第2話 5月8日(月):少なくとも今は怪我することもなく健康だ

 十六歳になったばかりのこの歳で、運命を感じるとは思わなかった。

 九壇篁くだん たかむらは、メッセージ交換アプリM I N Eの画面上でニャンと鳴き、掲げた手を可愛らしく丸めて微笑む湯ノにゃんのスタンプを熱っぽく見つめながら、ため息を吐いた。


(しちり、あきたか……くん、か)


 名前を胸の内で呟くと、自然と頬が緩んでしまう。

 七里旭は、昨日行った楽華の湯で出会った温泉好きの高校生だ。

 埼玉県内にある公立校、稜泉高等学校に通う一年で、温泉上がりにフルーツ牛乳を美味そうに飲み干していた姿が印象的な同い年。


 身長は九壇と同じか、少し低いか。けれど体格なら断然、九壇の勝ちだ。身体の線の細さと筋張った長い指と手をしていて、全体的に色が薄い。

 青い丸眼鏡をかけていたから、身なりに気を使うタイプだろうか。それにしては、髪は乾かしっぱなしでボサついていた気もするけれど。


(どんなエピソードがあって温泉好きになったんだろう。気になる。話したい)


 ほぼ強引に連絡先を交わした九壇であったが、あの後、七里と連絡は取っていなかった。


(話したいことがありすぎて、話しかけられないのがマズい)


 九壇は顔を伏せると、深刻な様子でため息を吐いた。


 例えば、どんな泉質が好きなのか、とか。

 例えば、スパリゾートはありかなしか、とか。

 例えば、遠出して行くならどこまで行けるか、とか。


 九壇のスマートフォンには、七里と話したいことをまとめたメモ帳が、文字総数にして五千文字を超えていた。


(いや、まずは週末の予定を立てるところからだ。県内なら少し遠くても大丈夫かな)


 そんなことを考えて、まだ夏でもないのにデロデロに溶けて教室の机に伏している九壇の頭に、ひとつの影が落ち込んだ。


「タカムラぁ、どしたん?」


 声をかけてきたのは、クラスメイトである西篠さいじょうだ。

 サッパリした清潔感のある短い髪と、バスケ部なだけあって高い身長を持つ西篠は、のろのろと顔を上げる九壇の額をピン、と指で弾いた。


「痛っ。なにすんの、西篠」

「ぼんやりしてるお前が悪い。……で、なに? 彼女でもできたん?」

「えっ、そんなニヤけてる?」

「お前がポーカーフェイス決められたこと、ないだろ。それで、どうなん?」


 九壇に詰め寄る西篠の目は、期待と好奇心で満ちている。声だってボールのように弾んでいて、友人の恋話コイバナを待ち望む観客のそれだ。

 だから九壇は首を振った。肯定するためではなく、否定するために。


「彼女じゃないよ、友達」


 サラリと九壇が答えると、西篠はいつものことかと、しらけた顔をして萎んだ声を返した。


「ああ……また増えたん、オトモダチ。なんだっけ、温泉の?」

「そ。聞いてくれよ、西篠! 今度の友達は凄いんだぜ。なんと、高一。同い年だ!」


 九壇や西條は、私立城迫学園高等部の生徒だ。城迫学園は文武両道を目指す中高一貫の進学校で、西條とは中等部からの長い付き合いである。

 制服は紺色のブレザーに青と緑と黄色のストライプネクタイ、下はグレンチェックのスラックス。白いシャツは学校指定のもので、腕に自分の名前のイニシャルが刺繍されている。


