私のため
雨がしとしとと降るのを横目で
眺めながら洗濯物を畳む。
お母さんは用事があると言って
どこかに出掛けていってしまった。
お母さんが家を出る直前、
今日は何も用事はないと伝えたけれど、
ちゃんと聞いていなさそうだったな。
珍しくお化粧を1時間にわたって行い
出掛けていった。
寧々「…。」
一日中家にいるのも暇だと思いながらも
お母さんがいない家の中は久しかった。
お兄ちゃんの部屋を開けようとも
思ったのだけれど、
お母さんから見られているような
気持ちになってしまい、
扉に手をかけることすらできなかった。
昨日拾い集めて括った空き缶を
ふとした拍子に捨てに行く。
確か明日が収集の日だったはずだ。
夕方だけれどこっそりと
ゴミ置き場に入れる。
お母さんがいないからだろうか。
こんな悪いことをしてしまうだなんて、
今日の私はどうかしている。
昨日のもやもやを
悪いことをすることで
発散しようとしているのだろうか。
寧々「…馬鹿みたい。」
ひと言ゴミに呟いてから
家に戻り扉を閉めた。
受験生だというのに勉強する気も起きず、
見れていなかった
ゲーム実況の動画を片っ端から
見ようとしたその時。
ふとスマホの画面上部から
通知のバーが降りてくる。
何かと思えば、三門さんからの電話だった。
昨日のことを謝ろうと
しているのかと思い、
このまま放置するのも
可哀想な気がして電話に出る。
何より、優等生はここで
知り合いだろうと見捨てる真似はしない。
お兄ちゃんだったら絶対にしない。
…なら昨日の三門さんに対しての
態度はどうなんだと問われれば
言い訳しか出てこないけれど。
頭の中でぐるぐると考えていると
くぐもった声が聞こえてきた。
こころ『もしもーし…寧々さん?急にごめんねー。』
寧々「いえ、構いませんよ。どうかしたんですか?」
こころ『それがね…ちょっと熱が出ちゃってさ。精神的にはまあ…ほどほどに元気って感じたんだけど…。』
寧々「大丈夫ですか?今でもコロナの可能性はありますし、心配ですね。」
こころ『心配してくれてありがとう。それでさ、昨日の今日で本当に申し訳ないんだけど、寧々さんにひとつ頼みたいことがあるの。』
寧々「何でしょうか。」
こころ『…今日のバイト、変わってほしくって。』
三門さんは本当に心苦しそうに
喉の奥で声を縮めて言った。
それが演技なのか、
それとも本当に心臓を
締め付けられるほどの罪悪感を
感じているのかまでは
私には見抜くことができない。
なにしろ、殆ど関わったことのない人だから。
こころ『もちろん、変わってくれたら今回のお礼は今度するよ。』
寧々「いいえ、お礼なんていらないですよ。」
こころ『あ…それじゃあやっぱり駄目ってことだよね…。』
寧々「いえ。お礼はいらないだけです。」
こころ『へ…?』
寧々「今日は予定もなかったのでいいですよ。収入が増えるのも嬉しいことですし。」
こころ『ほ、本当にいいの!?』
寧々「はい。」
それに、お兄ちゃんだったら
そうしますから。
…とは、いえなかった。
こころ『じゃあじゃあ、寧々さんの願い、なんでもひとつ聞くからね!ご飯でも服でもプレゼントしちゃうよ!』
寧々「あはは…それは結構です…。」
それくらいなら、
私をこの環境から連れ出してくれませんか。
…ともいえなかった。
こころ『とにかく!今度埋め合わせるから、寧々さんも僕に何して欲しいか考えておいてね!』
寧々「…わかりました。では。」
こころ『うん!本当にありがとう、とても助かったよ。寧々さんのおかげ!』
重ねてありがとうと言って、
三門さんは電話を切った。
願い。
そう聞いて、長いこと
将来について何も
考えてこなかったことを思い出す。
受験だと言われるけれど、
これと言ってなりたいものが
あるわけでもない。
今の私の願い。
それは、この家庭環境から
