無邪気


いじめの現場を見て数日が経った。

伸びをしつつも

肩や指を鳴らすこともなく

静かに椅子を引く。

学校の授業は既に終わり、

皆は友達と話し出しては

賑やかに笑い出す。


私は澪以外の人と

一緒にいることにも徐々に慣れ始め、

今となっては澪と共に

過ごしていたはずの日々が

夢のように思えてきていた。

彼女は変わらず私を嫌い、

近づこうものなら無視をされ

挙げ句の果てには睨まれて距離取られる。

Twitterを更新して

タイムラインを見ていても、

私のことは鬱陶しいとしか

思っていない様子。

私も距離を取ることが

最善なのだと嫌でも理解し始めていた。


寧々「…。」


鞄の中に教科書をしまい、

ひと言グループのみんなに

挨拶をしてから教室を出る。

行く当てがあるわけでもなく

ふらりと教室内を漂う。


ふと気がつくと、何故か図書室の

ある方向まで足を運んでいた。

数日前、ここでいじめに

あっていたあの子は

今でもいじめられているのだろうか。

まだ学校に来てくれているだろうか。


その日、悠里という子に

リボンを引ったくられて、

お母さんからは酷く怒られた。

喧嘩しただけだと言っても

お兄ちゃんの名前を出しては

私は不出来だと何度も言われた。

私はどうやら出来損ないらしい。

自分なりにお兄ちゃんみたいになろうと

頑張っているのだけれど、

その頑張りは伝わっていないみたい。

人に伝わる頑張りをしなきゃ意味がない。

それじゃあただの自己満足だ。

自己満足で終わらせたくない。

お母さんは私のことを

ここで真っ当な人間に

してあげたいだけなのだ。

お兄ちゃんが亡くなった悲しみも

怒りの理由のひとつだろうけど、

私のことを考えてくれている

という理由もあるに違いない。

そうじゃなきゃ、

どうして私はあんなに

叩かれているのかわからなくなる。


「あ、せぇーんぱぁーい。」


甘ったれた声がして

嫌な予感がしながらも振り返る。

すると、案の定悠里さんが

大股でこちらに歩いてきた。

取り巻きはいないようで、

1人でここまできているらしい。


悠里「もう学校来てないんじゃないかって思いましたぁ。」


寧々「…何のようですか。」


悠里「リボン、戻ってきてよかったですねぇー。」


私の胸元にある草臥れた状態のままの

リボンを眺めながらそう言った。

いちいち鼻につく言い方で腹立たしい。


リボンを取られお母さんに

こっぴどく怒られた翌日。

リボンは私の机の上に

くしゃくしゃにされたまま置かれていた。

ポケットの中に丸められて

そのまま放置されたかのような、

まるでゴミのような存在だった。

アイロンをかけるわけにもいかず、

シワだらけのリボンを身につける。

誰も何も言わなかったけれど、

私のことを真面目だとか、

ちゃんとしているだとか

そのような印象は薄くなって

しまったに違いない。


寧々「…。」


悠里「あれれ、もー、そんな怖い顔しないでくださいよぉ。」


寧々「あなたと関わっていられるほど、私は暇じゃないので。」


悠里「うちだって部活あるし暇じゃないですぅー。今日は用事があってきたんですよ。」


そういうと、鞄を漁り始めた。

絶対碌なことではないと思いつつも

背を向けどこかに行くことはできなかった。

私の理想像に反するからだろうか。

それとも、お母さんと

対峙している時のことを

思い出しているだけなのだろうか。

理由はわからないままに

いつの間にか回想に耽り

ぼうっと突っ立っていると、

突如緊張感のない声で「あぁー」と言った。


刹那、何かしらの液体が

こちらに向かって飛んできた。

ぼうっとしていたからだろうか、

反応が遅れてしまい避けられなかった。

制服がびしゃびしゃになり、

下着にまで浸透したのがわかる。


悠里「手が滑っちゃったぁー。」


棒読みする彼女の手には

ペットボトルのお茶が握られていた。

まだ半分ほど残ったままのそれを

頭からかけられるかと思ったが、

どうやらそこまでではないらしい。

蓋を閉めて鞄にしまっていた。


悠里「先輩ー、こぼしちゃダメじゃないですかぁー。お漏らししたみたーい。」


寧々「…。」


悠里「お掃除ちゃんとしてくださいねー?うちは部活があるから、それじゃあー。」


彼女は手を振ることもなく

鼻で笑い見下しては

背を向けて去っていってしまった。

せっかく洗濯してシワを伸ばしたリボンも

お茶の匂いが染みてしまった。


寧々「……洗わなきゃ。」


図書室の近くのトイレに向かい、

トイレットペーパーを1つ手にして

廊下へと向かう。

人通りがほぼない中、

静かに床に滴ったお茶を拭き取った。






***






廊下を拭き終えてからは

制服の湿り気を粗方とった。

