第5話 「そうですね。おやすみなさい」
「ナナ、ナナ」
老女の声で菜奈の意識は浮上する。
硬い寝床にカラダが痛むが、2日ぶりにまともに睡眠をとれたことにより、疲労は回復しているように感じる。
奈菜は自室のベッドと異なる景色に一瞬現状を把握し損ねたが、仰向けに寝転んだ視界に広がる煤けて黄ばんだ布製の天幕に、視線を横にずらせば周囲には衣類が入っていると思われる簡素で小さな木箱が2つ、さらに視線をずらせば入り口から天幕の布を持ち上げたヴァレリアが不思議そうに奈菜を見ている。
菜奈を呼び続けるヴァレリアの声に、応じるように菜奈は体を起こす。ヴァレリアは、天幕の入り口から声をかけていたようだった。
仮眠程度のつもりだったが、存外深く眠っていたようで、外は夕暮れで赤くなっていた。
「ナナ、夕飯だよ」
「はい。ありがとうございます、ヴァレリアさん」
寝床から起きだして、天幕を出ると先ほどと同様に鍋の前に人が並んでいた。
菜奈も、ヴァレリアとともに列に並んだ。
列に並んでいる間、ヴァレリアは、奈菜に気を遣いながら、奈菜に何があったのか聞いてきた。奈菜も現在の状況について情報がほしいため、自宅近くの用水路に落ちたと思ったら、森の中にいて、狼のような生き物に突然教われたことを説明した。
「ヨウスイロ、ってのはなんだい?」
「え?用水路は用水路で……えっと…水路?水の通り道、みたいな…?」
「つまり、川みたいなもんかい?」
「は、はい。そんな感じです」
「川に流されたのかねぇ?」
「で、でも、その用水路の先にあんな森なくて…だから、その」
「そうかい。まぁ、少なくともその怪我が治るまで、しばらくここにいたらいい。ここは襲われる心配もない」
「ありがとうございます」
どうやら異世界から来たらしいなどという到底信じられない説明をする勇気はなく、さりとて上手く取り繕うこともできない奈菜の説明をヴァレリアは否定をすることなく聞いてくれた。奈菜の言っていることを肯定するわけでもないが頭ごなしに否定もしないヴァレリアに安心する。
「で、森のなかでハティに教われたってことかい?」
「その、はてぃって言うのがどういうものかわからないので私が見たのがそれかわからないですけど、狼みたいでした。ずっと私に唸り声をあげていて…」
「ふむ...それは、アンタのその腕の丸いのに反応したんだろうね。ハティは月を見て興奮する習性があるからねぇ。アンタのそれがハティには月に見えたんじゃないかい?」
ヴァレリアは、菜奈の左腕の腕時計を指して指摘する。
「そう、なんですね」
「だから、森にはいるときは、丸いものを身に付けるなんてことはしないんだが、アンタ親に教えられなかったのかい?」
「は、はい」
むしろ、奈菜はハティという生物自体初耳である。親が物知らず、と言われてしまったが、そこはやむを得ない。そもそも世界が違うのだから。
「でも、帰る家があるなら、その方法を考えないといけないねぇ」
「帰る、方法……そう、ですよね」
「アンタの住んでた街の名前を知らないからねぇ。帰り道を教えてやることはできないし、アンタ一人で帰るのは、危ないからねぇ」
「危ない、ですか?」
「アンタ、ハティに襲われたのに何言ってるんだい」
「そ、そうですよね」
ハティと呼ばれる狼に襲われたといえ、安全な日本で生まれ育ち、海外に旅行した経験すらない菜奈としては、危ないと言われても、道を歩いていて危険な状態に陥る実感はわかない。しかし、ヴァレリアは、相当危ないと考えているのだろうということが険しい表情から窺える。
「お金があれば、冒険者を雇って護衛してもらうんだけどねぇ。それか、マジックアイテムを買って…」
「まじっくあいてむ?」
「まさか、それも知らないのかい?魔法が使えなくても、魔法が使えるようになる特殊な道具だよ。ま、庶民には手が出ないほど高いんだけどね」
正直言えば、冒険者もわかっていないが、そこまで聞く勇気はなかった。
「どうしたらいいんでしょう……?」
「ギルドに行って、相談してみな。冒険者は色んなところに行って、色んな経験しているからねぇ、いい知恵があるかもしれない」
「そうなんですね。えっと、ギルドってどこにあるんですか?」
「町の東側にあるよ。ここに来るまでに広場を通ったろう?その東側のところにあるよ。今日はもう遅いから、明日行ってみるといい」
「はい、そうします。」
