末期の水

「あぁ……」

 俺は遂に倒れ込んだ。

 昨晩までの雨で川の様に泥水が流れるのも気にすることができない。俺の右半身は半ば泥にめり込んで、温い水が服に滲みて身体がいつもの5倍重く感じた。

 白骨街道。

 抜け出せぬ牢獄だ。人々はインドから撤退する間にバタバタ死んでいった。道には死体や、もうすぐ死体になる者があちこちに落ちて、かろうじて歩ける者たちの皮肉にも帰還の道標となっていた。ある者は瘦せ細り、ある者は体内のガスで首や腹が膨れ、ある者は排泄物を垂れ流したまま蛆や蚤や蝿にたかられ、皆異臭を放っていた。多くの者が飯盒以外は背嚢も小銃も捨て、身一つの状態だった。俺だって、背嚢はもう随分前に捨てた。1週間続いた雨は、死体の腐食を早め、ふやけた皮膚を大量の虫が食い千切った。俺もその一員になるのだ……。

 体中が痛い……力が入らない……熱帯熱にもやられているらしい……意識が朦朧としている。しかし目を瞑ったら死ぬ気がする。腹は減っているのに吐き気がする。固形物はもう身体が受け付けなくなって久しい。昨日も胃液を幾度か吐いた。ああ……水が飲みたい、綺麗な水が……。

 俺は泥水を啜りながら思った。

 道の中央に溜まっていた泥水を無意識に口に含んでいたのだ。寄生虫や菌の大繁殖していうであろう汚い水だった。絶対飲んではいけない水だ。なのに止められない。起き上がって震える両手でそれを掬う。

 夢中になって二口三口する。飲み込み切れず吐き出す。また啜る。また吐く。液体でも駄目になったか……。

 ……俺ももう死のう……そんな諦念が脳裏をよぎり、霞む目を瞑りかけた時、身体が軽くなった。

 ああ……最期に、最期に一口でいいから綺麗な水が飲みたかった……俺の末期の水はこんな泥水か……泥と、誰かの体液と、腐臭と、怨念で汚れ切ったこんな水が……。

 そこまで考えると、自分が前のめりになって倒れる感覚を最後に、俺の意識は完全に途絶えた。


 どのくらい経っただろうか、俺は目覚めてしまった。

 薄く開けた眼に容赦なく白い日光が木々の隙間から差し込む。ムシムシ肌に張り付くような暑さが唐突に俺を襲う。体の上を虫が這う。黄泉の国でないことは明白だった。

 死を確信したのに何故……。

 ――ああ、そうか。

「み……ず、か」

 そうか。あれか。あれには、真水にはないような、息を吹き返すことができる程度の養分が含まれていたのかもしれない。でも、どうせ歩き出しても死ぬだろう。それで長く苦しむくらいなら、今ここで死のう。

 もう一度目を瞑りかけた。

 ……待てよ。何故俺は無意識に泥水を啜った?

 どうせ死ぬなら、飲まなくても良かった。でも、俺はそれを飲んだ……。それが俺を生き永らえさせた……そして俺は今……。

 死ぬのか?

 死ぬことは、許されるのか?

 自分に問いかけた。

 明確に答えを言葉にはしなかったが、無意識にも、俺は近くにあった枝を支えにして立ち上がっていた。

 それが答えで良さそうだった。


                        終

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