怪盗トリッカーは、手元にある地図を確認しながら、屋敷内を走っていた。屋敷外にこそ王都の護衛銃騎士団が配置されているが、屋敷内は治外法権。貴族の許可なくして、騎士団の面子を配置することはできない。

 幸いというべきか、ここにまで騎士団員が入ってきていないようだ。怪盗トリッカーは絨毯の階段を駆け上がり、掛けられた絵画を見上げた。

 ヨハネの【祈り】と呼ばれる絵である。

 天使のような姿をした女性が、天に引っ張り上げられる一方、スカートの裾を鳥のくちばしが咥えており、天国にも地獄にも行けない女性の悲哀というものが描かれているらしい。そのタイトルのせいだろうか。


(……悲しい感じがする。多分これに当てられた人は……)


 この貴族邸の婦人は、この数日ばかり寝込んでしまっているらしい。人の悲しみ……特に女性が持っている悲しみを増幅させられてしまったんだろうと怪盗トリッカーは思う。

 怪盗トリッカーは地図を装束にしまい込むと、手に持っていた鳥籠の戸を開く。


「いらっしゃい。あなたを家に帰すから……あなたがここにいてはいけないわ」


【祈り】に成り代わってしまった魔道具にそう囁き、そのまま魔道具が逃げ出さないように鳥籠に回収しようとしたときだった。

 パァンッと音が響き、怪盗トリッカーが飛んだ。

 そこには真新しい騎士団服を着て、凛とした佇まいで銃を構えている少年と言ってそん色のない騎士が立っていた。


「いたぞ、怪盗トリッカー……!」

「まあ、騎士さん。こんなところに入ってしまって、この屋敷のご主人に怒られない?」

「後で始末書をいくらでも書くさ! だが、規則を守ったせいで、大切なものを盗まれて泣く人を見放して、それが正義だと言えるのか!?」


 彼の言っていることは青臭い正義に満ち満ちていて、同い年の女子からは煙たがられそうだが。怪盗トリッカーは仮面越しにそんな彼を苦々しく思って見ていた。


(どうしていつもいつも邪魔するの、エルマー! そもそも魔力のない人には一切見えないはずの装束纏っているのに、どうして私が普通に見えているの……!)


 この青臭い正義感の持ち主である騎士エルマーは、怪盗トリッカー……イヴリルの幼馴染であり、同じ王立学園に通う同級生であった。

 エルマーは凛としたたたずまいで、銃を構える。


「今すぐにその盗もうとしている絵画から手を離してくれたら手荒な真似はしない。だが、それでも動こうというものなら……!」


 それに怪盗トリッカーは怯む。


(本当の本当に、エルマーったら馬鹿なんだから……! これのせいで、ここの家の奥方は寝込んでるのに、盗まない訳にはいかないでしょう!?)


 しばらく考えてから、怪盗トリッカーは鳥籠を開いた。途端に、絵画が怪盗トリッカーが触れていないにもかかわらず、フワリと浮き上がる。それにエルマーは驚いた顔をする。


「待て! いったいどんな手品をしたんだ……!」

「ごめんあそばせ騎士さん。この子は私がいただくわね」


 そう言いながら、怪盗トリッカーは籠をパチンと閉じた。絵画はもう、跡形もなく消え失せてしまっている。

 それにエルマーは慌てて彼女に銃を向ける。


「いったいなにをやった!? どうやって絵画を消したんだ!」

「種も仕掛けもないのだから、教えることはできないわね。ごめんあそばせ」


 そう言って、彼女は走り出した。

 怪盗トリッカーの心臓はバクバクと鳴っている。


(エルマーに私だってばれなかったかしら? ちょっと格好つけてしゃべってみたけど、ばれてないよね? 学校に行ったときにからかわれたり逮捕されたりしたら嫌だもの……!)


