三枚のお札

 ヨネは戸惑っていた。夕餉の支度をしていたら、障子を開けてこちらを見ていた小僧っ子が変なことを言い出したからだ。


「ああ、山姥が包丁を研いでいるよ」


 今、山姥と聞こえたようだが……だがこのとき、ヨネはそれほど気にしなかった。あのくらいの子どもは人が傷つくかどうかを考えずに酷いことを言うものだから。


「なあ、山姥! オラ、厠さ行きてぇだ」


 だから小僧っ子がそう言ったときも、夕餉の支度の手をいったん止め、厠へと小僧っ子を案内してやったのだ。

 

 ヨネが小僧っ子と出遭ったのはつい半刻ほど前のこと。

 いつもなら帰ってくるはずの夫が日が暮れかけたというのに帰ってこない。そういう時は町に売りに行った野菜があまり売れなかった時だから、落ち込んで帰ってくるのではないかと隣町まで続く街道まで様子を見に行った……その帰りのことだった。

 広々と続く地主の田んぼ、そこを貫くあぜ道にぽつんと、その小僧っ子は立っていた。

 見慣れない子だったが、夜は近いしと声をかけたのだがその答えは「栗を拾いに来たら、日が暮れてしまった」と。

 辺りには栗の木など一本もないし、だいいち栗の季節ではないのだ。

 はじめはキツネかタヌキが化けてからかっているのかとも思ったが、もしも本当に人の子だとしたらこんなところに一人で置いておくのも可哀想だからと、家へ連れ帰った。

 お腹が空いているというので夕餉を食べていきなさいと言ったら小僧っ子は喜んだ。そして支度をはじめたのだけれど……さきほどの小僧っ子の言い草だ。


「もうちょっとー!」


 便所から叫ぶ声が聞こえる。何がもうちょっとなのだろう。


「もうちょっとー!」


 また叫んでいる。尻を拭く葉はまだ何枚もあったはず。


「もうちょっとー!」


 そういえばあの小僧っ子……目の焦点は合ってなかったし、名前も言わなかった。何かの病にかかっているのかもしれない。そう考えたヨネは心配になり、厠へ様子を見に行った。


「もうちょっとー!」


「どうしたんだい?」


 ヨネが声をかけると厠の戸が勢いよく開き、小僧っ子が飛び出してきた。


「どうしよう、一枚目のお札は使ってしもうた」


「……お札?」


 ヨネが小僧っ子の顔を覗き込むと、小僧っ子は裸足のまま外へと飛び出した。


「これ、小僧っ子や、草鞋を忘れておいでだよ」


 ヨネが小僧っ子の忘れた草鞋を持ち、もうかなり暗くなったあぜ道を追いかけると突然、小僧っ子は立ち止まった。

 そしてくるりと振り返る。

 暗がりの中で目だけがわずかに白く光っているようでヨネはぞっとする。

 この子はやっぱりキツネやタヌキの類なのか。それとももっと恐ろしい……ヨネがそれ以上考える前に、小僧っ子がまた叫んだ。


「大の川、出ろ!」


 とっさに身構えるヨネであったが、何も起こらない。しばらくすると小僧っ子が口ごもるようにぶつぶつと何か言っているのが聞こえた。


「川は飲み干されてしもうた。そして二枚目のお札も使ってしもうた」


 ヨネはこの小僧っ子にこれ以上関わらない方がよいと考えはじめた。なので手に持っていた小さな草鞋を小僧っ子の前へそっと置き……そのとたんに小僧っ子はまた叫んだのだ。


「火の海、出ろ!」


 ヨネはびっくりして後ろへと下がる。だが何も起きず、そして小僧っ子はまた立ち尽くしたままぶつぶつと何かを言っている。


「さっき呑んだ川の水で火は消されてもうた。そして三枚目のお札も使ってもうた」


 ヨネは怖くなった。それにそろそろ夫も帰ってくるだろう。家を空けたままでは心配させてしまうかもしれない。というよりこれ以上ひとりでこの子と一緒に居たくはなかった。


「わたしゃ帰るからね。あんたもおうちへお帰り。ほら、そこに草履を置いたからね。ちゃんと履いて帰るんだよ」


 きびすを返して帰ろうとしたヨネは何かにぶつかった。埃臭い……やわらかい……雑巾に似ていると思ったヨネは慌てて顔をぬぐう。その手をむんずとつかまれた。


「ひぃっ」


「うちの小僧が世話になったようじゃ」


 見上げるほどの大男。頭に毛はなく、よく見れば袈裟のようなものをまとっている……とても臭い袈裟だが。


「ど、どなたでしょうか……お手をおはなしくださいませ」


 しかしその男は強い力でヨネの手をひねりあげたまま離さない。


「わしは近くの寺の和尚だ。栗拾いに行った坊主が遅くまで帰ってこないので心配になって見に来たのじゃ」


 心のこもっていない声。


「山姥よ……うちの小僧を食いたければまず、わしと術比べをしよう」


 何を言っているのだこの和尚さまは……と、ヨネは思いはしたものの恐れのあまり声が出てこない。


「山ほどに大きくなれるか?」


 そう言いながら和尚はヨネをつかんだ手を高くひっぱりあげる。地面から足が離れたヨネはいよいよ怖くなり、必死に手足をばたつかせようとした。すると和尚はもう片方の手でヨネをつかみ地面に引き倒しながらこう言った。


「豆になれるか?」


 豆? 豆になんてなれるわけが……この二人、おかしい。自分は何か悪いものに化かされているのだろうか。ヨネは自分の中からあふれてくる涙と一緒に「おたすけください」と一言、なんとか声を出した。しかし和尚は手を緩めたりはしない。


「おう、豆になったぞ。餅に挟んで食らうてやろう」


 そう言いながらヨネの腕にかじりついた。鋭い痛み。ヨネは逃げようと必死に暴れる。その時、手の先が何かに触れた。冷たい、小さな手。さっきの小僧っ子がすぐ近くまで近寄ってきていて、ヨネのもう一本の手をつかんだのだ。

 ヨネはめちゃくちゃに手を振り回そうとする。

 小僧っ子の手は、和尚よりも力が弱い。なんとか手を振りほどくと、手のひらに何かが触れた。

 ヨネがそれを「お札」だと思ったのは、先ほどから小僧っ子が「お札を使ってしもうた」となんべんも言っていたから。藁にもすがる気持ちでヨネはそのお札をつかんで引っ張った。その時だった。


 ぼふ。


 土埃と、むせ返るほどの悪臭が周囲に広がった。腐りかけた死体の匂い。


「ああ、せっかく作った小僧が」


 和尚の声が聞こえ、と同時にヨネをつかんでいた手がゆるんだ。ヨネは今を逃せば後はないとばかりに起き上がり、力の限り走り出した。

 和尚が追ってくる気配はない。

 神様、仏様、と、祈りながら家まで戻ると、既に帰っていた夫が不安そうに入り口に立っていた。

 ヨネは夫と共に家へ入るとしっかりと閉じまりをし、先ほど起きたことをすべて話したのだった。

 

 二人で眠れぬ夜を過ごし、一番鶏が鳴いたのを合図に二人で家を飛び出し、村人達にそのことを知らせに行く。すると村人達も街道近くに腐りかけた子どもの死体が転がっていたと話をしているところだった。

 ヨネの腕はかじられた傷口から黒ずんでゆき、医者に見せたが治るどころか原因も分からないまま三日が過ぎ、ヨネは全身が黒くなって死んでしまった。

 

 

 

<終>

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