不躾な娘だって思われそうで。
けれど、明日までいないと
聞いてほっとしてしまった私は
既に悪い子なのだろう。
今だってほら、美味しそうにご飯を食べて
私の料理を褒めてくれたのに。
私はそれに応えなきゃ。
寧々「行ってきます。お母さんも気をつけてね。」
寧々もね、とは言われなかった。
元々そんな甘美な言葉、
私が期待しているはずもなく
やっとのことで出発した。
制服も無事乾き、
まるで困ったことなど
何もありませんでしたと言うように
済ました顔で登校する。
朝お母さんは眠っており、
穏便なまま学校に着いたからか
何だか清々しい気持ちだった。
気持ちにゆとりができていたのか
ゆっくりと準備してしまい、
いつもよりも遅く到着していた。
もうすぐで朝のホームルームが
始まってしまう中、
やや駆け足で教室に入る。
すると何人かが、
それもいつもよりも多くの人が
こちらに視線を注いできた。
登校して早々気味が悪いと
思いながら着席する。
私と仲のいいらしい
グループのうちの1人が
私の席まで寄ってきた。
あまりに神妙な面持ちで、
何かしでかしてしまったのかと不安になる。
「寧々ちゃん、寧々ちゃん。」
寧々「何ですか…?」
「その…悪い噂を聞いたんだけど…。」
寧々「噂?」
「えっと……その…」
その子が言い淀んでいると、
ふと別の席から
ひそひそと話す声が聞こえてきた。
「吉永さん、万引きしたってほんと?」
「あの優等生がね。」
「一年のころバイク乗り回してたって噂、本当なんじゃない?」
「がら悪いのに猫かぶってるんだ。」
「男を引き入れるためだけでしょ。」
「援交してるんじゃない?」
周囲で飛び交う様々な憶測が
不覚にも耳に届いてしまう。
それで嫌な視線がこちらに
向いていたのかと悟った。
刹那、慌てて澪の姿を探す。
いつだって私のことを
助けてくれたのは澪だったから。
相談に乗って、
家のことの愚痴も聞いてくれて、
私は悪い子だよねって言っても、
そんなことないって慰めてくれて、
私が大切にしなければならないと
思い続けていることを否定してくれる。
芯のある優しい澪を
そこに見た気がした。
けれど、見た気がしただけ。
澪は私に視線ひとつを寄越すこともなく
興味なさげにスマホをいじっていた。
これまでは無意識のうちに
目で追う中で度々目はあっていたのに、
今日に限って、どうして。
運がないだけと言えば
それまでだろうけれど、
睨むでもいい、
私のことを認知して欲しかった。
あわよくば助けて欲しかった。
「寧々ちゃん…?」
寧々「…。」
「ただの噂だよね?嘘だよね?」
寧々「…。」
もしここで、違うよと
…私がやったんだよと言えば
どうなってしまうのだろう。
お兄ちゃんのようになれないのは確定する。
この噂がお母さんの耳にまで届けば
そろそろ首に手をかけられるかも知れない。
否定、するだけしておこうか。
意味は感じないけれど。
寧々「…やってないに決まってるじゃないですか。」
「だよね…!私、信じてるからね。」
寧々「ありがとうございます。」
その子の瞳が怯えているのが
わかってしまって、
信用してないのだろうなんて悟る。
ああ。
私の知らないこの歪んだ周囲の環境に、
私の居場所なんてなかったじゃないか。
いつも一緒にいるというグループのうち
2人は周りと一緒になって噂の虜。
唯一一人は確認しにきてくれたけど
かけてくれるのは上部の言葉。
私のことを深く知ってるらしいけど
私は何一つ知らない三門さん。
家のことまで話して、
信頼して頼っていた澪は
今では私のことを嫌っている。
寧々「…。」
力なく笑ってみた。
その子は私の表情を見て
困ったように笑い、
何かあったら言ってねと
当たり障りのないことを言って去っていった。
あーあ。
くだらない。
私、1人なんだな。
誰が私の何を見て、
何を不快に思って
噂を流したのか本意は知れない。
考えられるのは私のことを嫌っている澪か、
先日からちょっかいを出してくる悠里さん。