 そのまま窓から飛び降り、着地する。

 エルマーに見つかる前に逃げ出さないと。彼女のことを銃騎士たちは見つけ出すことができない。ぶつかったら途端に見えるようになってしまうからと、必死に鳥籠を抱きしめて人波をすり抜け、怪盗トリッカーは走り出していった。


   ****


 王立学園。

 ここは王都に住む貴族階級だけでなく、新興貴族や豪商なども通う学校であり、社交界デビューを前に、社交界での礼儀作法からコネクションづくりまでを学ぶのを第一としている。

 イヴリルが馬車で学園前に降りると、イライラした様子で歩いている見知った姿を見つけた。


「……おはよう、エルマー。ずいぶんとカリカリしてるのね」

「おはようイヴリル。ああ、また! また逃げられたんだよ! 怪盗トリッカーに!」


 そうプリプリと怒っていた。

 幼馴染であるエルマーの実家は王都にいる護衛銃騎士団の中でも、王城護衛を任されている騎士の家系なため、怪盗が王都を騒がせている現状は、はっきり言って面白くないのだろう。騎士団が馬鹿にされたり信用されなくなってしまったら、治安が乱れるのが目に見えているからだ。


「大変なのね……盗難された家の人たちはどうなったの?」


 まさかイヴリルも、治安悪化の危機が迫っている元凶が自分だとは言い出すこともできず、タラタラと冷や汗を流しながら尋ねてみる。それにエルマーが肩を竦めた。


「それがな、先日から奥方が寝込んでらしたんだけれど、怪盗トリッカーが出て行った途端にベッドから起きられるようになったってさ。いったいなんだったんだろうな。医者の見立てでは心労だったらしいけれど、いったいなにが祟ったのか最初から最後までわからなかったんだからさ」

「そう……怪盗に物を盗まれたのはよくなかったけど、奥方様は助かったのね」


 イヴリルは心底ほっと胸を撫で下ろしたけれど、エルマーのムッとした顔は治らなかった。


「ぜんっぜんよくないね! 昨日の今日も、新聞屋が俺たちの悪口を書き放題なんだからさ。これで王都の治安が悪化したら、あいつらのせいなんだからな。あと怪盗トリッカー。それを新世紀のヒロインなんて大々的に見出しをつくってお披露目するなんて、心底どうかしているよ」


 そのエルマーの憤慨の仕方に、イヴリルは「アハハハハ……」と乾いた笑いを漏らすしかなかった。

 ただでさえ、新聞は探偵小説を持てはやしている素振りがある。探偵小説の連載の書かれている新聞は飛ぶように売れるし、おかげで連載を持っている小説家も、他のジャンルを書くことができない売れ行きだと聞いたことがある。

 そこで現実に怪盗が様々な貴族の家に押し入って宝物を盗んでいくんだから、そりゃ痛快になって、こぞって記事に書き立てるのだ。

 イヴリルからしてみれば、ただでさえ治安悪化を気にしている護衛銃騎士団を怒らせる上に、警備が厳重になるから勘弁して欲しいところなのだが。


(まあ、騒がしいだけで、私の正体を割り出そうとしている訳じゃないから、放っておいてもいいのかもしれないけど……これ以上護衛銃騎士団を刺激して欲しくないのよね……エルマーとだって気まずいし、いっつも怒ってるんだもの)


 イヴリルがそっと溜息をつくと、エルマーと目が合った。普段からよくも悪くも快活で明快な彼が、難しい顔をしてこちらを見てる。


「な……なによ……」

「いやあ? 最近イヴリルもなにか悩み事かなと思って。俺が相談に乗ってやってもいいぞ?」

「ちょっと、エルマーに相談に乗ってもらうほど、私も落ちぶれてはいませんっ!」

「なんだとー? 俺だってイヴリルに慰められるほど駄目な騎士じゃないからな!」


 そう言ってふたりでギギギギといがみ合う。

 周りからは生暖かい目で見られているが、本人たちは気にもせず。

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