第3話 「すごい…」

 狼の死体から逃げるように駆け出した菜奈は、しばらくやみくもに森の中を走っていく。また別の狼に襲われるかもしれないなどということは考えず。


 ただ走って、どれくらい経ったかわからないが、菜奈の息が切れ、足が震えて転びそうになったころ、森から道らしき場所へ抜け出すことができた。


 道とは言っても菜奈が知っているアスファルトで舗装されたものではなく、草木が刈られ、土が踏み固められただけの道である。

 

 しかし、人工的なものであることは間違いなく、安心感からか、疲労からか、菜奈は思わず、道に座り込んでしまった。

 

 ここまで茂みの中を走ってきたこともあり、枝で引っ掛けるなどしたのだろう、スカートの下の足にはいくつか薄い切り傷がついていた。

 とはいえ、その痛みは、左腕の噛み跡の痛みを上回るようなものではなく、常であれば騒ぎ立てただろうが、今は気になるほどではない。

 


 水が滴るほどに濡れた服が、湿っていると感じる程度にまで、その場に座り込んでいた菜奈は、日が暮れる気配を感じて、自分の置かれた状況のまずさを悟る。

 さすがに水が滴るほどではないにしても服が濡れた状態、正確にはどこかわからないが山ないし森の中という現在地、凍死するような季節ではないとしても、低体温症などこのままでは命に係わる可能性があることは、一般常識の範囲しか知識のない菜奈でさえ予想がつく。


 震える膝に鞭を打って立ち上がると、視界の左右に伸びる道を見やる。ここに座り込んでしばらく経っているが、人は一人も通らなかった。そのような道に標識などという親切なものがあるはずもなく、どちらに歩けば人に行き会えるか想像もつかない。多少なりとも勾配があれば、山を下れば町があるだろうという予想もできるが、残念ながら道は平坦であった。

 影の方向から右側が西、左側が東、つまり菜奈は現在北を向いているということだけはわかった。

 道の選択はもはや勘であり、賭けでしかなかった。ただ、あと少しの時間であっても太陽が当たっていた方が温かいだろうという判断で、西向きに歩くことにした。

 

 左腕につけていた腕時計は、狼の牙の難を逃れて無事であったために、かろうじて4時42分という現在時刻はわかった。

 

 

 「なんで、誰もいないの……?」


 森を抜けることができたのは、菜奈が歩き始めて1時間程度すれば、森を抜けることはできたが、そこに広がっていたのは町ではなく、草原と呼ばれるような地帯であった。

 やはりそこに人影はなく、民家も見当たらない。そのため、菜奈は、そのまま歩き続ける羽目になった。

 

 1時間半も歩けば、日は完全に傾き、もう少しで沈もうというところまで来てしまった。周囲には、人影もなければ民家もなく、街灯すらない。そんな状態では、日が沈んでしまえば、周囲は真っ暗になってしまうだろう。


 自宅の近くにこんな田舎のような所はあっただろうか、そんな疑問も頭によぎるが、疑問を解決したところで、現状家に帰れないという問題は解決しない。


 森を抜けてからは、かなり視界が開け、相当先まで見渡すことができるようになったが、見える範囲に民家はないため、ここから日が暮れるまで走ったとしても、人に出会えることは期待しない方がいいだろう。せめて人がいれば、泊めてもらうなり、親に連絡してもらって迎えに来てもらうなりできただろうが、人がいないのではそれも期待できない。


 野宿を覚悟すべきか、とげんなりしつつ野宿ができそうな場所を探して周囲を見回す。とはいえ、どのような場所が野宿に適しているのかもわからないため、雨が降っても大丈夫なように、道沿いに生えている大き目の木の根元に腰を下ろすという選択をする程度しかできなかった。


 寝袋どころか火をつける道具も持ち合わせていないため、木の根元で、膝を抱えて丸くなるしかない。歩いている間に濡れてしまった服が乾いてくれたのが幸いであった。おそらく凍死まではしないだろう。


 それでも狼に襲われた恐怖から、ぐっすり眠ることもできないが、うとうとと疲れからくる睡魔に誘われるまま、仮眠をとるのだった。



 次に菜奈の意識が浮上したのは、朝日が昇ってしばらくしてからであった。

 朝日に照らされ、身体があたためられたことにより、意識が浮上する。

 時計を見れば、7時になっていた。


 空腹ではあるが、食べ物などあるはずもなく、空きっ腹を抱えながら再び歩き出した。



 5時間以上歩き続け、ようやく見つけた人影は、日本人ではなかった。金髪に青い瞳の明らかに西洋人の顔立ち。それが複数人。それにもかかわらず、聞こえてくる言語は日本語だった。しかも、服装が歴史の教科書で見るようなものであった。


 日本語を話す、西洋人風の人たちがコスプレとしか思えない格好をしていてもその先に集まっているのがテーマパーク風の場所であれば、納得もできよう。しかし、集まっているその先にあったのは、高い塀に囲まれた場所とその中に入るためと思われる門だった。

 門の前で検問のようなものがあるらしく、検問待ちの人々が列をなしていたのである。


 「日本じゃ……ない?」


 ファンタジーアニメなどで見られるような光景に思わず呟く。

 万が一日本ではないとすれば、菜奈には身分を証明するものが何もなく、街らしき塀の向こうに入ることができないかもしれない。


 とりあえず、検問でどのようなことをしているのか知る必要があると思い、菜奈は、列に並ぶのではなく、列の先頭を遠目に見に行く。

 列の先頭では、鎧のようなものを着た兵士と思われる男に、何か見せていくつか問答をしているようだった。

 確実に身分証明書のようなものが必要であることがわかり、怪しまれないうちに急いで離れる。


 とぼとぼ、という表現がぴったりな様子で肩を落としながら、列の最後尾に向かって歩いていると、途中で声を掛けられた。


 「嬢ちゃん、どうしたんだい?」


 声を掛けられるとは思っておらず、最初自分思わず、小動物のように周囲を見回してしまった。

 