どちらにせよ、私がどうにか足掻いて
収まるような噂でもない。
いじめを止めたことは
悪いことだったとは思っていないけど、
よもやこんなことになるなんて
想像できていなかったな。
想像していたつもりだった、
と言う方が正しいだろう。
きっと、それがきっかけだろう。
だとしたら悠里さんだよね。
寧々「…はぁ。」
散々な目に遭って、
それでもバイトがあって受験もしなきゃで。
…。
…。
何だか疲れたな。
…なんて思ってしまった。
昼休みはいつも通りを装って
4人で食べていたけれど、
皆無理して別の話題を出そうと
振り絞っているのはわかっていた。
女子校だからと言うのもあるのか、
噂は瞬く間に広まっていた。
しかし、どうやら先生の耳には
入っていないらしく、
叱られることもなければ
呼び出されることもなかった。
移動教室やお手洗いに向かう間ですら
様々な人の視線が刺さるようで辛い。
皆が私の噂をしているようで、
悪口を言われているようで
心臓は常に不規則に唸った。
誰かに足を引っ掛けられても
おかしくないと怯えながら歩くも、
幸いそのようなことはなかった。
今日はいつもよりも長い時間をかけて
学校の授業はようやく終えた。
そそくさと教室を出ようとしたところ、
誰かに肩を叩かれたかと思えば、
グループのみんなだった。
「うちら寧々のこと心配してるしさ。いつでも頼ってね。」
寧々「…ありがとうございます。」
頼らないなんて友達じゃないよね?
そう言っているようにも聞こえてしまった。
よくない方向にばかり思考は進む。
皆に迷惑をかけないためにも
すぐさまここを離れた方が
いいと判断した時だった。
悠里「あ、いたいた先輩!」
寧々「…!」
悠里さんがひょこ、と廊下から
顔を出してこちらを見ていた。
背筋が凍る思いをしながらも
顔には笑みを浮かべる。
大丈夫、このくらい。
私は優等生で、
なんでも頑張る努力家なんだから。
お兄ちゃんのようになるんだから。
だから、辛い時でも笑わなきゃ。
悠里「この後お時間いいですかぁ?」
寧々「…。」
悠里「お願いしますぅ、この通り!」
悠里さんは手を合わせて勢いよく頭を下げた。
そしてやや顔を上げては
可愛らしく上目遣いで訴えてくる。
グループの子達は
「邪魔してごめん、また明日」と
一言残して帰っていった。
…悠里さんから直接
噂を聞いたのだろうか。
それともただ単に気遣いなのだろうか。
その区別すらつかず、
ただただ動揺するばかり。
悠里「寧々せーんぱい?」
寧々「…。」
悠里「え、無視?ひどーい。」
わざとだろう、声を大きくして
主張するように言っていた。
慌てて口を塞ぐわけにもいかず、
けれど、どうしてか体も動かず
じっと待つことしか出来ない。
悠里「土下座した方がいいですかぁ?」
寧々「…。」
悠里「仕方ないなぁ、そこまで言うんならしますけどー。」
私は何も言ってない。
なのに、あたかも私が一言
発したかのように膝を降り始める彼女。
どうすればいいのか、
適切な対処がわからずに
頭は回転することを忘れてしまう。
今日はお母さんも1日いなくて
ラッキーなんて思ってしまったのが
いけなかったのかも知れない。
だから今こんなー…。
また悪い噂が流れるだろうなと
思ったその時だった。
ふと緩く巻かれた髪が
私の横を通り抜けた。
澪「しゃあしい。」
悠里「はい?は?うちですかぁ?」
澪「鼻につく喋り方でいらいらすると。こいつに用があるんなら別の場所でやらんね。」
悠里「えー、今いいところだったんですけど。」
澪「邪魔ったい。」
その言葉を聞いて、
悠里さんは舌打ちをした。
澪はそれが聞こえなかったかのように
教室から出ては姿を消した。
意図していたのか意図せずかは
わからないけれど、
澪は私を助けてくれたのだ。
結果的に、という形ではあるけれど。
でも、実際には助かっていて。
今すぐ澪に抱きついて
泣き出したい衝動に駆られながらも、
ぐっと手に力を入れて耐える。
寧々「話ならここで聞きます。何ですか。」