まだ匂いは酷く残っているものの、

幸い上から着れるサマーセーターを

持ってきていたもので、

それを着用した。


そろそろお母さんの誕生日だし、

下校時に何かいいものがあれば

見ていきたいと思ったのだ。

自分のバイト代で買うから

きっと文句も言われなければ

お母さんも喜んでくれるはず。


学校から直接横浜駅にまで足を運んでは

駅構内にある様々な店を見て回る。

雑貨系は家においても

お母さんが暴れたら

壊れてしまうかもしれない。

だから観葉植物だってきっと難しい。

逆に想像以上にのめり込んだりして。

私の存在を忘れるくらいに。

…それは流石に悲しいかな。

…。

…本当に悲しいと思っているのかな?

今でさえいないようなものとして

扱われているんじゃないの?


頭の中を腐食した考え方が

じんわりと広まっていく。

けれど、こんなところで

立ち止まって考えたってどうにもならない。

そんなことは、眠る前の

お布団の中で考えればいい。


寧々「…さ、早めに選んで帰っちゃいましょう。」


お母さんが心配しちゃう。

今日はバイトもないと伝えてある。

学校で少し勉強をしていたと伝えれば

きっとお母さんも喜んでくれる。

私が真面目なら、お母さんは喜ぶ。

きっと、いや、絶対。

だってお兄ちゃんはそうだったから。


雑貨屋やアロマ屋をいくつか回り、

結局いい匂いのする入浴剤のセットにした。


昔、私がまだ小さくて

お兄ちゃんも生きていた頃。

お湯を溜めては一緒に入った記憶がある。

100円ショップで

光る棒を買ってきて、

お風呂に浸かって電気を消す。

おまけに中から何かおもちゃが

出てくるタイプの入浴剤を入れた。

その頃のお母さんは幸せそうだったな。

当時お父さんもいたかは

あまり覚えていないけれど、

確実に今よりも幸せだった。

…。


…おかしいな。

今の生活だって不自由ないはずなのに。

不幸とは思わないのに。


寧々「変ですね。」


プレゼント用に袋に包んでもらった

入浴剤のセットを静かに抱いた。


電車に揺られる間に、

プレゼントがお母さんに

ばれないようにと鞄の中に隠す。

そして変わらず古びた扉を

ぎしぎし鳴らしながら開いた。


寧々「ただいま。」


お母さんはまたテレビをつけて

背ばかり向けている。

流石にこの光景にも

慣れてきているはずだけれど、

少しばかり心に引っ掛かりを感じるのは

昔の幸せな光景を

思い出してしまったからだろうか。


お母さん「遅いじゃない。どこ行ってたの。」


寧々「学校に残って勉強してたんだ。」


お母さん「そう。勉強ねぇ。」


お母さんは信用していないのか

興味なさそうにそう言った。

かと思えば突如立ち上がり、

ぼさぼさの髪のまま

こちらへとのそのそと近づく。

ぞくっとするも足が動くことを

忘れてしまってどうしようもなくなる。

光を一切含もうとしない

真っ黒な瞳が私を刺した。

ふと、悠里さんの視線と妙に重なる。


お母さんは私の全身を

くまなくじっと見つめた後、

おもたげに腕を上げて

私のリボンを指差した。


お母さん「またやんちゃしたんでしょう。嘘ばっかりね。」


お茶をこぼされた後、

ややシミになってしまった場所を

指差していた。

サマーセーターを着ていたものだから

大丈夫だと気を抜いていた。

はっとして顔を上げる。


寧々「違うの。これは」


お母さん「うるさい!」


がたん、と大きな音が鳴る。

机の上に積まれていた私の教科書が

しわくちゃになりながら

床に転がっていく。

自分の部屋もなく勉強机もないこの家。

勉強はいつも食卓でしていた。

こんなところに

置くんじゃなかったと思いつつも、

学校に置いて帰ったら置いて帰ったで

受験生なのにだらしないと

小言を言われるに違いない。

どうすればいいのか路頭に迷いながら

黙って教科書を拾う。


すると、今日は機嫌が悪かったのだろう。

横腹に足の裏が置かれたかと思うと

そのままの勢いで蹴り飛ばされてしまった。

強く尻餅をついては、

鞄がゴミ箱にぶつかって倒れ、

中身が散乱した。


お母さん「産むんじゃなかった。」


ああ。

今日は本当に機嫌が悪い。

私が何をするにも

文句を言われるんだろうな。

…。

私のため。

私のため。

私のために言ってくれている。

だから、必要以上に

心配することなんてない。

不安を検索しなくたっていい。

鈍感でいい。

鈍くていい。

このままでいい。


寧々「…すぐにご飯作る…ね。」


このままがいい。

何度も頭の中でそう繰り返した。

雷が落ちたのか、

近くで大きな音が鳴り響いていた。

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