第2話 「え……?死んじゃ……た……?」

 木々が生い茂る森の中、それが次に目を覚ました際に、菜奈が目にした光景だった。


 「つめた……、って、ここどこ?」


 日本では山の中でしかお目にかかれないような周囲一面緑に、透き通る水をたたえた池とも湖ともいえるような水面に下半身を浸しながら、菜奈は横たわっていた。


 仰向けに横たわった状態で木漏れ日が顔に当たることから、晴れていることがわかる。上陸した台風が過ぎ去るほどに意識を失っていたのか、台風の目に当たっている状態なのか。あるいは、台風の影響を受けないほど遠くまで流されてしまったのか。


 用水路の濁流に落ちたところまでは覚えている。そして、自分が落ちたところが光っていたことも覚えている。しかし、そのあとについては、まったくと言っていいほど記憶がない。そのため、現在地についても全く分からない状況である。


 全身がずぶ濡れであることから、用水路に落ちたことは夢でないと判断しつつ、菜奈は、上半身を起こし、下半身も水中から引き上げる。立ち上がってみると、当然ながらブレザーからもスカートからも水が滴っていた。


 外気は肌寒いというほどではないが、このままでは確実に風邪をひくであろう。菜奈は、周囲に人気がないことを確認して、スカートとブラウスを順番に脱いで雑巾のように絞り、次いで、ブレザーは皴にならないように押すようにして水分を絞っていく。

 服は濡れたままであるが他に着るものもないため、仕方なく濡れたままのスカートとブラウスに再び袖を通した。


 気分は最悪だし、もはや課題などどうでもいいので家に帰りたい。そのためには何とか帰路を見つけなければならない。

 まずは、用水路を流されてきたはずなので、先ほど半身を浸していた池なのか湖なのかわからないが水面に目をやる。用水路がここにつながっており、そこを辿れば家に帰ることができると考えたのだ。

 

 しかし、期待とは裏腹に、用水路らしきものは見当たらない。池の水源は、湧き水のようであり、中央付近から水が湧き出ているような様子が見て取れた。


 「まさか、アレを通ってきた、ってことないよね?」


 池の水は透き通っていてきれいだが、これを服を着たまま泳いで水源を探る気にはなれない。菜奈は、早々に他の道を探すことにする。


 周囲を見渡してみるものの、道らしいものは見当たらないため、道を探すことから始めなければならないようだった。


 「えー……ほんと、ここどこよ。」


 用水路に落ちた際に鞄は手放してしまったようで、スマートフォンもタブレットも手元にはない。現在地を調べることもできず、完全に手探りだ。

 もっとも、スマートフォンもタブレットも用水路に落ちた時点で使い物になったかどうかはわからないが。

 かろうじて、左腕につけていた腕時計だけが唯一といっていい所持品だ。高校入学と同時に母親が買い与えてくれた金属ベルトのそれは、現在1時45分を指している。学校を出たのが1時15分頃だったので、それほど時間はたっていないようだった。


 池の周りは、開けていたが、道を探そうと思えば、そこから離れて、茂みを突っ切っていく必要がある。スカートでそれをすることには、現代っ子で田舎育ちではない菜奈にはだいぶ抵抗があるがやむを得ない。

 とりあえず、近くの茂みに向かって歩き出したところで、何かの呼吸音がすることに気が付いた。

 小さく、息を殺しているような、でも気が付けばわかる、そんな呼吸音。ハッ、ハッ、と聞こえる犬のような呼吸音から、人間ではないだろうと予想を立てる。茂みがわずかに揺れる大きさからすると、小型犬ではなさそうである。

 襲われた場合のことを考え、菜奈は、わずかに後ずさる。

 