悠里「つまんな。さっきのやつ。」
寧々「澪のことは悪く言わないでください。」
悠里「は?仲良くないですよねぇ、あの人と。」
寧々「…。」
悠里「仲良かったらもっとちゃーんと、寧々先輩を守るようなこと言うだろうしー。」
周りに聞かれないためだろう。
私の耳に口を寄せては
小さい声でちくちくと刺した。
図星だ。
ただの強がりで黙っているだけだ。
彼女を突き飛ばすわけにもいかず、
お母さんに蹴飛ばされた時同様
じっと耐えるだけの時間が続く。
その間、何か澪のことと
噂のことに関して言われたけれど、
頭がショートしていたからか、
あまり記憶に残らなかった。
うんともすんとも言わない私に
痺れを切らしたのか、
それとも飽きてしまったのか。
私からふと距離をとった。
そして手を上げたかと思えば、
欠伸をしながら小さい声で
小雨のように言ったのだ。
悠里「誰からも愛されてなくて可哀想。」
寧々「…っ!」
悠里「じゃあね、先輩。うちは先輩のことあ、い、し、て、ますっ。」
思ってもいないことを口にしては
そのままスキップをして背を向ける。
教室からは多くの人がいなくなり、
私とたった数人だけになっていた。
受験勉強だろう、参考書を開いては
懸命に手を動かしているのが見えた。
悠里さんの最後の一言は
誰にも聞こえていなかったのだろう。
私を心配する声どころか
こちらを一瞥する人もいない。
私の存在自体が消えて
亡くなってしまったかのように思えた。
下校中も私を見る人はいない。
電車の中では当たり前のように
スマホをいじり下を見つめている。
スマホを取り出す力も
外を眺める元気もなく、
土埃に塗れた床を眺めた。
古びた家に帰って早々
何故だろう、お兄ちゃんの部屋のことが
妙に気になり出した。
少しだけでいいから
お兄ちゃんの欠片を
感じたかったのかも知れない。
それを糧に、また明日から
真面目であるように頑張るから。
だから少しばかりでいい、
参考が欲しい、勇気が欲しい。
寧々「…お願い。」
少しでいいの。
信頼できる人に、物に頼りたくて。
寧々「……お願いします。」
誰か1人でいい。
この現実を、現状をちょっぴり壊して欲しい。
そう思ってしまう私は
やっぱり悪い子でしかない。
鞄を玄関に放り投げて
靴を乱雑に脱ぎ散らかす。
お母さんがいたならば叱られて、
運が悪ければ殴られているに違いない。
「愛されてなくて可哀想」
悠里さんの言葉が頭の中で
何度も何度も反芻する。
お兄ちゃんからもお母さんからも
愛されていた記憶はある。
今だって、お母さんは
私のことを考えてくれている。
だからあのように厳しく躾をする。
高校1年生の頃不登校だったから
お母さんは心配で仕方がないんだろう。
心配をかけないように、
お兄ちゃんを見習っては
真面目になるように努めた。
今も尚頑張っている。
けれど、その頑張りはまだ
人には伝わらないみたい。
お母さんには微塵も響いていないみたい。
お兄ちゃんみたいになれば
お母さんも安心して、
あんなに怒ることだって
なくなるはずなのに。
寧々「…愛してあげられていないのは、私の方なのでしょうか。」
愛をもらっているのに
返せていないのではないか。
足りない頭ではここに
辿り着くことしかできなかった。
ゴミがやや散らかる中、
2年間閉ざされていた
お兄ちゃんの部屋の襖を
思いっきり開いた。
寧々「…。」
ぱぁっと埃が舞う。
開かれたままのカーテンから
穏やかな日差しが差し込み、
埃を煌びやかにライトアップした。
机も服も寝具すらも
お兄ちゃんがいなくなった日のまま。
お仏壇も置かれておらず、
未だお母さんが数年前に
閉じこもっているのが見て取れる。
寧々「ごめんね。お兄ちゃん。お母さん。」
意味もなく謝罪をして
ずけずけと踏み入った。
靴下の裏にはきっと
埃があり得ないほどびっしりと
ついていることだろう。
お兄ちゃんの部屋に入ったことも
すぐにばれるに違いない。
それでも、どうしてもたった今
救いが欲しかったのだ。