 「わ、私、ですか……?」

 「アンタ以外誰がいるんだい。で、どうしたんだい?ひどい恰好じゃないか」

 

 声をかけてきたのは40代くらいに見える恰幅の良い女性だった。

 無遠慮に上から下まで見て、顔をしかめている。しかし、その表情は、警戒というより、心配の色がつよかった。おそらく、自分の娘と同じ年頃の娘が『ひどい』恰好をしているのを見過ごせなかったのだろう。


 「アンタ、怪我もしてるのかい?腕、血まみれじゃないか」

 「えっと…森で狼みたいなのに襲われちゃって……」

 「狼…、ガルムか、ハティかい?」

 「いえ、あの、種類はちょっと、必死だったので……」

 「とりあえず、殺されなくてよかったね。五体満足なんて運がいいじゃないか」

 「はい、そうですね……何とか逃げられて」

 「ああ、それで逃げるときに荷物をなくしちまったのかい?手形も?」

 「あ、はい、そうなんです。だから、門を通れそうになくって、困ってて……」


 勘違いをしてくれていそうな女性に、菜奈は迷わず話を合わせた。

 この女性に何とかしてもらうことができないかと、他力本願ながら淡い期待を抱く。


 「かわいそうに。なら、ウチの商隊と一緒に並びな。手形の再発行手続きをしてもらおう」

 「はいっ。手形の発行の仕方がわからなくって困ってたんです。ありがとうございます」

 「不安だったろうね。もう大丈夫だよ」


 想定通り、何とかしてもらえそうで、菜奈は心底安堵する。安堵と同時に、空腹を思い出してか、腹の虫が盛大に合唱をした。真っ赤になって俯く菜奈に、女性は盛大に笑い声をあげた。


 「魔物に襲われて怖い思いをしたんだ。腹がすいたのも忘れてたんだね。今はこんなものしかないが、良かったら食べな」

 「あ、ありがとうございます!」


 差し出されたのは、固そうなパンだった。しかし、丸1日以上何も食べていない菜奈にとっては、ごちそうにも等しいものだった。

 差し出されたパンを受け取って、菜奈は迷わずかぶりつく。見た目通り、フランスパンのような硬さの、たいして味のしないパンだった。しかし、手に入れることのできた唯一の食料。文句を言う立場にはないのは、菜奈でも理解していた。


 その後、菜奈は、女性-イザベルというそうだ―の馬車の荷台に座らせてもらった。イザベルはフレデヘナという町からこの町、ネセバーに行商に来ているらしい。ネセバーは、この周辺では中堅程度の大きさの都市だということだ。近くに小規模のダンジョンがあることから、冒険者が集まりやすいとのことだった。

 また、街に入れば、炊き出しがされているため、当面の食事は確保できるだろうとのことも教えてもらえた。

 しかし、当然ながら日本への帰り方を訊けるわけもなかった。状況を聞けば聞くほど菜奈は、自身がこの場で異質であることを自覚していく。そして、ここが地球ではないのではないかという疑念を確信に変えていく。


 イザベルと話している間に列はどんどん前に進み、検問が目の前に来た。


 「手形を」

 「はいよ。あと、この子、昨日魔物に襲われて、荷物を落として手形なくしちまったみたいなんだ。再発行してやっておくれ」


 おそらく定型文なのだろう兵士の言葉にイザベルは、自らの手形を呈示しながら、菜奈のことを示す。

 

 「そうか。大変だったな。手形の再発行手続きはこちらだ。来なさい」

 「は、はい。」


 事前に聞いていたとおり、門の傍らにある扉をしめされて、菜奈は頷く。


 「じゃあ、ナナ。アタシはこれで」

 「あ、はい。イザベルさん、ありがとうございました」


 検問を終了し、門を通ることを許されたイザベルは、馬車を降りた菜奈に手を振る。菜奈も手を振り返してそれに応じて、イザベルを見送った。


 「さて、再発行に当たっていくつか聞きたいことがある。そこに座ってくれ」


 門の傍らの扉の中には、小さな小部屋があり、簡素な机と2脚の椅子が置いてあった。菜奈を促した兵士は菜奈をその椅子に座るように示す。菜奈もそれを拒否する理由はないので、素直に従ってその椅子の片方に腰を掛けた。


 兵士は菜奈を座らせると、名前、年齢など個人情報を訪ね始めた。

 名前や年齢については正直に本当のことを答える。しかし、住んでいた町については、ここが地球ではない可能性がある以上、本当の住所を正直に答えるわけにはいかない。とはいえ、ここが地球ではないとすれば、イザベルの住んでいるフレデヘナとこのネセバーの町の名前しか知らない。セネバーの名前を答えてしまったら、調べられてはうそをついたことがわかってしまうため、フレデヘナの名前を答える。

 ここに来るまでに、イザベルから再発行に当たってどのようなことをするのかはあらかじめ聞くことができたため、この回答はあらかじめ考えることができた。


 そうして兵士の質問にすべて答えることができた後は、淡々と手形と呼ばれる身分証明書が再発行された。


「すごい…」


 手形を受け取り、門をくぐった菜奈の目に入ったのは、異国情緒あふれる光景であった。

 菜奈自身は海外旅行をしたことはなく、すべてネットやテレビで見た光景ではあるが、ヨーロッパにある石造りやレンガ造りの建物が並ぶ街並みのような光景が広がっていた。


 



 


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