抜け出すことだろうか。
いや、お母さんは
私のことを思って言ってくれている
ということはわかっているのだけど。
何故だろう。
逃げ出したい気持ちが
どこからか湧いて漏れていた。
抜け出すためには
お兄ちゃんが生き返るか、
お母さんが変わるか、
それとも、いなくなるか。
はたまた…。
寧々「……私が。」
それ以上は言わなかったし
考えることすらやめた。
今このことについて
考えたって何の利もない。
バイトに行くというのに、
暗い感情を持っていったって
どうにもならない。
世の中の人間の多くは
負の感情に酔いしれることを
よしとしてくれないから。
だから私は笑顔でいるのだ。
寧々「よし、今日も頑張ります!」
曖昧な目標には
曖昧な成果しかないと知りながらも
このようなことを宣言するほか
何もできないのだった。
***
バイトに行ってから
夜食材を買って帰る。
三門さんのシフトが夕方までで助かった。
商品棚に欲しかった卵や
パンも残っていた。
冷凍食品や出来合いのものを買うと
お母さんは怒ったけれど、いつの間にか
なくなっているのを見るあたり、
やはり便利なのだなと思う。
私の作り置きしている
料理よりも早くなくなるのだから、
そちらの方が需要があるのだな、
とも何度も思った。
家の前に立ち、
鍵を取り出しては刺して回す。
それだけで覚悟を決めなければ
ならないような感覚が私を襲う。
ぎいぎいうるさい扉を開いて
帰ってみれば、
既にお母さんの靴があった。
ああ。
やってしまった、と思った。
お母さん「どこ行ってたの。」
寧々「…お買い物だよ。」
お母さん「2時間も行っての?どこまで行ったのかしら。」
寧々「横浜駅の方まで行って、教材を探してたんだ。あと、今日の夜ご飯とか」
お母さん「バイト服がなかったけれど、買い物するのに必要だったの?」
お母さんは奥の部屋で
テレビをつけながら言う。
こちらを見ることなく
背を向けているだけのはずなのに、
心臓が潰されるような圧迫感があった。
相変わらず私がいなければ
電気すらつかない家の中。
お母さんは一体何時から
この家にいたのだろう。
寧々「昨日、バイトに行って忘れちゃってたの。だからついでに取りに行ったんだ。教材はちゃんと中古で、自費で買ったから安心してね。」
お母さん「何が安心よ。」
寧々「えっと」
お母さん「あんたみたいな嘘つき、信用できるはずないでしょ。」
大声で怒鳴って怒ることもせず、
諭すようにそう言った。
私のことを見ることもしない。
いらないと言われているようで
ぎゅっと拳を握る。
けれどどうすることもできなくて
ぱっと手を離した。
きっと嘘つきというのは、
私がこの2年間の間で
大きく変わってしまったことを指すのだろう。
そんなころころと態度を
変えるような人間なんて
信用できないに決まってる。
その感情は私にだってわかる。
昨日、三門さんに抱いた感情だ。
だから、お母さんは
正当なことを言っているだけなのだ。
私のことが信じられないのは
当たり前なんだ。
少しずつでいい。
私のことを信じてもらえれば。
お兄ちゃんの影ばかりでなく、
私のことも見てくれれば。
…それで、いいかな。
寧々「ごめんね、お母さん。私、もっと頑張るからね。」
冷蔵庫を開けて
買ってきたものを入れる。
お母さんはテレビを見たまま
私を視界に入れることすらしなかった。
今日だって変わらなかった。
今日だって信用されないままだった。
でも、案外そんなものだろう。
これからもずっと、
願いなんて叶うことなく。
それが、当たり前なのだろう。
ざあ、と雨が強くなるのが
音からわかってしまった。
今日は一日中雨だなと
ぼんやり外を見やることしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます