末期の水

「あぁ……」

男は遂に倒れ込んだ。

昨晩までの雨で道には川のように泥水が流れている。しかしそれを気にしている余裕はとうの昔に失せていた。右半身は泥にめり込んで、温い水が滲みて身体がいつもの五倍重く感じた。

白骨街道。

抜け出せぬ牢獄、当に地獄である。兵士はマニプール河に沿って生きたまま死んだような虚ろなものになってふらりふらりと敗走していた。行軍と呼ぶのもはばかられる無惨な様子だった。

彼らは撤退する間にバタバタ死んでいく。道には死体や、もうすぐ死体になる者があちこちに落ちて、皮肉にもかろうじて歩ける者たちの帰還の道標となっていた。皆瘦せ細り異臭を放って、ある者は体内のガスで首や腹が膨れ、ある者は排泄物を垂れ流したまま蛆や蚤や蝿にたかられ、ある者は五体不満足で「殺してくれ、殺してくれ」と喘いでいる。多くの者が飯盒と手榴弾と着剣小銃以外は捨て、殆ど身一つであった。足元は殆ど裸足のような状態である。男は手榴弾すら捨てていた。雨季は死体の腐食を早め、頭蓋が露わになりふやけた皮膚を大量の虫が食い千切った。

――俺もその一員になるのだ。

男は朦朧とした意識の中で考えた。どこか他人事のように。

体中が痛い。力が入らない。熱帯熱が生命を蝕む。目蓋が嫌に重い。脚は皮膚病や脚気に侵されて立っているのも難しい。腹は減っている。しかし吐き気がする。固形物はもう身体が受け付けなくなって久しい。昨日も胃液を幾度か吐いた。

疲れた。もう、疲れたのだ。

――ああ、水が飲みたい。綺麗な水が……。

脳内にそれだけがぼんやり浮かんできた。

母の顔も戦友の声も妻子の手のぬくもりも何も思い出せないのに、生きたいとすら思えないのに、それだけが。

気がつくと男は泥水を啜っていた。

道の中央に溜まっていた泥水を無意識に口に含んでいたのだ。絶対飲んではいけない水だ。泥と誰かの体液と腐臭と怨念で汚れ切った水だ。なのに止められない。起き上がって震える両手でそれを掬う。

夢中になって二口三口する。飲み込み切れず吐き出す。また啜る。また吐く。身体が液体すら受け付けないのだ。

――俺ももう死ぬな。

本能がそう囁き男を嘲笑った。その瞬間気が楽になった。やっと神仏が手を差し伸べたのだ。今の男にはそれが天道神だろうと疫病神だろうと関係はない。ただ、やっとこの地獄から抜け出せる。

――ああ、最期に、最期に一口でいいから綺麗な水が飲みたかった。俺の末期の水はこんな泥水か……。

霞む目を瞑る寸前、男の脳裏には諦念に混ざってそれとは別の感情がよぎったが、正体に気づく前に男の意識は前のめりになって倒れる感覚を最後に完全に途絶えた。

 

どのくらい経っただろうか、男は目覚めてしまった。

戻った聴覚の中に遠くの爆発音と叫び声が飛び込んでくる。戦友の呻きが低く響く。薄く開けた眼に容赦なく白い日光が木々の隙間から差し込む。唐突に肌に張り付く暑さが襲う。何匹もの羽斑蚊が土色の肌を刺す。名誉でも何でもない銃創がジンと熱くなる。露出した肉の上を蛆が這う。黄泉の国でないことは明白だった。神仏は男を見放したのだ。

何故見放されてしまったのか。

――ああ、そうか。

「み……ず、か」

そうか。あれか。あれの所為か。

でも、でもどうせ歩き出しても死ぬだろう。それで長く苦しむくらいなら死んだ方がましだ。

どうせ死ぬなら、後で苦しむことになるなら、あんな水は飲まなくても良かった。飲まない方が良かった。しかし彼はそれを飲んだ。それが彼を生き永らえさせた。

何故飲んだのか。理由は明白だった。そこに液体があって、飲まなければ生命を保てないからだ。

しかし今の男にとっては『飲んだ』というその事実だけが一筋の救いの糸だった。汚れきった水が男を生き永らえさせた、というその結果だけが必要だった。

……自分が死ねば兵士達の死は誰にも知られず異国の泥に埋まっていく。苦しい生を生き、苦しい死を死んだ彼らと自分に報いずに、自分も共にこの泥中に引きずり込まれていくのだ。こんなところで惨めに斃れて靖国になど帰れまい。

死ぬことが許されるのだろうか?

自分に問いかけた。

明確に答えを言葉にはしなかったが、男は自らに群がる虫を払い、投げ出していた小銃を支えにして無意識にも立ち上がっていた。

倒れる直前の感情の正体が分かった気がした。



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