お兄ちゃんの形見を1つ
持ち歩くようにすれば、
困った時だって見守られているような、
頑張ろうって思えるような
気力だって湧くかも知れない。
お兄ちゃんが普段つけていた
ストラップ等のものがあればと
思いながら部屋を見回していると、
ふと棚に重厚な箱が
置いてあるのが見えた。
寧々「…こんなもの、持ってましたっけ。」
もうかれこれ2年前なもので、
流石に記憶には残っていない。
もしかしたらこの中に
小物がたくさん詰まっているかも。
そう思い手を伸ばした。
箱は見た目のわりには軽く、
中身がほぼ入っていなさそうだった。
振ってみるとからからと
固形物が入っているのがわかる音がする。
ふと。
誇りを払って、出来心で開いた。
開いてしまった。
一瞬何か分からず、
思考が全て止まってしまった。
そして数秒経て、
それを認識してしまった。
寧々「…っ!?」
刹那、酷く悪寒が走り
箱を放って投げた。
一度床に跳ねて、あろうことか
箱の中身が飛び出てしまう。
何度かバウンドして力なく転げた。
そこには、ミイラのような
腕が転がっていた。
寧々「は……はっ…!?」
これをお兄ちゃんは何故。
何故、持っていたのだろう。
家族がいつ見ても
おかしくないところに
置きっぱなしにしていたのだろう。
何の趣味だ。
何かのグッズだろうか。
にしては本物に似すぎている。
…偽物だ。
偽物に違いない。
動悸はおさまらず、
足の力が抜けてペタンと
その場に座り込む。
どのようにすればいいかと
考えようとしても頭が回らない。
思えば今日1日中
頭なんて回っていない。
深呼吸。
そうだ、深呼吸。
腹の底が破れるかと思うほど
過剰に息を吸って、
長く長く息を吐いた。
何故と言うのはもちろん気になるが、
そもそも誰のものなのだ。
お兄ちゃんは、人を殺めていたのだろうか。
その死体の一部が
ここに眠っているということだろうか。
嫌な妄想ばかりが広がる中、
半分経ただろう、
やっとのことで立ち上がって
投げつけた箱と転がる
腕の近くに向かった。
近くで見るとどうにも
枝をそれっぽく組み合わせて
色を塗っていると言うわけでもなく、
人の腕…というよりも骨といっても
近しいそれがそこにあった。
恐る恐る手を伸ばしてみる。
すると鉛筆のような、
ただ硬い感触がした。
寧々「何ですか、これ。」
冷静を取り戻しつつあるのか、
いっそファンタジーだと
思い込むことにしたのか。
両手でそれを持っては
様々な角度から見渡した。
筋肉や脂肪はほぼなく、
しわしわになった手のひらが印象的だ。
断面は熱で接着でもされたのか
骨が見えることもない。
腐臭もせず、ただただ枝のような腕だった。
箱の近くには初めから
転がっていただろうか、
紙が1枚落ちていた。
黄ばんでおり、古びているのがよくわかる。
そこには1文だけ記されていた。
『3つの願いを叶える手』
と。
寧々「…。」
こんなこと、普段の私であれば
当たり前の如く信じないのだけれど、
突如として秋あの中のいい人が
変わっていたこともあり、
妙に信じてしまった。
それに、たった今このタイミングで
現れてくれるなんて、
まるで神様が私のことを
助けようとしてくれているみたいで。
何だか、神様に愛されているみたいで。
疑うも束の間、
その腕をぎゅっと大切に握りしめた。
まずは、本当に願いが
叶うのかを知りたい。
軽いことにしておこう。
例えば…。
…学校から私の噂をなくすとか。
いや、そもそもだ。
そもそもとして悠里さんが
いじめをしていなければ良かったんだ。
悠里さんを消して欲しいなんて
初めから願うには重すぎる。
手始めに、来週悠里さんと
合わないようにと願うことにした。
寧々「……お願いします。」
来週、悠里さんと会いませんように。
数秒願い、
お母さんやこの世界の全てから
腕を隠すように、
そっと元の位置に戻したのだった。
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