そうこうしているうちに、菜奈たちも食事の配給が受けられた。
夕飯はパンとポトフのような具沢山のスープだった。とはいえ、野菜が中心で、ソーセージのような加工肉は少なく、豚肉のような鶏肉のようなどちらとも取れない固まり肉が少し入っているだけであった。
一昨日までは好きなものを好きなだけ食べられていた菜奈からすれば、物足りないことこの上ないが、ほとんど荷物も持てないまま逃げてきた人たちばかりのここで、足りないと愚痴を言えるほど菜奈は子供でもなかった。
ヴァレリアは、夫と合流するということで、菜奈は一人で食事をすることになった。貴重な食事を少しずつかみしめるように口に運びながら、菜奈は近くで食事をしていた男性2人組の会話がに興味が引かれて耳を聳てる。
「もう、村には戻れないだろうな」
「ああ。みんなで金を出し合っても冒険者に依頼することは難しいだろうし、かといって俺たちで魔物を倒すなんてできないしなぁ」
「ああ」
「でも、村に戻れないならどうする?このままここに居続けるわけにもいかんだろう?」
「冒険者にでもなるかねぇ」
「お前がかぁ?武器なんて持ったこともねぇくせに。どうせダンジョンに行ったところで、あっという間に死んじまうよ」
「いや、パーティーの荷物持ちくらいならできるだろ」
「そんな足手まとい、パーティーに入れてくれるお人よしなんているもんか」
「でも、ダンジョンに行けば、一攫千金の上、ダンジョンの最深部には、大昔の魔王の幹部が使ってたスキルを獲得できるって噂だ。そうすりゃ冒険者としてやってけるかもしれないだろ?」
「一攫千金はともかく、そのスキルがどうのなんてのは眉唾ものだろ?リスクに見合わねぇよ」
「とはいえ、嫁と子供に飯を食わせていくにはそのくらいしか方法はねぇだろ」
「そうはいってもよぉ……」
男性たちは、30代から40代程度で、おそらく家族がいるのだろう。深刻な様子で、冒険者になるかどうかを議論していた。
冒険者がどういうものかという会話が耳に入り、聞き入っていたところ、菜奈にとっても有益な情報だった。どうも、冒険者とは、護衛のようなこと以外に魔物退治やダンジョンと呼ばれるところに行くらしい。そして、ダンジョンと呼ばれるところは危険だが、お金を獲得することもできるようだということが分かった。
菜奈も人並みにゲームや漫画を嗜むため、冒険者、ダンジョンといった単語の意味に心当たりがないわけではない。しかし、それらが菜奈の認識と一致しているのかについては自信がなかった。
しかし、男性たちの会話を聞いて、菜奈の認識と大きく差があるものではないといことが分かった。
そうして菜奈は、残りのスープを飲み干して、昼と同様に水場で簡単に洗い流してヴァレリアの天幕に戻った。ヴァレリアもすでに天幕に戻っており、夫も一緒にいた。
ヴァレリアの夫は、ジルというらしく、年のころは、おそらくヴァレリアと同じくらい。日に焼けた浅黒い肌で、農業をしてきたのだろう手には細かい傷があり、皮は厚くなっていた。温和な雰囲気のヴァレリアと対照的に排他的な印象があった。
「あの、えっと、お世話になります」
「ああ」
勇気を出して挨拶をした菜奈に対して、無愛想に返事をしたっきり、ジルは、そっぽを向いてしまった。その反応をどのように見ればいいのかわからなくて、助けを求めてヴァレリアに視線を向ける。
「若い子と話すことがなくってねぇ、気にしないでいいの」
「は、はい」
苦笑で返されて、菜奈はそれでいいのかと無理やり納得して、夕方まで寝ていた寝床に座り込む。
すでに日は暮れ、今ある光源は天幕の外にある篝火だけで、天幕の中は、ほとんど真っ暗になりつつある。
「さて、寝ようかねぇ」
「そうですね。おやすみなさい」
同じ天幕の中にいるヴァレリアの顔すらほとんど見えなくなっている状況でできることなど何もない。就寝を促されて菜奈も寝床で横になる。ジルも声を発することはなかったが、布ずれの音から横になったことが分かった。
大昔、電気がないころはこういう生活だったのだろうななどと、自分が置かれた現状を棚上げにして菜奈はのんきに考える。
いっそ、もう一度寝て起きたら、日本に帰れていたりしないだろうか、などと楽観的なことを考えながら、菜奈は目を閉じるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます