第28話 堕天使ルシファー
次の瞬間、モーセの顔面を、黒い剣が貫いた。
バシャリと大きな音と共に、血なのかなんなのかわからない黒い液体がモーセの顔から飛び散る。自分の死を覚悟していた鮮巳は状況をまったく理解できない。
顔面を剣に貫かれたまま、モーセが振り返る。そこには、真っすぐな黒い髪と瞳を持つ、一人の堕天使がいた。
大きな三対六枚の翼は闇のように黒く、身に着けた丈の短いドレスもそれと同様に真っ黒だ。右目を長い前髪で隠したその姿を鮮巳が見ることは出来ないが、その堕天使は息を呑むほどに美しい顔立ちをしていた。
「上級悪魔モーセ。解放してやろう」
堕天使がモーセの顔面から剣を引き抜く。バシャリと黒い液体が飛び散り、モーセは地面に潜って堕天使の前から姿を消した。鮮巳は状況を理解できないまま、見えない視界でキョロキョロとあたりを見回している。
堕天使はそんな鮮巳の姿を一瞥すると、振り返った。その瞬間、鮮巳と堕天使を挟んで、大きな黒い高波が現れた。
高波はゴウゴウと大きな音を上げながら、二人を呑み込もうと迫る。波から無数に飛び出すのは、その波に呑み込まれた者たちの行き場のない手だ。高波の向こう側に、不気味なモーセの姿が見えた。
「……小賢しいことを」
堕天使が呟いたその時だった。堕天使を取り囲むように数えきれないほどの黒い剣が出現した。宙に浮かぶ剣はその矛先を迫りくる高波に向ける。
「
無数の剣は波に向かって行き、その数はあまりに多く、無数の弾幕のようにも見えた。剣はその数で高波を蹴散らし、次第に高波の姿が消えていく。向こう側に見えるモーセはどこか、悔しそうな表情を浮かべているように見えた。
「悪あがきはやめろ。神に抗い、天に上がらず、堕ちた聖人よ。その願いと祈りだけは称賛に値しよう」
堕天使は手に持った剣の矛先を、目線の先にいるモーセに向けていた。
「安らかに、消えろ」
剣が堕天使の手を離れ、目にも止まらぬ速さでモーセに向かって行く。モーセは向かって来た剣を杖で叩き落としたが、その後ろに現れた堕天使に気が付きはしても間に合いはしなかった。
モーセの背後に現れた堕天使が剣を振る。モーセの首が飛んだが、身体は動き続け、モーセの杖が堕天使に牙を剥いた。
堕天使が素早くモーセから離れた瞬間、現れた無数の剣がモーセの身体を貫いた。無数の剣に貫かれたモーセの身体がグラリと揺れる。
堕天使は冷静に転がっていったモーセの首へと歩いていくと、手にした剣の矛先をモーセの首に向け、迷いなく貫いた。
その堕天使は上級悪魔をものともせず、圧倒してみせた。
上級悪魔モーセが消える。それに伴いモーセの結界が消えていく。鮮巳はただ何もわからず、困惑していた。
「お前は間違っていないよ。サマエル」
モーセを圧倒した堕天使が、目が見えない鮮巳の前にやって来る。その声をようやくちゃんと聞いて、鮮巳は気が付いた。
「……ルシファー……?」
それは、七大天使争奪戦争の引き金となった天使の名。神への反逆を誓い、堕天使を束ねる堕天使の長だった。
ルシファーが膝をつき、鮮巳に手を伸ばす。モーセの杖に打たれた鮮巳の目は、二度と光を見ることはない。
「……マリス……マリスはどこ……?」
鮮巳の言葉に、鮮巳に伸ばしていたルシファーの手が止まる。鮮巳は手探りでマリスを探していた。
「マリス……マリス? どこ? どこにいるの?」
消えていく結界の中にマリスの姿はどこにもない。目が見えない鮮巳はその事実に気が付かなかった。
「マリス? マリス……」
「エンジェリックは神に与えられた力だ」
ルシファーの手が鮮巳の頬に触れる。ルシファーは優しく、鮮巳を抱き寄せた。鮮巳の目から流れ落ちる血がルシファーの手を赤く染めていく。
「天使が堕天すれば、エンジェリックは消える」
マリスは跡形もなく消え失せていた。鮮巳はしばらくルシファーの言葉を飲み込めず、呆然とする。そして、ようやく「……あ……」と小さく声を上げた。
「あああああああ‼」
鮮巳の口からあふれ出したのは、悲痛な叫び声だった。マリスが消えたという現実と、堕天したという事実。神は鮮巳に手を差し伸べない。
絶望の叫び声を上げる鮮巳を、ルシファーは抱きしめた。
「その絶望を忘れるな」
泣き叫ぶ鮮巳を抱きしめたルシファーの頬を、一筋の涙が伝った。
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