 こちらが気が付いたことに気が付いたのだろう、隠れても無駄だと悟って、無効も茂みから顔を出してきた。

 大型犬、シベリアンハスキーのようにも見える見た目は、飼い犬のような優しそうな風貌ではなく、鼻梁にしわを寄せて唸り声をあげる様は、テレビで見た狼に近いだろう。


 「ひ……っ」


 刺激することを恐れてとっさに大声を上げそうになった口を両手で押さえる。

 しかし、口を押えた動作が刺激となったのか、狼は、余計に激しい唸り声をあげる。


 逃げなければ、と菜奈が走り出すよりも早く狼が動いた。

 狼は一直線に菜奈に向かって走り出し、菜奈の顔付近めがけて大きくその顎を開いていた。

 顔を庇うために咄嗟に両腕を掲げて目を閉じる。その直後、菜奈の左腕に激痛が走る。


 「いた……っ痛い、痛いっ」


 あまりの痛みに目を開くと、左腕に狼の牙が食い込んでいるのが見て取れた。

 狼は、そのまま首を振り、菜奈の腕を食いちぎろうとしているようであるが、幸か不幸か菜奈は、狼の首の動きに振り回され、食いちぎられるには至っていない。

 しかし、動くに従い、牙による傷口が広がり、痛みが増していく。


 「離してよぉ……っ」


 涙目になりながら、菜奈が狼の上顎を掴んで、牙を引き抜こうとするが、うまくいかない。この狼のような生き物が狼と同様かわからないが、狼の咬合力は約500キログラムと言われる。一般の女子高生に引きはがせるような力ではない。うまくいかないのは当然といえば当然である。


 しかし、菜奈が狼と格闘すること数分。徐々に狼の力が抜けていくように感じた。狼の首をふる力が弱くなり、牙が食い込む力が弱くなる。

 そうして、菜奈が痛みに耐えながら狼と格闘すること更に数分。狼の足に力が入らなくなり、牙が腕から抜け、ついに狼が地に伏した。


 「何……?どうしたの……?」


 これといった攻撃は菜奈からはしていない。

 しかし、狼は虫の息と言っていいほど、弱弱しい呼吸を繰り返すのみである。唸り声をあげる力ももはやないのだろう。菜奈を恨めしそうに見上げるだけである。

 

 菜奈は、噛み跡から血を流す左腕を抑えながら狼を見る。その瞳には恐怖の色が強い。そして、次いで警戒。当然である。狼が息を吹き返して、再び噛みついてくる可能性がないわけではない。

 

 狼を視界に入れながら、ゆっくりと後ずさり、菜奈は、池のほとりまで歩く。

 この狼がどのような病気を持っているかわからない以上、一度傷口を洗っておくべきと思ったのだ。

 

 狼から視線を外すことなく、菜奈は痛みに耐えながら傷口を洗う。そして、包帯なんて上等なものを持ち合わせていないことから制服のネクタイを傷口に巻き、包帯替わりにした。


 そうしているうちに狼は、目を開けている力もなくなったのか、弱弱しい呼吸は続けながら瞳を閉じてしまった。


 菜奈は、患部を縛り終わると、恐る恐る狼に近づく。また噛みつかれては困るため、狼の背側に回り込んでゆっくりと。


 そうして、横倒しになっている狼の背に近づくと、そっと狼の背に触れた。見た目ではわからないが、かろうじて呼吸をしていることがわかる。しかし、菜奈が触れた瞬間から、呼吸もさらに弱くなっているように感じた。


 そうして狼の背に触れているうちに、やがて狼の鼓動が止まっていることに気づく。


 「え……?死んじゃ……た……?」



 思わず、といった様子で狼の背から手を離し、立ち上がって2、3歩下がる。

 ペットを飼ったことのない菜奈からすれば生き物の死に初めて触れたのだ。当然と言えば当然の反応である。


 襲ってきた狼とはいえ、突然生き物が理由もわからず死んでしまい、恐怖にかられた菜奈は、狼の死体をそのままに、狼の死体から離れるようにして駆け出したのだった。


 




 




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