 そんな制服に身を包み、凄くない? 他校のやつだよ? とパチパチと瞬きしながら距離を詰める九壇の額を、西篠が遠ざけるように押し返す。

 ついさっきまで、興味津々で詰め寄ってきたのは西篠のほうだというのに、なんて酷い。けれど、そんなことでへこたれる九壇ではない。

 九壇はスマホに表示されたままだった湯ノにゃんのスタンプを印籠のように掲げて見せた。


「ほら、見ろよ。湯ノにゃんスタンプ! 同志だぜ、同志!」

「よかったなぁ、タカムラ。ついに同志を見つけたか。で、そいつ、同校? 何者?」

「んーん。稜泉って言ってた。名前は、七里旭くん。今のとこ、名前しか知らない」

「……おい、またか。知らないやつと連絡先交換すんなって言ってんだろうが!」


 西篠の物言いは、まるで母親だ。

 昔から自由奔放に振る舞う九壇への小言が多く、それは高等部へ進学しても変わらないようだった。

 友人の不変さに九壇がニヤリと笑う。


「知らないやつじゃない。名前は聞いた。楽華の湯におひとり様で来てたやつが悪いやつなわけ、ない」

「……俺さぁ、九壇の理屈がわかんねぇよ。そいつ、ホントに大丈夫なやつ?」

「大丈夫大丈夫、湯ノにゃんが好きなやつに悪いやつはいないって!」

「出たよ、タカムラの湯ノにゃん強火しぐさ……」


 西條が諦めたように息を吐き、肩をすくめた。九壇は温泉と湯ノにゃんのことになると、常識が吹き飛ぶ節がある。


「可愛いだろ、湯ノにゃん。めちゃくちゃ癒されるんだぞ」


 東日本温泉協会が温泉アピールのために制作した湯ノにゃんは、微睡む姿や顔を洗う猫らしいゆるい仕草と、額につけた温泉マークとが相まって、温泉好きの間ではちょっとしたアイドル扱いをされているゆるキャラだ。


 温泉を愛している九壇は、多分に漏れず湯ノにゃんファンで、グッズだけでなく、温泉施設を巡る度に湯ノにゃんが印刷されたパンフレットやチラシを収集するほどの湯ノにゃん強火担当なのである。


「……バスケ捨ててまで追っかける価値のあるものなのか、それ」

「あるよ。少なくとも俺は今、怪我することもなく、健康真っ盛りだからさ」


 九壇がにかりと歯を見せるような笑顔を見せると、ようやく西篠も納得したように肩の力を抜いて息を吐いた。


「……そっか」


 そこでタイミングよく授業開始のチャイムが鳴り、西篠は首の後ろをガリガリ掻きながら自席へと戻っていった。






 高等部へ進学したら、ボールじゃなくて温泉を追いかける。

 小学四年生のころから続けていたバスケ部を引退し、帰宅部になった九壇は、帰宅後に自分の部屋のベッドの上で転がりながら、中三の三月に、バスケ部の仲間に宣言したことを思い出していた。


 ジジ臭ぇ趣味、と笑い飛ばしたのは九壇とポジション争いをしていた田邊たなべだけ。西條も含めた他の仲間や後輩たちは、九壇のバスケ部離脱を惜しみながらも支持してくれた。

 ちょうど膝を壊して療養中だったこともあったし、九壇の温泉好きは、バスケ部内なら周知の事実だったから。


「せんせー、次の合宿は温泉旅館にしてください!」


 と、顧問に直談判するほどで、暇さえあればバスケ部員にお勧めの温泉地や日帰り温泉施設を紹介していた。

 どれだけ熱心に勧めても、誰も日帰り温泉に付き合ってはくれなかったけれど。


 そんな過去を思い出しながら、九壇は四畳半の狭い自室のベッドの上で、もぞりと寝返りを打った。部屋の電気は真っ暗で、胸に抱いた九壇のスマホだけが白く光りを放っている。


「うーん、楽しみしかないな!」


 九壇はスマホを手に取ると、ゆるゆると緩む口元を自覚しながらMINEを起動する。白く輝く画面の眩しさに、浮き立つ心とは逆に顔を顰めてMINEを見る。

 ずらりと並ぶ温泉仲間のトークルーム。

 けれど、頻繁に動いているトークはない。温泉施設で出会って連絡先を交換した人たちは両手の指を超えるほどだけど、特別親しく連絡を取り合うひとは、まだいなかった。


「七里は温泉仲間になってくれるかな……」


 九壇の胸の内には、期待しかない。

 七里のMINEをねだってから二十四時間以上経過しているのに、スタンプひとつでさえ返せていないのだけれども。

 言い訳をするならば、期待と歓喜、それから運命的な出会いを果たした余韻に浸っていたからだ、としか言いようがない。

 MINEで連絡先を交換した直後に、湯ノにゃんスタンプを送ってきたひとは、今までひとりもいなかったから。


「湯ノにゃんだもんなー。やっぱ運命、感じないわけないだろ」


 ニヤニヤとニヤけっぱなしの顔を顰めたまま、九壇はスマホの画面で指を踊らせた。華麗な指捌きでフリップとタップを繰り返し、迷わず言葉を打ち込んでゆく。


 ——次の日曜日、戸原パーク駅に朝八時でよろしく。


 七里が送った湯ノにゃんスタンプの下に、ようやく文字が送られた。会話ですらない要件だけれど。

 簡潔かつ唐突な要件は、時を待たずに既読が付いて、けれど七里からの返事は返ってこなかった。


 どう見ても一方的な約束事だ。

 けれど九壇は、その約束が破られることはない、と根拠のない自信に満ち溢れたまま、夢の世界で温泉に浸かっていたのであった。






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